LOGINかつて日本で化粧品ブランドを立ち上げた女社長・天野澪。 すべてを失った夜、最後に手に取ったのは自分で調香した一本の香水だった。 その瓶が砕け、香が光へと変わった瞬間――彼女は異世界に“転移”する。 目を覚ますと、そこは香りが生活を支える王都・ルーメン。 倒れていた澪を助けたのは、小さな香工房の老職人だった。 弟子たちと共に働き、再び「香りで人を救う」日々を見つけた矢先―― 師匠の死と共に、工房には借金と契約違反が残されてしまう。 職人たちは路頭に迷い、店は取り壊し寸前。 それでも澪は諦めなかった。 「人の手で作る香りには、まだ価値がある」 その信念で工房を継いだ彼女の前に現れたのは、 冷静で誠実な南領公爵、レオンハルト・ラウヴェン。 彼は言う。 「形だけでいい。──あなたが動ける権限を、今すぐ用意する」 工房を守るために、澪は公爵との“契約結婚”を受け入れる。 利害だけで結ばれたはずの婚姻は、やがて 「信頼」と「愛情」を静かに混ぜ合わせていく。 灰のような現実の中で、 香りはもう一度、人を癒すことができるのか。 壊れかけた工房を舞台に、 異世界で再び立ち上がる女と、不器用な公爵の あたたかくて少し切ない再生ラブストーリー。
View More築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。
そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時
チーン
今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。 仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」
仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。
須藤朱莉 24歳。
今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。 しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。 堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。 そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」
小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。
手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」
玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。****
朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。
そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」
プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。
「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」
「はい、分かりました」
朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。
このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。この工場で働いているのは全員40歳以上の女性で既婚者もしくは独身者である。
朱莉のように若い従業員は居ないので、当然女性達からのやっかみもある。それ故わざと地味で目立たない姿をし、息を潜めるように日々の仕事をこなしていた。 ――17時半 朱莉の退勤時間になった。「すみません、お先に失礼します」
ロッカールームで手早く着替えを終わらせると、事務所にいる片桐英子に挨拶をした。
「あら、須藤さん。お疲れ様。今日も病院に面会に行くのかしら?」
「はい、母が楽しみにしていますので」
「それはそうよね。所でお母さんの具合はどうなの?」
「特に変わりはありません。小康状態を保っている感じです」
「あら、そうなのね……」
「でも、この間主治医の先生が母の病気に効果のある新薬が開発されたそうなので試してみてはいかがでしょうかと言われました」
「あら、そうなのね。その薬でお母さん良くなるといいわね」
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
朱莉は職場を出たが、その表情は暗い。
(いくら新薬が出たからって今の私にはとても無理だよ……)
主治医が提案して来た新薬は驚く程高価なものだった。
朱莉の手取りは16万円でパート事務員なので当然ボーナスは無し。 家賃は5万5千円で、何より一番生活を圧迫しているのが、母親の入院費である。無理がたたり、長い間病気を患い、入院生活はもう3年になろうとしている。母には内緒にしているのだが、朱莉は銀行から100万程の借金もしていた。
そんな状態ではとてもでは無いが新薬には手が出せない。 勤務先で後2万円ほど給料を上げて貰えればと思うのだが、所詮小さな町工場。 殆ど自転車操業並みに近いので、とてもでは無いが給料アップは望めない。なので職場には内緒にしているのだが、給料も良い新しい勤務先を探していた。
けれど朱莉は大学を卒業どころか、高校を中退している。その為履歴書を送付した段階でいつも書類選考で落とされていたのだ。
朱莉の父が健在だった頃は社長令嬢として蝶よ花よと何不自由ない暮らしで、学校も私立の名門の高校に通っていた。しかし父の病気により業績は悪化。そして父の死と共に降りかかってきたのは会社の倒産だったのだ。
そこでやむなく高校を中退し、その後は病弱な母と力を合わせて何とか生活していたのだが、働き過ぎで母はとうとう身体を壊してしまい、現在に至っているのである。 いっそのこと、夜の町で働いてみようかと思った事は何回もあったのだが、社長令嬢として育ってきた朱莉には怖くてその世界へ進めずにいた。 考え事をして歩いていると、いつの間にか母の病室の前に着いていた。(いけない、こんな暗い顔していたらお母さんが心配しちゃう)
わざと笑みを作ると、個室のドアをノックした。
――コンコン
「朱莉ね?」
病室の中から母の声が聞こえた。
「お母さん。具合はどう?」
笑顔でベッドの母親へと近づく。
「そうね。今日は少しだけ体調がいいみたいよ」
青白く痩せこけた母が弱々しい笑みを浮かべた。
(また……。嘘ばっかり……!) 母の下手な嘘に思わず涙が滲みそうになるが、ぐっとこらえて朱莉は母に色々な話をした。 職場では皆に良くして貰えているとか、今年は臨時のボーナスが出そうだとか……全て口から出まかせであったが、少しでも母の笑顔が見たくて今夜も嘘を重ねていく。「それじゃ、また明日ね。お母さん」
朱莉は母に挨拶をすると病室を出て溜息をついた。
(はあ……またお母さんに嘘ついちゃった……。お腹空いたな……。でもお給料前だから今夜はカップ麺かな……)朱莉は暗い足取りで家路に着いたのだった――
****
アパートに帰ると郵便受けのA4サイズの封筒が入っていた。「あれ……? 何だろう? この書類……あっ!」
封筒に書かれている社名を見て声を上げた。そこに書かれていた書類は1週間ほど前に履歴書を送った、ある大手の総合商社の社名が印字されていたのである。
「ま、まさかっ! 書類選考が通ったの!?」
急いで鋏で封を切って書類を取り出した。
『須藤朱莉様。この度は当社にご応募頂きまして、誠にありがとうございます。書類の一次選考が通りましたので、面接に進めさせて頂きたいと思います。つきましては下記の日程でご案内させて頂きますが、都合がつかない場合は改めてご連絡下さい。電話番号は……』
朱莉は興奮のあまり、声に出して書類を読み上げていた。
「う、嘘みたい……。初めて書類選考が通るなんて……。何でかなあ……。今までは学歴ではねられているとばかり思っていたけど。でも良かった! 始めて面接に進めるんだから頑張らなくちゃ!」
この時の朱莉は全く気が付いていなかった。この書類選考が通った本当の意味を。そして自分の運命が大きく変わろうとしている事を――
受領票の裏をもう一度めくる。鉛筆の細い字が指に当たる。「午後二時くらいから始まるみたい」「一人での保証は保留になるって」。息をひとつ飲む。「行こ。座ってるだけでも席は取れるから」メラが上着の裾を整える。「戻ったら火、見ておくね。扉は開けておくよ」トーリは鍵束を確かめて、ポケットに入れた。「続柄の欄は空けておくね。そこは会議で決めよう」私は用紙のその欄に人差し指を置いて、離す。紙の角が、少しだけ指に吸い付く。外の空気は乾いている。庁舎の前、石段に列。昨日の同業の男が、目だけで合図。「今日は荒れそうだよ。……朱が乾く前に決めないと、こっちが不利になる」低い声。言い切らないまま、前を向く。「ありがとう。番号、戻しておくね」私は軽く頷く。メラが肩越しに息を合わせる。トーリは一歩下がって、周りを見る。鐘が二度、小さく鳴る。扉が開き、列が流れる。議場は広くない。椅子の布が冷たい。前方の卓で、議長が紙を整えた。「今期の安全ルールです」議長は短く読む。「見本瓶の提出は必須です。単独保証は基本的に保留。共同保証には“同一生計証明”が必要になります」墨の線が一行ずつ進む気配。若い書記が横で小声を落とす。「……朱が乾くまで、触らないでくださいね」確認官が立つ。「同居の条件は三つあります。住む場所を一緒にすること。お金を一緒に管理すること。緊急時にお互いが連絡できること」板の床が小さくきしむ。呼吸が幾つか重なる。「見本瓶をお願いします」促されて、私は包みを開く。火は弱いまま逃がさない配合。光へ透かす手元を、確認官の目が追う。「火、きれいですね。弱いのにちゃんと安定してる」短い評価。後ろの席で、商人風の男が囁く。「……この香り、最近もう市場に出てるやつに似てるって聞いたけど」メラが一瞬だけ視線で私を見る。私は目を伏せ、瓶の口を支え直す。逃がさない。今はそれだけ。「次の方、どうぞ」議長の声が少しだけ低くなる。レオンが立つ。外の光を背にして、卓に一枚置いた。「保証枠の上限に達しています」レオンは短く続ける。「今日中に共同保証の意思確認が必要です。私は“外側の責任”を半分引き受けます」言葉を置いて、黙る。余白が残る。監視役の男が紙をめくる。「形式としては、親族か婚姻が一番有効です。仮婚
火は細いまま、芯だけが見える。 机の上で、控えの紙を二通そろえる。 封の袋と、小さな手数料の袋を脇に置く。 「手、もう一回あっためよ?」 メラが指を合わせる。 「うん。手が冷えてると紙が滑らないから」 掌を擦って、指先に熱を戻す。 「番号取ってくるね。戻るまでここで待ってて」 トーリが扉に向かう。 外は冷たい。 工房の前から通りに出ると、空気が乾いている。 庁舎の前には、すでに列ができていた。 「二十七番だった」 トーリが番号札を見せる。 「けっこう早いほうだね」 メラが肩をほぐす。 列の少し前に、昨日の同業の男が立っている。 目が合う。 踵がわずかに返る。 砂利がひとつ、鳴った。 扉が開き、列が動く。 中は静かで、紙の匂いが薄い。 「書類一式と手数料をお願いします」 若い書記が顔を上げる。 「はい。……こちらになります」 私は紙を差し出し、袋を添える。 書記が一枚ずつめくる。 保証用紙の「続柄」の欄に、人差し指がそっと触れる。 言葉は出ない。 メラが小さく息を吸って、視線を落とす。 「確認官をお呼びしますね」 奥から年長の確認官が来る。 「すみません、今期から“見本瓶”が必要でして」 確認官が柔らかく言う。 「ひと口ぶんで大丈夫です。最新のラベルでお願いします」 一瞬、胸が固まる。 すぐ、頷く。 「すぐ戻ります。必ず間に合わせます」 声はまっすぐに出た。 「昼まで受け付けていますので」 確認官が時計を見て頷く。 「……午前は混みますから、早い判断が助かります」 列の後ろから、低い声が落ちる。 「番号札、ここに置いとく。戻ったらこの位置に差し込んで」 同業の男が自分の札を少し上にずらす。 「助かります、ありがとうございます」 私は頭を下げる。 男は顎で小さく合図した。 外に出る。 息が白くはならないが、喉が少し締まる。 小走りで工房へ戻る。 「火、すぐつけるね」 トーリが薪を選ぶ。 「皿、先に温めておくね」 メラが指で縁を撫でる。 「外では“香り”を出して、内では“息”を合わせる。……いつもどおりで」 私は小瓶とラベルを出して並べる。 細い薪が一本。 火はすぐ細く立つ。 皿の縁が柔らかくなる。 「ここ、冷やさないようにね」 メラが息を落とす。
火は細くて、落ち着いている。 紙の控えを二通、角をそろえる。 瓶は三本、口を布で拭って並べた。 「手、もう少し温めとこうか」 メラが私の指先を見て言う。 「うん。手が冷えてると、字がガチガチになるから」 息をひとつ置いて、掌をこすり合わせる。 「窓、ちょっと見てくるね。さっきの人、また来るかも」 トーリが短く言って、扉の方へ視線を滑らせる。 「来ても、見るだけでしょ」 メラが声を落とす。 「火の様子、ちゃんと見せよう」 戸口の風が、細く入って止まる。 息がそろう。 扉が二度、静かに叩かれた。 青い腕章が二つ。 無表情の書記が、時刻を一つだけ読み上げる。 「一本、開けずにお願いします」 検査官の声は平らだ。 「はい。……ここでいいですか」 私は未開封の一本を持ち上げ、壁際の影にならない場所に置く。 細い管が瓶口に触れる。 針が揺れて、ゆっくり落ち着く。 音はない。 呼吸だけがある。 「数値は基準の範囲内です」 検査官が短く告げる。 「記録しました」 書記が紙に線を置く。 インクの匂いが、わずかに立つ。 もう一人の検査官が火を見る。 「火、落ち着いてていいですね」 「逃げないくらいの弱火で」 メラが釜の縁に目をやる。 「薪、一本足したほうがいい?」 トーリが薪に触れて止める。 「今は大丈夫。……このままで」 私の声に、火が細いまま続く。 路地の端に、視線がひとつ。 同業の男。 目が合って、踵がわずかに返る。砂利が一度だけ鳴る。 検査官の目が一度だけそちらへ流れ、戻る。 書記が別紙を開く。 保証の欄に指を置き、続柄のところを軽く叩く。 レオンの署名の写しへ視線が落ちる。 空気が浅くなる。 誰も、言葉にしない。 「小規模燃焼を確認します」 検査官が皿を置く。 火皿の縁がひやりとする。 立ち上がりが、少し鈍い。 香りが一度、途切れたみたいに薄くなる。 「メラ、皿を指で少し温めて」 「わかった」 メラの指が円を描く。 「風、止めるね」 トーリが窓の隙間に布を当てる。 待つ。息だけ置く。 火が細く戻る。 木が遅れて乗り、花が薄く追いつく。 検査官が一呼吸だけ待って、頷いた。 「臨時検査、合格です」 書記が最後の線を置く。 「提出は、明日の昼までにお願いしま
火は穏やかに落ち着いていた。 紙の控えと、身分札と、昨夜の香守瓶を机にそろえる。 「書き漏れとか、ないよね?」 メラが帳面に指を置く。 「大丈夫。ちょっと気持ちだけ、落ち着かせるね」 私は瓶の口に指を触れて、すぐ離した。 「鐘があと一回鳴いたら迎えに行くから。無理しないで」 トーリが短く言う。 「うん、すぐ帰るね」 私は布で手汗を拭き、身分札を懐に入れた。 戸口の風は冷たい。深く吸って、吐く。 公爵邸の石はひんやりして、音が吸われる。 通された広間は広くて、声が立つ。 「保証の提出は明日の昼までです。出さなければ、一時的に停止になります」 机の端に座る監視役が、一度だけ紙を整えた。 「わかりました」 私は膝の上で指を重ね、息を止めないようにする。 公爵が正面に座る。 視線は真っ直ぐで、声は低い。 「選択肢は二つある」 レオンが言葉を置く。 「一つは独占契約。もう一つは、私が保証して庇護に入る形でもいい」 私は頷いてから、鞄を開いた。 風の来ない壁際に小皿。 小瓶の栓を、一呼吸だけ開ける。 石の乾きに、柔らかい香りが馴染む。 焦げの手前で止めた木。 遅れて、薄い花。 「これが、私たちの“香り”です」 私は栓を戻す。 「強く出さないで、静かに残るほうです」 監視役は黙ったまま記録に線を引く。 レオンは視線を落とし、すぐ戻した。 「保証を出すなら、責任はお互い半分ずつにしよう」 レオンが続ける。 「配合の権利はあなたたちに残す。人も道具も、こっちが奪うことはない」 「……責任を、半分ずつ持つってことね」 私は机の紙に目を落とす。 「独占されるより、ちゃんと続けられる形のほうがいい」 監視役が咳払いを一つ。 「保証の形式としては、“親族”か“婚姻”が一番有効です」 レオンの視線が一度だけ落ち、空気が浅くなる。 空気が少しだけ動く。 私は息を吸い直す。 レオンは逃げない目で言う。 「理屈だけで話そう。時間はない。工房を守るなら婚姻が一番確実だ。感情は、今は置いておこう」 私は手元のペンを取った。 重さは普通。先だけが冷たい。 「今夜は検査して、明日の朝一で保証を出します」 言い切ってから、もう一度だけ息を足す。 「その前に――紙にしておきたいです。権利と、境界。働く時間と、お金