LOGINズズッ……ズズッ……。
歩を進めるたび、音が変わっていく。粘り気のある水音が、次第に弾力のある肉を踏む音へ。 空気の密度も変わった。 腐敗臭に混じって、どこか甘ったるい、熟しすぎた果実のような匂いが漂い始める。耳鳴りのような「唸り声」が、はっきりとした「呼吸音」に変わっていく。 スゥ……ッ、……ハァ……ッ。 ゴボッ、……ジュルリ……。 巨大な何かが、息をし、唾液を啜っている音。 音源は、すぐ目の前の闇の中にあった。 「……着いた」 斎が足を止め、懐中電灯を消した。静もそれに倣う。 光が消えると、完全な闇が訪れるはずだった。 だが、違った。 「……あ……」 静の唇から、吐息が漏れた。 薄ぼんやりとした燐光(りんこう)によって、全貌が浮かび上がっていた。 書庫の最奥部。 コンクリートの床は完全に崩落し、直径数十メートルはあろうかという巨大なすり鉢状の「窪み」が形成されていた。 かつての「虚の沼」。その本当の姿。 窪みを満たしているのは、水ではない。 黒く、粘り気のある、生きた泥(・ ・ ・)だった。 表面は無数の腐った青白い発光バクテリアに覆われ、脈動に合わせて明滅している。 その巨大な泥の塊は、心臓のように、あるいは巨大な肺のように、ゆっくりと、規則正しく波打っていた。 ドクン。 ……ドクン。 波打つたびに、表面からボコッ、ボコッと気泡が弾ける。そこから黒い煙のような瘴気が立ち上り、霧となって天井へ吸い込まれていく。 地上を覆っていた霧の正体。 人々の正気を奪う「澱み」の源泉。 「うそ……なに、あれ……」 慧が呻き、その場にへたり込んだ。 手から滑り落ちたカメラが、カツンと音を立てる。だが、彼女は拾おうともしなかった。 目の前の光景は、どんなトリックでも、科学的根拠でも説明がつかない。 圧倒的な質量の「悪意」が、物理的な形を持ってそこに鎮座している。 窪みの中心部。 泥が最も激どのようにしてアパートまで帰り着いたのか、記憶は曖昧だった。 早朝の街は暴力的なまでに日常を取り戻している。新聞配達のバイクの音、部活の朝練に向かうジャージ姿の学生たち、ごみを出す主婦の姿。泥まみれで幽鬼のようにふらつく静を、彼らは怪訝そうに見るか、あるいは関わり合いになるまいと視線を逸らして通り過ぎていく。 その反応がありがたかった。もし誰かに「大丈夫ですか」と声をかけられたら、その場で叫び出してしまっていたかもしれない。 世界は正常に機能している。昨夜、地下であれほどの怪異が起き、一人の人間が泥に飲まれて消滅し、もう一人が精神を破壊されたというのに。地上は何食わぬ顔で、新しい朝を迎えている。あまりの無関心さが薄ら寒く、吐き気がするほど空々しい。 アパートの部屋に入り、鍵をかける。ガチャリと鳴った金属音が、世界と自分を隔てる最後の結界のように響いた。 玄関のたたきに座り込み、泥だらけのスニーカーを脱ぐ。靴紐の間まで入り込んだ黒い泥は、乾いてボロボロと崩れ落ちた。ただの土ではない。数千人の死者の怨念と、燈の「咎」が凝縮された残骸だ。 「……汚い」 呟くと、涙が溢れてきた。 汚い。自分が汚い。友人を殺して、自分だけがのうのうと生き残って帰ってきた、薄汚れた身体が憎い。 服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう。シャワーをひねると冷たい水が出たが、構わずに頭から浴びた。排水口へ流れていく水は墨汁のように黒い。 髪にこびりついた泥を爪で掻き出す。皮膚に染みついた腐敗臭を落とそうと、スポンジで肌が赤くなるまで擦る。けれど、匂いは落ちない。鼻の奥の粘膜に、地下書庫の湿ったカビの臭いが焼き付いてしまっている。 「落ちて……落ちてよ……ッ」 嗚咽しながら、身体を傷つける勢いで洗い続けた。 鏡を見るのが怖かった。曇った鏡の向こうに、また「蠢く影」が見えるんじゃないか。背後に燈の亡霊が立っているんじゃないか。 恐る恐る顔を上げる。 鏡の中には、濡れた髪を張り付かせ、充血した目でこちらを見つめる青白い顔の女が一人映っているだけだった。 影は遅れない。歪みもしない。 ただの、疲れ切った、抜け殻のよ
地上への扉が開いた瞬間、網膜を焼いたのは暴力的なまでに清浄な朝の光だった。 地下書庫の重厚な鉄扉の向こう側には、昨夜の世界を塗り潰していた異界の霧はない。ただ白々とした冬の夜明けが広がっているだけだ。肺に流れ込んできた空気は氷の針を含んだように冷たく、無味無臭だった。 さっきまで鼻腔を犯していた湿った土と腐敗の臭い、何千もの死者が吐き出す怨嗟の熱気。それらが嘘のように遮断され、あまりの落差に視界がぐらりと揺れる。「……出たぞ」 頭上から降ってきた声には、少しの乱れも温度もなかった。 足がコンクリートの地面を踏んでいる。泥ではない。吸い付くような粘り気も、這い上がってくる触手もない、ただの固い地面だ。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。「あ……、はぁ……」 呼吸をするたびに、肺の奥から泥の味がした。身体は地上に戻ったが、内側はまだ暗い泥の中に半分浸かっている感覚が抜けない。 自分の手を見る。爪の隙間、指の皺の間に、黒く乾いた泥がこびりついている。単なる汚れではない。あの場所で触れた「咎」の残滓のように見えて、慌てて手をこすり合わせる。落ちない。皮膚の下にまで染み込んでしまったかのように、黒い染みは消えなかった。「……う、……うぅ……」 隣で、うめく塊があった。 慧だ。地面に投げ出されたまま、胎児のように背を丸めて震えている。泥と脂汗で固まった髪。汚れ、破れたブランド物のスーツ。かつて鋭い眼光を放っていた瞳は焦点を結ばず、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。「……トリック……全部、トリック……」 譫言のように繰り返される言葉は、もう意味を成していない。首筋には、泥人形に掴まれたどす黒い手形が火傷の痕のようにくっきりと残っていた。彼女が直面した現実の証拠だ。だが、彼女の精神は受容を拒絶し、結果として砕け散ってしまったのだろう。 かける言葉は見つからなかった
ドォォォォォン!! 繭が内部から爆発するように膨張し、泥の一部が弾け飛ぶ。 その裂け目から、二つの影がもつれ合うのが見えた。 一つは、必死に何かにしがみつく、小さな影。静。 もう一つは、それを飲み込もうとする、巨大で不定形な影。燈であり、ウツロ様であるもの。「今だ」 瞳孔が開く。 この瞬間、二つの影の輪郭が明確に分かれた。 躊躇なく、掲げていた手鏡を振り下ろすように構え、鏡面を繭の裂け目に差し向ける。「――穿て!!」 咆哮。 鏡面から、目に見えない衝撃波が放たれた。 光線でも物理的な力でもない。「認識」の強制書き換え。鏡に映ったものを「実体」として固定し、そこにあるものを「虚像」として弾き飛ばす、因果の逆転。 ガシャアァァァァァッ!! 地下空間全体が、巨大な鏡が割れたような轟音に包まれた。 空間に亀裂が走り、泥の繭が真っ二つに裂ける。「ぎゃあぁぁぁぁぁッ!!」 繭の中から、この世のものとは思えない断末魔が響いた。 静の声であり、燈の声であり、そして泥に沈みかけていた慧の悲鳴とも重なる。 斎の放った一撃は、静と燈の結合部を正確に断ち切っただけではない。その余波が周囲の空間ごと衝撃を与え、慧に群がっていた影たちさえも吹き飛ばしたのだ。「……チッ、余計なものを」 顔をしかめる。 慧を助けるつもりはなかった。だが、鏡の出力が高すぎたせいで、結果的に周囲の雑魚を一掃してしまった。 吹き飛ばされた影たちが霧散し、泥の中から慧の体がボロ屑のように放り出される。「ごほっ、ごほっ……!」 泥の上に転がり、激しく咳き込む慧。 全身泥まみれで、髪も服も皮膚も溶けかかっている。だが、生きている。 虚ろな目で、裂けた繭の方を見上げた。 そこには、泥の中から這い出そうとする静の姿があった。 そしてその背後――切り離された巨大な「燈の影」が、苦痛にのたうち回りながら、形を保てずに崩壊しようと
地下書庫の高い天井に、女の悲鳴が不協和音となって降り注ぐ。 泥の触手が太ももまで這い上がり、高価なスーツの生地を腐食させながら肉に食い込む。焼けるような痛みに、慧は半狂乱で泥を掻きむしった。「いやぁぁッ! 入ってくる……! 泥が、体の中に……!」 皮膚の毛穴という毛穴から、おぞましい「他人の記憶」が侵入してくる。 何十年も前にここで死んだ者の後悔、痛み、怨嗟。それらが汚水となって血管を巡り、自我を内側から汚染していく。 だが、観月斎は止まらない。 慧の絶叫を、単なる環境音の一部として処理し、思考を研ぎ澄ませる。 優先順位は明確だった。 第一に、「ウツロ様」の核である朱鷺燈の影を切り離すこと。 第二に、そのために必要な「隙」を見極めること。 廻慧の命は、そのリストのどこにも記述されていない。「……悪くない」 手鏡の曇った表面を親指で拭いながら、独り言ちる。 視線の先には、脈動する巨大な泥の繭。 中には氷鉋静がいる。彼女は自らの強い感受性を触媒にして、ウツロ様の意識を内側に引きつけている。 そして背後では、廻慧が「雑魚」の影たちに襲われ、新鮮な恐怖と絶望を撒き散らしている。「あの女の『咎』……独善的な正義と、無自覚な加害性。それは腐った肉のように強烈な臭いを発する。……奴らにとっては、抗いがたい撒き餌だ」 計算は冷徹だった。 静が「本体」を抑え込み、慧が「周囲」を引きつける。この二重の囮によって、斎自身への攻撃は最小限に抑えられ、本体への接近が可能になる。「み、観月……ぅ……!」 背後から、空気を絞り出すような喘ぎ声。 慧の首に泥の手が巻き付いたのだ。 視線が、斎の背中に突き刺さる。助けて、という懇願と、なぜ助けないのかという激しい憎悪。 斎は一瞬だけ足を止め、肩越しに慧を一瞥した。 そ
鼓膜を劈く死者の嘲笑も、鼻孔を犯す腐敗臭も、この黒い繭の内側までは届かない。 あるのは羊水に似た粘度と、ドクン、ドクンと波打つ巨大な心臓の拍動だけ。 溶けていく。 指先が、髪が、皮膚が、砂糖菓子のように崩れ落ち、黒い泥へと還元されていく。個体としての輪郭が消失する感覚。そこに痛みはない。むしろ、張り詰めていた神経が一本一本焼き切れていくような、背徳的な安らぎがあった。『……しずく……』 脳髄に直接、声が響く。 朱鷺燈の声であり、同時に私自身の声でもある。泥の中で意識が混濁し、境界が曖昧になっていく。 他人の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。 真夏のアスファルトの照り返し。舌に残るコンビニコーヒーの苦味。そしてあの日――バイクの後部座席で友人が血を流していた時の、咽せ返るような鉄錆の臭いと、冷え切った戦慄。「俺は悪くない」「誰も見ていない」。 卑小な自己保身と、それを塗り潰すほどの巨大な罪悪感。(ああ、燈。ずっと、こんなに痛かったんだ) 泥の中で、彼の形をした「影」を抱きしめる。 影は黒いタールのように腕にまとわりつき、感受性という回路を通して苦痛を共有してくる。私の心にあった「救えなかった後悔」と、彼の「逃げたかった弱さ」。二つの咎が混じり合い、化学反応を起こして熱を帯びる。『……いっしょに、いよう……』『……もう、かえらなくていい……』 無数の死者たちの囁きが、燈の声に重なる。 ここは心地いい。誰も私を「異常」だと指差さない。深琴ちゃんのように怯えない。廻さんのように否定しない。ただ泥になって、何もかも忘れてしまえばいい。 意識が、甘い腐敗の底へと沈んでいく。 だが、その微睡みを無粋に断ち切るように、遥か頭上の「外側」から硬質な音が響いた。 カツ、カツ。 革靴が湿った地面を踏みしめる、冷徹なリズム。「…&hellip
鼻腔を突く腐敗臭も、耳障りな死者の嘲笑も、包まれた瞬間に遮断され、代わりに鼓膜を打つのは、ドクン、ドクンという巨大な心臓の拍動のような音だけ。(ああ、ここは……) 暗闇の中で目を開ける。 重い泥がまぶたを圧迫するが、不思議と痛みはない。 そこは温かかった。 まるで羊水の中にいるような、あるいは腐りかけた果実の種になったような、甘く、とろけるような浮遊感。 身体の輪郭が溶けていく。指先が、髪の毛が、皮膚が、泥の粒子と混ざり合い、境界線を失っていく。『……しずく……』 脳裏に声が響く。ノイズ混じりの、けれど懐かしい声。 意識の奥底で、誰かが膝を抱えて座っていた。 オレンジ色の髪。派手なパーカー。 朱鷺燈だった。 泥の暗闇の中で震えながら顔を伏せている。その背中には、黒いコールタールのような「罪」がべっとりと張り付き、身体を少しずつ侵食していた。「燈」 心の中で呼びかける。 燈が顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、恐怖に歪んでいた。『……ごめん、なさい……俺、逃げたかっただけなんだ……』『あいつのこと、忘れたかっただけなんだ……』「うん、知ってる」 泥の中を泳ぐようにして彼に近づき、震える肩を抱きしめた。 冷たい。魂は凍えきっていた。「痛かったね。怖かったね」『……しずく……?』「もういいよ。私が来たから。私が、全部知ってるから」 抱きしめた瞬間、燈の背中に張り付いていた黒い「咎」がじゅわりと溶け出し、腕へと伝ってきた。 焼けるような激痛。吐き気。絶望感。 友人を裏切ったという自己嫌悪が、精神を直接蝕む。 けれど、腕を離さない。 この痛みが、燈が一人で抱えてきた重さなのだとしたら、耐えられる。(大丈夫。私なら、壊れない) 自らの「感受性」を全開にする。 他人の悪意を受け止め、流し、耐え続けてきた器は、この泥沼の中でも、かろうじて自我を保っていた。 ◇ 地上――地下書庫の空洞では、異様な光景が広がっていた。 静