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5話. 会社では、白石のままです

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-08 22:15:49

「こちらに、ご本人のお名前をご記入ください」

窓口の職員に言われ、千尋はペンを握り直した。

自分の名前。その簡単なことのために、この数日が、こんなにも複雑になった。白石沙織としてホテルに入り、白石千尋として、婚姻届を書くことになったのだから。

婚姻後の夫婦の姓は、黒沢を選んでいた。会社では、これまでどおり、白石千尋の名前を使う。

バッグの中には、今朝、最終確認を済ませ、それぞれ署名した契約書の原本が入っていた。三浦が修正した文章も、漏れなく反映されていた。

隣に立つ蓮は、書類が風でめくれないよう、端を押さえていた。黒いペンで書かれた彼の名前と、自分の名前が、同じ紙の上に並んだ。千尋は空欄がないか、もう一度確認した。

「本当に、いいんですね?」

蓮が低い声で尋ねた。

千尋はペンを置いた。

「はい。社長は?」

「私も、決めています」

「では、何度も聞かれると、かえって不安になります」

彼は笑って、書類を差し出した。受付が終わるまで、思ったほど時間はかからなかった。カフェの飲み物が出てくるより、少し長いくらいだった。

和子には、前の晩、直接話した。お互いに必要なものがある結婚で、良い条件の分、自分にも果たす役割がある、と。母は長い間、黙っていた。最後に尋ねたのは、家の広さでも、金額でもなかった。

あなたが嫌だと言っても、聞いてくれる人なの?

千尋は、今までのところはそうだと答えた。まだ知らないところまで、良く見せようとはしなかった。和子は新郎に会うと言って、娘の手を握った。千尋は、蓮と相談して日を決めると約束した。

区役所を出ると、三月末の風が吹いた。千尋はコートの前を合わせた。法的な家族ができたけれど、日差しも、歩道の舗装も、変わらなかった。

「写真は撮りませんか」

蓮が尋ねた。

「証拠写真ですか」

「記念写真です」

千尋は少しためらってから、携帯電話を構えた。腕を伸ばすと、二人の顔が、少しぎこちなく画面に収まった。蓮は千尋のほうへ上体を傾けたが、触れはしなかった。

「社長、笑ってもいいんですよ。業績発表ではありませんから」

「白石主任も、同じですよ」

互いの表情を見て笑った瞬間、写真が撮れた。千尋は確認せず、画面を消した。見返すなら、一人のときがよかった。

* * *

片桐秘書室長は、二人を見ても、眉一つ動かさなかった。

「婚姻届の受理を確認しました。午後の予定は調整済みです」

「私の半休は、チームに申請してあります」

千尋が慌てて言うと、片桐は頷いた。

「白石主任の予定ではなく、社長の予定についてです」

恥ずかしくなって水のグラスを持ち上げると、空だった。片桐が黙って水を注いでくれた。この人の前では、失敗が、いっそう鮮明に残りそうだった。

コンプライアンス課長の水野は、二人の関係と、業務上の措置を順に確認した。配偶者としての役割に対価があることは必要な範囲で確認したが、個人の契約書の原本を、会社の人事ファイルに入れることはしなかった。

「会社に申告いただくのは、婚姻関係と利益相反の管理についてです。個人の報酬は、会社の費用と混同しないようにしてください」

「私個人の資金で支払います」

蓮の答えに、水野はチェックを付けた。

「白石主任の評価は、これまでの業務記録とチームでの評価を基に、別の責任者が確認します。社長が特別な優遇を指示されても、そのまま実行はしません」

「特別な不利益についても、お願いします」

千尋が付け加えた。

水野が初めて、かすかに笑った。

「もちろんです。私的な要求が業務命令のように感じられた場合は、私にお話しください」

千尋は受け取った名刺を、手帳の最初のページに挟んだ。蓮が隣にいても話せるということが、思った以上に、大きな違いを生んだ。

面談を終えた蓮が、自分の携帯電話を確認した。しばらくすると、千尋の携帯電話に、取り決めどおりの入金通知が表示された。

12,000,000円。

千尋は画面を消せなかった。数字の間のコンマを、三度確かめた。蓮は、彼女が携帯電話を置くまで待っていた。

「銀行から電話が来たら、どうしましょう」

「入金の理由を説明すればいいんです」

「結婚したから、と?」

「契約に基づく報酬だと」

千尋は唇をぎゅっと結んだ。笑ってはいけない気がするのに、笑みがこぼれた。母の次の治療費を用意するとき、三つの口座を行き来しなくてもいい。その事実が、ゆっくり現実になっていった。

片桐が、予定表を一枚差し出した。

「会長には、本日、社長から直接お話しになる予定です」

蓮が千尋を見た。

「別の名前でお見合いに来たことまで、すべて話します」

「私の名前は、正確にお願いします」

「白石千尋さん」

名前を呼ぶ声は、まっすぐだった。千尋は頷いた。

* * *

午後四時、マーケティング第一課の休憩スペースで、最初に声を上げたのは、佐々木結衣だった。

「えっ? 千尋が?」

颯太は持っていた紙コップを、落としかけた。高橋係長は、コーヒーを口に含んだまま、千尋を見た。

千尋は用意した言葉を、最後まで言った。

「今日、婚姻届を出しました。式は、あとからゆっくり考えようと思っています」

「ちょっと待って。付き合ってる人がいるって、言ったこともないじゃない」

「話すタイミングを、ちょっと逃しちゃって」

夫が誰なのかは話さず、嘘の交際歴も作らないことにしていた。だから短く答えると、結衣の目が、さらに大きくなった。

大野がコーヒーを置いた。

「おめでとう。急に決めたなら、準備することも多かったでしょう」

「ありがとうございます」

「業務の予定で調整が必要なら、早めに言ってね。新婚旅行は?」

「今のところ、予定はありません」

「わかった。明日の設置案内の初稿確認は、予定どおりでいい?」

「はい。修正版を上げてあります」

課長が笑った。

「じゃあ、仕事の話はここまで。あとは、佐々木さんの質問に答えてあげて」

結衣が待っていましたとばかりに、椅子を引いた。

「何をしている人? かっこいい?」

「仕事をしていて……きちんとした顔立ちの人」

「職業が、『仕事をしている人』なの?」

颯太が、こらえていた笑いを噴き出した。千尋も笑った。いつもの自分の居場所が、まだそのままあることが、うれしかった。

「夫は、個人的なことを公にするのに慎重な人なの。私の気持ちが整ったら、もう少し話すね」

「わかった。写真を見せてって、無理には言わない。その代わり、ご飯はおごってね」

「それは、おごる」

高橋はおめでとうと言って、軽く手を叩いた。颯太はコンビニで買っておいた小さなチョコレートを、机の上に置いた。リボンもない祝いの品だったが、千尋はバッグの外ポケットへ、別にしまった。

席へ戻ると、チームの共有フォルダーから通知が来た。結婚前に上げた設置案内の初稿に、結衣の文言修正と、高橋の運用確認の意見が付いていた。千尋は新しい版で上書きせず、確認済みの資料として、別に保存した。誰が、何を直したか、次の会議ですぐに確かめられるように。

その横に、蓮からのメッセージが表示された。

会長には、実際のお名前と身元を伝えました。初めての挨拶に伺える時間を、確認させてください。

千尋は返事を書きかけて、手を止めた。たった今、婚姻届を出した夫へ送る、初めての仕事以外の連絡だった。

明日の夕方なら、大丈夫です。それから、出勤は別々にします。

蓮の返事は、すぐに届いた。

まだ一緒に住む日程も決めていないのに、もう車を分けるんですか。

千尋は声を立てずに笑った。

先にお伝えしておいたほうが、予定を調整できますよね。

翌朝、初めての挨拶に持っていく贈り物を確認するため、少しだけ会ったあと、二人は駐車場の分かれ道に立った。蓮が会社へ向かう車のドアを開けると、千尋はバス停の方向を指した。

「本当に、バスで行くんですか」

「はい。ここから一本で行けます」

「通勤時間を短縮できますが」

「説明する時間を、短縮したいんです」

その言葉に、蓮はドアを閉め直した。無理に説得しないところが、ありがたかった。

千尋はバッグの肩紐を上げ、二歩進んでから振り返った。

「会社でお会いしましょう、社長」

「ええ、白石主任」

聞き慣れた呼び方だった。それでも彼の口元に残った笑みのせいで、バスが来るまで、千尋は携帯電話の画面ばかり見ていた。

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