LOGIN時計は、午前二時三分を示していた。 喉が、狭くなった。 オレンジ色の髪が、小さな丸い画像の中に見えた。以前使われていたものに似ている。似ている、としか言えなかった。顔の向きも、背景の色も、見つめようとすると曖昧になる。 燈からの連絡を、あれほど待っていた。 待ち続けた指が、今も画面の方へ動こうとしていた。 静はベッドから足を下ろした。 床が冷たい。 靴下越しに、板の継ぎ目が分かった。 画面に触れると、通知が開いた。 『み つ け た』 それだけだった。 上へ動かしても、以前の会話は現れなかった。貸したDVDの話も、講義の時間も、静が最後に送った問いかけもない。名前の部分を押してみたが、連絡先を確かめるための表示へは進まなかった。 ただ、そこに燈の名前があった。 誰が送ったのかを知るためのものではなく、静に見せるために貼りつけたような名前だった。 息が速くなる。 帰ってきたのだと思いたい自分がいた。助けられなかったのではなく、少し遅れて、ようやく声が届いたのだと。 その思いに触れた途端、右手の指先が冷えた。 地下で聞いた声も、自分の名前を知っていた。 静は返事の欄に触れなかった。 机の明かりをつける。 部屋の隅が浮かび上がり、椅子の脚から濃い影が伸びた。静の足元にも影があった。立ち上がると、それは同じ速さで動いた。 足首を引くものはない。 あの時切られた場所に、何かが繋がっている感触もない。 それでも、画面の黒い余白へ映った自分の顔が、ほんの少し遅れてこちらを向いたように見えた。 静はスマートフォンを落としそうになった。 両手で握り込みかけ、左腕の痛みに息を呑む。その痛みで、どうにか指を開いた。 電話を机へ置いた。 画面を上にしたまま、距離を取った。 布袋から覗いた鍵が、明かりを反射していた。静はそれを握り締めようとして、やめた。鍵は扉を開けるためのものだ。持っているだけで、部屋を守ってくれるものではない。 連絡先から、斎の番号を選んだ。 通知に表示された名前ではなく、自分で確かめて登録した相手へ。 呼び出し音が鳴った。 一回ごとに、暗がりが深くなるような気がした。 三回目の途中で、音が切れた。 「どうした」 掠れた声だった。
「頼まれたら、必ず行かなきゃいけないんですか」 「断っていい」 「途中でも?」 「戻れるうちならな。戻れなくなる条件が分かっている時は、先に伝える」 静はすぐに頷かなかった。 分かっていない時がある。それを、分かっているように言わない人でいてほしかった。 「分からないなら、分からないって言ってください。危ないことも、先に。私に見せてから、そういうものだったって説明しないでください」 斎は静を見た。 「分かった」 「何をするか、私にも決めさせてください。触るかどうかも、行くかどうかも」 彼は頷いた。 静は膝の上の缶を握り直した。 「授業もあります。友達と、普通にご飯を食べたい日もあります」 口にすると、それがひどく小さな望みのように聞こえた。 けれど、その小さなものを諦めたところから、自分の輪郭が削れていく気がした。 「知らないまま、使われるのは嫌です」 斎は鍵を置く場所を探すように、ベンチの間を見た。 それから、自分の掌を開いたままにした。 静はその鍵を、自分で取った。 金属は、冷たかった。 燈を取り戻せる鍵ではない。失った時間の埋め合わせにもならない。それでも、次に分からないものへ触れる時、訊ける相手と、読むことのできる記録がある。 掌を閉じると、鍵の歯が少しだけ皮膚に食い込んだ。 遠くで、講義の終わりを知らせる音が鳴った。 静は携帯電話を出し、深琴から届いていたメッセージを開いた。帰りにパン屋へ寄るかと訊かれていた。 『行く。少し待ってて』 そう打ってから、温くなりかけたコーヒーを飲んだ。◇ 鍵は、机の上へ置いた。 学生証の入ったケースの隣だった。どちらも明日持って出るつもりだったが、同じ輪にはつけなかった。少し迷ってから、鍵だけを小さな布の袋へ入れた。 夜になると、窓ガラスは部屋の中を映した。 静はカーテンを閉めた。 今日のノートを開く。講義の途中で書き損ねたところがあった。次の時間までに深琴へ訊こうと思い、余白に小さな印をつけた。 机の端には、燈のことを書いた別のノートがある。 今日は、ひとつだけ書き足した。 『笑う時、右の眉が先に動く。いつもだったかは、分からない』 書いてから、しばらく眺めた。 いつもだった、と断言できないのが寂しかった
静は頷き、鞄の持ち手を自分の側へ引いた。 机の上へ、小さな紙袋が置かれた。 「食べられそうだったら。前に、好きって言ってたから」 パンだった。 袋の内側に、まだ少し曇りが残っていた。深琴がここへ来る前に買ったのだと分かった。 「ありがとう」 静は袋へ触れた。 二人の間に、短い沈黙が落ちた。 言わなければいけないことがある。けれど、言った後に深琴がどんな顔をするのか、見るのが怖かった。 燈へ何も言えなかった金曜日と、同じ後悔へまとめたくなった。自分はいつも間違えるのだと決めてしまえば、どちらにも向き合わずに済む。けれど今、深琴は隣にいる。机の端へ置かれた手を見て、静は、地下から帰ったら言おうとした言葉を探した。 「この前、腕、強く掴んでごめん」 深琴の視線が、静の手へ落ちた。 「うん。びっくりした」 その言葉に、静は俯いた。 「覚えてって、無理に言って、ごめん」 深琴はすぐには答えなかった。机の縁を指先で撫で、それから、静の方へ顔を向けた。 「私、あの人のこと、やっぱり思い出せない」 静は頷いた。 「でも、静がいない間、心配だった。それは覚えてるから」 喉の奥が熱くなった。 静は何か言おうとして、一度口を閉じた。思い出せないことを責める言葉は、もう出なかった。出ない代わりに、簡単に大丈夫とも言えなかった。 「また、一緒に食べてもいい?」 紙袋を見て言うと、深琴は小さく笑った。 「今はだめ。もう始まる」 教壇から、出席を取る声がした。 静は自分の名前が呼ばれるのを待った。 返事は、ちゃんと届いた。 昼休み、慧から連絡があった。 しばらく仕事を減らし、体調を見ながら記録を整理するという。五年前の記事についても、当時の資料をもう一度読み直しているらしい。 『分からない部分を、都合のいい説明で繋がないようにします。観月さんに確認したいことは、まだあります』 静はその一文を二度読んだ。 疑問がなくなったわけではないことに、少し安心した。地下から帰ってきた人たちが、皆、同じことだけを信じるようになったのではなかった。 『私のことを書く時は、先に読ませてください』 そう返した。 しばらくして、『約束します』と届いた。◇ 午後の講義の後、静は校舎裏のベンチへ向かった
静はしばらく、それを膝の上に置いていた。 返さなければ、と何度も思っていた。次に会う日に鞄へ入れようとして、忘れたこともあった。その時には、次がなくなるなんて考えもしなかった。 借りたものだけが、返す場所を失って残っている。 静はケースを閉じ、棚の見えるところへ置いた。 日記は、テーブルで開いた。 紙の色も、角の折れも変わっていなかった。筆圧の強い部分を撫でると、裏側まで凹んでいる。けれど、名前が書かれていた場所には、意味の取れない線が残っていた。文章の途中にも、読み返すたびに目が滑る箇所がある。 事故という言葉は読めた。 行かなかった、とも。 その前後から、一人の人間へたどり着く道だけが、抜き取られたようだった。 その事故で足を傷めた人の顔を、静は知らない。 泥から離れた今も、その人は、静の知らない場所で、その人自身の時間を生きている。 静には、その人の言葉を知ることができなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。自分の胸に流れてきた痛みだけで、その人の人生まで分かったつもりにはなれなかった。 静はページの上へ手を置いた。 ここを最初に読んだ夜、知らない燈がいることを恐れた。今は、知っていると思っていた燈まで、この紙から遠ざかっていくのが怖かった。 新しいノートを出した。 最初のページに、今日の日付を書いた。その下へ、朱鷺燈、と書いた。 インクは紙に染み込み、乾いた。 消えないかどうか、しばらく待った。 消えなかった。明日も読めるかどうかは、まだ分からない。 静は次の行に、冷たいコーヒーのことを書いた。右の眉のこと。深琴と三人で食べたケーキのこと。自分が見たものと、後から日記で読んだものを、同じ文章にしないように気をつけた。 地下で聞いた言葉を書く時、ペンが止まった。 『ありがと、と聞こえた気がする。燈の声だったかどうかは、分からない』 そこまで書いた。 その後へ、許された、と続けることはできなかった。 涙が落ちた。 紙が小さく膨らんだ。慌てて拭こうとして、まだ乾いていなかった句点を擦ってしまった。 汚れたままにした。 綺麗な記録にはできなかった。綺麗にすれば、そこからまた何かが抜けてしまう気がした。 携帯電話に、母からのメッセージが残っていた。
斎は目を伏せ、それから携帯電話を出した。 大学へ問い合わせるため、静は自分の名前と学籍番号を告げた。燈の名前を一字ずつ説明した。前に相談した日のことも話した。 待つ間、保留音が繰り返された。 その短い旋律を、静はもう覚えていた。 戻ってきた声は申し訳なさそうだった。静が相談に来たことを示す記録は残っている。だが、その相手として伝えた名前と、在籍者の情報が結びつかない。もう一度、表記を確かめてもらえないか。 静は同じ字を、もう一度言った。 斎は横から電話を取らなかった。 説明し終えた時、紙の上には燈の名前が残っていた。静が今、自分で書いた字だった。 古い記録へは届かない。 それでも、今ここで、その名前を口にしたことまで、なかったことにはならなかった。 窓の外で、雨が降り始めた。 細い筋がガラスを伝い、途中で別の筋へ合流した。どこから来た水なのか分からなくなっても、流れた跡だけが、しばらく白く残っていた。◇ 部屋へ戻ったのは、土曜日の昼過ぎだった。 鍵を差し込む前に、静は一度、深く息を吸った。廊下には、どこかの家の洗濯物の匂いがしていた。階下で食器が触れ合い、窓の外では自転車のベルが短く鳴った。 どれも、自分とは関係のない音だった。 そのことが、ありがたかった。 斎が先に中を確かめた。今、入り口に異常はないと言った後で、すべてを見つけられるわけではない、と付け足した。 静は頷き、自分で扉を開けた。 床に落ちた衣類は、そのままだった。 急いで部屋を出た時に踏んだのだろう、袖口に靴の跡がついていた。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルがある。キャップを閉めた覚えはなかったが、きちんと閉まっていた。 そんな小さなことのひとつひとつに、怖さが紛れ込んでいた。 斎は玄関のそばに紙袋を置いた。 中には、研究室で預かってもらっていた燈の日記があった。 「照合は済んだ。手元に置くなら、持っていていい」 静は袋の縁に触れた。 「読めますか」 「残ったところは」 それ以上は、尋ねなかった。 斎は電話が通じることを確かめ、何かあれば場所と時刻から話すように言った。静は、分かりました、と答えた後で彼の右手を見た。白い包帯の下で、指が少しだけ曲がっていた。 「観月さんも、休んでくださ
地面は、硬かった。 それまで当たり前だったことを、静は座り込んで初めて知った。尻の下に小さな石がある。避けようとして体をずらすと、今度は別の場所が痛んだ。湿った土は衣服に染み込み、容赦なく体温を奪っていった。 沈まない。 掌をついても、指の形に少し窪むだけだった。 静はその窪みを見つめた。自分が離れた後も、しばらく残るだろう。そのことが、不思議だった。 「そこでは冷える」 宗司が言って、上着を肩に掛けてくれた。 彼は閉じたばかりの地下への扉へ戻り、金具が掛かっているのを二度確かめた。扉が閉まった途端に空気が澄む、ということはなかった。古い建物は相変わらず湿気を含み、窓の内側には、埃が白く積もっていた。 宗司はそこから少し離れた場所で電話をかけた。 声が、朝の空気の中を通ってくる。転倒したこと。地下にいたこと。歩けるが、立ち上がるのが難しい者がいること。分かる範囲の説明を、ひとつずつしていた。 静は、自分の腕を見た。 包帯が汚れていた。血は新しいものと古いものが混ざり、端だけが乾いて固くなっている。痛みを感じなくなっていた時間があったことを思うと、急に怖くなった。 慧は少し離れた縁石に腰を下ろしていた。 ライトをまだ握っている。消していいのだと宗司が声をかけても、指がスイッチを探すまでに時間がかかった。 「廻さん」 静が呼ぶと、顔が上がった。 「はい」 それだけの返事だった。 名前が通じたことに安心してから、静は次の言葉を失った。大丈夫ですか、と訊くのは違う気がした。見れば、大丈夫でないことは分かる。けれど、その隣に座り直せるほどの力もなかった。 「灯り、ありがとうございました」 慧は手の中のライトを見た。 一度だけ頷いて、ようやくスイッチを切った。 斎は車のそばで、鏡を布に包んでいた。 布の内側で破片が擦れるような音がした。全部が割れたのではないらしい。彼は鏡面へ触れないように縁を寄せ、何重にも巻いた後、膝の上に置いた。 その手が、途中で止まった。 自分の掌を眺め、何かを思い出そうとするように目を細めた。 「観月さん」 静が呼ぶと、彼はすぐに顔を向けた。 「まだ、分からなくなりますか」 「少しな」 それ以上は言わなかった。 静も、聞き直さなかった。何を失っ
大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。「よお、しずく。遅かったじゃん」 朱鷺燈が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。「……待っててくれたの」「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそ
その朝、咎凪市は乳白色の息を吐いていた。 静がアパートの窓を開けると、粘り気のある冷気が奔流のように流れ込んできて、肌を粟立たせる。外の世界は、完全に「白」に塗り潰されていた。隣の建物の輪郭も、電線の黒い線も、すべてが曖昧なグラデーションの中に溶け落ちている。季節外れの、濃すぎる朝霧。この街では、珍しくもない光景だった。 だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。「……土の匂い」 乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。 それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環
燈の背中は、静にとって世界の中心だった。 彼が前を歩き、静がその後ろを数歩ぶんだけ離れてついていく。その付かず離れずの距離が、今の静には何よりも安全なテリトリーに思えた。彼の少し広い肩幅、ワックスで無造作に立てた髪の束が歩くたびに揺れる様、ストリート系のパーカーがつくる緩やかな輪郭。そのすべてが、静を四六時中苛む無数の「澱み」から彼女を守る、唯一の防波堤だった。 彼が楽しげに話すカフェの新しいメニューのことや、昨日見た深夜アニメの馬鹿げた展開について、静は半分も聞いていなかったかもしれない。ただ、彼の声の響き、その屈託のない明るい音色が、常にささくれ立っている神経を、薄くて柔らかい膜で包
ようやく解放を告げるチャイムが鳴り響いた時、静はほとんど虚脱していた。我先にと席を立つ学生たちの作る人の波が、新たな「澱み」の渦を巻き起こす。苛立ち、安堵、空腹、性欲。生々しい感情の奔流が、最後の気力を奪い去っていく。静は、その濁流が過ぎ去るのを、息を殺して待った。 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、よう