LOGIN子どもの頃の私を守って失明した恋人長谷川陽斗(はせがわ はると)のために、私は自分の角膜を提供した。 彼は「一生、お前の目になる」と誓い、私にプロポーズしてくれた。私はその言葉を信じ、幸せな結婚式を夢見ていた。 しかし、式の直前、彼のSNSには【結婚相手は本命の白石依衣(しらいし いより)】という投稿と、ふたりのツーショット写真が上がっていた。 私は式を中止し、彼をブロックして海外へ発とうと決めた。 だが空港で、かつて幼い私たちを助けてくれた久遠澪真(くおん れいま)と再会する。彼こそが、私の政略結婚の相手だった。 その後もしつこく私に縋る陽斗に、私は冷静に告げる――私が愛したのは、昔の彼であって、今の彼ではない。今の彼は、もう私の愛を受け取る資格などないのだから。
View More湊は、ごく自然に一歩前へ出て、私の前に立った。「長谷川さん、口を慎んでください。綾香は今、俺と一緒にいます。過去のことを蒸し返す必要はないでしょう」陽斗の目には怒りの火が宿っていた。彼は湊を睨みつけ、次の瞬間、私の方へと顔を向けた。胸が激しく上下している。「清算済み?綾香、何をもって清算済みだって言うんだ!お前の角膜は、今も俺の目の中にあるんだぞ!それなのに、どうして他の男と!」「当初、あなたが私を騙して角膜を取らせなければ。結婚式の前日に、依衣と笑い合わなければ。私がはしごから落ちたとき、依衣だけを庇って私に謝らせなければ。きっと私は、今でもあなたの嘘の中で生きていたでしょうね」私は顔を上げて彼を見る。言葉を並べながらも、心は不思議なほど静かだった。怒りも悲しみも、もうそこにはなかった。「陽斗、あの角膜は、私が自分の意志であげたもの。捧げたのは、八歳の時、私を庇って傷だらけになったあの頃の陽斗。今の、私を足手まといにして嘘を重ねたあなたじゃない。あなたの目の中には私の角膜があるけれど、残念ね。あなたはまだ盲目的なの。あなたが気にしているのは、私じゃなくて、自分だけよ」私は少し間を置き、そっと湊の手を握った。「私は今うまくやってるの。もう、あなたに邪魔されることはないわ」陽斗の顔が一瞬蒼白になった。何か言い返そうと口を開くが、声にはならない。数秒の沈黙のあと、彼は一歩踏み出し、私の手首を掴もうとした。「綾香、頼む……俺、会社も駄目になりそうで、依衣とも別れた。お前しかいないんだ。もう一度だけチャンスをくれ。昔みたいに、また――」私は一歩下がり、その手を避けた。目には疎外感しか満ちていない。「陽斗、あなたが好きなのは私じゃない。あなたの言いなりになる女だけよ。でもね私、今ちゃんとわかったの――そんな盲目的な恋は二度としないね」湊がそっと私の手を握り返し、静かに首を振る。「長谷川さん、もうやめましょう。綾香はもう新しい道を選んだ。あなたもそれを尊重すべきだ」周囲の視線が集まり、空気がわずかにざわめく中、陽斗の顔がひきつっている。どうやら恥ずかしいのだろう。彼は唇を噛み、しばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐き、よろめくように後ずさった。私はもう彼を見なかった。湊の手を引
私は顔を上げて湊を見た。彼の瞳には、まだ柔らかな笑みが浮かんでいたが、その奥にかすかな探るような光が見えた。湊は手にしていたもう一枚の航空券を差し出す。そこには【桜川】と書かれていた。私がもともと予約していた目的地とまったく同じ。しかも、座席番号まで隣り合わせだった。「お母さんがね、『綾香が桜川の白湖で朝日を見たいって言ってた』って。それで俺に、便を変えて一緒に行けって頼んだんだ」彼は少し言いにくそうに言葉を継いだ。「もちろん、嫌なら無理にとは言わない。婚約のことも、旅行のことも……後でゆっくり決めればいい」「……別に、嫌じゃないよ」湊は私を見つめ、探るようだった目が、少しずつ安心したような笑みに変わっていった。「じゃあ、行こうか。そろそろ搭乗だ」私は頷いた。機内でも、彼は多くを語らなかったが、さりげなく私を気遣い続けていた。やがて私は小さく口を開いた。私はそっと彼の名前を口にした。彼はゆっくりと顔をこちらに向け、探るような眼差しで私を見た。「ねえ、湊、どうして、婚約を受けたの?」彼ほどの人なら、家同士の取り決めなんて断ることもできたはず。しかも相手は、恋に裏切られたばかりの私なのに。湊は一瞬きょとんとしたあと、微笑んだ。「昔、路地で泣いていた君を見たとき、思ったんだ。自分も泣いてるのに、あの子は誰かを守ろうとしてる、って」彼は少し間を置き、私の目をまっすぐ見つめた。「あのときの君は、本当に勇敢だった。あとで叔母さんから、君がつらいことを経験したって聞いた。だから、少しでも力になれたらいいなと思って」家の事情でも、打算でもなく、十数年前の、あのほんの一瞬の記憶。泣きながらも人を気遣っていた私を「勇気がある」と思って、ただ、助けてやりたいと思っただけ。私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。どんな愛の言葉よりも、その言葉の方がずっと信じられた。うつむいたまま、ふと気づいた。この縁談は、重荷なんかじゃない。もしかしたら、私にとって新しい一歩を踏み出すきっかけなのかもしれない。もう一度信じられる気がした。この世界には、優しく包み込んでくれる人も、そっと寄り添ってくれる温もりも、まだ残っているのだと。それから私たちは、いろんな場所を一緒に回った。海辺で朝日を眺め、砂漠の真ん中で星を見上げ、数日か
飛行機を降りると、両親がすでに到着ロビーで待っていた。母はクリーム色のニットカーディガンを羽織っていた。私が昔から一番好きだった、あの柔らかな編み模様のやつ。髪はビデオ通話で見たときより少しふんわりと巻かれていて、けれど目尻の細かい皺は隠せていない。きっと、この数か月、私のことで悩み続けていたんだ。キャリーケースを押してゲートを出た瞬間、母の目が真っ赤になった。まだ数歩も歩かないうちに、母は駆け寄って私を抱きしめた。「綾香、やっと帰ってきてくれたのね」その声は私の耳元で震え、涙が混じっていた。「痩せたわね、肌も少し焼けてる。ちゃんと食べてたの?」私は母の胸に顔を埋め、懐かしいクチナシの香りを吸い込んだ。胸の奥がじんわりと熱くなり、涙が止まらなかった。私は首を横に振った。声は少しかすれていた。「ちゃんと食べてたよ。でも、お母さんの手料理が恋しくて」「あるわよ。ちゃんと作ってある」そのとき、父がゆっくりと歩み寄ってきた。昔と同じ、きっちりと分けられた髪。けれど、こめかみの白髪が少し増えていた。かつて、彼はいつもしかめ面をしていた。あの頃、角膜を寄付するって言い張った私に怒鳴り、「勝手にしろ!」しかし、今の彼は私を見つめ、目には少しの咎めもなく、ただ私の手にあるスーツケースの持ち手を取った。「疲れただろ。車を外に回してある。まずは家に帰ろう」横顔を見た瞬間、ふと去年、父と口論した場面を思い出した。あのとき、私は角膜提供の同意書を手に持ち、どうしても彼に署名させようとした。彼は怒ってペンを机に叩きつけた。「自分の一生を賭けるつもりか。もしあいつが裏切ったら、泣いても誰も助けちゃくれないぞ」あのとき私は「陽斗はそんな人じゃない」と言い返した。けれど、正しかったのは父の方だった。私は手の指で服の裾をぎゅっと握った。「お父さん、ごめんなさい。あのとき、言うこと聞かなくて」父は一瞬立ち止まり、横を向いて私を見て、手を伸ばして肩をポンと叩いた。「もういい。お前が元気で帰ってきた。それで十分だ」車の中、母は陽斗の話には一言も触れなかった。代わりに、私のこれからを語ってくれた。「前に行きたがってたデザインの学校ね、こっちで大学を紹介してもらったの。興味ある?もし進学したくなければ、家の会社でもいいのよ。お
陽斗の指先が宙に固まったまま動かない。まるで魂が抜けたように、茫然と私を見つめていた。彼の視線が、私の瞳に映る光を捉える。喉が何度も上下し、ようやくしぼり出すように声を出した。「見えるのか?いつから?」陽斗は半ば反射的に手を上げ、私の目の前でひらひらと振った。私は必死に、白目を剥きそうになる衝動を押し殺しながら答えた。「まさか、そんなことで嘘をつくと思う?」私は視線を逸らし、驚きで口を開けたままの彼の仲間たちを一瞥して、皮肉な笑みを浮かべた。「もう私は陽斗の『足手まとい』じゃない。嬉しいでしょ?」陽斗の指が震えた。あの、かつて何度も優しく私の手を引いてくれた指が、今は恐怖に怯えるように小刻みに揺れている。彼は私の瞳に宿るはっきりとした光を見つめ、喉仏を何度も動かしながら、自分でも気づかない恐怖を帯びた声を出した。「な、なぜ急に見えたんだ?三か月前は、まだ点字ブロックを頼りに歩いてたじゃないか。暗闇が怖いって泣いてたくせに……」「怖いのは本当。でも、見えるのも本当」私はキャリーケースのサイドポケットから、しわくちゃになっては丁寧に伸ばされた視力回復の診断書をそっと取り出した。「三か月前、手術が成功したの。言わなかったのは、式の日にサプライズにしたかったから。でも……あなたの方が、もっと『驚かせて』くれたわね」陽斗の視線が診断書に落ち、瞳孔が急に縮んだ。そばにいた依衣はついに慌て、陽斗の手をさっと振りほどくと、私の前に駆け寄り、声は鋭くトーンが変わった。「嘘よ!そんなの嘘!絶対に見えるわけない!全部、私と陽斗を壊すための演技でしょ!」私は静かにこの女を見据えた。そして、耳の後ろにある小さな傷跡に視線を止める。それは前回、彼女がうっかり撮影用のライトにぶつかったとき、スタンドで切ってしまった傷だった。そのとき、陽斗は心配そうに彼女に絆創膏を貼ってあげていた。私は平淡な口調で話したが、一言一言ははっきりしていた。「白石さん、その傷、先月、ウエディング撮影の時に照明スタンドにぶつけた跡よね」依衣の顔から血の気が引いた。思わず耳を押さえ、視線を逸らす。陽斗もハッとしたように彼女を見つめた。今まで彼は気にも留めなかった。どうせ私は見えないと、そう信じていたから。けれど今、ようやく気づく。私はずっと、彼と依
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