تسجيل الدخول広尾の家の玄関が開いた瞬間、千尋はキャリーケースの持ち手を離してしまった。
車輪が滑らかな床の上を、勝手に転がっていく。蓮が足でそっと止めた。中野のワンルームなら三歩で行き止まりだったが、ここでは、キャリーケースまで、もっと先へ行ってみたいらしい。
「まず、使う部屋をご覧になりますか」
千尋は答える代わりに、天井を見上げた。
「冬は、暖房費がかかりそうですね」
「最初の感想が、それですか」
「二番目です。最初は、掃除のことでした」
蓮が笑った。彼はまず、家の管理について説明した。決まった曜日に、掃除や食事の支度を手伝う人が来て、それ以外は、たいてい一人で過ごしているという。千尋は、来訪の予定表がどこにあるか尋ねた。
「不都合があれば、調整します」
「不都合ということではなくて、私も家にいる時間を伝えたほうがいいですよね。急に顔を合わせたら、お互い驚くので」
リビングの向こうには、川が見えた。千尋はついに窓際へ行き、しばらく立っていた。水面に光が長く伸びている。こんな場所に住むことになった実感が湧かず、バッグの紐ばかりいじっていた。
「気に入りましたか」
「はい。とても」
わざわざ、高そうだと難癖を付ける気はなかった。気に入った。昼間も明かりが必要だった部屋から、日差しの入る家へ移れたことは、確かな喜びだった。
蓮は、彼女が十分に外を眺めるまで、声を掛けなかった。
千尋が選んだ部屋は、廊下のいちばん奥だった。窓際に小さな机を置けて、専用の浴室もある。ベッドの白い掛け布団を指先で押すと、ふわりと沈んだ。
「この部屋を使います」
「私の部屋は、廊下の反対側です」
「それは、先に聞いていませんでした」
「近い部屋がよければ……」
「いいえ。とても素晴らしい間取りですね」
あまりに早く答えたので、蓮は口を閉じた。千尋は笑いをこらえながら、キャリーケースを引き入れた。
服を掛け、机にノートパソコンを置いた。個人の契約書の原本が入った封筒は、鍵の掛かる書類入れに収めた。別に保管する写しは、ワンルームの荷物から持ってきた小さなファイルに挟んだ。ワンルームは契約が終わる時期に合わせて引き払うことにしており、すべての物を今すぐ移すわけではなかった。
引っ越す前、二人で練馬に寄り、母へ挨拶した。和子は蓮に、忙しいからと食事を抜くことがあるのか尋ねた。彼は、ときどきあると答えた。直しなさいと言われながら受け取った、おかずの入ったバッグを取り出すと、ドアの外でノックがした。
「入ってもいいですか」
「はい」
蓮はドアを開けても、中には入らなかった。
「ほかに、運ぶ荷物はありますか」
「これを冷蔵庫に入れたいんですが。私が使う場所を、決めていただければ……」
「使いやすいところへ、入れてください」
立派な家で、いちばん難しいのは、その言葉だった。使いやすい場所がどこか、わからなければ、気楽には入れられない。
キッチンの冷蔵庫には、千尋の知らない名前の葉物野菜や、封も切っていないチーズ、小さな果物の箱が、ぎっしり詰まっていた。奥には、賞味期限が迫った豆腐が隠れている。千尋はおかずのバッグを置き、冷蔵庫の前にしゃがんだ。
「何人分ですか」
「たいてい、私一人です」
「社長は、おうちで懇親会を開くんですか」
蓮が冷蔵庫の中を覗いた。本当に、初めて数えてみる人のようだった。
「外で食べる日が多くて、余るようですね」
「では、この豆腐を待っているのは、私たちだけなんですね」
千尋は、むやみに捨てたりはしなかった。包装の日付を確かめ、先に食べるものだけを手前へ集めた。その間に、蓮に小さなメモ用紙とペンを頼んだ。社長に文房具を持ってくるよう言ったあとで、口元が一瞬、強張った。
蓮は何も尋ねず、引き出しからペンを持ってきた。
「家でも決裁を待つ必要は、ありません」
「まだ、慣れていないので」
彼はダイニングの椅子を引き、腰を下ろした。千尋は来訪の予定表の横に、二人が食事をするかどうか、書く欄を作った。昼までに夕食を取るか知らせること。遅くなるなら、一言連絡すること。食事を用意する人にも伝えられる、簡単な表だった。
「これを、毎日書くんですか」
「メッセージで送っていただければ、私が書き写します。ご自分で書いても、いいですし」
蓮はペンを受け取り、今日の夕食の欄に丸を付けた。
千尋も、その隣に自分の丸を書いた。初めて、一つの家の予定表に、二人の跡が並んだ。
「今日は、豆腐と卵から食べないと」
「食事も、白石主任が作るんですか」
「今日だけです。これを移していたら、お腹がすいて。社長は、ねぎを洗ってください」
蓮が袖をまくった。一本のねぎを、流れる水の下で、やけに慎重に回して洗うのを見て、千尋は笑った。
「壊れるようなものではありませんよ」
「失敗したら、次の指示がなくなりそうなので」
その言葉に、ますます笑いがこぼれた。静かなキッチンで、水音と包丁の音が交じった。豆腐を焼く間、蓮は箸を探していた。千尋は場所を教えようとして、ここが彼の家だということに気づいた。
「社長、ここに住んでいるんですよね?」
「今日から、私も少し疑っています」
簡単な夕食が食卓に並んだ。和子が作った小魚の佃煮と、千尋の焼き豆腐、蓮が洗ったねぎの入った卵のスープ。広いテーブルの端と端に座ろうとする千尋を見て、蓮が椅子を移した。
「その距離なら、オンライン会議にしないと」
千尋も、中央へ椅子を寄せた。
「次からは、私がいなくても食べてください。毎回、今日のように一緒に食べようという意味ではありません」
「できる日には、一緒に食べてもいいんですね?」
「できる日には」
千尋はスープを飲んだ。慣れない鍋で火加減を間違え、少し塩辛かった。水を足そうと立ち上がると、蓮が水差しを渡してくれた。言わなくても、手を貸してほしい瞬間を見ている人だった。
その夜、荷物を片付け、水を飲みに出た千尋は、キッチンの前で蓮と会った。彼は冷蔵庫の奥にあった、ケーキの箱を持っていた。
二人の目が合った。
「どうぞ、食べてください。どうして、見つかったみたいな顔をしているんですか」
「先に食べる順番が、あるようなので」
「あれは、明日までに食べようという話です。立ち入り禁止ではありません」
蓮は皿を二枚出した。千尋は時間を見て、少しためらったが、フォークを受け取った。布団を整えるのに体力を使ったのだから、一切れくらいなら大丈夫だろう。
「社長は、甘いものをあまり食べないと思っていました」
「家では、食べます」
「会社では、どうして食べないんですか」
「誰かに見られると、疲れて糖分が足りないのか、と聞かれるんです」
千尋は笑いながら、ケーキを切った。
「では、ここでは、ただおいしいから食べてください」
彼はフォークを持ち上げかけ、千尋を見た。返事は、少し遅れてきた。
「そうします」
部屋へ戻る前、千尋は廊下側のドアに、小さなメモを貼った。荷ほどきで余ったテープを、まっすぐ押さえた。
まず、ノックをしてください。
通りかかった蓮が、文面を読んだ。
「もう、しましたが」
「よくできたので、そのまま続けてほしい、という意味です」
「ほかにも、ルールはありますか」
千尋はペンで、その下に一行を書き足した。
深夜十二時以降、仕事の問い合わせ禁止。
「緊急の場合は?」
「会社の当番の連絡網を使ってください」
蓮は真剣に頷いた。千尋が笑いながらドアを閉めようとすると、彼が外から、最後に尋ねた。
「明日の朝食は?」
「それは、仕事の問い合わせではありませんよね?」
「はい」
千尋はドアを少し広く開けた。
「八時頃、食べます。一緒に食べますか」
「その時間は、空けておきます」
ドアを閉めたあと、千尋はしばらく、取っ手から手を離せなかった。一日で、広い家のすべてを覚えることはできなかった。それでも、明日の朝、どこに座るかは、わかる気がした。
田園調布の邸宅での夏の食事は、日が傾いて、ようやく終わった。親戚が数人、玄関で挨拶する間、千尋は食卓に残ったグラスを見た。氷が溶け、コースターの外へ水が流れていた。無意識にナプキンを折って拭くと、泰三が呼んだ。「それは、置いておきなさい。二人は、もう一杯、お茶でも飲んでいくといい」千尋は折ったナプキンを置いた。蓮が隣で待っていた。一人の親戚が笑って言った。「次の集まりでは、千尋が料理を一つ、決めてみたら。もう、家の奥様としての役割も、覚えないとね」千尋は笑みを失わず、答えた。「日付を先に教えていただければ、できるか確認して、お返事します。週末に、現場の予定が入ることもあるので」「会社の仕事は、まだ、そんなに忙しいの?」「担当の仕事が、まだ、たくさん残っています」加える説明が浮かんだが、千尋はそこで止めた。蓮も、代わりに説明しなかった。玄関が閉まってから、彼が手の甲で彼女の腕に軽く触れた。「ちゃんと、言えたね」千尋は小さく笑った。ときには、長く理解させようとしなくても、よかった。泰三は応接室ではなく、小さなテラスに座っていた。脇に鉢植えがいくつか並び、低い茎にトマトが実っていた。あと数日、熟す必要のありそうな緑の実の中で、赤い一つが目を引いた。「ご自分で、育てているんですか」千尋が尋ねると、泰三が顎を上げた。「水は、私がやる」隣でお茶を置いたスタッフが、静かに笑って下がった。蓮は椅子に座りながら言った。「水をやりすぎて、一度、植え替えたそうですね」「療養中の老人について、そんなことまで報告するらしいな」「ご自分で電話して、聞いたでしょう。なぜ葉が黄色くなるのか、と」千尋はカップで口を隠した。泰三が彼女へ皿を寄せた。大きさの違うミニトマトが、入っていた。「笑わずに、食べてみなさい」千尋は一つ取って食べた。皮が弾け、少し酸味が広がった。「おいしいです」泰三の顔が緩みかけたところで、千尋が加えた。
「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ
七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉
シャワーから出た千尋は、バッグから充電器を出した。家で借りた、蓮のものだった。ベッドの端に座り、携帯電話をつないで、また外した。廊下は静かで、窓の外から、車の通る音が低く上がってきた。彼女は通話ボタンを押した。「まだ、起きていますか」「電話を待つって、言ったよね」受話口の向こうで、紙が擦れた。千尋は時計を見た。ひどく遅いわけではないが、明日に備えて休む時間だった。「まだ、仕事ですか」「明日の資料を、まとめてた。今、終わった」千尋はつま先で、スリッパを押した。言いたいことがあるのに、最初の言葉が出なかった。蓮は先に沈黙を埋めず、待ってくれた。「充電器を、返しに行ってもいいですか」少しの間、何も聞こえなかった。「今、返さなくてもいいよ」千尋は唇を噛んだ。「わかっています」「でも、千尋が来たいなら、来て」ようやく、肩が緩んだ。蓮は部屋番号を伝え、千尋はもう一度確認した。通話を終えると、パジャマではなく、柔らかいワンピースに着替えた。髪を乾かしてバッグを持ち、浴室に置いた歯ブラシを、長く見た。千尋は歯ブラシを、小さなポーチに入れた。恥ずかしくて、笑いがこぼれた。蓮はドアを開けても、すぐには中へ引かなかった。千尋が入れるよう、横へ寄った。明るい部屋に、ソファと低いテーブル、閉じたノートパソコンがあった。大きな窓の向こうの海には、明かりが少しだけ浮かんでいた。「まずは、返却から」千尋が充電器を差し出すと、彼は受け取った。「きっちりしてるね」「人の物を、長く借りるのは嫌なので」「明日からは、一つずつ増やそうか」言葉の端にある意味を感じ、千尋はソファの横へバッグを置いた。家で互いの部屋を行き来し、毎回探した充電器だった。ごく普通の物なのに、今は、別の暮らしを約束するように聞こえた。彼は水を注ぎ、人差し指に巻いたティッシュを外した。小さな傷が見えた。「手は、どうしたんですか」「資料の封筒を開けたときに」千尋はバッグを探った。昼、センター担当者からもらった絆創膏が、二枚残っていた。一枚は魚、もう一枚は、小さな波の絵だった。「会社の社長も、紙で切るんですね」「特別に免除は、されなかったよ」千尋は笑い、魚の絆創膏を選んだ。蓮はテーブルへ手を出した。傷を拭いて貼る間、彼の視線が指先ではなく、自分の顔に留まるのを感じた。「動かないで
店はホテルから、歩いて十分のところにあった。ガラスのドアを押すと、焼き魚の匂いと涼しい風が、一度に流れてきた。蓮は窓際で立ち、椅子を引こうとして、すでに座った千尋を見て止まった。「今日も、遅れましたか」「三分早いよ」「では、とてもよくできたということで」彼は笑い、向かいに座った。ジャケットは隣の椅子に畳まれ、シャツの袖はまくられていた。昼の社長より、数歳分、気楽に見えた。千尋はメニューを受け取り、最初のページから、ゆっくり読んだ。「食べたいものを、選んで」「そう言われると、本当に上手に選びますよ」「期待してる」千尋は旬の魚のグリルと、魚介のパスタを一つずつ選び、最後に、レモンのデザートを加えた。値段のところで指が止まらない夕食は、まだ少ない。いい気分を、わざわざ隠したくはなかった。「写真を撮ってもいいですか。母に、送りたくて」「俺も、入るように?」彼が少し身を乗り出した。千尋は笑って、携帯電話の角度を変えた。「手だけです。母は、娘婿にご飯を食べさせていないんじゃないかと、心配するので」「そんなに、気の毒に見える?」「母には、世の中の人が皆、食事を抜く人に見えるんです」最初の皿が来ると、蓮はおとなしく、テーブルに手を置いた。整いすぎた姿勢が、かえっておかしかった。千尋は写真を撮り、母に送った。すぐ『娘婿にも、たくさん食べるように言ってね』と返事が来た。最後には、千尋へ、こまめに水を飲むよう、付け加えてあった。「誰の心配が、先だった?」「蓮さんです」「順位は、悪くないね」千尋は彼のグラスへ水を注いだ。同じ家で毎日顔を合わせても、旅先の店で向かい合うと、新しく出会う人のようだった。焼き魚を切る手がゆったりし、話すたび、自分だけを見ていた。「今日、現場では、どうして何も言わなかったんですか」「何を?」千尋は絆創膏を貼った手の甲を見せた。「これです」「仕事中に、俺のせいで説明が止まったら、嫌だと思って」「よく、我慢しましたね」「今は、見てもいい?」千尋が手を出した。蓮はテーブルの下へ隠さず、軽くその手を支えた。絆創膏の端を指で押さえ、浮いたところを貼り付けた。「ひどく、しみなかった?」「擦っただけです。店で手を検査する、新婚夫婦になりましたね」「新婚夫婦なのは、確かだよね」その言葉が、やけにはっきり聞こえた。法的
「神戸の現場点検は、白石主任に行ってもらいます」大野は会議室の画面に選定表を映した。応募した三人の名前の横に、担当履歴と現場質問票の評価が並んでいた。千尋はペンを握る手に力を込めた。「顧客の問い合わせを設置の動線に当てはめた点数が、いちばん高かった。高橋係長が全体の取りまとめ、白石主任は顧客との接点の確認。異論は?」颯太が手を挙げた。「異論ではなく、お願いです。現場のおやつの写真を、お願いします」「田中君は、おやつの写真の代わりに、回収が遅れた案件を分類して送ってね」小さな笑いの中で、千尋は選定表をもう一度見た。自分の名前の下にある根拠が、うれしかった。誰かの妻だから、できた空席ではなかった。「質問票のうち、設置作業員の方への質問は、先に送ります。現場で初めて読んだら、負担になりそうなので」「いいですね。高橋係長は、協力会社の日程を確認して」会議が終わると、結衣が千尋の肘をつついた。「新婚なのに出張なんて、旦那さん、寂しがりそう」「仕事だからね」「うん。堂々としてる。昨日、携帯を見て笑っていたのは、誰だっけ」千尋はノートパソコンを抱え、先に立った。昨日、蓮から来たのは、ただ『家に桃があるよ』というメッセージだった。そのあとの『千尋の分は残してある』で笑ったことまで、説明する必要はない。机へ戻ると、現場の日程共有メールが届いた。代表取締役社長と協力会社の懇談会が、二日目の午前に入っていた。千尋の指が、一瞬止まった。神戸という地名が、急に、仕事だけのものではなくなった。* * *キャリーケースを開けてシャツを畳んでいると、ドアが二度鳴った。「どうぞ」蓮はドアを開け、立ち止まった。ベッドの端に、薄い夏用のパジャマと書類バッグ、充電器が、きれいに並んでいた。千尋はつい、書類バッグをいちばん上へ移した。「俺も、神戸に行く」「メールを見ました。社長の予定は、ずいぶんあとに出ましたね」「協力会社が会議の日を変えた。千尋の出張名簿が出る前に、決まっていたんだ」「どうして、そんなに詳しく説明するんですか」蓮はドア枠から手を離した。「疑われるかと思って」千尋はシャツで顔を隠して笑った。初めてキスをしてからの数日、彼は意外なところで慎重になった。エレベーターの前で目が合っても、自分から近づかず、家で名前を呼ぶときは、千尋が答えるまで待っ







