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社長、見合い相手は私ではありませんが
社長、見合い相手は私ではありませんが
مؤلف: YuIm

1話. 今日は、この企画でいくんですか

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-08 22:15:21

白石千尋が他人の名前を使ってやることは、たった一つだった。日本でいちばん忙しい男に、二度と会いたくない女だと思わせること。

成功すれば、五百万円の借金が消える。失敗しても、月曜日には会社へ行かなければならない。

その二つが同時に問題になるとは、アルデンホテルのラウンジにいた男が顔を上げるまで、思ってもみなかった。

* * *

金曜日の午後、会議室のスクリーンには、笑顔の顧客が映っていた。

「反応はいいですね。体験の申し込みも増えています」

高橋係長が次のページへ進めようとしたところで、千尋は手を挙げた。

「設置のキャンセルに関する問い合わせも、あわせて確認したほうがいいと思います」

画面の下に隠れていた表を開いた。颯太が慌ててプロジェクターのケーブルに触れ、画面が一度消えた。誰かが小さくため息をついた。千尋は印刷した資料をテーブルの中央へ押し出した。

「この青い欄です。申し込みの時点では無料だと思っていて、設置条件によって費用が発生することを、あとから知った方たちです」

「それは詳細案内に書いてあるだろう」

「はい。でも、申し込みボタンより下にあるので、読まれないんです」

高橋はボールペンで表を指した。

「ボタンの上に持ってきたら、申し込みが減るかもしれないよ」

「設置直前にキャンセルされると、作業員の予定も、問い合わせ対応にかけた時間も無駄になります。申し込み件数だけが残って、実際に使ってみた人はいなくなってしまいます」

大野課長が腕組みを解いた。

「じゃあ、どこまで変えようというの?」

千尋は用意してきた紙をもう一枚出した。小型食洗機の画像の横に、設置スペース、追加費用、回収の申し込み方法を、同じ大きさで並べた画面だった。

「お客様が『支払う前に知りたかった』と思う内容を、申し込む前に見せたいんです。一週間だけ、比較してみませんか」

課長は紙のいちばん上に、日付と検討意見を書き込んだ。

「初稿を上げて。佐々木さんが文言を確認して、高橋係長は運用側を確認して」

「はい」

千尋が資料をまとめている間に、携帯電話が六度目の振動をした。画面に表示された名前は、白石沙織だった。

会議室を出て、ファイルをチームの共有フォルダーに上げた。タイトルの後ろに「初稿」と作成日を付けてから、ようやく電話に出た。

「沙織姉さん、今、仕事中なんだけど」

「その仕事の給料で、うちのお父さんのお金、いつ返すつもり?」

耳に当てていた電話が、急に冷たくなった。

「今日の夕方、ちょっと来て。あんたにとってもいい話だから」

* * *

沙織が差し出した紙には、叔父の署名があった。

債務免除確約書。債務者、白石千尋。金額、五百万円。

千尋は紙をテーブルに置かず、最後の一行まで読んだ。母の手術代と、回復するまでの生活費に借りたお金だった。二枚のカードで借りられるだけ借り、預金も先に使い切ったが、それでも足りなかった。叔父は、借用書を作っておいたほうがお互い気が楽だと言った。千尋はそのとき、三度も礼を言った。

「本当に叔父さんも知ってるの?」

「お父さんのサイン、見えない? 明日、私の代わりに行って、縁談を壊してくれればいいの」

「姉さんが、会いたくないって言えばいいじゃない」

「うちのお父さんの取引先が絡んでるの。私が嫌だって言ったら、お父さんの顔が立たないでしょ」

千尋はもう一度、条件を読んだ。相手が縁談を進めない意向を伝えた場合、債務を免除する。出席するだけでは駄目だった。

「相手が、また会いたいって言ったら?」

「そうならないようにすればいいでしょ。あんた、仕事では口が回るんだから」

沙織がつま先でショッピングバッグを押しやった。中には赤いワンピースと、金色のイヤリングが入っていた。千尋の好みとはかけ離れている。足首がつらくなりそうなほど、ヒールの高い靴も入っていた。

「社長なんでしょ。名前は?」

「忙しいからって、ずっと代理人ばかり寄越してた人。今回は本人が来るって。写真はもらってない」

「名前くらいは聞いてるでしょ」

「秘書が予約してるから。アルデンのラウンジ、二時、白石沙織。スタッフにそう言えばいいの」

沙織は答える代わりに、千尋の耳元へイヤリングを当てた。

「愛想よく笑わないで。お金はたくさん使うって言って。結婚したら、仕事も辞めたいって」

「姉さんは、どうしてそこまで嫌なの?」

「怖い人なんだって。結婚する家の会社まで、全部調べるらしいよ。面倒でしょ」

ソファの脇に積まれたショッピングバッグには、法人カードの利用明細が付いていた。沙織は千尋の視線に気づくと、足でバッグを奥へ押し込んだ。

「無理なら、やめていいよ。お父さんも今月は、どこかからお金を入れなきゃいけないって言ってたし」

千尋は携帯電話の画面を点けた。母が送ってきた写真には、ベランダで咲いた小さな花が写っていた。その下には、次の治療日に半休を取らなくていいというメッセージがあった。一人で行ける、ということだった。

銀行のアプリで残高を確かめる必要はなかった。昨日見たし、今日は給料日ではない。

「原本をちょうだい」

千尋は手を差し出した。

「お見合いを壊せば、五百万円全額。『そういう意味だと思った』じゃなくて、ここに書いてあるとおりにするから」

沙織は一瞬唇を尖らせたあと、紙を渡した。

「もちろん。家族を騙すわけないでしょ」

* * *

土曜日、ホテルの化粧室で、千尋は片方のイヤリングを付け直した。重くて、顔を動かすたびに揺れて音を立てる。鏡の中の女は、一週間前にコンビニで値引きされた弁当を手に取っていた自分とは、ずいぶん違っていた。

それでも、名前まで変わるわけではない。三十分だけ耐えればいい。

携帯電話には、沙織から新たな指示が届いていた。

食事のとき、スタッフにちょっと感じ悪くして。男って、そういうの嫌いだから。

千尋は返信しなかった。見合い相手に嫌われることと、働いている人を困らせることは、別の話だった。

案内係が予約名を確認した。

「白石沙織様、こちらへどうぞ」

千尋は他人の名前に頷いた。靴の縁がかかとを擦ると、案内係は彼女に歩幅を合わせてくれた。

窓際のテーブルに、黒いスーツの男が座っていた。携帯電話を伏せる手。カップを脇へ寄せる動作。誰かが来た瞬間、正確に上がる視線。

千尋は足を止めた。

黒沢イノベーション代表取締役社長、黒沢蓮。

一昨日、全社メールのいちばん上にあった名前。自分の報告書に『分母を再確認すること』という意見を残した人。去年の暮れ、実務報告の席で、見込み違いの問い合わせ対応人員削減案について、十分間も質問を続けた人。

男が立ち上がった。

「どうぞ、お掛けください」

気づかない可能性もある。社員は何百人もいる。あの報告のとき、千尋は眼鏡を掛けていたし、今日は耳がちぎれそうなほど派手だ。イヤリングに隠れて本人が見えなくなる奇跡だって、まったくないとは言い切れない。

千尋は座ろうとして、膝をテーブルの脚にぶつけた。

ティーカップがかちゃりと鳴った。

「大丈夫ですか」

「あ、はい。こういうところの椅子って、ちょっと座りにくいですね」

いつもより半音高い声が出た。

スタッフがメニューを差し出すと、千尋は端に書かれた値段から見た。沙織の言っていた『いちばん高いもの』は、二人分の週末の食料品代を合わせた額より高かった。

「私は……このデザートセットを」

「お茶はいかがいたしましょうか」

「カフェインの入っていないものをお願いします。ありがとうございます」

――なんでお礼を言ったの。

通りかかったスタッフのエプロンの紐が引っ掛からないように椅子を引いてから、千尋は目を閉じた。ぶち壊すのにも、才能が必要だった。

蓮は何も言わず、その様子を見ていた。

「あの、先にお伝えしておきたいことがあります」

千尋は背筋を伸ばした。

「結婚したら、仕事はしません。家事もできません。それから、身なりを整えたりお付き合いに使ったりするお金が、月に三百万円は必要です」

靴の中で、足の指が縮こまった。

蓮の眉が、わずかに上がった。

「三百万円」

「最低でも、です。それに、週末は遅くまで寝ているので、朝食などは期待しないでください」

朝食。選びに選んでひねり出した欠格理由が、朝食だった。

蓮がゆっくりカップを置いた。その音は、金曜日の会議室で聞いたボールペンの音のように、はっきり響いた。

「見積もりは承りました」

千尋は指に力を込めた。断ってくれさえすればいい。月曜日に顔を合わせないよう、階段を使えば済む話だ。

蓮の口元が動いた。

「白石主任、今日は、この企画で押し通すつもりですか」

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