LOGINミサを終え儀礼用の衣装を脱いで、普段着になったアーサーは一人、息を吐いた。
やっと本当の意味で自分に課せられた一日の重い役目から解放されたと言う、これ以上ないほどの安堵に包まれた。 「お疲れ様です。アーサー様」 「うん、ピーターもお疲れさま。今日もありがとう」 アーサーが着ていた儀礼服の抜け殻を抱えたピーターの労いにアーサーは上の空で頷くと、足早に教会を後にして居住区である司祭館へと向かい階段を上がる。 向かう先は病床の司祭長ジャイルズの部屋ではなく、自室よりも奥に、隠れるように配置された小さな部屋だった。 小窓も無い扉をノックもせずに開けて中に入ると、そこにはアーサーの母エレインが居た。 そこは私生児を生んだ女として公式的には居ないものとされ、隠れるように暮らす事を強いられているエレインの自室であった。 誰も来ない内に扉を閉め、背中で深く息を吐き出す。そこでようやく、アーサーは顔に張り付いていた『若き司祭』の仮面を剥ぎ取ることができた。 「ただいま、母さん」 「お帰り、アーサー」 二人は余計な事は語らず狭い部屋に置かれた小さなテーブルの席に着いて向かい合う。 そこには粗末ながらパンと干し肉と木の実、手のひらサイズのお椀に冷えたスープが二人分置かれていた。 これはエレインがアーサーのために用意した家族だけの夕食だ。 二人がこんな食事をしているなんて誰も知らないし、教会のしきたりからも切り離された、知られてはいけないものだった。 それでも、唯一誰の目にも触れない、このささやかな夕食の時間だけは、エレインとアーサーは普通の親子に戻る事が出来るのだ。 カトラリーもろくに揃っていないのでマナーも気にせず、アーサーはラフに干し肉を齧り、お椀に直接口を付けてスープを啜りながら、今日一日のことを二人はお互いに報告し語り合った。 だが、二人の間で交わされる話題は明るいものばかりで、苦しい話題が上がる事は無かった。 そんな分りきったことは、わざわざ口にする必要が無いからだ。 今はただ、普通でありきたりの温かな親子だけがそこに居た。 エレインもアーサーの思いを察し、余計なことは言わずにアーサーを労い、幼い子にするように頭や頬を撫でてやるだけだった。親子の短い触れ合いの後、何事も無かったかのようにアーサーは司祭長のジャイルズに今日の報告を済ませた。それから形式ばかりの夕食を終え、ようやく自室で自分だけの時間を迎える。
アーサーは読書や書き物といった、これまた短い余暇を楽しみつつも、机の上に置かれた蝋燭が短くなっていくのを、彼は幾度となく気にしていた。 やがて時が来ると、寝る前の祈りを捧げる。その最中、部屋の戸が控えめにノックされ、ピーターが顔を出した。 「アーサー、寝る準備はできていますか?」 二人きりの場ゆえ、その口調は日中よりも幾分かフランクだ。館の見回りついでにアーサーの様子を確認するのは、教区書記であり全ての管理を預かるピーターの、夜の日課だった。 「うん。祈りも済ませたから、これから休むところだよ」 「それなら良かったです。お疲れなのですから、夜更かしせずに体を休めてくださいね」 アーサーの世話役として彼を熟知しているピーターは、放っておくと朝まで熱心に机に向かいかねない主を、心から案じていた。 「もちろんだよ。おやすみ、ピーター」 「ふむ……おやすみなさい、アーサー」 扉が閉まり、足音が遠ざかる。 ピーターの気配が完全に消えたのを確認すると、アーサーはベッドには入らず、自分を案じてくれた彼に対して心の中で小さく詫びた。そしてベッドの下から、一着の服を取り出す。 それは使い古されて色が褪せ、汗と土の匂いが染み付いた、粗末な麻のチュニックと革のズボンだった。昼間の華やかな礼服とは真逆の、泥臭い「男」の格好だ。 素早く着替えを終えると、次はクローゼットの奥へと手を伸ばす。二重底に隠された板を外すと、そこには一本のロングソードが眠っていた。 「……やっぱり、格好良いな」 鈍く光る練習用の武具を手にするだけで、アーサーの心に熱い火が灯る。 以前、村を訪れた行商人からこっそりと買い取ったそれは、騎士が訓練で使う本格的な造りだった。粗末な村人の格好に、不釣り合いなほど立派な剣。そのアンバランスさこそが、今のアーサーの歪な正体そのものだった。 装備を整えたアーサーは、窓をそっと開き、音もなく外へと滑り出した。 二階からの脱出は一見無謀に見えるが、茅葺のハーフティンバー式建築で建てられた司祭館の一部は石造りになっていて、足掛かりとなる突起は多かった。多少の登り降りくらい、鍛えられたアーサーの身体能力ならば、ロープすら必要ない造作もないことだった。 重い剣を背負ったまま慣れた動きで着地し、彼は建物の裏手に広がる深い森へと消えていった。暗闇に沈んだ森の中でも、アーサーの足取りは驚くほど軽やかだ。
木々の間を縫うように数分ほど走り抜けると、不意に視界が開け、小さな広場が現れた。そこは知る者ぞ知る、アーサーだけの特訓場。 高貴な身分や聖職にある者が、平民や兵士のように汗を流して体を動かすのは、この時代では「はしたない行為」として禁忌に近い。だからこそ、彼は誰にも内緒で、夜な夜なここで牙を研いでいるのだ。 広場の中心にある焚き火跡に屈み込み、アーサーは火起こしを始めた。 火口(ほくち)にフリントを打ち付ける。静まり返った夜の闇に、『カチッ、カチッ』という硬質な音が響き、散った火花が小さな命を宿した。優しく息を吹き育てれば、松脂の染みた炭から炎が上がり、ゆらゆらとアーサーの顔を照らし出す。 そこにいたのは、昼間の穏やかな司祭ではない。獲物を狙う、一人の男の顔だった。周囲数メートルが見渡せるほどに火を大きくすると、アーサーは立ち上がり、ロングソードを近くの巨石に立てかけた。 特訓の始まりは、決まって準備運動からだ。 まずは自作の、砂利を詰めた土嚢を担いで広場を走り込む。次に近くの木の枝を掴み、懸垂を繰り返す。筋肉を限界まで苛め抜いた後は、爆発的な瞬発力を養うためのダッシュ。
全身が汗だくになり、体が芯から熱を帯びてきたところで、ようやくロングソードを手にする。 「1、2。1、2……!」 鋭い掛け声と共に、剣を振り抜く。安全のために鞘に納めたままの剣は、その分だけ重さを増していたが、アーサーは迷いなくそれを振り続けた。 すべては書籍から得た、独学の知識だ。 幼い頃、ピーターに剣術の師を付けてほしいと何度も懇願したが、「アーサー様は我らが守ります。安心して学問に励みなさい」とはぐらかされるばかりだった。だから彼は、本を読み、見よう見まねでここまで来た。 始めた当初はろくに構えることすらできなかった重い剣が、今や風を切る音を立てている。だが、実戦としての「剣術」は未だに霧の中だ。本を読むだけでは分からない、命のやり取り。 それでも、汗を流し、筋肉を震わせている時だけは、無力な自分から別の何者かへと変わっていけるような気がした。 アーサーは弱い。貴族としての権威もなく、司祭としても未熟で、ルーシーのような哀れな少女に手を差し伸べることすらできなかった。 だからこそ、いつか自分の力で運命を切り開き、大事な人たちを救いたい。その切実な祈りが、彼を突き動かしていた。 そうやって、一心不乱に剣を振っていた、その時だった。 雲が切れた。 月の光が、森の梢の隙間から差し込み、焚き火の明かりと混ざり合って地面を白く照らし出す。 その瞬間、アーサーは自分の秘密が、闇ごと剥ぎ取られたような錯覚に襲われた。 「……まさか、こんな夜中に誰かいるわけないよね」 慌てて周囲を見渡す。 木々は沈黙し、草むらも揺れていない。人の気配など、どこにもない。 それでも、背筋を這う嫌な汗だけが引かなかった。 今日はもう切り上げよう。 そう決めて、アーサーは急いで焚き火を消し、荷物をまとめ始めた。 その時だった。 視界の端で、白いものが動いた。 「……っ」 反射的に顔を上げる。 焚き火の残り火の向こう、月光の落ちる木立の間に、白銀に輝く大きな影が立っていた。 距離はある。顔は見えない。 だが、それは獣ではない。 人の形をしていた。 「ひ……っ」 喉が引きつり、情けない声が漏れる。 白い影は、幽霊(レイス)のように揺らめきながら、音もなくそこに佇んでいた。風に揺れたのか、こちらを見たのか。影の奥で、赤いものが微かに光った。 目だ。 そう理解した瞬間、アーサーの頭は真っ白になった。 魔物への恐怖よりも先に、背筋を這い上がったのは別の絶望だった。 見られた──剣を振る自分を。 司祭としても、貴族の子としても許されない、こんな姿の自分を。 逃げるべきか。声をかけるべきか。それとも、剣を構えるべきか。 アーサーが迷っている間に、白い影はすっと後ろへ退いた。 次の瞬間には、霧が晴れるように森の闇へ溶けていた。 ほんの数秒の出来事だった。 一言も発さず、足音すら残さず消えたそれは、幻だったのかもしれない。 だが、父である伯爵が送り込んだ新たな監視者である可能性も捨てきれなかった。 アーサーは震える手で荷物を抱え、逃げるように司祭館の自室へと舞い戻った。その晩。彼は子供のように毛布を頭から被り、今にも誰かが部屋に踏み込んでくるのではないかと震えて過ごした。だが、結局夜明けまで誰も現れることはなく、あまりの緊張感に、彼はいつの間にか意識を失うように寝入ってしまった。
次に目を覚ましたのは、無情にも朝の訪れを告げる、教会の鐘の音だった。 【続く】夕方の空が、森の端からゆっくりと茜色に染まり始めていた。 ウルフの寝床になっている納屋の近くでは、小さな焚火がぱちぱちと音を立てている。 焚火の上では、魚や肉を刺した串がじゅうじゅうと美味しそうな音を立てていた。脂が火に落ちるたび、香ばしい匂いがふわりと広がる。「はい、アーサー。これは熱いから気をつけて」「ありがとう、母さん」 エレインが久々に明るい顔で食事を配っていた。 アーサーは受け取った皿を両手で持ちながら、その穏やかな表情をしばらく見つめてしまう。「どうしたの?」「ううん。何でもない」 アーサーは小さく笑って、焚火のそばへ腰を下ろした。 隣ではルーシーが串の魚を大事そうに持ち、アリスは肉の焼け具合を見ながら、火の向きを少し整えている。「これ、もう食べていい?」「まだ。外だけ焦げて中が生だったら嫌でしょ」「アリスって、食べ物のことになるとすごく真剣だよね」「そりゃ、食べ物のことだからね。でも食べ物に一番うるさいのはアーサーでしょ!」「確かにそうね!」 そう言ってアリスはアーサーに悪戯っぽい笑みを向けた。 そんなやり取りに、アーサーは「え!? そうかな??」と頭を掻きつつ楽しそうに笑った。(何か、変な感じだ……) アーサーは焚火を囲む顔ぶれを見渡して不思議な気持ちになる。 少し前まで、こんなふうに皆で火を囲んで食事ができる日が来るとは思っていなかったからだ。 ルーシーは疑いを晴らし、村の空気も少しずつ落ち着きを取り戻している。ウルフも、まだ仏頂面ではあるが、教会の敷地内にいることを拒まなくなった。 もっとも、そのウルフだけは焚火の輪の中で一人、ひどく疲れた顔をしていたが。 連日のようにアーサーに構われ、ルーシーに礼を言われ、アリスに面白がられ、エレインには食事の心配までされている。森で一人静かに過ごしていた時とは、まるで違う騒がしさだった。「ウルフさん、お肉もう一本食べる?」「……いらん」「でも、さっきから魚しか食べてないよ?」「寝る前に肉を食べ過ぎると体がちゃんと休まらないし、もう十分食っている」 ウルフは低く答え、串焼きのローチにかぶりついた。 その横顔は、戦場帰りの兵士というより、群がる子犬に追い回された狼のようだった。 アーサーはその様子を見て、しみじみと息を吐く。「これが平和ってやつかな
また、別の日。 司祭館にある書類の作業場には、蜜蝋と乾いた羊皮紙、そしてインクの匂いが混じっていた。 午後の光が高い窓から斜めに差し込み、木机の上に積まれた帳簿や紙束を淡く照らしている。 その中央で、アーサーはひどく真剣な顔をして羽根ペンを走らせていた。 ミサの説教を書いている時よりも、聖務日課を確認している時よりも、あるいは告解の内容を思い返している時よりも、よほど深刻そうな顔である。 傍らに置かれた紙束の表紙には、几帳面な文字でこう記されていた。『養蜂箱増設の覚え』「……養蜂箱増設の覚え?」 横からそれを覗き込んだアリスが、何とも言えない顔をした。「村での販売分を増やしたのも、その一環?」 アーサーは羽根ペンを止めず、真顔のまま答えた。「三十%も収穫報告が減らされたんだよ? だったら、その分を僕がどう使ったっていいだろ。蜂蜜で救える命は多いんだし」 その声には、静かな怒りがこもっていた。 だが、内容は蜂蜜である。 真剣なのは分かる。分かるのだが、作業場の空気はどこか妙に締まらなかった。 そばで椅子に腰かけていたルーシーが、ぱちぱちと瞬きをしてから、無邪気に口を挟む。「でも、アーサー、趣味って言われたのが一番怒ってたよね」「…………」 アーサーは無言でペンを置いた。 そして、次の瞬間、力尽きたように机へ突っ伏した。「趣味じゃない……これは教会の慈善事業で、診療所の薬材確保で、村の栄養改善で、蝋燭の原料調達で……」 机に額を押しつけたまま、くぐもった声でぶつぶつと言う。 アリスは苦笑しながら、彼の肩を軽く叩いた。「で、でも、高価な蜂蜜が安価で手に入って嬉しいって、みんな喜んでたから。ね?」「……それは、よかった」 アーサーは机に突っ伏したまま、少しだけ声を和らげた。 その様子を、作業場の隅に腰を下ろして眺めていたウルフが、深々と呆れたように息を吐く。「よく分からん」 蜂蜜の収穫量を増やしただけで、なぜここまで人が沈み、慰められ、計画書まで作るのか。 武人の彼にはまるで理解できなかった。 ウィンドル川の浅瀬では、今日も村人たちが思い思いに手を動かしていた。 女たちは桶を並べて衣類を洗い、若い男たちは道具についた泥を落とし、子どもたちは大人たちの邪魔にならない範囲で水際を行ったり来たりしている。 夏の陽
早朝、薄明るい空へ教会の鐘が鳴り響く。 代官トーマスへ呪いの真実を突き付け、理不尽な振る舞いを改めるよう話し合った、あの清めの夜から数日。 村は静かに変化していた。 朝のミサを終え、アーサーが村人たちを見送っていると、以前より明らかに人々の態度が柔らかい。 老人は帽子を取って挨拶し、主婦は蜂蜜を買いたいと声を掛け、子供たちはルーシーへ笑顔を向けている。 そんな様子に、アーサーは戸惑いながらも、ぎこちなく応じた。 呪いの件は、表向きには森に溜まった瘴気が水へ溶け出したもので、流浪人とは無関係とされた。さらに、その瘴気もアーサーの清めの儀式によって霧散したことになっている。 そのため村人たちは、前にも増して若き司祭へ尊敬の眼差しを向けていた――アーサーには、それが何だか居心地悪かった。(だって今回真相解明で一番頑張ったのはウルフやアリスだったのに、ただ祈ってただけの僕が聖人みたいな扱い受けるのは、何か違うだろー……) そんなアーサーの内心を察してか、隣に立つピーターが周囲へ聞こえぬよう小声で語りかけた。「どんな形であれ、あなたが居たから事件が解決したのは確かなので、もっと自信を持ちなさい」 アーサーは村人たちの背を見送りながら、落ち着かなげに視線を揺らす。「そう、かな……?」 ピーターはわずかに肩をすくめ、諭すように言葉を継いだ。「どれほど証拠があっても、間違っていると代官殿へ言える者がいなければ届きませんでした」 その言葉に、アーサーは小さく息を呑む。「……確かに」「ルーシーの件も、あの夜も同じです。あなたがいたから押し切れなかった。それが、あなたの持つ高貴な血の力です」 アーサーは思わず胸元へ手を当て、複雑そうに眉を寄せた。「血……僕の持つ、クロムウェルの──貴族の血……ウルフのような賢さや、アリスの持つ勇気、ルーシーの優しさ、もちろんピーターさんのその聡明さも、血のあるなしで霞んでしまうなんて、おかしいよ……」 ピーターはそんな若き主人を見つめ、珍しくやわらかな笑みを浮かべる。「逆です。あなたが正しく使えば、埋もれた力を生かせるのですよ」 二人でしんみりとそんな会話を交わしていると、ふと澄んだ声が掛かった。「アーサー兄さま」 会話に集中していて周囲のことを忘れていたアーサーは、びくりと肩を跳ねさせる。「ルーシー
村人たちをすべて家へ帰した後――。 期待に胸を膨らませたトーマスが司祭館へ足を踏み入れると、そこにはウルフ、アリス、ミルナー夫妻、ピーター、そしてアーサーの母エレインがずらりと並んで待ち構えていた。さらに床には、顔へ袋を被せられ、縄で縛り上げられた羊飼いたちまで転がされている。 その異様な光景に、トーマスの思考は一瞬止まった。 呆然としたまま視線を巡らせる。すると部屋の奥には、本来なら資料室にあるはずの税務や経理関係のロール紙、帳簿の束が積み上げられていた。 次の瞬間、トーマスは激昂して叫ぶ。「これはどういうことだ、泥棒どもが!!」 ひと目で、それが代官邸から持ち出された機密資料だと分かった。同時に、自分がまんまと嵌められたことも悟る。「アーサー、貴様! 私を騙したのか! 誠実であるべき神の子が! 日中、私に語った言葉は偽りだったのか!?」 怒声を浴びせられても、アーサーは驚くほど冷静に首を横へ振った。やがて一本のロールを手に取り、静かに前へ進み出る。「いいえ、トーマスさん。あの時、あの瞬間に貴方へ吐露した気持ちに嘘はございません。貴方が私へ長くご指導くださったことは、まごうことなき一つの真実です。師の教えに背いた自分を恥じ、心から謝罪もいたしました」 その落ち着き払った返答に、トーマスはますます顔を紅潮させる。「ではこれは一体なんだ! どうして我が家に置いてあるものがここにあり、いなくなったはずの流浪人の野蛮人が居て、羊飼いが居て、それにミルナーまでここにいるのか!?」 唾を飛ばさんばかりに怒鳴るトーマスへ、アーサーは一歩も退かず、真っ直ぐ視線を返した。「私が自分の間違いを認めたことと、皆が貴方へ確かめたいことがあるのとは、別の話です。ゆえに、こうして集まっていただきました。代官殿」 その言葉に、周囲の面々も黙したままトーマスを見据える。「確かめたいことだと!?」 声を荒らげるトーマスへ、アーサーは今度こそはっきりと言い切った。「そうです。一つは森の警備犬のこと。警備犬を管理する羊飼いたちが、私たちの生活の要であるウィンドル川で、犬を危険な薬品で洗っていたこと。そして何より、ペンストレイト様へ納めている領民の税についてです!」「それは……」 そこまで聞いた瞬間、トーマスの顔から血の気が引いた。 ついにアーサーは、もはや看
その晩、夜のミサを終えて数時間後の夜半。ウルフの粗末な天幕(テント)が残された結界の前には、日曜ミサ用の最も豪華な祭礼服を纏ったアーサーと、上等な礼服の上から教会より渡された儀礼用の白い豪華なローブを肩に掛けたトーマスが並んで立っていた。 周囲には、儀式の知らせを聞きつけて集まった村人たちが幾重にも取り巻き、二人の様子を固唾を呑んで見守っている。夜気の中、無数の松明だけが赤々と揺れていた。 アーサーは静かに息を整えると、周囲の村人たちをゆっくりと見渡した。集まった人々の顔には、不安と期待と好奇の色が入り混じっている。やがて松明の明かりに白いローブを輝かせ、ひときわ目立つトーマス代官へ視線を向け、短く敬意を示すように頷いた。「集いし兄弟姉妹、そしてトーマス代官殿。この夜半、恐れと不安の中、ここに集まってくださった皆様に、主の平和がありますように。 我らが代官殿は、疫病の蔓延を防ぐため、公衆の安全を第一に考える賢明な措置として、この隔離の縄を張られました。この縄は、病が広がるのを防ぐ物理的な境界として、その役目を果たしました。これには感謝せねばなりません」 厳かな声が夜の広場へ響き渡る。 その言葉に、トーマスが一瞬満足げに頷くのを、アーサーは見逃さなかった。 だが、そ知らぬふりで説法を続ける。「しかし、皆さんの顔を見てください。そして、ご自身の胸の内へ耳を澄ませてください。縄が張られてもなお、病への恐怖と、隣人への疑念は消えてはいません。 これは、病とは別の、魂の病です。人が張った縄は、肉体の病の広がりを止められても、魂に巣食った呪い――すなわち、神への信頼を失った我らの『疑念』を断ち切ることはできないのです。 神は、私たちに『見知らぬ者を恐れるな』と命じておられます。この縄が今や、我らの心を縛る『不信と恐怖の鎖』となってしまっている。これこそ、真に清められるべき穢れなのです」 松明の火が揺れるたび、集まった村人たちの顔にも明暗が走った。誰も口を開かず、ただアーサーの声に耳を傾けている。「故に、本日、私はこの場に立っています。人が張った縄の効力を、神の絶対的な慈悲と力をもって完成させるために。 この儀式は、縄を破るものではありません。代官殿の賢明な隔離の措置の上に、神の永遠の権威を重ね、この結界を『恐怖の象徴』から『神の慈悲による解放の記念
一行が代官邸へ着くと、従者に導かれて行き着いた先は、謁見室ではなく応接間だった。 トーマス・バートンは、暖炉の前に置かれた背の高いアームチェアへ深く腰掛け、両手を革張りの肘掛けに置いていた。室内の空気は重く、温かい。謁見室から続く通路の先に位置するこの応接間には、昼間であっても外の騒々しさがほとんど届かない。 窓際の光が差す場所では、妻が白い布地へ針を進めている。刺繍糸が細かく、規則正しく布を擦るたび、トーマスは満足感を覚えた。この静謐な空間こそ、自分がこの屋敷で享受する権力と秩序の象徴だった。彼は妻の存在を、意識的に、そして無言の道具として用いている。(この静けさの中で、あの若造はどれほどの苦痛を感じるだろうか?) トーマスは、数分後に会う予定のアーサー・クロムウェルのことを考えていた。司祭代理という聖職にある若者が、自ら「謝罪と相談」のために訪れる。これは、ウルフの件で仕掛けた小さな揺さぶりの勝利であり、自らの支配が教会の権威にまで及んだという、公然たる証明に等しかった。 短くノックが響いた後、従者が重い扉を開け、声を上げた。「旦那様、クロムウェル司祭代理様がお見えになりました」 トーマスは微動だにしない。許可を待たず、従者は一歩下がって扉を開け放つ。 入室したアーサーの視線は、まず窓際の妻へ向けられ、次いで部屋の奥、暖炉の前に座るトーマスへ移った。外光を背にした妻の姿は影となり、顔の表情までは読み取れない。一方、暖炉の光に照らされたトーマスの顔は、冷たい岩のように明確だった。 トーマスの目に映るアーサーは、完璧な司祭服を身につけているにもかかわらず、顔色は昼の空のように青白い。手に持った帽子を握る指先には、汗まで滲んでいるように見えた。(さて、この羊は、いかにして私を欺こうとするだろうか?) 内心で笑みを噛み殺しながら、トーマスは最も権威ある主人のように、厳かに口を開いた。「よく来たな、アーサー。座りなさい。妻もいる。遠慮はいらないよ」 そう言って視線だけをアーサーの背後へ流す。そこに立つピーターと目が合うと、相手は軽く会釈し、何も言わず応接間の外へ姿を消した。 完全に一人残されたアーサーは、不安を隠しきれない面持ちで立ち尽くしている。その様子に、トーマスの胸の内はひどく高揚していった。 アーサーはひどく憔悴した様子で、暖炉を