LOGINそれから、寧々がウェストコートレジデンスに着いたとき、桜はもう寝ていた。そこで安人は、夏帆に寧々を先に27階へ連れて行かせた。その夜、安人は心配で、ぐっすり眠る桜を抱きしめながらなかなか寝付けなかった。しかし、やはり公演が間近なせいで、プレッシャーを感じていたのだろう。桜は夜中に熱を出してしまった。安人が体温を測ると38度もあった。時計を見ると、午前2時を過ぎていた。この時間に病院へ行くのは少し大げさだし、桜の様子もそこまで悪くない。そこで安人はまず解熱剤を探し出し、桜に飲ませた。薬を飲むと、桜はうとうとしながら尋ねた。「寧々は来たの?」安人はベッドのそばに座り、濡れタオルで彼女の顔を拭いてやった。「夏帆が迎えに行ったよ。君が寝てるって伝えたら、先に27階の部屋に戻ってもらった」桜は小さく返事をすると、また朦朧としながら眠りに落ちた。……空が白み始めた頃、安人はスマホの振動で目を覚ました。新太からだった。嫌な予感がして、安人はすぐに起き上がり、スマホを持って寝室を出た。ドアを閉めると、彼は電話に出た。受話器の向こうから、新太の重々しい声が聞こえてくる。「社長、先ほど康弘さんの容態が急変しました。医師が懸命に処置をしていますが、状況は芳しくありません」安人はスマホを握る手にぐっと力を込めた。実は、昨日の夜からこうなる予感はあった。彼は、康弘の容態について仁に尋ねていたのだ。仁は康弘のカルテを見て、立て続けにため息をついた。結局、仁は何も言わなかったが、それでもあのため息が何を意味するのかを、安人は分かっていた。多分とてつもなく厳しい状況なのだろう。実のところ、事故が起きてから今まで、安人は康弘がもう長くないことを薄々感じていた。でも、桜のためを思うと、何とか持ちこたえてほしいと願わずにはいられなかった。せめて、もう少しだけでも……せめて、桜の公演が終わるまではなんとか耐えてほしかった!安人は唇をきゅっと結んで少し黙り込むと、低い声で言った。「金はいくらかかってもいい。全力を尽くして助けてくれ」新太は「承知しました」と答えた。電話を切ると、安人はこめかみを押さえ、眠気も一気になくなった。彼はベランダに出て、たばこを一本吸った。普段、彼はほとんどたばこを吸わない。幼い頃から
薬を飲んだ後、安人は桜をそっとベッドに横たわらせた。「さあ、ゆっくりお休み。目が覚めたらきっと楽になってるから」桜は彼を見つめて言った。「一人で大丈夫よ。ずっとそばにいなくていいから。会社も忙しいでしょう?仕事してきていいから、私が目を覚ます頃には、あなたも仕事を終えて帰ってくる時間でしょう?」「家でも仕事はできるから大丈夫。安心して眠りなさい。君が眠ったのを確認してから、仕事に取り掛かるよ」安人がそこまで言うので、桜はもう何も言わなかった。目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。一方、安人は桜の呼吸が穏やかになるのを待ち、彼女が熟睡したことを確認してから、静かに部屋を出た。こうして、ドアが閉まった。安人はスマホを取り出し、新太に電話をかけた。「白川先生たちは北城に着いたか?寧々が空港に着いたら、すぐに桜のところへ向かうよう伝えてくれ」……その時、桜は夢を見ていた。夢の中に、康弘が出てきた。康弘は漁船の上に立っていた。海はひどく荒れていて、船は大きな波に揉まれ、今にもひっくり返されそうだった。桜は夢の中で康弘の名を叫び、早く岸に戻るよう懇願した。でも、康弘は戻ろうとしない。それどころか、手を振って桜に早く家に帰れと合図するだけだった。桜は何度も叫び続けた。でも、だんだんと遠ざかっていく漁船を、ただ見つめていることしかできなかった。突然、稲妻が走り、雷が鳴り響き、暴風が吹き荒れた。船は巨大な波に飲まれて転覆し、瞬く間に、康弘は大波にさらわれてしまった——「いや!」桜は悲鳴を上げ、ベッドから飛び起きた。その声を聞きつけて、安人が慌てた様子で部屋のドアをあけ彼女のもとへ駆け寄った。「桜、どうした?悪い夢でも見たのか?」桜は汗びっしょりで、顔は真っ青だった。安人の姿を見ると、彼女は彼の腕を強く掴んだ。目は真っ赤だった。「康弘さんの夢を見たの。彼が海に飲み込まれる夢を」安人の胸はドキッとしたが、顔には何もださなかった。彼は桜の隣に座り、彼女を腕に抱き寄せた。大きな手で彼女の華奢な背中を優しく撫でながら、「ただの夢だ。夢と現実は逆なんだって言うだろ」と言って宥めた。「でも、すごくリアルで」桜は胸を押さえ、わけのわからない恐怖に駆られ、彼女は焦りを募らせた。「康弘さんに電話しなきゃ。今になっても
こうして、桜が病室から出てきた時も、京子の罵声はまだ続いていた。九死に一生を得たばかりだというのに、京子の桜を罵る言葉は容赦なく辛辣だった。一方、後から出てきた新太が、「桜さん」と声をかけた。桜は足を止め、振り返った。すると新太は彼女を見つめ、「社長が地下駐車場でお待ちだとおっしゃっていました」と言った。桜は頷いた。「わかりました。古川さん、いつも面倒をかけてすみません」「とんでもございません。社長の指示で動くのは私の仕事ですから」桜は新太に軽く会釈すると、エレベーターに向かった。……地下駐車場。桜がエレベーターから出て来ると、そこには、黒のマイバッハが停まっていた。桜はまっすぐその車へ向かった。すると、助手席の窓がゆっくりと下りた。運転席に座っていた安人が、彼女を見て言った。「とりあえず乗って」桜は頷くと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。ドアが閉まり、安人は桜を見て、尋ねた。「大丈夫か?」桜は彼の方を見ずに俯いたまま、自分のつま先を見つめて言った。「うん……大丈夫。ちゃんと言ってきたから。親としての扶養義務は果たすけど、もう二度と会いに来ないって」安人は手を伸ばして彼女の頭を撫でた。「君がよく考えて決めたことなら、それでいい」「うん、ちゃんと決めた」桜の声はか細い。「私たちには親子の縁がなかったみたい。もう無理するのはやめるわ」彼女が口ではそう言っていても、安人は知っていた。母親の愛を求めない人間などいないのだ。京子がどんなに酷い母親でも、桜を産んだことには変わりない。愛情に飢え、情に流されやすい桜がそんな決断をするのは、きっと胸が張り裂けるほど辛いに違いない。「明日の夜は初日だろ。緊張してるか?」安人はさりげなく話題を変えた。「ちょっとだけね」桜はむかむかする胃のあたりをさすった。「家に帰って休みたいの。ちゃんと元気になって、明日の公演は万全の態勢で臨みたいから」「わかった。じゃあ、今すぐ帰ろう」「うん」……ほどなくして、マイバッハはウェストコートレジデンスの地下駐車場に停まった。桜はシートベルトを外し、安人に顔を向けた。「あなたは今日、会社に行かなくていいの?」「いいんだ」安人はシートベルトを外し、手を伸ばして桜の頬に触れた。「顔色が悪いな。どこ
「じゃあ、明日の初日の公演、やっぱり来られない?」「ごめんね、まだヘルパーさんが見つからなくて、それで」「大丈夫だよ」友達を困らせたくなくて、桜はわざと明るく言った。「全国ツアーで何回も公演があるんだから、そのうちの一回には来れるでしょ」「そうだね!じゃあ、わたしはこれで」「うん」電話を切ると、桜はネットニュースを開いた。なんと、そこには彰人が逮捕されたというニュースが、トップ記事で表示されていた。桜はその記事をじっと見つめた。話がうまく進みすぎているようで、どこか不自然に感じた。胸の中にぼんやりとした推測が浮かんだ。でも、それ以上深く考えたくはなかった。桜はスマホをしまい、車を降りてエレベーターホールへ向かった。エレベーターの中で、桜は27階と28階のボタンの前で少し迷ったけど、結局27階のボタンを押した。……この数日間で、あまりにも多くのことが起こりすぎていた。京子が重傷を負って入院したかと思えば、彰人に脅迫され、そして彼は予想外に逮捕された。桜の心は激しく揺さぶられ、頭の中はぐちゃぐちゃだった。明日は初日の公演だ。こんな精神状態で舞台に立てないことは、彼女自身が一番よく分かっていた。早く気持ちを切り替えないと。自分一人のせいで、みんなが何か月もかけてきた準備を台無しにするわけにはいかない。そう思っていると、エレベーターが27階に到着した。桜はエレベーターを降り、鍵を開けてドアの中に入った。部屋の中は、しいんと静まり返っていた。夏帆はいないみたいだ。ドアが開く音を聞きつけて、トラちゃんが自分の寝床から飛び出してきた。「にゃーん、にゃーん」ぽっちゃりした体で桜の足元に駆け寄ると、丸い頭をすりすりとこすりつけてきた。桜はドアを閉めてしゃがみ込み、トラちゃんを抱き上げて部屋の奥へと歩いた。リビングのカーペットまで来ると、桜はゆっくりと腰を下ろした。30分だけ、と彼女は自分に言い聞かせた。気持ちを落ち着かせるのに、30分あれば十分だった。トラちゃんは彼女の気持ちを察したのか、膝の上で大人しく丸くなり、目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らした。猫が喉を鳴らす音は、聞いているだけで癒される。桜はトラちゃんを抱きしめながら、その背中を優しく撫でた。数分後、スマホが震えた
桜が目を覚ますと、もう翌日のお昼12時だった。カーテンが全部閉められた部屋は、薄暗く静かだ。桜は目をこすり、時間を確認すると、驚いてベッドから飛び起きた!まずい、彰人との約束の時間に遅れちゃう!桜は布団をめくり、靴も履かずにウォークインクローゼットへ駆け込んだ。自分の立場を考えて、桜はわざわざ黒のカジュアルな服を選んだ。着替えを終えると、彼女は帽子をかぶり、慌てて部屋を出た。リビングでは、安人がソファに座って雑誌を読んでいた。ドアが開く音を聞いて、彼はゆっくりと顔を上げた。二人の視線が合うと、桜は思わず立ち止まった。一方、安人は彼女を上から下までちらりと見てから、彼女の目を見つめながら尋ねた。「出かけるのか?」「うん」桜は頭をフル回転させながら答えた。「事務所に、ちょっと来るように言われて」「そうか?」安人は表情を変えずに言った。「送っていこうか?」「いいよ!」桜は慌てて断った。「あなたは仕事で忙しいのに、迷惑かけられないわ。自分で運転して行けるから」「夏帆さんがいるだろう?」安人は少し眉を上げた。「君は今、輝星エンターテイメントが特に力を入れているタレントなんだから、普段の外出でもアシスタントを連れて行った方がいい」「そっか。じゃあ、夏帆さんに声をかけてくるね」桜は引きつった笑いを浮かべながら、背中に冷や汗を滲ませた。片や、安人は彼女をじっと見つめ、少ししてから、淡々と答えた。「じゃあ、早く行ってこい」「うん!」桜は頷いた。「じゃあ、行ってくるね!」「気をつけてな」「分かってる」桜は玄関で靴を履き替え、安人に手を振ると、そそくさと出て行った。彼女はあまりにも慌てていたので、空気がおかしいことには全く気が付いていなかった。玄関のドアが開いてから、すぐにまた閉まった。安人は固く閉ざされたドアを睨みつけ、その端正な顔に冷たい表情が浮かんだ。実は、例の件は彼がとっくに片付けていたのだ。彼がここで桜を待っていたのは、彼女が自分から打ち明けてくれることを期待していたからだった。しかし彼を差し置いて、桜は大きなリスクを冒してでも、彼に隠れて動こうとしているのだ。安人は当然がっかりした。彼女なりに考えがあってのことだと分かってはいたが、やはり胸の中はモヤモヤしていた。二人が付き
大粒の涙が布団に落ちる。彼女はうなだれたまま、声も立てずに静かに泣いていた。その姿はとても痛々しかった。それを見て安人は、これ以上彼女に飲ませてはいけないと思った。彼はグラスを取り上げようとしたが、桜はそれを拒んだ。桜は両手でグラスをぎゅっと抱きしめ、「あなたが作ってくれたのに、無駄にできない!」と言った。そう言って、彼女は泣きじゃくりながらグラスを離さないので、安人は諦めるしかなかった。「桜、もう酔ってる。部屋に戻って寝よう」桜は首を横に振った。「酔ってない。それに寝たくないの。寝たら、夢を見ちゃうから」その言葉を聞いて、安人は胸が詰まる思いだった。先ほど、新太からファイルが送られてきた。それは、彼女が13歳の時に地元のチンピラに襲われそうになった事件の報告書だった。もしあの時、康弘の到着が少しでも遅れていたら、桜の人生はめちゃくちゃにされていただろう……当時、桜は必死に抵抗したため、足の骨を折られ、体中にも暴行による無数のあざが残った。桜の無残な姿を見て、普段は温厚で真面目な康弘は初めて激昂した。彼は病院を出ると家にあった包丁を持ち出し、チンピラの家に乗り込んで相手を半殺しにしたのだ。それによって、チンピラは重傷を負い、片腕はほとんど動かなくなった。事件は大事になった。誰もが康弘は悪くないと思っていたが、チンピラ一家のしつこい嫌がらせには敵わなかった。桜がチンピラに傷つけられたのは明らかだったが、現場の証拠は不十分だった。それに、チンピラ一家はとっくに母親の京子に接触していたのだ。そこで、京子は金のために、チンピラ一家との示談に応じた。その後、チンピラ一家はやり手の弁護士を雇い、逆に康弘を殺人未遂で訴えた。康弘は完全に不利な状況に追い込まれた。チンピラ一家は、康弘が賠償金を払うなら示談にすると持ちかけてきた。京子は受け取った金を返す気など毛頭なく、結局、康弘は全財産をはたいて買った漁船を売るしかなかった。その後、桜は長い間入院し、リハビリをしながらカウンセリングを受けていた。そして彼女が退院した後、康弘も京子もその事件について口にすることはなかった。一方、チンピラ一家のあまりに非道なやり口は地元の人たちの怒りを買い、毎日のように非難された。結局、耐えきれなくなった一家は、桜が入院
そこまで聞いて、優希は数歩後ずさり、鈍く痛むお腹を押さえて、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、うつむくと、涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。「わかりました」優希の声はとても小さかった。「私を忘れた方が、哲也が幸せになれるのなら......もう、彼の邪魔はしません」それには、勳もさすがに胸が痛んで、目をつぶった。でも、哲也が恋に悩み、病でボロボロになっていた姿を思い出すと、彼は心を鬼にした。勳は目を開け、声を落として言った。「二宮さん、申し訳ありません。今日のお話は、とても失礼で、あなたにとって不公平なことだと承知しています。もし社長が記憶を取り戻されたら、私が勝手にし
「運命の人じゃなかったら、どんなに完璧でもその人の目には入らないってことですよ」優希はそう言いながらティッシュを数枚抜き、泣きじゃくる志音に握らせて言った。「先輩、人生なんて後悔の連続です。時には諦めることで、自分自身が救われることもあるんですから」それを聞いて、志音はぴたりと泣き止み、顔を覆っていた手を下ろすと、涙に濡れた瞳で、優希をじっと見つめた。しばらくして、彼女はようやく口を開いた。「じゃあ、あなたはもう吹っ切れたの?」優希はふっと微笑んで、すぐに答えた。「とっくにですよ」それから優希は立ち上がりながら言った。「今日は依頼人と会う約束がありますから、もう行かなければなり
綾の体にかけられていた毛布が、雪が積もる地面に落ち、体が冷たい空気に包まれ、彼女は身震いした。「悠人がおもちゃを投げつけた時、お前はとっさに腹部を守ったよな」綾は息を呑んだ。誠也が、そこまでよく見ていたとは思わなかった。さすが父親だね。遥が妊娠していた時、彼は相当勉強したのだろう。しかし今更、自分が妊娠していようがいまいが、誠也には関係ないはずだ。綾は、子供を諦める決意をしていたし、この世に生まれてこない子供のことなど、誠也が知る必要もない。綾は落ち着きを取り戻し、誠也を見上げた。二人の視線が交差する。誠也の黒い瞳は鋭く、綾の心を見透かそうとしていた。綾は視
星羅はそれを見て、一気に頭に血が上った。「この動画、どこから流出したの?」「お金持ちの子供たちのグループチャットから流出したみたいですよ。今はもう、ネット中に拡散されています」星羅はスマホを取り出し、丈に電話をかけた。丈はすぐに出た。「君もあの動画を見ましたか?」「え?先生も見たんですか?」星羅は驚いた。「ああ」丈は言った。「私はもう地下駐車場に来ています。Cゾーンです。早く降りてきてください」「はい!」星羅は電話を切ると、地下駐車場へと急いだ。ちょうどその時、病室で、澄子がゆっくりと目を開けた。「高橋さん」高橋はすぐに駆け寄り、「気分はどうですか?







