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窓口の職員に言われ、千尋はペンを握り直した。
自分の名前。その簡単なことのために、この数日が、こんなにも複雑になった。白石沙織としてホテルに入り、白石千尋として、婚姻届を書くことになったのだから。
婚姻後の夫婦の姓は、黒沢を選んでいた。会社では、これまでどおり、白石千尋の名前を使う。
バッグの中には、今朝、最終確認を済ませ、それぞれ署名した契約書の原本が入っていた。三浦が修正した文章も、漏れなく反映されていた。
隣に立つ蓮は、書類が風でめくれないよう、端を押さえていた。黒いペンで書かれた彼の名前と、自分の名前が、同じ紙の上に並んだ。千尋は空欄がないか、もう一度確認した。
「本当に、いいんですね?」
蓮が低い声で尋ねた。
千尋はペンを置いた。
「はい。社長は?」
「私も、決めています」
「では、何度も聞かれると、かえって不安になります」
彼は笑って、書類を差し出した。受付が終わるまで、思ったほど時間はかからなかった。カフェの飲み物が出てくるより、少し長いくらいだった。
和子には、前の晩、直接話した。お互いに必要なものがある結婚で、良い条件の分、自分にも果たす役割がある、と。母は長い間、黙っていた。最後に尋ねたのは、家の広さでも、金額でもなかった。
あなたが嫌だと言っても、聞いてくれる人なの?
千尋は、今までのところはそうだと答えた。まだ知らないところまで、良く見せようとはしなかった。和子は新郎に会うと言って、娘の手を握った。千尋は、蓮と相談して日を決めると約束した。
区役所を出ると、三月末の風が吹いた。千尋はコートの前を合わせた。法的な家族ができたけれど、日差しも、歩道の舗装も、変わらなかった。
「写真は撮りませんか」
蓮が尋ねた。
「証拠写真ですか」
「記念写真です」
千尋は少しためらってから、携帯電話を構えた。腕を伸ばすと、二人の顔が、少しぎこちなく画面に収まった。蓮は千尋のほうへ上体を傾けたが、触れはしなかった。
「社長、笑ってもいいんですよ。業績発表ではありませんから」
「白石主任も、同じですよ」
互いの表情を見て笑った瞬間、写真が撮れた。千尋は確認せず、画面を消した。見返すなら、一人のときがよかった。
* * *
片桐秘書室長は、二人を見ても、眉一つ動かさなかった。
「婚姻届の受理を確認しました。午後の予定は調整済みです」
「私の半休は、チームに申請してあります」
千尋が慌てて言うと、片桐は頷いた。
「白石主任の予定ではなく、社長の予定についてです」
恥ずかしくなって水のグラスを持ち上げると、空だった。片桐が黙って水を注いでくれた。この人の前では、失敗が、いっそう鮮明に残りそうだった。
コンプライアンス課長の水野は、二人の関係と、業務上の措置を順に確認した。配偶者としての役割に対価があることは必要な範囲で確認したが、個人の契約書の原本を、会社の人事ファイルに入れることはしなかった。
「会社に申告いただくのは、婚姻関係と利益相反の管理についてです。個人の報酬は、会社の費用と混同しないようにしてください」
「私個人の資金で支払います」
蓮の答えに、水野はチェックを付けた。
「白石主任の評価は、これまでの業務記録とチームでの評価を基に、別の責任者が確認します。社長が特別な優遇を指示されても、そのまま実行はしません」
「特別な不利益についても、お願いします」
千尋が付け加えた。
水野が初めて、かすかに笑った。
「もちろんです。私的な要求が業務命令のように感じられた場合は、私にお話しください」
千尋は受け取った名刺を、手帳の最初のページに挟んだ。蓮が隣にいても話せるということが、思った以上に、大きな違いを生んだ。
面談を終えた蓮が、自分の携帯電話を確認した。しばらくすると、千尋の携帯電話に、取り決めどおりの入金通知が表示された。
12,000,000円。
千尋は画面を消せなかった。数字の間のコンマを、三度確かめた。蓮は、彼女が携帯電話を置くまで待っていた。
「銀行から電話が来たら、どうしましょう」
「入金の理由を説明すればいいんです」
「結婚したから、と?」
「契約に基づく報酬だと」
千尋は唇をぎゅっと結んだ。笑ってはいけない気がするのに、笑みがこぼれた。母の次の治療費を用意するとき、三つの口座を行き来しなくてもいい。その事実が、ゆっくり現実になっていった。
片桐が、予定表を一枚差し出した。
「会長には、本日、社長から直接お話しになる予定です」
蓮が千尋を見た。
「別の名前でお見合いに来たことまで、すべて話します」
「私の名前は、正確にお願いします」
「白石千尋さん」
名前を呼ぶ声は、まっすぐだった。千尋は頷いた。
* * *
午後四時、マーケティング第一課の休憩スペースで、最初に声を上げたのは、佐々木結衣だった。
「えっ? 千尋が?」
颯太は持っていた紙コップを、落としかけた。高橋係長は、コーヒーを口に含んだまま、千尋を見た。
千尋は用意した言葉を、最後まで言った。
「今日、婚姻届を出しました。式は、あとからゆっくり考えようと思っています」
「ちょっと待って。付き合ってる人がいるって、言ったこともないじゃない」
「話すタイミングを、ちょっと逃しちゃって」
夫が誰なのかは話さず、嘘の交際歴も作らないことにしていた。だから短く答えると、結衣の目が、さらに大きくなった。
大野がコーヒーを置いた。
「おめでとう。急に決めたなら、準備することも多かったでしょう」
「ありがとうございます」
「業務の予定で調整が必要なら、早めに言ってね。新婚旅行は?」
「今のところ、予定はありません」
「わかった。明日の設置案内の初稿確認は、予定どおりでいい?」
「はい。修正版を上げてあります」
課長が笑った。
「じゃあ、仕事の話はここまで。あとは、佐々木さんの質問に答えてあげて」
結衣が待っていましたとばかりに、椅子を引いた。
「何をしている人? かっこいい?」
「仕事をしていて……きちんとした顔立ちの人」
「職業が、『仕事をしている人』なの?」
颯太が、こらえていた笑いを噴き出した。千尋も笑った。いつもの自分の居場所が、まだそのままあることが、うれしかった。
「夫は、個人的なことを公にするのに慎重な人なの。私の気持ちが整ったら、もう少し話すね」
「わかった。写真を見せてって、無理には言わない。その代わり、ご飯はおごってね」
「それは、おごる」
高橋はおめでとうと言って、軽く手を叩いた。颯太はコンビニで買っておいた小さなチョコレートを、机の上に置いた。リボンもない祝いの品だったが、千尋はバッグの外ポケットへ、別にしまった。
席へ戻ると、チームの共有フォルダーから通知が来た。結婚前に上げた設置案内の初稿に、結衣の文言修正と、高橋の運用確認の意見が付いていた。千尋は新しい版で上書きせず、確認済みの資料として、別に保存した。誰が、何を直したか、次の会議ですぐに確かめられるように。
その横に、蓮からのメッセージが表示された。
会長には、実際のお名前と身元を伝えました。初めての挨拶に伺える時間を、確認させてください。
千尋は返事を書きかけて、手を止めた。たった今、婚姻届を出した夫へ送る、初めての仕事以外の連絡だった。
明日の夕方なら、大丈夫です。それから、出勤は別々にします。
蓮の返事は、すぐに届いた。
まだ一緒に住む日程も決めていないのに、もう車を分けるんですか。
千尋は声を立てずに笑った。
先にお伝えしておいたほうが、予定を調整できますよね。
翌朝、初めての挨拶に持っていく贈り物を確認するため、少しだけ会ったあと、二人は駐車場の分かれ道に立った。蓮が会社へ向かう車のドアを開けると、千尋はバス停の方向を指した。
「本当に、バスで行くんですか」
「はい。ここから一本で行けます」
「通勤時間を短縮できますが」
「説明する時間を、短縮したいんです」
その言葉に、蓮はドアを閉め直した。無理に説得しないところが、ありがたかった。
千尋はバッグの肩紐を上げ、二歩進んでから振り返った。
「会社でお会いしましょう、社長」
「ええ、白石主任」
聞き慣れた呼び方だった。それでも彼の口元に残った笑みのせいで、バスが来るまで、千尋は携帯電話の画面ばかり見ていた。
田園調布の邸宅での夏の食事は、日が傾いて、ようやく終わった。親戚が数人、玄関で挨拶する間、千尋は食卓に残ったグラスを見た。氷が溶け、コースターの外へ水が流れていた。無意識にナプキンを折って拭くと、泰三が呼んだ。「それは、置いておきなさい。二人は、もう一杯、お茶でも飲んでいくといい」千尋は折ったナプキンを置いた。蓮が隣で待っていた。一人の親戚が笑って言った。「次の集まりでは、千尋が料理を一つ、決めてみたら。もう、家の奥様としての役割も、覚えないとね」千尋は笑みを失わず、答えた。「日付を先に教えていただければ、できるか確認して、お返事します。週末に、現場の予定が入ることもあるので」「会社の仕事は、まだ、そんなに忙しいの?」「担当の仕事が、まだ、たくさん残っています」加える説明が浮かんだが、千尋はそこで止めた。蓮も、代わりに説明しなかった。玄関が閉まってから、彼が手の甲で彼女の腕に軽く触れた。「ちゃんと、言えたね」千尋は小さく笑った。ときには、長く理解させようとしなくても、よかった。泰三は応接室ではなく、小さなテラスに座っていた。脇に鉢植えがいくつか並び、低い茎にトマトが実っていた。あと数日、熟す必要のありそうな緑の実の中で、赤い一つが目を引いた。「ご自分で、育てているんですか」千尋が尋ねると、泰三が顎を上げた。「水は、私がやる」隣でお茶を置いたスタッフが、静かに笑って下がった。蓮は椅子に座りながら言った。「水をやりすぎて、一度、植え替えたそうですね」「療養中の老人について、そんなことまで報告するらしいな」「ご自分で電話して、聞いたでしょう。なぜ葉が黄色くなるのか、と」千尋はカップで口を隠した。泰三が彼女へ皿を寄せた。大きさの違うミニトマトが、入っていた。「笑わずに、食べてみなさい」千尋は一つ取って食べた。皮が弾け、少し酸味が広がった。「おいしいです」泰三の顔が緩みかけたところで、千尋が加えた。
「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ
七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉
シャワーから出た千尋は、バッグから充電器を出した。家で借りた、蓮のものだった。ベッドの端に座り、携帯電話をつないで、また外した。廊下は静かで、窓の外から、車の通る音が低く上がってきた。彼女は通話ボタンを押した。「まだ、起きていますか」「電話を待つって、言ったよね」受話口の向こうで、紙が擦れた。千尋は時計を見た。ひどく遅いわけではないが、明日に備えて休む時間だった。「まだ、仕事ですか」「明日の資料を、まとめてた。今、終わった」千尋はつま先で、スリッパを押した。言いたいことがあるのに、最初の言葉が出なかった。蓮は先に沈黙を埋めず、待ってくれた。「充電器を、返しに行ってもいいですか」少しの間、何も聞こえなかった。「今、返さなくてもいいよ」千尋は唇を噛んだ。「わかっています」「でも、千尋が来たいなら、来て」ようやく、肩が緩んだ。蓮は部屋番号を伝え、千尋はもう一度確認した。通話を終えると、パジャマではなく、柔らかいワンピースに着替えた。髪を乾かしてバッグを持ち、浴室に置いた歯ブラシを、長く見た。千尋は歯ブラシを、小さなポーチに入れた。恥ずかしくて、笑いがこぼれた。蓮はドアを開けても、すぐには中へ引かなかった。千尋が入れるよう、横へ寄った。明るい部屋に、ソファと低いテーブル、閉じたノートパソコンがあった。大きな窓の向こうの海には、明かりが少しだけ浮かんでいた。「まずは、返却から」千尋が充電器を差し出すと、彼は受け取った。「きっちりしてるね」「人の物を、長く借りるのは嫌なので」「明日からは、一つずつ増やそうか」言葉の端にある意味を感じ、千尋はソファの横へバッグを置いた。家で互いの部屋を行き来し、毎回探した充電器だった。ごく普通の物なのに、今は、別の暮らしを約束するように聞こえた。彼は水を注ぎ、人差し指に巻いたティッシュを外した。小さな傷が見えた。「手は、どうしたんですか」「資料の封筒を開けたときに」千尋はバッグを探った。昼、センター担当者からもらった絆創膏が、二枚残っていた。一枚は魚、もう一枚は、小さな波の絵だった。「会社の社長も、紙で切るんですね」「特別に免除は、されなかったよ」千尋は笑い、魚の絆創膏を選んだ。蓮はテーブルへ手を出した。傷を拭いて貼る間、彼の視線が指先ではなく、自分の顔に留まるのを感じた。「動かないで
店はホテルから、歩いて十分のところにあった。ガラスのドアを押すと、焼き魚の匂いと涼しい風が、一度に流れてきた。蓮は窓際で立ち、椅子を引こうとして、すでに座った千尋を見て止まった。「今日も、遅れましたか」「三分早いよ」「では、とてもよくできたということで」彼は笑い、向かいに座った。ジャケットは隣の椅子に畳まれ、シャツの袖はまくられていた。昼の社長より、数歳分、気楽に見えた。千尋はメニューを受け取り、最初のページから、ゆっくり読んだ。「食べたいものを、選んで」「そう言われると、本当に上手に選びますよ」「期待してる」千尋は旬の魚のグリルと、魚介のパスタを一つずつ選び、最後に、レモンのデザートを加えた。値段のところで指が止まらない夕食は、まだ少ない。いい気分を、わざわざ隠したくはなかった。「写真を撮ってもいいですか。母に、送りたくて」「俺も、入るように?」彼が少し身を乗り出した。千尋は笑って、携帯電話の角度を変えた。「手だけです。母は、娘婿にご飯を食べさせていないんじゃないかと、心配するので」「そんなに、気の毒に見える?」「母には、世の中の人が皆、食事を抜く人に見えるんです」最初の皿が来ると、蓮はおとなしく、テーブルに手を置いた。整いすぎた姿勢が、かえっておかしかった。千尋は写真を撮り、母に送った。すぐ『娘婿にも、たくさん食べるように言ってね』と返事が来た。最後には、千尋へ、こまめに水を飲むよう、付け加えてあった。「誰の心配が、先だった?」「蓮さんです」「順位は、悪くないね」千尋は彼のグラスへ水を注いだ。同じ家で毎日顔を合わせても、旅先の店で向かい合うと、新しく出会う人のようだった。焼き魚を切る手がゆったりし、話すたび、自分だけを見ていた。「今日、現場では、どうして何も言わなかったんですか」「何を?」千尋は絆創膏を貼った手の甲を見せた。「これです」「仕事中に、俺のせいで説明が止まったら、嫌だと思って」「よく、我慢しましたね」「今は、見てもいい?」千尋が手を出した。蓮はテーブルの下へ隠さず、軽くその手を支えた。絆創膏の端を指で押さえ、浮いたところを貼り付けた。「ひどく、しみなかった?」「擦っただけです。店で手を検査する、新婚夫婦になりましたね」「新婚夫婦なのは、確かだよね」その言葉が、やけにはっきり聞こえた。法的
「神戸の現場点検は、白石主任に行ってもらいます」大野は会議室の画面に選定表を映した。応募した三人の名前の横に、担当履歴と現場質問票の評価が並んでいた。千尋はペンを握る手に力を込めた。「顧客の問い合わせを設置の動線に当てはめた点数が、いちばん高かった。高橋係長が全体の取りまとめ、白石主任は顧客との接点の確認。異論は?」颯太が手を挙げた。「異論ではなく、お願いです。現場のおやつの写真を、お願いします」「田中君は、おやつの写真の代わりに、回収が遅れた案件を分類して送ってね」小さな笑いの中で、千尋は選定表をもう一度見た。自分の名前の下にある根拠が、うれしかった。誰かの妻だから、できた空席ではなかった。「質問票のうち、設置作業員の方への質問は、先に送ります。現場で初めて読んだら、負担になりそうなので」「いいですね。高橋係長は、協力会社の日程を確認して」会議が終わると、結衣が千尋の肘をつついた。「新婚なのに出張なんて、旦那さん、寂しがりそう」「仕事だからね」「うん。堂々としてる。昨日、携帯を見て笑っていたのは、誰だっけ」千尋はノートパソコンを抱え、先に立った。昨日、蓮から来たのは、ただ『家に桃があるよ』というメッセージだった。そのあとの『千尋の分は残してある』で笑ったことまで、説明する必要はない。机へ戻ると、現場の日程共有メールが届いた。代表取締役社長と協力会社の懇談会が、二日目の午前に入っていた。千尋の指が、一瞬止まった。神戸という地名が、急に、仕事だけのものではなくなった。* * *キャリーケースを開けてシャツを畳んでいると、ドアが二度鳴った。「どうぞ」蓮はドアを開け、立ち止まった。ベッドの端に、薄い夏用のパジャマと書類バッグ、充電器が、きれいに並んでいた。千尋はつい、書類バッグをいちばん上へ移した。「俺も、神戸に行く」「メールを見ました。社長の予定は、ずいぶんあとに出ましたね」「協力会社が会議の日を変えた。千尋の出張名簿が出る前に、決まっていたんだ」「どうして、そんなに詳しく説明するんですか」蓮はドア枠から手を離した。「疑われるかと思って」千尋はシャツで顔を隠して笑った。初めてキスをしてからの数日、彼は意外なところで慎重になった。エレベーターの前で目が合っても、自分から近づかず、家で名前を呼ぶときは、千尋が答えるまで待っ







