تسجيل الدخول田園調布の邸宅の玄関で、千尋は二度、靴を確かめた。
ヒールは高くない。沙織に借りた靴は返し、今日は面接のときから履いている黒い靴を選んだ。きれいに磨いておいたのに、車を降りる際、少し土が付いた。
「大丈夫です」
蓮の言葉に、千尋は足を止めた。
「そんなに、顔に出ていますか」
「靴を見るのは、三度目ですね」
「さっきは、二度です」
「車の中でも、一度見ていました」
緊張がほどけ、短い笑いがこぼれた。蓮は先に入らず、待っていた。千尋が敷居を越えてから、隣を歩いた。
黒沢泰三会長は、窓際の椅子に座っていた。画面で見たスーツの代わりに、薄手のカーディガンを羽織っている。手術後、療養中だと聞いていたが、その眼差しは、まだ鋭かった。
千尋は用意した小さな箱を、両手で差し出した。
「初めまして。白石千尋と申します」
「私は、甘いものがあまり食べられなくてね」
「お菓子ではなく、お茶です。お飲みになれる種類か、前もって確認しました」
泰三は箱を開けず、脇へ置いた。
「蓮から話は聞いた。見合いに、代わりに来たそうだね」
千尋は指先を握り合わせた。
「はい。自分の名前を隠して行きました。申し訳ありません」
「隠し事は、あの日で終わったのかね?」
「婚姻届は、自分の名前で書きました」
泰三が蓮を一度見た。蓮は弁解も、代わりの謝罪もしなかった。そのおかげで、千尋は自分で次の言葉を選べた。
「良い始まりではありませんでしたが、これからは、誰かの名前でご挨拶することはありません」
「座りなさい」
それが許しなのか、保留なのかはわからなかった。千尋はソファの端に座った。蓮が隣に来ると、クッションが少し沈んだ。一人で面接を受けているような感覚が、薄れた。
泰三は、二人が出会ってからの期間を尋ねた。千尋は日付を偽らなかった。短かったこと、そのため、決める前に何度も確認したことを話した。
「何を、そんなに確認した?」
「会社に通い続けられるか、家族行事にどれくらい出席する必要があるか、嫌なことは嫌だと言ってもいいか、です」
泰三の眉が上がった。
「好きなものは、聞かなかったのかね?」
千尋は口を開きかけ、一瞬止まった。蓮は答えを引き取らなかった。
「それは、これから知っていこうと思います」
「結婚してから?」
「順序が、少し急でした」
泰三の口元が、ごくわずかに動いた。千尋は笑っていいのか判断できず、そのまま座っていた。
「蓮も、そうだったのだろうな。決めたら、まず書類を持ってくる癖は、相変わらずだ」
「祖父に教わりました」
「そういうことは、必ず私に教わったと言うんだな」
短いやり取りの間に、夕食の支度ができたと声が掛かった。千尋は立ち上がり、バッグを持った。蓮が低い声で言った。
「置いていって、大丈夫です」
「あ」
会議室を移るときの癖が出た。泰三が先に笑った。
「お客様、バッグを盗むような家ではありませんよ」
千尋はようやく、一緒に笑った。
食卓には、思ったより素朴な料理が並んでいた。焼き魚とおひたし、澄んだ汁物。皿は多かったが、脂っこくはなかった。千尋は箸の位置を一度確かめ、泰三が先に手を付けるのを待った。
「会社では、どんな仕事を?」
「ハルノワの顧客分析と、キャンペーンの企画をしています」
「最近の、あの小さな食洗機か」
「はい。設置して使うまでの過程で、不便な点がないか、調べています」
泰三は蓮に顔を向けた。
「広告をもっと改善しなければ、と言っていたが」
千尋が言葉を選ぶより先に、蓮が答えた。
「案内と実態が違って顧客を失望させれば、広告を増やしても長続きしません。現場で改善する案を、確認しています」
彼は千尋の名前を持ち出さなかった。だからといって、彼女の言葉を、自分の発見のように装うこともなかった。千尋は魚の身を小さくほぐし、口へ運んだ。
「一緒に働いていたら、帰宅しても仕事の話ばかりだろうな」
「その時間は、決めてみようと思っています」
千尋が答えると、蓮がこちらを見た。
「その予定は、まだ受け取っていませんが」
「今日、追加されました」
泰三は汁椀を置いて笑った。蓮も、あえて反論はしなかった。
食事が終わる頃、泰三が奥の引き出しから封筒を出した。家族への紹介の席を用意しており、出席できそうな日を書いておいたと言う。千尋は受け取った紙を開いた。小さなカレンダーに、二つの日付が印されていた。
最初の日は、母の治療日だった。もう一日は、チームで前もって決めた運用点検の日程と重なっていた。
少しだけなら、どうにかしますと言いたかった。母には一人で行ってもらい、会社には急な家の用事だと言えば、済みそうだった。いつも、片方の穴を、もう片方で塞いできた。
千尋は紙を置いた。
「この二日は、伺うのが難しいです」
蓮の手が、グラスの上で止まった。
「一日目は、母の治療に付き添う約束があります。二日目は、私の担当業務の点検があるので」
泰三はカレンダーを見た。
「ほかの人に、任せられないのかね?」
「一度くらいなら、できるかもしれません。でも、最初の約束から変えたくないんです」
言い終えると、心臓が速く打った。この家で、自分の言葉にどれだけ重みがあるのか、まだわからなかった。良く思われたい気持ちだって、ないわけではない。
「その代わり、翌週の日曜日なら大丈夫です。平日なら、木曜日の夜も空いています」
泰三が手を差し出した。千尋は断られる覚悟で、カレンダーを向け直した。
会長はボールペンを取り、印を移した。
「それなら、来られる日にしよう」
あまりに簡単で、千尋は返事をするタイミングを逃した。
「皆に日程変更を知らせるより、当日、主役が来ないと知らせるほうが、面倒だからね」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない。その日は、来られるんだね?」
「はい。それは、お約束できます」
泰三は蓮にカレンダーを渡した。
「お前も、人を呼ぶときは、こうして聞きなさい。お前のカレンダーは、他人のカレンダーではないんだから」
「わかりました」
彼がすぐに答えたので、千尋は汁物を一口飲んだ。笑みを隠そうとしたのだが、蓮はもう気づいているようだった。
食後、お茶を飲む間、泰三は母の様子を尋ねた。千尋は、大きな山を越えて、回復中だと答えた。どんな病気か、詳しく説明するようには言わなかった。無理なく挨拶ができるときに会いたい、と付け加えただけだった。
邸宅を出る際、泰三は玄関まで来なかった。無理をしないよう、椅子から手を上げて見送った。千尋は、最初に渡したお茶の箱が、彼の手近に置かれているのを見た。
車に乗ってから、ようやく千尋の肩が下がった。
「今日の私は、何点くらいでしたか」
「評価からは、外れる約束ではありませんか」
「家族行事の評価からは、外れていませんよね」
蓮はエンジンを掛ける前に、彼女を見た。
「守れない約束をしなかったことが、よかったです」
千尋はシートベルトを引いた。面と向かって褒められると、何でもないふうに流すのは難しかった。
「私、本当は断るのが苦手なんです」
「今日は、上手でしたよ」
「追い出されなくて、よかったです」
彼は少し笑ってから、尋ねた。
「さっき、私が代わりに話したほうが、楽でしたか」
千尋は考えた。きっと、楽だっただろう。けれど、そうしたら次も、蓮の顔ばかり見ていた気がする。
「いいえ。待ってくださったのが、うれしかったです」
蓮はその言葉を聞いてから、ゆっくり車を動かした。
千尋は、窓の外を後ろへ流れていく塀を見た。来たときより、低く見えた。自分の声で約束した日付が一つ、あの家の中に残っていた。
田園調布の邸宅での夏の食事は、日が傾いて、ようやく終わった。親戚が数人、玄関で挨拶する間、千尋は食卓に残ったグラスを見た。氷が溶け、コースターの外へ水が流れていた。無意識にナプキンを折って拭くと、泰三が呼んだ。「それは、置いておきなさい。二人は、もう一杯、お茶でも飲んでいくといい」千尋は折ったナプキンを置いた。蓮が隣で待っていた。一人の親戚が笑って言った。「次の集まりでは、千尋が料理を一つ、決めてみたら。もう、家の奥様としての役割も、覚えないとね」千尋は笑みを失わず、答えた。「日付を先に教えていただければ、できるか確認して、お返事します。週末に、現場の予定が入ることもあるので」「会社の仕事は、まだ、そんなに忙しいの?」「担当の仕事が、まだ、たくさん残っています」加える説明が浮かんだが、千尋はそこで止めた。蓮も、代わりに説明しなかった。玄関が閉まってから、彼が手の甲で彼女の腕に軽く触れた。「ちゃんと、言えたね」千尋は小さく笑った。ときには、長く理解させようとしなくても、よかった。泰三は応接室ではなく、小さなテラスに座っていた。脇に鉢植えがいくつか並び、低い茎にトマトが実っていた。あと数日、熟す必要のありそうな緑の実の中で、赤い一つが目を引いた。「ご自分で、育てているんですか」千尋が尋ねると、泰三が顎を上げた。「水は、私がやる」隣でお茶を置いたスタッフが、静かに笑って下がった。蓮は椅子に座りながら言った。「水をやりすぎて、一度、植え替えたそうですね」「療養中の老人について、そんなことまで報告するらしいな」「ご自分で電話して、聞いたでしょう。なぜ葉が黄色くなるのか、と」千尋はカップで口を隠した。泰三が彼女へ皿を寄せた。大きさの違うミニトマトが、入っていた。「笑わずに、食べてみなさい」千尋は一つ取って食べた。皮が弾け、少し酸味が広がった。「おいしいです」泰三の顔が緩みかけたところで、千尋が加えた。
「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ
七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉
シャワーから出た千尋は、バッグから充電器を出した。家で借りた、蓮のものだった。ベッドの端に座り、携帯電話をつないで、また外した。廊下は静かで、窓の外から、車の通る音が低く上がってきた。彼女は通話ボタンを押した。「まだ、起きていますか」「電話を待つって、言ったよね」受話口の向こうで、紙が擦れた。千尋は時計を見た。ひどく遅いわけではないが、明日に備えて休む時間だった。「まだ、仕事ですか」「明日の資料を、まとめてた。今、終わった」千尋はつま先で、スリッパを押した。言いたいことがあるのに、最初の言葉が出なかった。蓮は先に沈黙を埋めず、待ってくれた。「充電器を、返しに行ってもいいですか」少しの間、何も聞こえなかった。「今、返さなくてもいいよ」千尋は唇を噛んだ。「わかっています」「でも、千尋が来たいなら、来て」ようやく、肩が緩んだ。蓮は部屋番号を伝え、千尋はもう一度確認した。通話を終えると、パジャマではなく、柔らかいワンピースに着替えた。髪を乾かしてバッグを持ち、浴室に置いた歯ブラシを、長く見た。千尋は歯ブラシを、小さなポーチに入れた。恥ずかしくて、笑いがこぼれた。蓮はドアを開けても、すぐには中へ引かなかった。千尋が入れるよう、横へ寄った。明るい部屋に、ソファと低いテーブル、閉じたノートパソコンがあった。大きな窓の向こうの海には、明かりが少しだけ浮かんでいた。「まずは、返却から」千尋が充電器を差し出すと、彼は受け取った。「きっちりしてるね」「人の物を、長く借りるのは嫌なので」「明日からは、一つずつ増やそうか」言葉の端にある意味を感じ、千尋はソファの横へバッグを置いた。家で互いの部屋を行き来し、毎回探した充電器だった。ごく普通の物なのに、今は、別の暮らしを約束するように聞こえた。彼は水を注ぎ、人差し指に巻いたティッシュを外した。小さな傷が見えた。「手は、どうしたんですか」「資料の封筒を開けたときに」千尋はバッグを探った。昼、センター担当者からもらった絆創膏が、二枚残っていた。一枚は魚、もう一枚は、小さな波の絵だった。「会社の社長も、紙で切るんですね」「特別に免除は、されなかったよ」千尋は笑い、魚の絆創膏を選んだ。蓮はテーブルへ手を出した。傷を拭いて貼る間、彼の視線が指先ではなく、自分の顔に留まるのを感じた。「動かないで
店はホテルから、歩いて十分のところにあった。ガラスのドアを押すと、焼き魚の匂いと涼しい風が、一度に流れてきた。蓮は窓際で立ち、椅子を引こうとして、すでに座った千尋を見て止まった。「今日も、遅れましたか」「三分早いよ」「では、とてもよくできたということで」彼は笑い、向かいに座った。ジャケットは隣の椅子に畳まれ、シャツの袖はまくられていた。昼の社長より、数歳分、気楽に見えた。千尋はメニューを受け取り、最初のページから、ゆっくり読んだ。「食べたいものを、選んで」「そう言われると、本当に上手に選びますよ」「期待してる」千尋は旬の魚のグリルと、魚介のパスタを一つずつ選び、最後に、レモンのデザートを加えた。値段のところで指が止まらない夕食は、まだ少ない。いい気分を、わざわざ隠したくはなかった。「写真を撮ってもいいですか。母に、送りたくて」「俺も、入るように?」彼が少し身を乗り出した。千尋は笑って、携帯電話の角度を変えた。「手だけです。母は、娘婿にご飯を食べさせていないんじゃないかと、心配するので」「そんなに、気の毒に見える?」「母には、世の中の人が皆、食事を抜く人に見えるんです」最初の皿が来ると、蓮はおとなしく、テーブルに手を置いた。整いすぎた姿勢が、かえっておかしかった。千尋は写真を撮り、母に送った。すぐ『娘婿にも、たくさん食べるように言ってね』と返事が来た。最後には、千尋へ、こまめに水を飲むよう、付け加えてあった。「誰の心配が、先だった?」「蓮さんです」「順位は、悪くないね」千尋は彼のグラスへ水を注いだ。同じ家で毎日顔を合わせても、旅先の店で向かい合うと、新しく出会う人のようだった。焼き魚を切る手がゆったりし、話すたび、自分だけを見ていた。「今日、現場では、どうして何も言わなかったんですか」「何を?」千尋は絆創膏を貼った手の甲を見せた。「これです」「仕事中に、俺のせいで説明が止まったら、嫌だと思って」「よく、我慢しましたね」「今は、見てもいい?」千尋が手を出した。蓮はテーブルの下へ隠さず、軽くその手を支えた。絆創膏の端を指で押さえ、浮いたところを貼り付けた。「ひどく、しみなかった?」「擦っただけです。店で手を検査する、新婚夫婦になりましたね」「新婚夫婦なのは、確かだよね」その言葉が、やけにはっきり聞こえた。法的
「神戸の現場点検は、白石主任に行ってもらいます」大野は会議室の画面に選定表を映した。応募した三人の名前の横に、担当履歴と現場質問票の評価が並んでいた。千尋はペンを握る手に力を込めた。「顧客の問い合わせを設置の動線に当てはめた点数が、いちばん高かった。高橋係長が全体の取りまとめ、白石主任は顧客との接点の確認。異論は?」颯太が手を挙げた。「異論ではなく、お願いです。現場のおやつの写真を、お願いします」「田中君は、おやつの写真の代わりに、回収が遅れた案件を分類して送ってね」小さな笑いの中で、千尋は選定表をもう一度見た。自分の名前の下にある根拠が、うれしかった。誰かの妻だから、できた空席ではなかった。「質問票のうち、設置作業員の方への質問は、先に送ります。現場で初めて読んだら、負担になりそうなので」「いいですね。高橋係長は、協力会社の日程を確認して」会議が終わると、結衣が千尋の肘をつついた。「新婚なのに出張なんて、旦那さん、寂しがりそう」「仕事だからね」「うん。堂々としてる。昨日、携帯を見て笑っていたのは、誰だっけ」千尋はノートパソコンを抱え、先に立った。昨日、蓮から来たのは、ただ『家に桃があるよ』というメッセージだった。そのあとの『千尋の分は残してある』で笑ったことまで、説明する必要はない。机へ戻ると、現場の日程共有メールが届いた。代表取締役社長と協力会社の懇談会が、二日目の午前に入っていた。千尋の指が、一瞬止まった。神戸という地名が、急に、仕事だけのものではなくなった。* * *キャリーケースを開けてシャツを畳んでいると、ドアが二度鳴った。「どうぞ」蓮はドアを開け、立ち止まった。ベッドの端に、薄い夏用のパジャマと書類バッグ、充電器が、きれいに並んでいた。千尋はつい、書類バッグをいちばん上へ移した。「俺も、神戸に行く」「メールを見ました。社長の予定は、ずいぶんあとに出ましたね」「協力会社が会議の日を変えた。千尋の出張名簿が出る前に、決まっていたんだ」「どうして、そんなに詳しく説明するんですか」蓮はドア枠から手を離した。「疑われるかと思って」千尋はシャツで顔を隠して笑った。初めてキスをしてからの数日、彼は意外なところで慎重になった。エレベーターの前で目が合っても、自分から近づかず、家で名前を呼ぶときは、千尋が答えるまで待っ







