Masuk音々は車をスターベイへと走らせた。出発前に、彼女は手紙を書き、ベッドサイドテーブルに置いてきた。何も告げずに離れる形にはなったが、必ず戻ると彼女は心に誓っていた。だから自分がいない間、輝にはどうか彼自身のことを大切にしてほしい、そして自分の選択と、雄太の懸念を理解してほしいと願っていた。今日までこの関係を続けられたことに、音々は満足していた。だから、たとえここで終わりを迎えることになっても、後悔はない。いや、一つだけ心残りがあるとすれば、輝との間に娘を授かれなかったことだ。音々は自分の身分証明書だけを持って出て行った。服さえも持たず、リュックサック一つだけを背負っていた。そして彼女は全身黒づくめの服装で、黒い野球帽に黒いマスクをつけ、目だけを見せていた。ドアを閉める前に、音々は最後に部屋を見渡した。リビングの至る所に、輝と愛を交わした思い出が溢れていた。その思いを胸に彼女は目を伏せ、ドアを開けて出て行った。そして玄関のドアが閉まり、部屋は静寂に包まれた。スターベイを出ると、音々は道端でタクシーを待った。少し離れたところに、黒い乗用車が停車していた。音々は気づいていたが、気づかないふりをした。タクシーが到着すると、彼女はドアを開けて乗り込んだ。ドアが閉まり、車は空港へ向かって走り出した。バックミラー越しに、後ろの黒い車が追いかけてくるのが見えた。音々は冷たい目をしたまま、スマホを取り出し、メッセージを入力した。【今、空港に向かってる。尾行されてる。Kはいつ到着する?】すぐに真央から返信が来た。【Kは昨夜、J市に到着し、他の人と合流しました。午後に北城に到着するはずです】音々は返信した。【誠也に会いに行かせて。既に誠也には伝えてある。彼らの身元は絶対に秘密だから。輝にも岡崎家にも知られてはならない】真央は返信した。【了解しました。でも本当に一人でH市に行くのですか?何かおかしい気がします。奏(かなで)に連絡してみましょうか?】音々は返信した。【奏の奥さんは先月出産したばかりだから、今は幸せに暮らしているんでしょ。邪魔をするのはよそう。まずは一人で様子を見てくる。大丈夫、何かあれば逃げるから】彼らの仕事は、死ぬことを恐れないが、同時に自分の身を守る術も心得ている。真央は言っ
輝は音々を横に抱きあげると、寝室へと大股で歩いて行った。......寝室に着くと、輝は音々を柔らかいベッドに寝かせ、潤んだ目にキスをした。「よしよし、もう泣かないで。酔っただけだから一緒に寝ればよくなるさ」だが、音々は彼の服の裾をぎゅっと掴み、半分目を開けたまま、涙を流し続けた。その涙は止めどなく溢れ、枕を濡らしていった。「行かないで......」「行かないよ」輝は彼女の手を握った。「音々ちゃん、ずっと一緒にいようね。私たちは結婚したんだ。もう二度と離れない。約束するよ。これから毎日、あなたが目覚めたら、必ず私がそばにいるようにするから」「約束して、私のことを忘れないで......私がこれから何をしようと、どれだけあなたが怒っても、私のことを絶対に忘れないで......」音々は願った。たとえ自分が輝を傷つけ、憎まれようとも、彼に忘れられないでいてほしいと。輝の心は、その言葉に揺さぶられた。それは彼が初めて目にする音々の弱い部分だった。この時ばかりは音々が酔っていてよかった、と輝は思った。酔っているからこそ、彼女はこうして隠さずに本当の気持ちを吐き出しているのだ。音々は、これまでの人生で苦労しすぎてきた。「音々ちゃん、約束だ。あなたを憎んだりしない。あなたが何をしようと、絶対に憎まないしあなたを愛している。永遠に愛し続けるから」その男の低い声が寝室に響いた。音々は笑った。そして、さらに涙が溢れ出した。「輝、愛してる。私はあなただけを愛してる。ずっと愛し続けるから。たとえ年老いても、人生最後の瞬間になったとしても」その言葉に輝の胸は高鳴り、熱い血が全身を駆け巡った。輝は深く音々にキスをした。その夜、酔った音々は情熱的だった。輝は、このまま彼女に溺れて死んでしまうんじゃないかと思ったほどだった。午前2時過ぎ、二人は疲れ果てて、抱きしめ合ったまま深い眠りに落ちた。この時雲に隠れていた月がようやく姿を現し、白い月光が窓から差し込み、音々の腹部を照らした。この夜、小さな命が静かに誕生した。それは、月からの贈り物だった。......音々は三日後に姿を消した。それは、ごく普通の穏やかな朝だった。いつものように、音々は早起きして輝と一緒にジョギングに出かけ、帰ってきてシャワーを
「音々、酔ってるだろ。部屋へ戻ろうか」「酔ってないもん」音々は手を挙げ、窓に映る月を指でなぞりながら言った。「輝、昔話をしてもいい?」輝は彼女に合わせて、「ああ、話してくれ。聞いているよ」と言った。「月にはウサギが本当に住んでいるの。でも、本当は昔話とは違って、自分を犠牲にしたから讃えられたのではなく、食べ物が見つけられなくて神様の食べ物を盗んだから月に閉じ込められたの」輝は絶句した。「ねえ、そんなウサギは悪い子だと思う?」輝は眉をひそめた。そしてしばらくして、ようやく音々の言葉の意味を理解した。音々は彼女自身のことを話していたのだ。「ウサギは悪くない」輝は音々の手を取り、落ち着いた声で言った。「ウサギはいい子だ。私はそれがむしろすごいと思ってる」「どうしてすごいと思ってる?」「どんなに辛くても、苦しくても、頑張って生きて行こうとするのはすごいことじゃない。そして、運命に立ち向かう勇気があるところもすごいと思う」輝は音々があごを持ち、顔を自分の方に向けさせた。「音々、あなたは今まで本当によく頑張って来たと思うよ。そしてこうやって私のそばに来てくれて、愛を教えてくれたことにも、私は感謝をしているんだ」それを聞いて、音々の目から、涙が溢れ出した。彼女は輝の首に腕を回し、つま先立ちで唇を重ねた。頬を濡らした涙を交えたキスは、二人にとってなんとも切ない味だった。音々は何度も何度も輝にキスをした。その長いキスは、情欲とは無縁の、純粋な愛情表現だった。「輝、ずっと一緒にいたい。ずっと、あなたを感じていたい。輝、例え離ればなれになったとしても、何年経っても、私のこと、忘れないでいてくれる?輝、あなたと結婚式を挙げたい。あなたがずっと望んでいる女の子を産んであげたい......輝、輝、輝......」キスが深くなるにつれ、音々の涙はますます溢れてきた。輝はようやく、音々の様子がおかしいことに気づいた。「音々?」輝は顔をそむけ、彼女の顔を見ようとした。しかし、音々はそんな隙を与えず、熱烈にキスを続けた。「輝、お願い......」輝は喉仏を上下させた。音々の感情が不安定になっていることを、はっきりと感じていた。「音々、どうしたんだ?どうして泣いているんだ......顔を見せてくれないか?」だ
「ゆっくり飲んでよ。酔っちゃうぞ」「誰を相手にしてると思ってるの!」音々は輝をちらりと見て言った。「私、ワイン3本からが本番よ!」輝は黙り込んだ。ビール3杯でダウンする彼は、何も言えなかった。「一口だけ飲んで、気持ちだけ味わって」そう言いながら音々は自分のグラスにワインを注ぎ、再びグラスを上げた。「2杯目、末永く幸せになれるように、そして子宝に恵まれるように!」再びグラスが軽く触れ合う。輝は眉をひそめ、強調するように言った。「女の子に恵まれるようにしないと!」音々は少し驚いた後、苦笑した。「分かったわ。じゃあ、あなたの言うとおりに」彼女は再びグラスを傾け、ワインを飲み干した。輝も形だけワインを口に含んだ。音々が3杯目を注ぐのを見て、思わず眉をひそめた。「音々、ステーキにはまだ一口も手を付けてないのに、もうワインでお腹いっぱいなんじゃないか?」「大丈夫よ。3杯目も飲んでから食べるから」音々は再びグラスを上げ、言った。「この3杯目は、あなたによ」「私に?」輝は理解できなかった。「どうして?」「私の出自を知っていても、あなたの家族が私たちを認めてくれないかもしれないと分かっていても、それでも私を選んでくれたあなたに感謝を込めて」音々は輝を見つめ、目に涙が浮かび始めた。「輝、私のそばにいてくれてありがとう。私を選んでくれてありがとう。愛してくれてありがとう」輝は音々を見つめ、彼女の言葉に深く心を打たれた。「音々、そんなに感激させないでくれ......」彼は音々を見ながら、喉仏を上下させた。「また我慢できなくなってしまう」「......もうロマンチックが台無しじゃない!」輝は笑い、自らグラスを合わせた。「それなら、この3杯目は、私も飲まないとな!」そう言って彼は顔を上げ、眉をひそめながらワインを飲み干した。お酒に弱い輝はワインの味が分からず、一気に飲み干したせいでむせて咳き込み、顔が真っ赤になった。しかし、その瞳は音々をじっと見つめ、星のように輝いていた。音々はたまらず鼻の奥がツンとして、涙がこみ上げてきた。そして涙がこぼれないよう彼女もまた顔を上げ、目を閉じてワインを飲み干した。3杯飲んだあと、グラスを置いて深く息を吸い込んで、音々は輝を見て笑った。「このワイン、二宮さんがくれただけあって
一方で、輝は夢を見ていた。夢の中で音々が姿を消し、輝は世界中を探し回ったが、どうしても彼女を見つけることができなかった。輝は悪夢から目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。腕の中は空っぽだった。「音々!」輝は慌てて起き上がり、電気をつけた。部屋は明るくなったが、音々の姿はどこにもなかった。「音々!」輝は布団を捲ると、裸足でドアへ駆け出した。そしてドアを開けると、輝は暗いリビングに飛び出し、音々の名前を叫んだ。「音々、音々――」すると玄関の施錠が解除される音がした。輝はピタッと動きを止めた。ドアが開き、玄関のセンサーライトが点灯した。音々は買い物袋を提げて入ってきた。「音々!」輝は音々に駆け寄り、強く抱きしめた。「本当に驚いた。どこかに行ったのかと思った」音々はドキッとしたが、輝の背中を優しく撫でた。「近くのスーパーに買い物に行ってただけよ」「夢を見ていたんだ......」輝は音々の首元に顔を埋め、彼女の香りを嗅ぎながら言った。「あなたがいなくなってしまう夢で、必死に探したけど、どこにもいなかった。まるで、この世から消えてしまったみたいで......」それを聞いて、音々は胸が締め付けられるような思いだったが、輝に悟られないようにした。「Z市への出張で、そんなに心配させてしまったんのね」音々は明るく振る舞い、冗談めかして言った。「じゃあ、次は一緒に出かける?ずっとくっついて離れないでおく?」「もちろん一緒に行く!」輝は音々の顔を両手で包み込み、真剣な表情で言った。「それから、寝る時だけじゃなくて、どこに行くにも必ず言ってくれ。朝起きた時にあなたがいないのは、不安になるから」「分かった。これからは、どこにいても連絡するね」音々は輝の眉間に指を当てた。「これで安心した?本当三歳児みたいんだから」それを聞いて輝は言葉に詰まった。「食材を買ってきたから、お腹空いてるでしょ?」音々は微笑んだ。「さあ、一緒にご飯を作ろう」輝は音々から買い物袋を受け取った。「リビングで待っていてくれ。私が作るから」「一人で待つのは退屈なの。一緒に作ろうよ」音々は輝をキッチンへと促した。二人に残された時間はそう多くないから、音々は一秒たりとも無駄にしたくなかった。輝もまた、音々と一緒にいるのが好きだっ
音々はそこで言うと言葉を詰まらせ、小さくため息をついた。「輝は岡崎家の跡取りとしての責任がありますので。私のために彼が家族を裏切るようなことはさせたくありませんし、私と一緒に危険な目に遭わせるわけにもいきません」それを聞いて、雄太は彼女をじっと見つめた。しばらくして、彼は尋ねた。「俺に電話をかけてきたのは、あなたの敵なのか?」「まだ調査中です」音々は言った。「ご安心ください。離れる前には全てを片付けておきますので。岡崎家と輝に迷惑をかけるようなことはしません」雄太は彼女を見て、さらに罪悪感を覚えた。この瞬間、彼は自問自答した。自分は冷たすぎるんじゃないか?「おじいさん、どうか自分を責めないでください。これは私の運命です」音々は老人の目を見つめ、声を落とした。「私は自分が原因で起きたことのけじめをつけないといけませんので。でも、輝と離婚するつもりはありません」それを聞いて、雄太は眉をひそめ、彼女を見つめた。「どういう意味だ?」「私が去ったからといって、輝が私たちの愛を諦めるとは思えません」音々は彼を見つめ、きっぱりと言った。「国内では、夫婦が長年別居すれば離婚を申請できると聞いてます。どうか、私たちに時間の猶予をください」「そうか......」雄太は彼女を見つめた。「確かに長く離れていれば、色々なことが起こりうる。今は熱愛中だから、お互いなくてはならない存在だと思っているだろう。しかし、あなたがいなくなった後、輝にも、もっと釣り合う人が現れるかもしれないぞ?」「もし彼が他に好きな人ができたら、その時は離婚を申請すればいいです。私はそれを受け入れる覚悟がありますので」雄太は少し考えてから言った。「わかった。それじゃ、時間の猶予を与えよう。だが、あなたも約束してくれ。全てを綺麗に解決することだ。もし何年か経っても解決しないなら、その時はどんなことがあろうと戻ってきてはならないぞ」音々は真剣に頷いた。「分かりました。その代わり、先生の言うことを聞いて、手術を受けてください。輝はあなたのことをとても心配していますので」それを聞いて、雄太は胸が締め付けられるのを感じ、まばたきをしながら、低い声で答えた。「わかった」......病室のドアが開き、外で待っていた慎吾と優子が同時にこちらを見た。音々は、心配そうな視線を向