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第909話

Author: 連衣の水調
胤道は指で鼻筋を押さえ、疲れを隠しながら言った。

「風呂で少し居眠りしていた。どうした?」

りんは微笑んで言った。

「何でもないわ。森さんとおしゃべりしていたの」

静華も容赦なく言い返す。

「おしゃべり?真夜中に冷たい風に当たりながら、望月さんとおしゃべりする趣味は、私にはないわ。

望月さんこそ面白いわね。こんな時間にドアを叩き続け、無理やり人の眠りを覚ますなんて」

静華はそう言うと、振り返って大きな音を立ててドアを閉めた。

胤道の視線がりんの顔に向けられた。怒りも、特に感情も見せないが、その目はやや長く留まり、やがて尋ねた。

「そんな格好で、寒くないのか?」

りんが寒くないはずがない。だが、胤道がこんな遅くまで浴室にいるとは予想もしていなかった。

しかし、そう聞かれたからには、りんはそれに乗じ、身を縮めて胤道に寄り添った。

りんは恥じらうように言った。

「胤道、そう言われると、少し寒く感じてきたわ……中に入れて、温めてくれない?」

胤道は彼女を拒まず、考えているようだった。りんは内心で期待を抱いたが、すぐに胤道は彼女を軽く押した。

「森が隣にいる。彼女は俺の子を身籠っているんだ」

りんは顔を上げた。胤道の眉は強く寄せられており、どうやら気持ちはありそうだが、ただ静華がすぐそばにいるため、露骨にはできないのだろう。

彼女は静華を煩わしく思うと同時に、内心ではほくそ笑んでいた。それなら、静華の目の届かない場所でなら、二人は……

「分かってるわ。でも、胤道、人には感情や欲望があるものよ。あなたに辛い思いをさせたくないの。本当に森さんのことが気になるなら、外で会ってもいいのよ……」

りんは様子をうかがうように胤道を見つめた。

案の定、胤道の表情は柔らかくなり、りんの提案を断ろうとしなかった。

「また機会があればな」

そう言うと、彼はドアを閉めた。りんは、それでも大いに満足した。

「機会があれば」という言葉はあまりに曖昧だが、それが胤道の静華への気持ちが、完全に一途ではない証拠でもあったからだ。

彼女はただその機会を作り、少しずつ胤道を自分のものにすればいい……

胤道の変化に、りんの心は言いようのない喜びで満たされ、興奮のあまり深夜になっても眠れなかった。

朝、階下へ降りると、リビングに一人の見慣れない女性がいた。

その
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