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7話. この家の夜食のルール

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-08 22:16:01

広尾の家の玄関が開いた瞬間、千尋はキャリーケースの持ち手を離してしまった。

車輪が滑らかな床の上を、勝手に転がっていく。蓮が足でそっと止めた。中野のワンルームなら三歩で行き止まりだったが、ここでは、キャリーケースまで、もっと先へ行ってみたいらしい。

「まず、使う部屋をご覧になりますか」

千尋は答える代わりに、天井を見上げた。

「冬は、暖房費がかかりそうですね」

「最初の感想が、それですか」

「二番目です。最初は、掃除のことでした」

蓮が笑った。彼はまず、家の管理について説明した。決まった曜日に、掃除や食事の支度を手伝う人が来て、それ以外は、たいてい一人で過ごしているという。千尋は、来訪の予定表がどこにあるか尋ねた。

「不都合があれば、調整します」

「不都合ということではなくて、私も家にいる時間を伝えたほうがいいですよね。急に顔を合わせたら、お互い驚くので」

リビングの向こうには、川が見えた。千尋はついに窓際へ行き、しばらく立っていた。水面に光が長く伸びている。こんな場所に住むことになった実感が湧かず、バッグの紐ばかりいじっていた。

「気に入りましたか」

「はい。とても」

わざわざ、高そうだと難癖を付ける気はなかった。気に入った。昼間も明かりが必要だった部屋から、日差しの入る家へ移れたことは、確かな喜びだった。

蓮は、彼女が十分に外を眺めるまで、声を掛けなかった。

千尋が選んだ部屋は、廊下のいちばん奥だった。窓際に小さな机を置けて、専用の浴室もある。ベッドの白い掛け布団を指先で押すと、ふわりと沈んだ。

「この部屋を使います」

「私の部屋は、廊下の反対側です」

「それは、先に聞いていませんでした」

「近い部屋がよければ……」

「いいえ。とても素晴らしい間取りですね」

あまりに早く答えたので、蓮は口を閉じた。千尋は笑いをこらえながら、キャリーケースを引き入れた。

服を掛け、机にノートパソコンを置いた。個人の契約書の原本が入った封筒は、鍵の掛かる書類入れに収めた。別に保管する写しは、ワンルームの荷物から持ってきた小さなファイルに挟んだ。ワンルームは契約が終わる時期に合わせて引き払うことにしており、すべての物を今すぐ移すわけではなかった。

引っ越す前、二人で練馬に寄り、母へ挨拶した。和子は蓮に、忙しいからと食事を抜くことがあるのか尋ねた。彼は、ときどきあると答えた。直しなさいと言われながら受け取った、おかずの入ったバッグを取り出すと、ドアの外でノックがした。

「入ってもいいですか」

「はい」

蓮はドアを開けても、中には入らなかった。

「ほかに、運ぶ荷物はありますか」

「これを冷蔵庫に入れたいんですが。私が使う場所を、決めていただければ……」

「使いやすいところへ、入れてください」

立派な家で、いちばん難しいのは、その言葉だった。使いやすい場所がどこか、わからなければ、気楽には入れられない。

キッチンの冷蔵庫には、千尋の知らない名前の葉物野菜や、封も切っていないチーズ、小さな果物の箱が、ぎっしり詰まっていた。奥には、賞味期限が迫った豆腐が隠れている。千尋はおかずのバッグを置き、冷蔵庫の前にしゃがんだ。

「何人分ですか」

「たいてい、私一人です」

「社長は、おうちで懇親会を開くんですか」

蓮が冷蔵庫の中を覗いた。本当に、初めて数えてみる人のようだった。

「外で食べる日が多くて、余るようですね」

「では、この豆腐を待っているのは、私たちだけなんですね」

千尋は、むやみに捨てたりはしなかった。包装の日付を確かめ、先に食べるものだけを手前へ集めた。その間に、蓮に小さなメモ用紙とペンを頼んだ。社長に文房具を持ってくるよう言ったあとで、口元が一瞬、強張った。

蓮は何も尋ねず、引き出しからペンを持ってきた。

「家でも決裁を待つ必要は、ありません」

「まだ、慣れていないので」

彼はダイニングの椅子を引き、腰を下ろした。千尋は来訪の予定表の横に、二人が食事をするかどうか、書く欄を作った。昼までに夕食を取るか知らせること。遅くなるなら、一言連絡すること。食事を用意する人にも伝えられる、簡単な表だった。

「これを、毎日書くんですか」

「メッセージで送っていただければ、私が書き写します。ご自分で書いても、いいですし」

蓮はペンを受け取り、今日の夕食の欄に丸を付けた。

千尋も、その隣に自分の丸を書いた。初めて、一つの家の予定表に、二人の跡が並んだ。

「今日は、豆腐と卵から食べないと」

「食事も、白石主任が作るんですか」

「今日だけです。これを移していたら、お腹がすいて。社長は、ねぎを洗ってください」

蓮が袖をまくった。一本のねぎを、流れる水の下で、やけに慎重に回して洗うのを見て、千尋は笑った。

「壊れるようなものではありませんよ」

「失敗したら、次の指示がなくなりそうなので」

その言葉に、ますます笑いがこぼれた。静かなキッチンで、水音と包丁の音が交じった。豆腐を焼く間、蓮は箸を探していた。千尋は場所を教えようとして、ここが彼の家だということに気づいた。

「社長、ここに住んでいるんですよね?」

「今日から、私も少し疑っています」

簡単な夕食が食卓に並んだ。和子が作った小魚の佃煮と、千尋の焼き豆腐、蓮が洗ったねぎの入った卵のスープ。広いテーブルの端と端に座ろうとする千尋を見て、蓮が椅子を移した。

「その距離なら、オンライン会議にしないと」

千尋も、中央へ椅子を寄せた。

「次からは、私がいなくても食べてください。毎回、今日のように一緒に食べようという意味ではありません」

「できる日には、一緒に食べてもいいんですね?」

「できる日には」

千尋はスープを飲んだ。慣れない鍋で火加減を間違え、少し塩辛かった。水を足そうと立ち上がると、蓮が水差しを渡してくれた。言わなくても、手を貸してほしい瞬間を見ている人だった。

その夜、荷物を片付け、水を飲みに出た千尋は、キッチンの前で蓮と会った。彼は冷蔵庫の奥にあった、ケーキの箱を持っていた。

二人の目が合った。

「どうぞ、食べてください。どうして、見つかったみたいな顔をしているんですか」

「先に食べる順番が、あるようなので」

「あれは、明日までに食べようという話です。立ち入り禁止ではありません」

蓮は皿を二枚出した。千尋は時間を見て、少しためらったが、フォークを受け取った。布団を整えるのに体力を使ったのだから、一切れくらいなら大丈夫だろう。

「社長は、甘いものをあまり食べないと思っていました」

「家では、食べます」

「会社では、どうして食べないんですか」

「誰かに見られると、疲れて糖分が足りないのか、と聞かれるんです」

千尋は笑いながら、ケーキを切った。

「では、ここでは、ただおいしいから食べてください」

彼はフォークを持ち上げかけ、千尋を見た。返事は、少し遅れてきた。

「そうします」

部屋へ戻る前、千尋は廊下側のドアに、小さなメモを貼った。荷ほどきで余ったテープを、まっすぐ押さえた。

まず、ノックをしてください。

通りかかった蓮が、文面を読んだ。

「もう、しましたが」

「よくできたので、そのまま続けてほしい、という意味です」

「ほかにも、ルールはありますか」

千尋はペンで、その下に一行を書き足した。

深夜十二時以降、仕事の問い合わせ禁止。

「緊急の場合は?」

「会社の当番の連絡網を使ってください」

蓮は真剣に頷いた。千尋が笑いながらドアを閉めようとすると、彼が外から、最後に尋ねた。

「明日の朝食は?」

「それは、仕事の問い合わせではありませんよね?」

「はい」

千尋はドアを少し広く開けた。

「八時頃、食べます。一緒に食べますか」

「その時間は、空けておきます」

ドアを閉めたあと、千尋はしばらく、取っ手から手を離せなかった。一日で、広い家のすべてを覚えることはできなかった。それでも、明日の朝、どこに座るかは、わかる気がした。

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