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3話. 昇進の項目は、削除してください

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-08 22:15:37

日曜日の朝、千尋はカップ麺にお湯を注ぎ、結婚の条件を読んでいるうちに、食べるタイミングを逃した。

麺は冷めたのに、メールを読む目は熱を帯びた。一ページ目に書かれた数字のせいだった。

報酬総額、二千四百万円。締結時に千二百万円、その後、毎月百万円を十二回。住居費と家族行事に必要な衣装代は別途支給。

千尋は電卓を立ち上げ、すぐに閉じた。足し算をするまでもなかった。叔父にお金を返しても、治療費を用意できる。ワンルームの敷金や家賃に充てるお金を残すために、積立預金を解約するか悩む必要もなくなる。

次のページを読むと、口の中が乾いた。

キャリア形成の機会について、優先的に検討する。

千尋は、その一文の下に赤い線を引いた。

* * *

待ち合わせ場所は、ホテル内の小さな会議室だった。食事も花もなく、水と筆記具だけが置かれていた。千尋には、むしろそのほうがよかった。蓮は彼女の持ってきた印刷物を見て、椅子を引いてくれた。

「まだ召し上がっていませんか」

「何をですか」

「昼食です。あまりいい顔をしていないので」

「条件を読んで、お腹がいっぱいになりました」

「そういう顔には見えませんが」

千尋は紙をテーブルの上に押し出した。

「まず、これを削除してください。昇進の優先検討と、海外事業への参加支援」

蓮の視線が、赤い線をたどった。

「仕事を続けたいだろうと思いました」

「続けたいから、削除してほしいんです」

彼はペンを取り、そのまま置いた。

千尋は次の文章を指で示した。

「キャンペーンで結果を出せたら、その結果で機会をもらいたいんです。結果が出せなかったら、選ばれなくていい。ここに書いてしまったら、どれだけ働いても、全部、結婚したおかげになってしまいます」

「二人の間だけに留める契約です」

「私は、知っています」

その言葉のあと、会議室が静かになった。神経質になりすぎたかと思い、千尋は水を飲んだ。それでも、赤い線を消すつもりはなかった。

蓮は自分の書類にも、同じ線を引いた。

「考えが足りませんでした。削除します」

予想していた説得はなかった。千尋は用意してきた二つ目の説明を、胸の内にしまった。彼が修正した文章の横に日付を書く様子を、しばらく見つめた。

「報酬を減らしてほしいという意味ではありません」

「そうは受け取っていません」

「お金は必要です。自分でも、よくわかっています」

「必要な対価を受け取ることまで、弁明する必要はありません」

千尋は紙の下側を伸ばし、次の項目へ進んだ。さっきまで無意識に強張っていた肩から、力が抜けた。

「期間が一年でも、その日、自動的に他人になるわけではありませんよね?」

「法的な婚姻と、役割に関する取り決めは別です。関係を解消するかどうかは、そのとき互いに確認する必要があります」

「それなら、『満了時に離婚する』と読める文章も、変えてください。いきなり路上に放り出されるのは嫌なので」

「住まいを整理するための期間も、決めておきましょう」

蓮がペンを動かした。千尋はその手が止まるのを待って、次のページを取り出した。

「それから、家族行事です。すべての行事に出席はできません。仕事の予定もありますし、母の通院もあります」

「事前に予定を共有します」

「当日になって言うのは駄目です。会社の飲み会だって、退勤間際に言われたら嫌なのに、法事なら、なおさらです」

彼の口元が動いた。

「法事の予定はありません」

「では、一つ目の合意ができましたね」

今度は千尋も、少し笑った。条件が一つずつ具体的な暮らしに置き換わっていくと、不可能に思えた話も、少なくとも質問できる範囲まで下りてきた。

けれど、最後のページにたどり着くと、また手が止まった。

『夫婦として自然な態度を保つ』

自然、という言葉ほど、不親切なものはなかった。

「これは、どこまでですか」

蓮が文章を読んだ。

「家族の前で、あまりぎこちなくならないように、という意味です」

「社長にとって自然なことと、私にとって自然なことは、違いますよね」

「希望する基準を、言ってみてください」

千尋はペンのキャップを外した。会社で修正意見を添えるように書こうとしたが、最初の言葉から顔が熱くなった。

「家族行事で手をつなぐのは……事前に言っていただければ、できます」

蓮の視線が、紙から上がった。

「手をつなぐのは」

「復唱しないでください」

「わかりました」

千尋は紙に、『事前に合意した範囲』と書いた。

「それ以外は義務ではありません。同じ家に住むからといって、同じ部屋を使うわけではありませんし。スキンシップも、その……その先も」

「嫌なことを要求するつもりはありません」

あまりにあっさり答えが返ってきた。千尋は、かえってペンを止めた。

「あとになって、それだけのお金をもらって、こんなこともできないのか、なんて言わないでください」

蓮はすぐには答えなかった。しばらく彼女を見てから、書類のいちばん下に一行を書き足した。

「身体的接触を拒むことは、契約違反に当たらない。こう書きましょう」

彼は紙を彼女のほうへ向けた。

千尋はその字を読んだ。線がまっすぐで、文字と文字の間は少し広い。当たり前のことを、わざわざ書かない人は多かった。けれどこの男は、彼女が不安を覚えた箇所に、実際の文章を残した。

「終了の話を持ち出しても、会社で不利益を受けないという内容も、お願いします」

「入れましょう」

「それは社長の言葉だけでは、安心できません。誰かが確認できるようにしてほしいです」

蓮は頷いた。

「婚姻関係は、秘書室長とコンプライアンス担当者に申告するつもりです。業務評価に私が関与しないよう、必要な手続きも定めましょう」

「同僚には?」

「まず、白石さんが希望する範囲を聞きたいです」

千尋はしばらく、窓の外を見た。会社のすぐ隣のホテルなのに、外を行き交う人たちは、まったく違う週末を過ごしているように見えた。

「結婚したことは、話します。指輪まで隠して、嘘を増やしたくはないので。夫が誰なのかは……まだ、話したくありません」

「そうしましょう」

「社長のご家族には、私の名前を正しく伝えてください。白石沙織として生きるつもりはありません」

「初めから、そのつもりでした」

蓮は二枚の書類を並べた。赤い線と黒い文字が入り交じっている。最初の整った提案書よりも、今の紙のほうが、信用できた。

「独立した立場で契約を確認してもらう相手は、決めましたか」

「探します。社長側の弁護士ではない人に」

「いいですね。確認が済むまでは、署名しないでください」

千尋はバッグに書類をしまった。外へ出れば、またワンルームの部屋と、病院の予約と、月曜日に提出する初稿が待っている。急に持っているものが増えたわけではなかった。けれど、質問しても話そのものがひっくり返らないという経験をしたからか、足元が少し確かになった気がした。

蓮が、ドアの前で立ち止まった。

「そろそろ、昼食にしませんか」

千尋は時計を見た。いつの間にか、三時近くになっていた。お腹が小さく鳴り、二人は同時に、聞こえなかったふりをした。

「それは、契約条件ですか」

「食事のお誘いです」

「それなら、お受けします。高いお店でなくても大丈夫です」

「何を召し上がりますか」

千尋は初めて、自分の食べたいものを言った。

「温かいうどんがいいです。朝食を、ちょっと失敗したので」

エレベーターの前で、蓮が携帯電話を使って、近くの店を探した。画面を彼女へ向ける動作が、意外にぎこちなかった。誰かの昼食を秘書に頼まず、自分で選ぶことは、あまりない人らしい。

千尋は画面を覗き込みながら、彼の袖に触れそうになった手を引いた。

「そこは閉まっています。日曜日は、こちらの路地へ行かないと」

「案内をお願いします」

社長を先に歩かせる代わりに、千尋が先に歩いた。エレベーターの扉が閉まる直前、蓮が隣に立った。

「白石さん」

「はい?」

「今、修正した条件だと、こういう場で手をつなぐのは、駄目なんですね?」

千尋は彼を見上げた。からかっているのか確かめようとしたが、その表情は真剣だった。

「家族行事ではありませんから」

「確認できました」

彼が一歩、脇へ寄った。広がった隙間の分だけ、不思議と、彼の存在がいっそうはっきりした。

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