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#4.第一話「これが、僕の四角い世界」③

Author: あともす
last update publish date: 2026-07-09 18:57:30

 代官夫人ヘレナが月に数度開く「淑女の集い」は、元貴族の女たちが、自分たちの失われた地位を再現するための「貴族ごっこ」だった。それは、厳格なマナーと閉鎖的な空間を持つ閉じた劇場であり、その指導を完璧にクリアした者には、立身出世の切符が与えられる。  アーサーは、そんな場でただ一人の男性参加者だった。正式な社交界には出られない私生児の彼にとって、ここは貴族のマナーを実地で学ぶ数少ない練習の場だったのだ。

 代官邸の応接間であるパーラーの扉が開かれ、正装を身にまとったアーサーが入室した瞬間、その場にいた女たちの視線が一斉に彼へと注がれた。

 昼間でも若干薄暗い室内で、普段の地味な司祭服からは考えられないほど端正なその姿は、場の空気を一変させた。深いフォレストグリーンの上着の輝きは木漏れ日のようであり、肩より上の深紅の帽子(シャペロン)の赤は、彼の内に秘める情熱のように鮮やかだ。

 アーサーはシャペロンを脱いで従者に渡すと、優雅な歩みで進み出て、主宰であるヘレナの椅子に手を掛け、静かに引いた。

「どうぞお座りください」

 その姿に見惚れていたヘレナは、声を掛けられるとハッとして、慌てて席へと座った。

 それを皮切りにアーサーは順々にテーブルに沿って並べられた席を引き、女たちを座らせると、最後にヘレナの側にある席に戻って自分も腰掛けた。

 スラリと姿勢良く腰掛けた横顔は、大人びた髪型と相まって伯爵令息の名に恥じない紳士そのものだった。それでいてそばかすの散る頬には少年のあどけなさが残り、それが女たちの母性をくすぐるのだ。

 飾られた人形を愛でるようにアーサーの顔を見ていた夫人の一人は、彼の明るい緑の眼差しと、ニコリとした微笑みを返されてしまい、思わず慌てて視線を逸らし扇子で顔を隠した。

 すっかり場の空気を持って行ってしまったアーサーの様子に、ヘレナは面白くなさそうに内心ムッとした。彼女は小さく咳払いをして、声を上げる。

「皆様。本日はお日柄も良く、無事『淑女の集い』を開催できたことを嬉しく思います。人々の手本となる成熟した女として、美しく優雅にお楽しみくださいませ」

 乾杯の音頭と共に宴はゆったりと始まった。

 ヘレナが優雅に声を上げると、お茶と菓子が運び込まれ、ようやく歓談が始まった。だが、その会話は表面的な美しさと裏腹に、アーサーにとっては張り詰めた拷問の時間だった。

「アーサー様、フォークの角度が1度違いますわ。王都の社交界では、その程度の歪みも嘲笑の種ですよ」

 ヘレナが優雅な笑みを浮かべたまま、重箱の隅をつつくような指摘をする。

「あら、本当に。それから、今日はもう司祭館の備品リストは確認しました? 万が一不備があっては、このグリーブ地のクロムウェル家の名に傷がつきます」

 マーサがそれに加勢する。彼女たちは、アーサーが伯爵の私生児であること、そして代理司祭という不安定な立場にあることを知っていて、わざと王都の貴族としての完璧さや、司祭としての行政能力を執拗に問いただしてくるのだ。

 アーサーは内心で胃がキリキリと痛み出すのを感じながら、汗が滲む手にカップを握りしめ、苦笑いでそれらをかわすしかなかった。

 そんな中、給仕の時間が訪れた。

 来客用の使用人衣装姿の母、エレインが、ヘレナの席へと近づき、静かにポットから紅茶を注ぐ。

「エレイン。もう少し熱い湯を。あと、そのお盆の縁についている埃が見えないの? 貴族のご婦人方にお出しするものですから、完璧になさい」

 ヘレナはわざとアーサーの耳に届くよう、厳しく、冷たいトーンで母を叱責した。母は顔色一つ変えず、恭しく頭を下げる。

 その光景に、アーサーの心臓はギュッと締め付けられた。

 昼間、トーマスに嘲弄されるのは耐えられる。だが、母が自分の目の前で給仕の役割を強いられ、見下されることは、堪え難い屈辱だった。豪華な食事の香りさえ、今や鉄の味がする。

 鬱々とした気持ちのまま、アーサーが機械的に食事を口に運んでいると、女たちが交わす様々な話題が耳に入って来る。

 主に村で起きた物事について、実際に見た話はもちろん。いちの推論を十に膨らませたりと真偽の怪しい話が楽し気に飛び交っている。

 ほとんどはアーサーにとって興味の無い内容ばかりだが、たまに面白そうな話も混じっていたりする。

 例えば、『最近村に流れて来た流浪人』の話とか。

 旅行記とか冒険譚が好きなアーサーは思わずその流浪人の話に聞き入ってしまう。

「例の流浪人がね、先日村の男たちと……」

 流浪人が、何だって? 興味深い話に思わずアーサーは女たちの会話に混じる隙をうかがってみるが──。

 その時、向かいに座っていた中年の夫人が、アーサーに身を乗り出してきた。

 彼女の動きにアーサーの聞き耳は完全に寸断され、残念に思いつつ、夫人へと向き直った。

「アーサー様は、本当に素敵でいらっしゃる。まるで絵から抜け出てきたようね。ところで、司祭様は、夜はお一人で寂しくないのかしら?」

 彼女は、マナーとは全く関係のない、個人的な、誘いを匂わせるような問いかけをした。

 アーサーは、これが社交界の「駆け引き」や「口説き文句」であるとは教えられていない。彼は、これを教会の司祭に対する真面目な相談だと受け止めてしまった。

「ええと……」

 アーサーは真剣に考え込んで答えた。

「寂しさとは、信仰を通じて埋めるべきものです。僕は毎日、聖務と勉学で忙しく、寂しさを感じる暇はありません。もし、貴女が孤独を感じていらっしゃるのであれば、ミサへの参加をお勧めします」

 彼のあまりにも真面目な受け答えに、夫人たちは一瞬固まり、次の瞬間、堪えきれないといったように、くすくすと笑い声を漏らした。

「まぁ、真面目で可愛らしい!」

「私たちの孤独を、信仰で埋めてくださるんですって。奥ゆかしいわね」

 女たちは扇子で口元を隠し、アーサーの反応を観察して楽しんでいる。彼女たちは、純粋な彼の困惑した表情を見て、さらに面白がっているのだ。

「では、夜は読書をなさっているの? 私なら、毎晩あなたの読み聞かせを聞きに行きたいのだけれど」

 別の夫人が、甘ったるい声で追い討ちをかける。

 アーサーは、読書は個人的な趣味であり、聖務ではないと慌てて否定した。

「夜間の訪問は司祭として適切ではありませんし、読み聞かせをするにしても、教会の書物は娯楽向きではありません。もしよろしければ、ジャイルズ司祭長がお勧めの、宗教的な物語をお教えできますが……」

 彼は、真面目に解決策を提示しているつもりだったが、その純粋な受け答えこそが、女たちをさらに夢中にさせていた。アーサーの真剣な困惑と、それを楽しむ女たちの視線が、彼の精神を容赦なく削っていく。

(早く、早くここから抜け出したい……!)

アーサーは九時課、昼下がりのお祈りを理由に中座する時間まで、まだ数時間もあることに絶望した。

 胃がキリキリと痛み、優雅な貴族の服の下で、アーサーの心は既に限界だった。女たちの甘い視線と、ヘレナの針のように鋭い指摘が、彼の精神を容赦なく削っていく。

「――皆様、申し訳ございません」

 アーサーは意を決して、テーブルから立ち上がった。女たちの視線が一斉に彼に集まる。

「九時課(None)の祈りの時間が迫っております。教会の聖務がありますので、ここで中座させていただきます」

 ヘレナは不満を隠しきれない顔をしたが、聖務という大義名分を崩すことはできない。

「まぁ、聖務とあらば仕方ありませんわね。ご熱心なことで。どうぞ、神のお導きを」

 皮肉のこもった言葉だったが、アーサーは深々と頭を下げた。これが、今の彼にできる精一杯の抵抗だった。

「マーサさん、僕は先に帰りますが、あなたも早く教会に戻ってくださいね」

 アーサーは母エレインを気にかけつつ、マーサに声をかけた。

 マーサは、優雅にカップの紅茶を飲み干しながら、優越感に満ちた目で答えた。

「いいえ、アーサー様。私はまだ夫人方と楽しい歓談が続きますので。使用人と言えど、ペンストレイトの者としての立場もありますし。先にお戻りくださいまし」

(何が立場だ。彼女はここで、自分たちが貴族であるというごっこ遊びを続けていたいだけに過ぎない)

 アーサーは内心そう思いながらも、この場で彼女を連れ出すことはできなかった。母エレインが奥で控えているのを一瞥し、苦々しい気持ちを飲み込んでパーラーを後にした。

 帰りの馬車を断って代官邸の重い門を出た瞬間、爽やかな春の空気がアーサーを包んだ。薄暗い天井の無い、抜けるような青い空を見上げるとやっと、あの閉鎖的な空間から逃げ出せたという安堵が、全身を駆け巡った。

(流石にこの時期ともなると、外を歩くにはこの格好は暑いな)

 日中の日差しの下を歩くのに、この通気性の悪い上着を直ぐにでも剝ぎ取ってしまいたい衝動に駆られるが、生憎大量のボタンで彩られた上着をこの場で自力で外すのは少々困難であり、げんなりした気持ちになる。

 こんな事なら大人しく馬車で帰れば良かったと思ったが、そんな事をすれば未だ淑女の集いを楽しんでいる、ペンストレイトの息がかかった傲慢な使用人マーサに後で何を言われるか分からなかった。

 きっと『司祭様、お祈りには間に合いました? 大丈夫ですよね。馬車なら教会まで直ぐですもの。ああ、私どものことは気になさらないで下さい。使用人の鍛えられた足なら、馬車馬に負けたり致しませんわ』などの嫌味を言って来るだろう。

 だったら、馬車は女たちに残してアーサーは大人しく歩いて帰ることを選ぶ。

 暑苦しい深紅の帽子を脱ぎ、通気性の悪い上着の首元を緩めつつ、そんな事を考えながら歩き出したアーサーだったが、村の広場を過ぎたあたりでふと足を止めて立ち尽くした。 暑苦しい深紅の帽子を脱ぎ、通気性の悪い上着の首元を緩めつつ、そんな事を考えながら歩き出したアーサーだったが、村の広場を過ぎたあたりでふと足を止めて立ち尽くした。

 アーサーが進む先の視界に、教会の入り口へと続く石畳を必死に磨いているルーシーの姿が飛び込んできたからだ。

「……っ」

 思わず駆け寄りそうになったアーサーの足が、ぴたりと止まる。

 ルーシーは、木桶に入った濁った水で何度も布を絞り、四つん這いで硬い藁を束ねたタワシで必死に歪な平石の汚れを落としていた。その背中には、村の監視役が投げかける「もっと手を動かせ!」という鋭い怒声が浴びせられている。

 その光景にアーサーの背筋が凍り、血が沸騰するかのような怒りを覚えたが、咄嗟に怒鳴りつけそうになった唇を噛み締めて閉じ、駆け出しそうになる足を抑えてその場に踏ん張り堪えた。

(助けたい。でも……)

 今のアーサーは、最高級のフォレストグリーンの正装に、鮮やかな深紅のシャペロン帽を手に持った「伯爵令息」の姿だ。

 ここで彼が声をかければ、ルーシーは「高貴な坊ちゃんに色目を使った」と、余計に厳しい仕打ちを受けることになる。今の自分には、ただの司祭として振る舞うことすら許されない。

 ただ、『完璧な貴族』を演じて通り過ぎることだけだった。

 アーサーは唇を噛み締め、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、彼女の横を通り過ぎる。

 心の中では何度も謝りながら。

 ようやく教会の敷地内に入ると、一羽の隼が鋭い鳴き声を上げて舞い降りてきた。

「――アーサー様! お帰りなさいませ!」

 教会の敷地に入るなり駆け寄ってきたのは、村の上役の娘、アリスだった。彼女の手には、アーサーの愛鳥ノヴァがいる。

 彼女は恐らく、奉仕作業の途中だったのだろう。人目を気にしてるとは言え、友人に『様』付けで呼ばれるのは少々心淋しいが仕方ない。

「アリス……」

「まぁ、そんなに顔色を悪くして。またあの交流会で、意地悪なことでも言われたのでしょう? さあ、ノヴァも心配していますよ。少し休んでくださいな」

「……うん」

 代官邸のことは兎も角、ルーシーのことを話題に出せずに曖昧に笑う事しか出来ないが、それでもアリスの屈託のない笑顔と、ノヴァの温かい羽の感触を感じていると、すべての痛ましい出来事で凍りついていたアーサーの心が、ここでようやく少しだけ、溶け始めるのを感じた。

 司祭としての聖務は、無力なアーサーの存在に少なからず意味を与えてくれていると感じている。

 名ばかりの責務ばかり押し付けられる伯爵家の貴族の血筋や正装では、アーサーの愛すべき友や家族を守ることは出来ないが、神の後ろ盾の前では誰もが形ばかりでも誰もがアーサーの言葉に耳を傾けてくれる。

 夜のミサでは昼間の意趣返しと言う訳では無いが、力あるものがそれを振りかざして力無きものを虐げてはいけない、力ある者こそ弱き者への配慮をかかしてはいけない。それが正しい力の使い方だと説いてみたりした。

 しかしそれは『貴族の立場』に負けてルーシーを見捨てたアーサーにとっては自虐に他ならなかった。

 何も知らない村民たちにはアーサーの理想が響くのか、涙を流す者もいたが、伯爵の私生児として、人質としての実情を知る者からの視線は冷ややかだった。

 その後、いつもより饒舌なアーサーへ向けられる蔑みの感情はミサの間、静かに止まず、神の詩編をもってしても薄れる事は無かった。

 アーサーはそれでも良かった。司祭の時だけは理想を語ることだけは許されるのだから。

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