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2話. 代理は、ここまでです

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-08 22:15:31

千尋は、まずイヤリングを外した。

片方をバッグに入れ、もう片方も外すと、テーブルの向こうから低い笑い声が聞こえた。顔を上げたときには、蓮はもう、いつもの表情に戻っていた。

「白石沙織さんは、一分で退勤したようですね」

「申し訳ありません。そちらは出勤もしていません」

答えてから口を閉じた。今は冗談を言える立場ではなかった。

「いつ、気づかれたんですか」

「予約の確認をしているときから、見えていました」

「だったら、座るように言わなくても」

ごく小さな声だったが、蓮には聞こえたらしい。

「立ったまま、月三百万円を要求するつもりでしたか」

千尋はティーカップを自分のほうへ寄せた。温かいカップを握ると、指先に感覚が戻ってきた。

「ご説明します。ただ、その前に、会社には私だけの責任だとお伝えください。チームの誰も、このことは知りません」

「会社に何か話すと、私が言いましたか」

「話さないとも、おっしゃっていません」

蓮はすぐには答えなかった。千尋はバッグを開け、確約書を取り出した。自分の窮状を社長に見せることになるとわかっていたら、沙織の家でもう一度考えたかもしれない。いや、同じ条件なら、結局は来ただろう。そのことが、いっそう恥ずかしかった。

「姉さんが、お見合いを壊せば借金をなくしてくれると言ったんです。私自身が借りたお金です」

「白石沙織さんとは、どういう関係ですか」

「いとこです。お金を貸してくださったのは、叔父です」

彼の視線が、確約書の末尾に留まった。

「出席したことへの報酬ではないんですね」

「はい。縁談が終わらないと駄目なんです」

「それなら、白石沙織さんが来なかったという事実を、隠す理由はありませんが」

「自分が悪いことをしたとは、思われたくないんだと思います」

そう言って、千尋は紙を引き取った。沙織の事情まで弁護する気はなかった。だからといって、社長の前で親戚の悪口を長々と話したくもなかった。

スタッフがデザートを運んできた。三枚の小さな皿に、季節の果物とケーキが並んでいる。千尋は『申し訳ありません』ではなく、『ありがとうございます』と言った。注文した料理を受け取ることまで、謝る必要はなかった。

「召し上がらないんですか」

「この状況で、食べてもいいんでしょうか」

「食べ物に罪はありませんから」

蓮がフォークを取った。千尋も、いちばん小さなケーキの端を切った。まだ緊張の解けない舌にも、味ははっきりわかった。こんなものを食べながら解雇の話をされたら、一生、いちごのケーキが嫌いになりそうだった。

「私を騙しに来たことに、間違いはありませんか」

その問いに、千尋はフォークを置いた。

「はい。社長だとは知りませんでしたが、どなたが来ても、名前を偽るつもりで来ました。そのことは、言い訳しません」

「仕事でも、必要なら同じ選択をしますか」

千尋は背筋を正した。

「しません」

「なぜですか」

「今日、私が間違ったことをしたからといって、報告書の数字まで嘘になるわけではありません。確認していただいて構いません」

語尾に力がこもった。蓮はそこで初めて、手に持っていたフォークを皿に置いた。

「去年の暮れ、問い合わせ対応の人員を減らすと、節約できる人件費より、解約した顧客を呼び戻す費用のほうが大きくなると言いましたね」

千尋は瞬きをした。

「あのときの資料を、覚えていらっしゃるんですか」

「私の質問に答えるために、会議が十分延びましたから」

「質問をしたのは、社長ですけど」

蓮は小さく頷いた。

「そうですね。私の責任でした」

その言葉で、不思議と少し気が楽になった。誰の責任かを問う男が、自分の責任まで人に押し付けはしない。そのことに。

千尋はフォークを取らなかった。

「会社の仕事と、この件は、分けて考えていただきたいです」

「そのつもりです。ただ、今日のことを、なかったことにはできません」

「わかっています。お詫びをして、姉さんには失敗したと伝えます」

彼女はバッグを閉じた。五百万円が消えることはなかった。ホテルまでの交通費と、自分の面目だけが失われた。それでも、解雇の話が出なかっただけで、今日は十分だった。

「白石さん」

立ち上がろうとしていた千尋は、動きを止めた。主任という肩書がなくなると、かえって耳慣れなかった。

「私が結婚しなければならない事情も、聞いてみませんか」

蓮は水を一口飲んだ。

「祖父が、今年予定していた株式の贈与を延期しています。私が結婚していないという理由で」

「結婚したら、仕事ができるようになるわけでもないのに」

「同じことを言いました。説得には失敗しましたが」

彼が失敗したという話を、あと二度ほど聞いてみたい。そんなことを考えた自分に、千尋はさらに戸惑った。

「株式のために結婚したら、お相手は嫌がるんじゃないですか」

「だから、目的を隠すつもりはありません」

蓮はカップの横で、両手を合わせた。

「これから一年で、ハルノワの再始動を仕上げ、事業の成果を通して、後継者としての適性も示さなければなりません。家から縁談を持ち込まれ続けると、仕事より、そちらの予定が増えてしまうでしょう」

「その期間だけ、静かに過ごしたいということですか」

「私と同じ方向を向く配偶者がいれば、と思っています」

千尋は思わず、隣の空いた席を見た。誰かもう一人来て、今の話は別の人に向けたものだと言ってくれればいいのに。

「恋愛は?」

「今、約束できるのは、偽りのない条件です」

「ものすごく、ときめかないですね」

「嘘よりはいいと思います」

間違ってはいなかった。ただ、忙しい男の結婚計画を聞くことと、その計画に自分の名前を載せることは、まったく別の問題だった。

「私に向けて、話しているんですよね?」

「はい」

「社長、私は今、お見合いで人を騙そうとして、ばれたばかりなんですけど」

「演技が下手でしたね」

「それは判断の根拠として、ちょっと弱くありませんか」

今度は蓮が、はっきり笑った。目元が動くと、会議室で見た顔とは違って見えた。千尋は自分が相手を笑わせたことより、その表情が不思議と馴染んで見えることのほうが気になった。

「そのとおりです。ですから、今日決めてほしいという意味ではありません」

彼は千尋の紙が入ったバッグを、一度見た。

「数字と条件を確認し、間違っているところは、私の前でも直そうと言える人を探しています。それから、人の顔色を気にしていても、スタッフに八つ当たりしない人がいいですね」

「それだけで、結婚を決めたりはしませんよね」

「白石さんにも、私を確かめる時間が必要でしょう」

千尋はバッグのファスナーをもう一度開け、また閉じた。この場を去るのが常識だった。けれど、縁談を終わらせて帰れば、残るのは元の借金と元の暮らしだ。目の前の提案はあり得ない話だったが、自分にも確認すべき条件がある、という言葉だけは、心に引っ掛かった。

「私が断ったら?」

「明日は日曜日ですし、月曜日には出勤してください」

「報告書を差し戻すとき、今日のことを思い出さないでくださいね」

「差し戻す理由のある報告書は、差し戻します」

「それは、わかっています」

ようやく千尋はフォークを取り、残っていたいちごを食べた。おいしかった。よりによって、こんな日に食べるのがもったいないくらいに。

蓮は財布から、私用の連絡先が書かれた名刺を取り出し、テーブルの中央に置いた。押し付けることなく、彼女が手に取るのを待った。

千尋は名刺に手を置いた。

「条件を送っていただければ、読むだけは読んでみます。読んだからといって、お受けするわけではありません」

「そのように理解しておきます」

彼の携帯電話が、短く震えた。画面には『会長』の文字が見えた。蓮は電話に出ず、裏返した。千尋はふと、自分も沙織に返事をしなければならないことを思い出した。

「それじゃ、姉さんには何と言えばいいんでしょう」

「事実を、そのまま」

「お見合いが壊れたのか、壊れていないのかも、わからないんですが」

蓮は、名刺に触れている彼女の指先から、視線を上げた。

「代理は、ここまでです」

千尋は、その先の言葉をすでに察しながらも、息を止めた。

「ここからは、白石千尋さんに、結婚を提案しています」

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