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蓮司様も和美様のお孫様で、朋美様のお兄様。
ご兄妹のお母様が和美様の娘で、桐谷家に嫁いで次期当主夫人。桐谷家はご兄妹のご祖父様がいまも当主として健在で、ご長男の蓮司様は次の次のご当主ということになる。
蓮司様は桐谷グループで専務として夜遅くまで働いていらっしゃるそう。
同じ御曹司なのに、まだお祖父様が現役だからと遊び歩いている……もとい、社交に精を出す柾さんとは大違い。駄目だわ、柾さんのことを思い出すとどうしたって悪口が出てきてしまう。
「いつ来たの?」
「昨夜の十二時少し前にいらっしゃいました。寝ているお二人を起こしたくないと仰られたのでお二人に声をかけませんでした」起こしたほうが良かったのかしら?
この菊乃井家の別邸の主人は和美様だ。
本邸は息子夫婦に譲った和美様はここで、本人曰く『気楽な隠居暮らし』をなさっている。私が来るまでは通いの家政婦さんがいたそうだが、体調を崩されて夜間が心配ということで私が住み込みで家政婦をしている。
「起こされてもまた眠るだけだから。今後も同じようなことがあったら……いえ、十時を過ぎたら何もしなくていいわ。孫たちはここの鍵も持っているし、勝手に入ってくるでしょう。逆にごめんなさいね、そんな時間に対応させてしまって」
「いえ、十時少し前に蓮司様からご連絡をいただいたので」
全く困ることはなかったというと、なぜか和美様は大きく溜め息を吐かれた。
「お兄、すっかりここに入り浸っているよね」「同じく入り浸っている朋美だけは言われたくないでしょうけれど……あの子はまだ寝ているの?」
「朝まで残りそうなほどお酒を飲まれたそうです」桐谷家といえば旧財閥家で、いまも政界や経済界に影響力をもつ名家。お付き合いも大変なのだろう。花嶺家にとって桐谷家はとてもではないけれどお近づきになれない存在。だから蓮司様を初めてここで見たときは、ニュースで見た顔とそっくりだと驚いてしまった。本人だから当たり前よね。
それにしても、ご縁とはどこで繋がるか分からない。
「九時にお迎えの車が来ると伺っておりますので……」
寝ていたら起こしてくれと言われたけれど……私が起こしていい方ではない。朋美様にお願いしてしまっていいのかしら?
「あの子ったら……つまり、朝食も食べていくってことね。本当にごめんなさい」
「一人分も二人分も変わりはないので……電話が鳴っているので失礼いたします」
蓮司様の運転手さんからの電話かしら。
「はい、菊乃井でございます」
『ああ、お手伝いさん? 蓮司さんはそこにいらっしゃる?』
……吉川様。
「はい、いらっしゃいます」
『それならいいわ』
……切れた?
「美香さん、受話器をガン見してどうしたの? もしかして悪戯電話?」
一応は高齢者の一人暮らしだしと笑う朋美様に「吉川様からです」というと、朋美様の顔が笑顔から一転してとても嫌そうなものに変わった。
「なんだって?」
「蓮司様はこちらにいるか、と……」
「お兄を叩き起こしてくるわ」
朋美様の形相に、思わず苦笑しか出てこない。でも、朋美様に起こしていただけることになったから結果オーライといたしましょう。
蓮司様にはご婚約者が一応いるのだから変な誤解は避けたい。
その『一応は婚約者』と言われているのが、先ほどの電話の吉川凛花様。和美様がお二人の婚約を認めていないので『一応は婚約者』という状況にある。
蓮司様のご婚約およびご結婚は桐谷家の問題ではあるが、桐谷家のご当主が和美様の弟様なので和美様の許しが重要となっている。
というか、それもこれも和美様が反対なさった結婚は漏れなく破綻してきたらしい。どんないいご縁でも必ず破綻。逆に身分違いとか宗教上の理由とかで大勢が眉をしかめる結婚も、和美様が「いいんじゃない」と仰れば上手くいく。
実に神がかった話であるが、和美様が二十代の頃からそうで、この五十年の実績は決して無視できない。
そんな和美様の偉業を傍で見てきた弟様は「姉さんがそう言っているから」と蓮司様と吉川様の婚約を認めず、和美様にとっては甥でもあり娘婿でもある蓮司様の御父上は和美の意見に反対の『は』の字も出ないらしい。
朋美様の説明によれば「お祖父様もお父様も、和美お祖母様には頭が上がらないどころか、頭をあげようとすらしないのよ」という力関係らしい。
吉川様とは何度かお会いしている。どこか桜子を彷彿させる雰囲気があって、怖いという気持ちから毎回上手く対応できていない。
「さっき朋美が血相を変えて二階にいったけれど、さっきの電話は凛花さんかい?」 頷くと、和美様は朝食を早めに用意してほしいと仰った。騒がしくなる前に食べてしまおう、そういうことらしい。 *「おはよう」
テーブルに食事を並び終えたところで、蓮司様が朋美様に連れられてリビングにいらっしゃった。
蓮司様のお顔が疲れてみえるのは昨夜のお酒が残っているからか、それとも朋美様に叩き起こされた上に愚痴を聞かされたからか。
「お兄、美香さんに謝りなよ」
ん?
「すまなかった。昨日かなり遅くに迷惑をかけてしまったようで……言い訳になるが、昨夜かかなり飲んでいて、飲んでいる途中からの記憶が曖昧なんだ」
そうだったのね。全くそんな感じがしなかったから……酔っ払っていらっしゃってもキビキビしているのね、すごいわ。
「昨夜、俺は何をした?」
「十時ごろに連絡を下さり、深夜近くになるけど待っていてほしいと仰られて、十二時頃にいつもの方が運転する車でここにいらっしゃいました。足取りがしっかりしていらっしゃったので、気づかなくても申し訳ありませんでした」
話の途中から項垂れだしてしまったので謝罪した。
「いや……それからは?」
「運転手の方に朝九時に来てほしいと仰られて、いつもご利用なさっている客間にいかれたあと着替えてリビングにいらっしゃりスーツとワイシャツを頼むと。ワイシャツは洗濯し、アイロンを掛けてありますので食事のあとでお渡しいたします」
「……ありがとう……そのくらい、だろうか?」
他には……。
「蜆の味噌汁がお飲みになりたいと仰いました」
「……蜆の味噌汁」
蓮司様の目がテーブルの上の彼の分の朝食に向かう。和美様の味噌汁と見比べていらっしゃるけれど、和美様は野菜たっぷりの味噌汁が飲みたいと仰っていたので蓮司様の分とは違う。
「……すまない」
「いいえ、本当にそんなにお気になさらないでください」
花嶺家では深夜だろうと明け方だろうと、彼らが気が向くたびにたたき起こされてきたのだから。
「野菜たっぷりの味噌汁もまだありますので、そちらのほうが宜しければ……「美香さん、お兄にそこまで気を使わなくてもいいよ」」
朋美様?
「美香さんの蜆の味噌汁は五臓六腑にしみわたる美味しさだから、全く問題ないよ」
「そうね……蓮司、文句を言わずに飲みなさい」
……文句は仰っていないような。
「文句など言っていない。ありがとう……いただきます」
蓮司様に続くように和美様と朋美様も食べ始めた。
食後の飲み物を用意するためにキッチンに向かおうとしたところで、外で車の停まる音がした。
「誰かしら?」と和美様が仰られたので、窓から駐車場を確認した。
「桐谷家の車です」
「蓮司の迎え……にしては、かなり早いわよね。何かあったのかしら。美香さん、対応してもらえる?」
「畏まりました」
玄関扉を開けたところで、吉川様が立っていらっしゃった。
吃驚したのと苦手意識で思わずひゅうっと息を飲んでしまった。
「随分と驚いているけれど、何か疚しいことでも?」
……疚しいこと?
「まあ、いいわ。蓮司さんは?」
「朝食をお食べになっております」
吉川様がなぜか目をむいた。
「なんですって!」
吉川様は私を押しのけて家の中に入る……何か変なことを言ったかしら。
それに……一言退くように仰ってくだされば脇に寄るのに……ああいうところ、桜子に似ている。
……あ。
ため息を吐こうとしたとき、お腹が膨らんで、そこに自分が両手で降れていることに気づいた。
まるで守るみたいに……無意識だった。
私は……この子を産みたいのだろうか?
それとも、単なる反射みたいな、生物の本能みたいなものなのだろうか。
でも、その本能が母性なのか。
それなら、母にならないという選択を私は一生後悔することになるのだろうか。
浮上するような感覚に押されて目を開けると、華乃がいた。「華乃……」「大丈夫か? 菊乃井様から倒れたと連絡を受けて来たんだ」……しまった。いまの華乃は華乃じゃない。化粧もしていないし、ウィッグもとって髪も短いし、なによりもスーツ姿なのに……私の馬鹿。 花岡乃蒼、それが華乃の本名。華乃はトランスジェンダーで、女性でいられるときは華乃という名前になる。そう、華乃はトランスジェンダーであることを隠している。自分が偏見と差別に苦しみたくないという思いもあるようだけど、私が見るにお母さんを悩ませたくないという思いが強いように思える。今でこそ「トランスジェンダー」と言われるが一昔前は「性同一性障害」と呼ばれた。「障害」という言葉はどうしても差別的見方を避けられない。そういう私も華乃のことは受け入れられたけれど他の人はどうかなって自信はないから、上の世代はもっとそういう思いが強いだろう。 だからだろう、華乃は外では徹底的に『乃蒼』として振る舞っている。二年ほど前に出会ったパートナーの佳孝君も同性愛者であることは周囲に知られたくない派だから、私から見て二人は運命的に出会ったいいパートナーだと思う。二人は同棲しているけれど知らない人が見れば仲のいい男性の二人暮らしにしか見えない。都内は家賃が高くそうじゃない男の人たちのルームシェアもあるから悪目立ちもしない。見映えの良い二人だから腐女子のアンテナには引っかかるかもしれないけれど、事情を知っている私でさえ外で見る二人は完璧に友人なので腐女子の妄想の域内で収まっているだろう。 表では男性として振る舞う華乃がトランスジェンダーだと知ったのは偶然だった。 見た目超絶イケメンの華乃は大学の女生徒に大変人気で、尾行されて家を突き止められ、宅配便の配送員を装った女生徒に突撃自宅訪問を受けてしまった。
「は~、すごいわ。お祖母様が美香さんを気に入るわけよね……いや、最近は他の人も美香さんのことが好きな気がする。そうだよね、お兄の婚約のことを愚痴りにきたはずなのに、帰るときは全員揃って何が美味しかったとか今度は何を食べたいとか……実際に、あれから三日と開けずに来ている人もいるし」「蓮司様のご婚約はご親族が集まるキッカケになったのですね」「まあ、そういう言い方もあるかな……まあ、これから来るイトコたちはある意味本番の人たちだよ。私から見てもお兄に対する忠誠心が強いというか、DNAにお兄の名前が彫られているんじゃないかってくらいお兄ラブなんだよね」「それでは武美様も?」「武美ちゃんは中の下、かな。武美ちゃんの弟、お兄と同じ年の武司兄さんがお兄激ラブだから、武美ちゃんはちょっと引いている感じ」ちょっと引いている感じで中の下なのね……。「お祖母様もそんな感じでみんなに慕われているし、うちって一代に一人ずつそう言う人が生まれるんじゃないかな」「成程」 蓮司様を中の下レベルで慕っている武美様は蓮司様の二歳上。昔から自分の目が黒いうちは蓮司にいい加減な嫁は認めないと仰っていたらしいけれど――。「武美様の目の色は、先ほど見た感じでは緑色のようでしたが?」「ヘーゼルアイだった曾祖父様の影響だね」「ヘーゼルアイ?」「青色とか茶色って単色ではなくて、茶色や緑色が混じった変わった色の目のことだよ。昼間の外だと緑色が濃く見えて、薄暗い場所だと茶色っぽく見えるの」「お詳しいですね」「お父様がそうだから」隔世遺伝ということなのだろうか。そう考えると、吉川様のお腹にいらっしゃるお子様ももしかしたらヘーゼルアイかもしれないということね……父親が誰かと分かっていると、そういう情報も当たり前にあるのね。 「美香さん? どうしたの?」!「いいえ、ちょっと……皆様、どのくらいクリームをお付けになるかを考えてしまって」「たっぷり添えて大丈夫だよ、とても美味しいもん」「ありがとうございます」いけない、いけない……他人を羨んでも仕方がないこと。ずっと、そう考えて生きてきた。そうでなければ、「どうして」という思いで身動きができなくなってしまう。 「お待たせいたしました」リビングの入口のところでお声がけをすると、お三方の会話がピタッと止んだ。私が三人の前に
「美香さん、明日もまた人が来ることになったの。お休みの予定のところ大変申しわけないのだけれど、また対応してもらえないかしら。もちろんその費用も、色をつけてお支払いするわ」和美様の言葉に大丈夫と答えつつも、産婦人科の予約を次はいつにするかと考える。「ごめんなさいね」「本当に大丈夫です……大した用事でもないので」吉川様の妊娠騒動から一ヶ月、ずっとこんな調子が続いている。そしてこの一ヶ月は、私が産婦人科に行くのを先延ばしにしてきた時間でもある。先延ばしの口実を作るために仕事を引き受けているようなものだけど、それには気づかない振りをしてズルズルと先延ばしにして現実から逃げている。 「お祖母様、明日は誰が来るの?」吉川様がここにきて妊娠を発表して以来、朋美様はこの別邸に滞在していらっしゃる。それまでもこの別邸にいらっしゃることが多かったけれど、それでも週に二、三日は桐谷家の本邸にお戻りになっていた。それがこの一ヶ月は滞在がゼロ日。蓮司様の婚約を知った親族の方々がひっきりなしに来るから落ち着かないとのこと。「武美よ」「武美ちゃんかあ……相当派手にドンパチしたんだろうね。武美ちゃん、気が強いし昔から吉川凛花のこと嫌いだったもんね」「朋美、鏡で自分を見ておっしゃい」和美様のツッコミのような迅速で的確な返答に、思わず笑ってしまいそうになるのをグッと堪えた。 「来るのは武美ちゃんだけ? 武司兄さんは?」「武司は来ないわ。三ヶ月くらい前に海外に行ってまだ帰ってきていないそうよ。武美は帰国したばかりだからまだ家がないし、実家から春樹と唯花さんと一緒にくるのではないかしら。そして、おそらく第一声は――」 * 「大叔母様、アレは蓮司ではありません。蓮司の振りをした何かです。本物の蓮司は地球外生命体にでも拉致されたんです」 「みたいなこと言うかなと思っていたけれど……一言一句同じことを言われると複雑だわ」武美様の第一声と和美様の複雑そうな言葉に、思わず笑ってしまいそうになった。武美様の言葉はあの日『恐らくこうだろう』という感じで仰った和美様の台詞と全く同じだった。 和美様を「大叔母様」と呼ぶ武美様は、和美様の妹のお孫様。親族の皆さんが仲が良いのはもともと知ってはいたけれど、和美様のいわゆる予言のようなものを妄信し、絶対に結婚させてはいけ
リビングに向かうと、戸口に吉川様が立っていらっしゃった。「凛花さん、騒々しいですよ」和美様の言葉に、なぜか吉川様は私を睨む……桜子二号と心の中で呼ぼうかしら。 「おはようございます、蓮司さん」気を取り直したのか、弾んだ声を出す吉川様。いいことがあったのか、とても機嫌がよさそうだ。「おはよう」蓮司様の淡々とした返事に吉川様はパッと明るい表情をなさった。 朋美様の愚痴によれば、吉川様はお二人のお父様のご友人の娘で、朋美様たち兄妹とは幼い頃から面識があったとのこと。俗にいう幼馴染という奴だと思うが、朋美様はお認めにならないのか「面識」止まりだ。吉川様は幼い頃に蓮司様に一目惚れをして以来、朋美様曰く「ずっと付きまとっている」とのこと。蓮司様に付きまとう女性は吉川様一人だけではなく、吉川様は蓮司様に近づく女性を片っ端から追い払っていた。それは蓮司様にとっては実害でなく、迷惑だと思っていた女性たちを自動的に追い払ってくれるのだから便利だとさえ思っていらしい。それは吉川様にご自分が蓮司様にとって特別だと勘違いさせる原因になったと朋美様は仰っていた。お年頃になると吉川様はお父上を通して蓮司様との婚約を打診。それに対して蓮司様は「その気はない」とお断りになった。それでも吉川様はめげず蓮司様の傍にいて、定期的に婚約を打診しては蓮司様に断られるということを繰り返していた。吉川家との結婚は桐谷家にとって、一般的な情報から判断するに悪い縁組ではないのだが、例の和美様の目が「蓮司に凛花さんは合わない」と判断したので二人の結婚はなしだと思っていた。吉川家からの打診はずっと続いていたが、桐谷家側は蓮司様が自分で断るだろうと思っていたし、実際に蓮司様はご自分でお断りになっていた。しかし二ヶ月ほど前、蓮司様はご両親に「吉川様と結婚する」と仰られた。桐谷家を筆頭に親戚一同大パニック。和美様の目は、科学的根拠はなくとも約五十年の実績はあるため一族にとっては決して無視できない。蓮司様の宣言を真正面から聞いたご両親は「全くその気はないと言っていたじゃないか」と叫んだという。いまどき離婚は珍しくないと思うが、ダメになると分かっていて結婚させるのも何なのだろう。今まで全くその気のなかった蓮司様の突然の心変わりから始まったこの婚約話。朋美様は蓮司様の心がわりについて「天地が
「蓮司が来ているの?」蓮司様も和美様のお孫様で、朋美様のお兄様。ご兄妹のお母様が和美様の娘で、桐谷家に嫁いで次期当主夫人。桐谷家はご兄妹のご祖父様がいまも当主として健在で、ご長男の蓮司様は次の次のご当主ということになる。蓮司様は桐谷グループで専務として夜遅くまで働いていらっしゃるそう。同じ御曹司なのに、まだお祖父様が現役だからと遊び歩いている……もとい、社交に精を出す柾さんとは大違い。駄目だわ、柾さんのことを思い出すとどうしたって悪口が出てきてしまう。 「いつ来たの?」 「昨夜の十二時少し前にいらっしゃいました。寝ているお二人を起こしたくないと仰られたのでお二人に声をかけませんでした」起こしたほうが良かったのかしら? この菊乃井家の別邸の主人は和美様だ。本邸は息子夫婦に譲った和美様はここで、本人曰く『気楽な隠居暮らし』をなさっている。私が来るまでは通いの家政婦さんがいたそうだが、体調を崩されて夜間が心配ということで私が住み込みで家政婦をしている。「起こされてもまた眠るだけだから。今後も同じようなことがあったら……いえ、十時を過ぎたら何もしなくていいわ。孫たちはここの鍵も持っているし、勝手に入ってくるでしょう。逆にごめんなさいね、そんな時間に対応させてしまって」「いえ、十時少し前に蓮司様からご連絡をいただいたので」全く困ることはなかったというと、なぜか和美様は大きく溜め息を吐かれた。 「お兄、すっかりここに入り浸っているよね」「同じく入り浸っている朋美だけは言われたくないでしょうけれど……あの子はまだ寝ているの?」 「朝まで残りそうなほどお酒を飲まれたそうです」桐谷家といえば旧財閥家で、いまも政界や経済界に影響力をもつ名家。お付き合いも大変なのだろう。花嶺家にとって桐谷家はとてもではないけれどお近づきになれない存在。だから蓮司様を初めてここで見たときは、ニュースで見た顔とそっくりだと驚いてしまった。本人だから当たり前よね。それにしても、ご縁とはどこで繋がるか分からない。 「九時にお迎えの車が来ると伺っておりますので……」寝ていたら起こしてくれと言われたけれど……私が起こしていい方ではない。朋美様にお願いしてしまっていいのかしら?「あの子ったら……つまり、朝食も食べていくってことね。本当にごめんなさい」「一
玲子さんからもらった小切手は早々に換金した。花嶺家の資産管理は父も玲子さんも面倒臭がって私に丸投げしていたから、二人の口座にどのくらいのお金があるかは把握している。私が要求したのは、あの夜に玲子さんが来ていた服と身につけていた宝飾品をあわせた額。玲子さんは『このくらい』という気持ちで小切手にサインしたのだろうが、『このくらい』を捻出するのに私がどれだけ苦労したのかを知らない。今この瞬間に自分の銀行口座の残高を見て悲鳴をあげているかもしれないと思うと少しだけ溜飲が下がる思いだ。 その資金でウィークリーマンションを借りた。母の生家である西園寺家には、心配させたくないし、騒がれたくもなかったから自分から連絡をした。あの夜のことは話していないし、話したくもないから、「家を出て働くことにした」とだけ伝えた。祖父母も、母の弟で現当主の叔父も、あの家で私が受けている扱いを薄々察していたから、「分かった」とすぐに受け入れて、あとは何も言わないでくれた。祖父は西園寺家で暮せばいいと言ってくれたが、母の妹である明子叔母とその息子の明広兄さんがまだ西園寺家で暮らしていると聞いて、「自立したいから」と曖昧な答えで祖父の申し出を拒否した。自立の当てもあった。私は友人の華乃に頼み、華乃が代表を務めている会社『コンシェルジュ・ド・ハウス』に家政婦として登録してもらった。 『花嶺桔梗』は都内のお嬢様学校に通い、都内の短大を卒業したあとは遊び惚けているということになっているが真っ赤な嘘である。実際は桜子がその高校に通いたがっていて資金が足りないという理由で県立高校に進学し、大学に行きたかったら自分の金で行けと言われて母の遺産と奨学金で地方の国立大学に進学し、卒業後は年中無休で家族の世話に追われていた。いや、年中無休で家族の世話をしていたのは中学生のときからだったわ。 華乃とは同じ大学の同じ学部で、学生専用アパートの隣同士。利害が一致して後半の二年間はルームシェアをしていた。母一人子一人で育った華乃は、母親が家事と育児に苦労してきたのを見て育ったため、大学在学中に下準備をし、卒業早々に『コンシェルジュ・ド・ハウス』を立ち上げた。アイデアを提供したことと、西園寺家経由で上流社会の顧客を紹介してきたことから、『嶺桔梗』が副社長とはなっている。会社にいった私を華乃は歓迎







