تسجيل الدخول千尋は、まずイヤリングを外した。
片方をバッグに入れ、もう片方も外すと、テーブルの向こうから低い笑い声が聞こえた。顔を上げたときには、蓮はもう、いつもの表情に戻っていた。
「白石沙織さんは、一分で退勤したようですね」
「申し訳ありません。そちらは出勤もしていません」
答えてから口を閉じた。今は冗談を言える立場ではなかった。
「いつ、気づかれたんですか」
「予約の確認をしているときから、見えていました」
「だったら、座るように言わなくても」
ごく小さな声だったが、蓮には聞こえたらしい。
「立ったまま、月三百万円を要求するつもりでしたか」
千尋はティーカップを自分のほうへ寄せた。温かいカップを握ると、指先に感覚が戻ってきた。
「ご説明します。ただ、その前に、会社には私だけの責任だとお伝えください。チームの誰も、このことは知りません」
「会社に何か話すと、私が言いましたか」
「話さないとも、おっしゃっていません」
蓮はすぐには答えなかった。千尋はバッグを開け、確約書を取り出した。自分の窮状を社長に見せることになるとわかっていたら、沙織の家でもう一度考えたかもしれない。いや、同じ条件なら、結局は来ただろう。そのことが、いっそう恥ずかしかった。
「姉さんが、お見合いを壊せば借金をなくしてくれると言ったんです。私自身が借りたお金です」
「白石沙織さんとは、どういう関係ですか」
「いとこです。お金を貸してくださったのは、叔父です」
彼の視線が、確約書の末尾に留まった。
「出席したことへの報酬ではないんですね」
「はい。縁談が終わらないと駄目なんです」
「それなら、白石沙織さんが来なかったという事実を、隠す理由はありませんが」
「自分が悪いことをしたとは、思われたくないんだと思います」
そう言って、千尋は紙を引き取った。沙織の事情まで弁護する気はなかった。だからといって、社長の前で親戚の悪口を長々と話したくもなかった。
スタッフがデザートを運んできた。三枚の小さな皿に、季節の果物とケーキが並んでいる。千尋は『申し訳ありません』ではなく、『ありがとうございます』と言った。注文した料理を受け取ることまで、謝る必要はなかった。
「召し上がらないんですか」
「この状況で、食べてもいいんでしょうか」
「食べ物に罪はありませんから」
蓮がフォークを取った。千尋も、いちばん小さなケーキの端を切った。まだ緊張の解けない舌にも、味ははっきりわかった。こんなものを食べながら解雇の話をされたら、一生、いちごのケーキが嫌いになりそうだった。
「私を騙しに来たことに、間違いはありませんか」
その問いに、千尋はフォークを置いた。
「はい。社長だとは知りませんでしたが、どなたが来ても、名前を偽るつもりで来ました。そのことは、言い訳しません」
「仕事でも、必要なら同じ選択をしますか」
千尋は背筋を正した。
「しません」
「なぜですか」
「今日、私が間違ったことをしたからといって、報告書の数字まで嘘になるわけではありません。確認していただいて構いません」
語尾に力がこもった。蓮はそこで初めて、手に持っていたフォークを皿に置いた。
「去年の暮れ、問い合わせ対応の人員を減らすと、節約できる人件費より、解約した顧客を呼び戻す費用のほうが大きくなると言いましたね」
千尋は瞬きをした。
「あのときの資料を、覚えていらっしゃるんですか」
「私の質問に答えるために、会議が十分延びましたから」
「質問をしたのは、社長ですけど」
蓮は小さく頷いた。
「そうですね。私の責任でした」
その言葉で、不思議と少し気が楽になった。誰の責任かを問う男が、自分の責任まで人に押し付けはしない。そのことに。
千尋はフォークを取らなかった。
「会社の仕事と、この件は、分けて考えていただきたいです」
「そのつもりです。ただ、今日のことを、なかったことにはできません」
「わかっています。お詫びをして、姉さんには失敗したと伝えます」
彼女はバッグを閉じた。五百万円が消えることはなかった。ホテルまでの交通費と、自分の面目だけが失われた。それでも、解雇の話が出なかっただけで、今日は十分だった。
「白石さん」
立ち上がろうとしていた千尋は、動きを止めた。主任という肩書がなくなると、かえって耳慣れなかった。
「私が結婚しなければならない事情も、聞いてみませんか」
蓮は水を一口飲んだ。
「祖父が、今年予定していた株式の贈与を延期しています。私が結婚していないという理由で」
「結婚したら、仕事ができるようになるわけでもないのに」
「同じことを言いました。説得には失敗しましたが」
彼が失敗したという話を、あと二度ほど聞いてみたい。そんなことを考えた自分に、千尋はさらに戸惑った。
「株式のために結婚したら、お相手は嫌がるんじゃないですか」
「だから、目的を隠すつもりはありません」
蓮はカップの横で、両手を合わせた。
「これから一年で、ハルノワの再始動を仕上げ、事業の成果を通して、後継者としての適性も示さなければなりません。家から縁談を持ち込まれ続けると、仕事より、そちらの予定が増えてしまうでしょう」
「その期間だけ、静かに過ごしたいということですか」
「私と同じ方向を向く配偶者がいれば、と思っています」
千尋は思わず、隣の空いた席を見た。誰かもう一人来て、今の話は別の人に向けたものだと言ってくれればいいのに。
「恋愛は?」
「今、約束できるのは、偽りのない条件です」
「ものすごく、ときめかないですね」
「嘘よりはいいと思います」
間違ってはいなかった。ただ、忙しい男の結婚計画を聞くことと、その計画に自分の名前を載せることは、まったく別の問題だった。
「私に向けて、話しているんですよね?」
「はい」
「社長、私は今、お見合いで人を騙そうとして、ばれたばかりなんですけど」
「演技が下手でしたね」
「それは判断の根拠として、ちょっと弱くありませんか」
今度は蓮が、はっきり笑った。目元が動くと、会議室で見た顔とは違って見えた。千尋は自分が相手を笑わせたことより、その表情が不思議と馴染んで見えることのほうが気になった。
「そのとおりです。ですから、今日決めてほしいという意味ではありません」
彼は千尋の紙が入ったバッグを、一度見た。
「数字と条件を確認し、間違っているところは、私の前でも直そうと言える人を探しています。それから、人の顔色を気にしていても、スタッフに八つ当たりしない人がいいですね」
「それだけで、結婚を決めたりはしませんよね」
「白石さんにも、私を確かめる時間が必要でしょう」
千尋はバッグのファスナーをもう一度開け、また閉じた。この場を去るのが常識だった。けれど、縁談を終わらせて帰れば、残るのは元の借金と元の暮らしだ。目の前の提案はあり得ない話だったが、自分にも確認すべき条件がある、という言葉だけは、心に引っ掛かった。
「私が断ったら?」
「明日は日曜日ですし、月曜日には出勤してください」
「報告書を差し戻すとき、今日のことを思い出さないでくださいね」
「差し戻す理由のある報告書は、差し戻します」
「それは、わかっています」
ようやく千尋はフォークを取り、残っていたいちごを食べた。おいしかった。よりによって、こんな日に食べるのがもったいないくらいに。
蓮は財布から、私用の連絡先が書かれた名刺を取り出し、テーブルの中央に置いた。押し付けることなく、彼女が手に取るのを待った。
千尋は名刺に手を置いた。
「条件を送っていただければ、読むだけは読んでみます。読んだからといって、お受けするわけではありません」
「そのように理解しておきます」
彼の携帯電話が、短く震えた。画面には『会長』の文字が見えた。蓮は電話に出ず、裏返した。千尋はふと、自分も沙織に返事をしなければならないことを思い出した。
「それじゃ、姉さんには何と言えばいいんでしょう」
「事実を、そのまま」
「お見合いが壊れたのか、壊れていないのかも、わからないんですが」
蓮は、名刺に触れている彼女の指先から、視線を上げた。
「代理は、ここまでです」
千尋は、その先の言葉をすでに察しながらも、息を止めた。
「ここからは、白石千尋さんに、結婚を提案しています」
田園調布の邸宅での夏の食事は、日が傾いて、ようやく終わった。親戚が数人、玄関で挨拶する間、千尋は食卓に残ったグラスを見た。氷が溶け、コースターの外へ水が流れていた。無意識にナプキンを折って拭くと、泰三が呼んだ。「それは、置いておきなさい。二人は、もう一杯、お茶でも飲んでいくといい」千尋は折ったナプキンを置いた。蓮が隣で待っていた。一人の親戚が笑って言った。「次の集まりでは、千尋が料理を一つ、決めてみたら。もう、家の奥様としての役割も、覚えないとね」千尋は笑みを失わず、答えた。「日付を先に教えていただければ、できるか確認して、お返事します。週末に、現場の予定が入ることもあるので」「会社の仕事は、まだ、そんなに忙しいの?」「担当の仕事が、まだ、たくさん残っています」加える説明が浮かんだが、千尋はそこで止めた。蓮も、代わりに説明しなかった。玄関が閉まってから、彼が手の甲で彼女の腕に軽く触れた。「ちゃんと、言えたね」千尋は小さく笑った。ときには、長く理解させようとしなくても、よかった。泰三は応接室ではなく、小さなテラスに座っていた。脇に鉢植えがいくつか並び、低い茎にトマトが実っていた。あと数日、熟す必要のありそうな緑の実の中で、赤い一つが目を引いた。「ご自分で、育てているんですか」千尋が尋ねると、泰三が顎を上げた。「水は、私がやる」隣でお茶を置いたスタッフが、静かに笑って下がった。蓮は椅子に座りながら言った。「水をやりすぎて、一度、植え替えたそうですね」「療養中の老人について、そんなことまで報告するらしいな」「ご自分で電話して、聞いたでしょう。なぜ葉が黄色くなるのか、と」千尋はカップで口を隠した。泰三が彼女へ皿を寄せた。大きさの違うミニトマトが、入っていた。「笑わずに、食べてみなさい」千尋は一つ取って食べた。皮が弾け、少し酸味が広がった。「おいしいです」泰三の顔が緩みかけたところで、千尋が加えた。
「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ
七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉
シャワーから出た千尋は、バッグから充電器を出した。家で借りた、蓮のものだった。ベッドの端に座り、携帯電話をつないで、また外した。廊下は静かで、窓の外から、車の通る音が低く上がってきた。彼女は通話ボタンを押した。「まだ、起きていますか」「電話を待つって、言ったよね」受話口の向こうで、紙が擦れた。千尋は時計を見た。ひどく遅いわけではないが、明日に備えて休む時間だった。「まだ、仕事ですか」「明日の資料を、まとめてた。今、終わった」千尋はつま先で、スリッパを押した。言いたいことがあるのに、最初の言葉が出なかった。蓮は先に沈黙を埋めず、待ってくれた。「充電器を、返しに行ってもいいですか」少しの間、何も聞こえなかった。「今、返さなくてもいいよ」千尋は唇を噛んだ。「わかっています」「でも、千尋が来たいなら、来て」ようやく、肩が緩んだ。蓮は部屋番号を伝え、千尋はもう一度確認した。通話を終えると、パジャマではなく、柔らかいワンピースに着替えた。髪を乾かしてバッグを持ち、浴室に置いた歯ブラシを、長く見た。千尋は歯ブラシを、小さなポーチに入れた。恥ずかしくて、笑いがこぼれた。蓮はドアを開けても、すぐには中へ引かなかった。千尋が入れるよう、横へ寄った。明るい部屋に、ソファと低いテーブル、閉じたノートパソコンがあった。大きな窓の向こうの海には、明かりが少しだけ浮かんでいた。「まずは、返却から」千尋が充電器を差し出すと、彼は受け取った。「きっちりしてるね」「人の物を、長く借りるのは嫌なので」「明日からは、一つずつ増やそうか」言葉の端にある意味を感じ、千尋はソファの横へバッグを置いた。家で互いの部屋を行き来し、毎回探した充電器だった。ごく普通の物なのに、今は、別の暮らしを約束するように聞こえた。彼は水を注ぎ、人差し指に巻いたティッシュを外した。小さな傷が見えた。「手は、どうしたんですか」「資料の封筒を開けたときに」千尋はバッグを探った。昼、センター担当者からもらった絆創膏が、二枚残っていた。一枚は魚、もう一枚は、小さな波の絵だった。「会社の社長も、紙で切るんですね」「特別に免除は、されなかったよ」千尋は笑い、魚の絆創膏を選んだ。蓮はテーブルへ手を出した。傷を拭いて貼る間、彼の視線が指先ではなく、自分の顔に留まるのを感じた。「動かないで
店はホテルから、歩いて十分のところにあった。ガラスのドアを押すと、焼き魚の匂いと涼しい風が、一度に流れてきた。蓮は窓際で立ち、椅子を引こうとして、すでに座った千尋を見て止まった。「今日も、遅れましたか」「三分早いよ」「では、とてもよくできたということで」彼は笑い、向かいに座った。ジャケットは隣の椅子に畳まれ、シャツの袖はまくられていた。昼の社長より、数歳分、気楽に見えた。千尋はメニューを受け取り、最初のページから、ゆっくり読んだ。「食べたいものを、選んで」「そう言われると、本当に上手に選びますよ」「期待してる」千尋は旬の魚のグリルと、魚介のパスタを一つずつ選び、最後に、レモンのデザートを加えた。値段のところで指が止まらない夕食は、まだ少ない。いい気分を、わざわざ隠したくはなかった。「写真を撮ってもいいですか。母に、送りたくて」「俺も、入るように?」彼が少し身を乗り出した。千尋は笑って、携帯電話の角度を変えた。「手だけです。母は、娘婿にご飯を食べさせていないんじゃないかと、心配するので」「そんなに、気の毒に見える?」「母には、世の中の人が皆、食事を抜く人に見えるんです」最初の皿が来ると、蓮はおとなしく、テーブルに手を置いた。整いすぎた姿勢が、かえっておかしかった。千尋は写真を撮り、母に送った。すぐ『娘婿にも、たくさん食べるように言ってね』と返事が来た。最後には、千尋へ、こまめに水を飲むよう、付け加えてあった。「誰の心配が、先だった?」「蓮さんです」「順位は、悪くないね」千尋は彼のグラスへ水を注いだ。同じ家で毎日顔を合わせても、旅先の店で向かい合うと、新しく出会う人のようだった。焼き魚を切る手がゆったりし、話すたび、自分だけを見ていた。「今日、現場では、どうして何も言わなかったんですか」「何を?」千尋は絆創膏を貼った手の甲を見せた。「これです」「仕事中に、俺のせいで説明が止まったら、嫌だと思って」「よく、我慢しましたね」「今は、見てもいい?」千尋が手を出した。蓮はテーブルの下へ隠さず、軽くその手を支えた。絆創膏の端を指で押さえ、浮いたところを貼り付けた。「ひどく、しみなかった?」「擦っただけです。店で手を検査する、新婚夫婦になりましたね」「新婚夫婦なのは、確かだよね」その言葉が、やけにはっきり聞こえた。法的
「神戸の現場点検は、白石主任に行ってもらいます」大野は会議室の画面に選定表を映した。応募した三人の名前の横に、担当履歴と現場質問票の評価が並んでいた。千尋はペンを握る手に力を込めた。「顧客の問い合わせを設置の動線に当てはめた点数が、いちばん高かった。高橋係長が全体の取りまとめ、白石主任は顧客との接点の確認。異論は?」颯太が手を挙げた。「異論ではなく、お願いです。現場のおやつの写真を、お願いします」「田中君は、おやつの写真の代わりに、回収が遅れた案件を分類して送ってね」小さな笑いの中で、千尋は選定表をもう一度見た。自分の名前の下にある根拠が、うれしかった。誰かの妻だから、できた空席ではなかった。「質問票のうち、設置作業員の方への質問は、先に送ります。現場で初めて読んだら、負担になりそうなので」「いいですね。高橋係長は、協力会社の日程を確認して」会議が終わると、結衣が千尋の肘をつついた。「新婚なのに出張なんて、旦那さん、寂しがりそう」「仕事だからね」「うん。堂々としてる。昨日、携帯を見て笑っていたのは、誰だっけ」千尋はノートパソコンを抱え、先に立った。昨日、蓮から来たのは、ただ『家に桃があるよ』というメッセージだった。そのあとの『千尋の分は残してある』で笑ったことまで、説明する必要はない。机へ戻ると、現場の日程共有メールが届いた。代表取締役社長と協力会社の懇談会が、二日目の午前に入っていた。千尋の指が、一瞬止まった。神戸という地名が、急に、仕事だけのものではなくなった。* * *キャリーケースを開けてシャツを畳んでいると、ドアが二度鳴った。「どうぞ」蓮はドアを開け、立ち止まった。ベッドの端に、薄い夏用のパジャマと書類バッグ、充電器が、きれいに並んでいた。千尋はつい、書類バッグをいちばん上へ移した。「俺も、神戸に行く」「メールを見ました。社長の予定は、ずいぶんあとに出ましたね」「協力会社が会議の日を変えた。千尋の出張名簿が出る前に、決まっていたんだ」「どうして、そんなに詳しく説明するんですか」蓮はドア枠から手を離した。「疑われるかと思って」千尋はシャツで顔を隠して笑った。初めてキスをしてからの数日、彼は意外なところで慎重になった。エレベーターの前で目が合っても、自分から近づかず、家で名前を呼ぶときは、千尋が答えるまで待っ







