LOGIN湊は、ごく自然に一歩前へ出て、私の前に立った。「長谷川さん、口を慎んでください。綾香は今、俺と一緒にいます。過去のことを蒸し返す必要はないでしょう」陽斗の目には怒りの火が宿っていた。彼は湊を睨みつけ、次の瞬間、私の方へと顔を向けた。胸が激しく上下している。「清算済み?綾香、何をもって清算済みだって言うんだ!お前の角膜は、今も俺の目の中にあるんだぞ!それなのに、どうして他の男と!」「当初、あなたが私を騙して角膜を取らせなければ。結婚式の前日に、依衣と笑い合わなければ。私がはしごから落ちたとき、依衣だけを庇って私に謝らせなければ。きっと私は、今でもあなたの嘘の中で生きていたでしょうね」私は顔を上げて彼を見る。言葉を並べながらも、心は不思議なほど静かだった。怒りも悲しみも、もうそこにはなかった。「陽斗、あの角膜は、私が自分の意志であげたもの。捧げたのは、八歳の時、私を庇って傷だらけになったあの頃の陽斗。今の、私を足手まといにして嘘を重ねたあなたじゃない。あなたの目の中には私の角膜があるけれど、残念ね。あなたはまだ盲目的なの。あなたが気にしているのは、私じゃなくて、自分だけよ」私は少し間を置き、そっと湊の手を握った。「私は今うまくやってるの。もう、あなたに邪魔されることはないわ」陽斗の顔が一瞬蒼白になった。何か言い返そうと口を開くが、声にはならない。数秒の沈黙のあと、彼は一歩踏み出し、私の手首を掴もうとした。「綾香、頼む……俺、会社も駄目になりそうで、依衣とも別れた。お前しかいないんだ。もう一度だけチャンスをくれ。昔みたいに、また――」私は一歩下がり、その手を避けた。目には疎外感しか満ちていない。「陽斗、あなたが好きなのは私じゃない。あなたの言いなりになる女だけよ。でもね私、今ちゃんとわかったの――そんな盲目的な恋は二度としないね」湊がそっと私の手を握り返し、静かに首を振る。「長谷川さん、もうやめましょう。綾香はもう新しい道を選んだ。あなたもそれを尊重すべきだ」周囲の視線が集まり、空気がわずかにざわめく中、陽斗の顔がひきつっている。どうやら恥ずかしいのだろう。彼は唇を噛み、しばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐き、よろめくように後ずさった。私はもう彼を見なかった。湊の手を引
私は顔を上げて湊を見た。彼の瞳には、まだ柔らかな笑みが浮かんでいたが、その奥にかすかな探るような光が見えた。湊は手にしていたもう一枚の航空券を差し出す。そこには【桜川】と書かれていた。私がもともと予約していた目的地とまったく同じ。しかも、座席番号まで隣り合わせだった。「お母さんがね、『綾香が桜川の白湖で朝日を見たいって言ってた』って。それで俺に、便を変えて一緒に行けって頼んだんだ」彼は少し言いにくそうに言葉を継いだ。「もちろん、嫌なら無理にとは言わない。婚約のことも、旅行のことも……後でゆっくり決めればいい」「……別に、嫌じゃないよ」湊は私を見つめ、探るようだった目が、少しずつ安心したような笑みに変わっていった。「じゃあ、行こうか。そろそろ搭乗だ」私は頷いた。機内でも、彼は多くを語らなかったが、さりげなく私を気遣い続けていた。やがて私は小さく口を開いた。私はそっと彼の名前を口にした。彼はゆっくりと顔をこちらに向け、探るような眼差しで私を見た。「ねえ、湊、どうして、婚約を受けたの?」彼ほどの人なら、家同士の取り決めなんて断ることもできたはず。しかも相手は、恋に裏切られたばかりの私なのに。湊は一瞬きょとんとしたあと、微笑んだ。「昔、路地で泣いていた君を見たとき、思ったんだ。自分も泣いてるのに、あの子は誰かを守ろうとしてる、って」彼は少し間を置き、私の目をまっすぐ見つめた。「あのときの君は、本当に勇敢だった。あとで叔母さんから、君がつらいことを経験したって聞いた。だから、少しでも力になれたらいいなと思って」家の事情でも、打算でもなく、十数年前の、あのほんの一瞬の記憶。泣きながらも人を気遣っていた私を「勇気がある」と思って、ただ、助けてやりたいと思っただけ。私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。どんな愛の言葉よりも、その言葉の方がずっと信じられた。うつむいたまま、ふと気づいた。この縁談は、重荷なんかじゃない。もしかしたら、私にとって新しい一歩を踏み出すきっかけなのかもしれない。もう一度信じられる気がした。この世界には、優しく包み込んでくれる人も、そっと寄り添ってくれる温もりも、まだ残っているのだと。それから私たちは、いろんな場所を一緒に回った。海辺で朝日を眺め、砂漠の真ん中で星を見上げ、数日か
飛行機を降りると、両親がすでに到着ロビーで待っていた。母はクリーム色のニットカーディガンを羽織っていた。私が昔から一番好きだった、あの柔らかな編み模様のやつ。髪はビデオ通話で見たときより少しふんわりと巻かれていて、けれど目尻の細かい皺は隠せていない。きっと、この数か月、私のことで悩み続けていたんだ。キャリーケースを押してゲートを出た瞬間、母の目が真っ赤になった。まだ数歩も歩かないうちに、母は駆け寄って私を抱きしめた。「綾香、やっと帰ってきてくれたのね」その声は私の耳元で震え、涙が混じっていた。「痩せたわね、肌も少し焼けてる。ちゃんと食べてたの?」私は母の胸に顔を埋め、懐かしいクチナシの香りを吸い込んだ。胸の奥がじんわりと熱くなり、涙が止まらなかった。私は首を横に振った。声は少しかすれていた。「ちゃんと食べてたよ。でも、お母さんの手料理が恋しくて」「あるわよ。ちゃんと作ってある」そのとき、父がゆっくりと歩み寄ってきた。昔と同じ、きっちりと分けられた髪。けれど、こめかみの白髪が少し増えていた。かつて、彼はいつもしかめ面をしていた。あの頃、角膜を寄付するって言い張った私に怒鳴り、「勝手にしろ!」しかし、今の彼は私を見つめ、目には少しの咎めもなく、ただ私の手にあるスーツケースの持ち手を取った。「疲れただろ。車を外に回してある。まずは家に帰ろう」横顔を見た瞬間、ふと去年、父と口論した場面を思い出した。あのとき、私は角膜提供の同意書を手に持ち、どうしても彼に署名させようとした。彼は怒ってペンを机に叩きつけた。「自分の一生を賭けるつもりか。もしあいつが裏切ったら、泣いても誰も助けちゃくれないぞ」あのとき私は「陽斗はそんな人じゃない」と言い返した。けれど、正しかったのは父の方だった。私は手の指で服の裾をぎゅっと握った。「お父さん、ごめんなさい。あのとき、言うこと聞かなくて」父は一瞬立ち止まり、横を向いて私を見て、手を伸ばして肩をポンと叩いた。「もういい。お前が元気で帰ってきた。それで十分だ」車の中、母は陽斗の話には一言も触れなかった。代わりに、私のこれからを語ってくれた。「前に行きたがってたデザインの学校ね、こっちで大学を紹介してもらったの。興味ある?もし進学したくなければ、家の会社でもいいのよ。お
陽斗の指先が宙に固まったまま動かない。まるで魂が抜けたように、茫然と私を見つめていた。彼の視線が、私の瞳に映る光を捉える。喉が何度も上下し、ようやくしぼり出すように声を出した。「見えるのか?いつから?」陽斗は半ば反射的に手を上げ、私の目の前でひらひらと振った。私は必死に、白目を剥きそうになる衝動を押し殺しながら答えた。「まさか、そんなことで嘘をつくと思う?」私は視線を逸らし、驚きで口を開けたままの彼の仲間たちを一瞥して、皮肉な笑みを浮かべた。「もう私は陽斗の『足手まとい』じゃない。嬉しいでしょ?」陽斗の指が震えた。あの、かつて何度も優しく私の手を引いてくれた指が、今は恐怖に怯えるように小刻みに揺れている。彼は私の瞳に宿るはっきりとした光を見つめ、喉仏を何度も動かしながら、自分でも気づかない恐怖を帯びた声を出した。「な、なぜ急に見えたんだ?三か月前は、まだ点字ブロックを頼りに歩いてたじゃないか。暗闇が怖いって泣いてたくせに……」「怖いのは本当。でも、見えるのも本当」私はキャリーケースのサイドポケットから、しわくちゃになっては丁寧に伸ばされた視力回復の診断書をそっと取り出した。「三か月前、手術が成功したの。言わなかったのは、式の日にサプライズにしたかったから。でも……あなたの方が、もっと『驚かせて』くれたわね」陽斗の視線が診断書に落ち、瞳孔が急に縮んだ。そばにいた依衣はついに慌て、陽斗の手をさっと振りほどくと、私の前に駆け寄り、声は鋭くトーンが変わった。「嘘よ!そんなの嘘!絶対に見えるわけない!全部、私と陽斗を壊すための演技でしょ!」私は静かにこの女を見据えた。そして、耳の後ろにある小さな傷跡に視線を止める。それは前回、彼女がうっかり撮影用のライトにぶつかったとき、スタンドで切ってしまった傷だった。そのとき、陽斗は心配そうに彼女に絆創膏を貼ってあげていた。私は平淡な口調で話したが、一言一言ははっきりしていた。「白石さん、その傷、先月、ウエディング撮影の時に照明スタンドにぶつけた跡よね」依衣の顔から血の気が引いた。思わず耳を押さえ、視線を逸らす。陽斗もハッとしたように彼女を見つめた。今まで彼は気にも留めなかった。どうせ私は見えないと、そう信じていたから。けれど今、ようやく気づく。私はずっと、彼と依
依衣の身体がびくりと固まった。まさか私が反抗するとは、思ってもいなかったのだろう。今まで、この女がどんなに涙を流しても、どんなに被害者ぶっても、私は一度も怒ったことがなかった。私の誕生日に、彼女がわざと陽斗を呼び出しても、笑ってやり過ごした。依衣の中の私はただの、気の弱いお人好し。誰にでも踏みつけられる、都合のいい女だった。依衣の目に涙が溜まった瞬間、周りの男たちが一斉に彼女の肩を持つ。「篠原、お前いい加減にしろよ。依衣がどんな思いで……!人の命がかかってんだぞ!お前みたいな冷たい女、そりゃあ見えなくなって当然だ!」私は冷ややかに視線を上げる。口を開いたのは――昨日「新郎の代わりにベッドに入ればいい」と笑っていた男だった。吐き気が込み上げる。「もういい!」陽斗が苛立ったように声を上げた。「綾香、彼らは……」弁解するような言葉を口にしかけたところで、依衣が顔を覆って泣き出した。「全部、私が悪いの……また綾香さんに誤解されちゃった。みんな、放っておいて……私なんて、いない方がいいのよ……」そう言って、わざと私の肩にぶつかり、走り去るふりをした。陽斗は慌てて追いかけ、依衣はそのまま彼の首に腕を絡めて、倒れ込むように抱きついた。陽斗は一瞬、私を振り返り、「ああ、彼女は見えないだろ」と思い出したように、ためらいなく依衣の腰に手を回した。そして、頬を撫でながら甘い声で言う。「綾香は悪気なんてないんだ。見えないから、勘違いしただけだよ。泣くな、な?」その直後、彼は私の方に向き直り、露骨に苛立った声で怒鳴った。「綾香、謝れ!」彼の怒号が、空港ロビーの広い空間に響き渡る。通り過ぎる人々が、興味津々にこちらを振り向いた。私は、依衣にぶつけられて痛む肩を押さえた。ふと、彼の誕生日のことを思い出す。私は三晩かけて、手探りでマロンケーキを焼いた。指はオーブンで火傷して水ぶくれがいくつもできたのに、言い出す勇気もなかった。けれど依衣が家に来たとき、うっかりケーキを床に落としてしまい、クリームが辺り一面に飛び散った。彼女はしゃがみ込んで泣き出した。「綾香さん、ごめんなさい。私はただ陽斗に渡そうとしただけなのに、手が滑っちゃったんです」帰ってきた陽斗は、私の手の火傷を見ても心配の一言もなく、代わ
陽斗が電話を取った瞬間、手がびくりと震え、スマホを落としかけた。さっきまで私に向けていた怒りは、一瞬で焦りに変わる。「何があった!?ちゃんと見張ってろって言っただろ!すぐ戻る」電話を切るやいなや、私の方など一瞥もくれず、踵を返して駆け出す。すれ違いざま、ようやく思い出したように立ち止まり、苛立ちを隠そうともせずに言い放った。「綾香、俺がいない間にまた勝手なことするな!依衣を落ち着かせたら、式をぶち壊した件、きっちり話をつけるからな」私はその場で、彼の背中を見送った。震える彼の手が目に焼きつく。――彼はその手で、幼いころ、狭い路地で私の手をしっかりと握りしめ、私を庇ってくれた。視力を取り戻したあの日、私の髪を撫でて「これからは俺が守る」と誓ってくれた。けれど今は、別の女が「自殺の茶番」と聞いただけで、私にかける言葉すら惜しむ。私は勢いよくドアを閉めた。一睡もできないと思っていたのに、驚くほどぐっすりと眠れた。そのまま翌日の午後まで眠り続けた。荷物をまとめて空港へ向かうと、そこに陽斗の姿があった。人だかりの中心で、みんなが依衣を囲み、まるで姫様でも守るかのように気を遣っている。反射的に背を向けようとした私に、陽斗の声が飛んだ。「綾香!別れるだの何だの言って、今度は何のつもりだ!?昨日、依衣はお前が式をキャンセルしたせいで責任を感じて、飛び降りようとしたんだぞ!どうせ式は台無しだ。俺は依衣を連れてオーロラを見に行く。お前は国内で反省でもしてろ!少しは良心ってもんがあるなら、依衣に謝れ。頭を冷やしたら、もう一度結婚の話をしよう」理不尽すぎて、思わず冷笑が漏れた。依衣が現れてからというもの、何が起きても悪いのは私だったね。去年の冬、私は高熱で寝込んでいた時。陽斗は「薬を買ってくる」と言い残し、代わりに依衣を家に残した。けれど彼女は、私の白杖をベランダの物入れに隠したのだ。喉が渇いて水を飲もうとした私は、足を滑らせて割れたガラスの上に倒れ込み、血まみれになった。そこへ戻ってきた陽斗に、依衣は涙を浮かべて言った。「綾香さんが、私の顔見たくないって……それでつい、慌てちゃって……」陽斗は私の傷口を一瞥もせず、逆に怒鳴った。「綾香、お前って本当にわがままだな。依衣は好意でお前の面倒を見てく