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第55話 消えたはずの名前

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2025-12-13 20:00:08
「頼まれたら、必ず行かなきゃいけないんですか」

「断っていい」

「途中でも?」

「戻れるうちならな。戻れなくなる条件が分かっている時は、先に伝える」

 静はすぐに頷かなかった。

 分かっていない時がある。それを、分かっているように言わない人でいてほしかった。

「分からないなら、分からないって言ってください。危ないことも、先に。私に見せてから、そういうものだったって説明しないでください」

 斎は静を見た。

「分かった」

「何をするか、私にも決めさせてください。触るかどうかも、行くかどうかも」

 彼は頷いた。

 静は膝の上の缶を握り直した。

「授業もあります。友達と、普通にご飯を食べたい日もあります」

 口にすると、それがひどく小さな望みのように聞こえた。

 けれど、その小さなものを諦めたところから、自分の輪郭が削れていく気がした。

「知らないまま、使われるのは嫌です」

 斎は鍵を置く場所を探すように、ベンチの間を見た。

 それから、自分の掌を開いたままにした。

 静はその鍵を、自分で取った。

 金属は、冷たかった。

 燈を取り戻せる鍵ではない。失っ
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  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第56話 みつけた

     時計は、午前二時三分を示していた。  喉が、狭くなった。  オレンジ色の髪が、小さな丸い画像の中に見えた。以前使われていたものに似ている。似ている、としか言えなかった。顔の向きも、背景の色も、見つめようとすると曖昧になる。  燈からの連絡を、あれほど待っていた。  待ち続けた指が、今も画面の方へ動こうとしていた。  静はベッドから足を下ろした。  床が冷たい。  靴下越しに、板の継ぎ目が分かった。  画面に触れると、通知が開いた。 『み つ け た』  それだけだった。  上へ動かしても、以前の会話は現れなかった。貸したDVDの話も、講義の時間も、静が最後に送った問いかけもない。名前の部分を押してみたが、連絡先を確かめるための表示へは進まなかった。  ただ、そこに燈の名前があった。  誰が送ったのかを知るためのものではなく、静に見せるために貼りつけたような名前だった。  息が速くなる。  帰ってきたのだと思いたい自分がいた。助けられなかったのではなく、少し遅れて、ようやく声が届いたのだと。  その思いに触れた途端、右手の指先が冷えた。  地下で聞いた声も、自分の名前を知っていた。  静は返事の欄に触れなかった。  机の明かりをつける。  部屋の隅が浮かび上がり、椅子の脚から濃い影が伸びた。静の足元にも影があった。立ち上がると、それは同じ速さで動いた。  足首を引くものはない。  あの時切られた場所に、何かが繋がっている感触もない。  それでも、画面の黒い余白へ映った自分の顔が、ほんの少し遅れてこちらを向いたように見えた。  静はスマートフォンを落としそうになった。  両手で握り込みかけ、左腕の痛みに息を呑む。その痛みで、どうにか指を開いた。  電話を机へ置いた。  画面を上にしたまま、距離を取った。  布袋から覗いた鍵が、明かりを反射していた。静はそれを握り締めようとして、やめた。鍵は扉を開けるためのものだ。持っているだけで、部屋を守ってくれるものではない。  連絡先から、斎の番号を選んだ。  通知に表示された名前ではなく、自分で確かめて登録した相手へ。  呼び出し音が鳴った。  一回ごとに、暗がりが深くなるような気がした。  三回目の途中で、音が切れた。 「どうした」  掠れた声だった。  

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第55話 消えたはずの名前

    「頼まれたら、必ず行かなきゃいけないんですか」 「断っていい」 「途中でも?」 「戻れるうちならな。戻れなくなる条件が分かっている時は、先に伝える」  静はすぐに頷かなかった。  分かっていない時がある。それを、分かっているように言わない人でいてほしかった。 「分からないなら、分からないって言ってください。危ないことも、先に。私に見せてから、そういうものだったって説明しないでください」  斎は静を見た。 「分かった」 「何をするか、私にも決めさせてください。触るかどうかも、行くかどうかも」  彼は頷いた。  静は膝の上の缶を握り直した。 「授業もあります。友達と、普通にご飯を食べたい日もあります」  口にすると、それがひどく小さな望みのように聞こえた。  けれど、その小さなものを諦めたところから、自分の輪郭が削れていく気がした。 「知らないまま、使われるのは嫌です」  斎は鍵を置く場所を探すように、ベンチの間を見た。  それから、自分の掌を開いたままにした。  静はその鍵を、自分で取った。  金属は、冷たかった。  燈を取り戻せる鍵ではない。失った時間の埋め合わせにもならない。それでも、次に分からないものへ触れる時、訊ける相手と、読むことのできる記録がある。  掌を閉じると、鍵の歯が少しだけ皮膚に食い込んだ。  遠くで、講義の終わりを知らせる音が鳴った。  静は携帯電話を出し、深琴から届いていたメッセージを開いた。帰りにパン屋へ寄るかと訊かれていた。 『行く。少し待ってて』  そう打ってから、温くなりかけたコーヒーを飲んだ。◇ 鍵は、机の上へ置いた。  学生証の入ったケースの隣だった。どちらも明日持って出るつもりだったが、同じ輪にはつけなかった。少し迷ってから、鍵だけを小さな布の袋へ入れた。  夜になると、窓ガラスは部屋の中を映した。  静はカーテンを閉めた。  今日のノートを開く。講義の途中で書き損ねたところがあった。次の時間までに深琴へ訊こうと思い、余白に小さな印をつけた。  机の端には、燈のことを書いた別のノートがある。  今日は、ひとつだけ書き足した。 『笑う時、右の眉が先に動く。いつもだったかは、分からない』  書いてから、しばらく眺めた。  いつもだった、と断言できないのが寂しかった

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第54話 失った声

     静は頷き、鞄の持ち手を自分の側へ引いた。  机の上へ、小さな紙袋が置かれた。 「食べられそうだったら。前に、好きって言ってたから」  パンだった。  袋の内側に、まだ少し曇りが残っていた。深琴がここへ来る前に買ったのだと分かった。 「ありがとう」  静は袋へ触れた。  二人の間に、短い沈黙が落ちた。  言わなければいけないことがある。けれど、言った後に深琴がどんな顔をするのか、見るのが怖かった。  燈へ何も言えなかった金曜日と、同じ後悔へまとめたくなった。自分はいつも間違えるのだと決めてしまえば、どちらにも向き合わずに済む。けれど今、深琴は隣にいる。机の端へ置かれた手を見て、静は、地下から帰ったら言おうとした言葉を探した。 「この前、腕、強く掴んでごめん」  深琴の視線が、静の手へ落ちた。 「うん。びっくりした」  その言葉に、静は俯いた。 「覚えてって、無理に言って、ごめん」  深琴はすぐには答えなかった。机の縁を指先で撫で、それから、静の方へ顔を向けた。 「私、あの人のこと、やっぱり思い出せない」  静は頷いた。 「でも、静がいない間、心配だった。それは覚えてるから」  喉の奥が熱くなった。  静は何か言おうとして、一度口を閉じた。思い出せないことを責める言葉は、もう出なかった。出ない代わりに、簡単に大丈夫とも言えなかった。 「また、一緒に食べてもいい?」  紙袋を見て言うと、深琴は小さく笑った。 「今はだめ。もう始まる」  教壇から、出席を取る声がした。  静は自分の名前が呼ばれるのを待った。  返事は、ちゃんと届いた。  昼休み、慧から連絡があった。  しばらく仕事を減らし、体調を見ながら記録を整理するという。五年前の記事についても、当時の資料をもう一度読み直しているらしい。 『分からない部分を、都合のいい説明で繋がないようにします。観月さんに確認したいことは、まだあります』  静はその一文を二度読んだ。  疑問がなくなったわけではないことに、少し安心した。地下から帰ってきた人たちが、皆、同じことだけを信じるようになったのではなかった。 『私のことを書く時は、先に読ませてください』  そう返した。  しばらくして、『約束します』と届いた。◇ 午後の講義の後、静は校舎裏のベンチへ向かった

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第53話 空けておけない席

     静はしばらく、それを膝の上に置いていた。  返さなければ、と何度も思っていた。次に会う日に鞄へ入れようとして、忘れたこともあった。その時には、次がなくなるなんて考えもしなかった。  借りたものだけが、返す場所を失って残っている。  静はケースを閉じ、棚の見えるところへ置いた。  日記は、テーブルで開いた。  紙の色も、角の折れも変わっていなかった。筆圧の強い部分を撫でると、裏側まで凹んでいる。けれど、名前が書かれていた場所には、意味の取れない線が残っていた。文章の途中にも、読み返すたびに目が滑る箇所がある。  事故という言葉は読めた。  行かなかった、とも。  その前後から、一人の人間へたどり着く道だけが、抜き取られたようだった。  その事故で足を傷めた人の顔を、静は知らない。  泥から離れた今も、その人は、静の知らない場所で、その人自身の時間を生きている。  静には、その人の言葉を知ることができなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。自分の胸に流れてきた痛みだけで、その人の人生まで分かったつもりにはなれなかった。  静はページの上へ手を置いた。  ここを最初に読んだ夜、知らない燈がいることを恐れた。今は、知っていると思っていた燈まで、この紙から遠ざかっていくのが怖かった。  新しいノートを出した。  最初のページに、今日の日付を書いた。その下へ、朱鷺燈、と書いた。  インクは紙に染み込み、乾いた。  消えないかどうか、しばらく待った。  消えなかった。明日も読めるかどうかは、まだ分からない。  静は次の行に、冷たいコーヒーのことを書いた。右の眉のこと。深琴と三人で食べたケーキのこと。自分が見たものと、後から日記で読んだものを、同じ文章にしないように気をつけた。  地下で聞いた言葉を書く時、ペンが止まった。 『ありがと、と聞こえた気がする。燈の声だったかどうかは、分からない』  そこまで書いた。  その後へ、許された、と続けることはできなかった。  涙が落ちた。  紙が小さく膨らんだ。慌てて拭こうとして、まだ乾いていなかった句点を擦ってしまった。  汚れたままにした。  綺麗な記録にはできなかった。綺麗にすれば、そこからまた何かが抜けてしまう気がした。  携帯電話に、母からのメッセージが残っていた。

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第52話 借りたものだけがある

     斎は目を伏せ、それから携帯電話を出した。  大学へ問い合わせるため、静は自分の名前と学籍番号を告げた。燈の名前を一字ずつ説明した。前に相談した日のことも話した。  待つ間、保留音が繰り返された。  その短い旋律を、静はもう覚えていた。  戻ってきた声は申し訳なさそうだった。静が相談に来たことを示す記録は残っている。だが、その相手として伝えた名前と、在籍者の情報が結びつかない。もう一度、表記を確かめてもらえないか。  静は同じ字を、もう一度言った。  斎は横から電話を取らなかった。  説明し終えた時、紙の上には燈の名前が残っていた。静が今、自分で書いた字だった。  古い記録へは届かない。  それでも、今ここで、その名前を口にしたことまで、なかったことにはならなかった。  窓の外で、雨が降り始めた。  細い筋がガラスを伝い、途中で別の筋へ合流した。どこから来た水なのか分からなくなっても、流れた跡だけが、しばらく白く残っていた。◇ 部屋へ戻ったのは、土曜日の昼過ぎだった。  鍵を差し込む前に、静は一度、深く息を吸った。廊下には、どこかの家の洗濯物の匂いがしていた。階下で食器が触れ合い、窓の外では自転車のベルが短く鳴った。  どれも、自分とは関係のない音だった。  そのことが、ありがたかった。  斎が先に中を確かめた。今、入り口に異常はないと言った後で、すべてを見つけられるわけではない、と付け足した。  静は頷き、自分で扉を開けた。  床に落ちた衣類は、そのままだった。  急いで部屋を出た時に踏んだのだろう、袖口に靴の跡がついていた。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルがある。キャップを閉めた覚えはなかったが、きちんと閉まっていた。  そんな小さなことのひとつひとつに、怖さが紛れ込んでいた。  斎は玄関のそばに紙袋を置いた。  中には、研究室で預かってもらっていた燈の日記があった。 「照合は済んだ。手元に置くなら、持っていていい」  静は袋の縁に触れた。 「読めますか」 「残ったところは」  それ以上は、尋ねなかった。  斎は電話が通じることを確かめ、何かあれば場所と時刻から話すように言った。静は、分かりました、と答えた後で彼の右手を見た。白い包帯の下で、指が少しだけ曲がっていた。 「観月さんも、休んでくださ

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第51話 もう一度その名を

     地面は、硬かった。  それまで当たり前だったことを、静は座り込んで初めて知った。尻の下に小さな石がある。避けようとして体をずらすと、今度は別の場所が痛んだ。湿った土は衣服に染み込み、容赦なく体温を奪っていった。  沈まない。  掌をついても、指の形に少し窪むだけだった。  静はその窪みを見つめた。自分が離れた後も、しばらく残るだろう。そのことが、不思議だった。 「そこでは冷える」  宗司が言って、上着を肩に掛けてくれた。  彼は閉じたばかりの地下への扉へ戻り、金具が掛かっているのを二度確かめた。扉が閉まった途端に空気が澄む、ということはなかった。古い建物は相変わらず湿気を含み、窓の内側には、埃が白く積もっていた。  宗司はそこから少し離れた場所で電話をかけた。  声が、朝の空気の中を通ってくる。転倒したこと。地下にいたこと。歩けるが、立ち上がるのが難しい者がいること。分かる範囲の説明を、ひとつずつしていた。  静は、自分の腕を見た。  包帯が汚れていた。血は新しいものと古いものが混ざり、端だけが乾いて固くなっている。痛みを感じなくなっていた時間があったことを思うと、急に怖くなった。  慧は少し離れた縁石に腰を下ろしていた。  ライトをまだ握っている。消していいのだと宗司が声をかけても、指がスイッチを探すまでに時間がかかった。 「廻さん」  静が呼ぶと、顔が上がった。 「はい」  それだけの返事だった。  名前が通じたことに安心してから、静は次の言葉を失った。大丈夫ですか、と訊くのは違う気がした。見れば、大丈夫でないことは分かる。けれど、その隣に座り直せるほどの力もなかった。 「灯り、ありがとうございました」  慧は手の中のライトを見た。  一度だけ頷いて、ようやくスイッチを切った。  斎は車のそばで、鏡を布に包んでいた。  布の内側で破片が擦れるような音がした。全部が割れたのではないらしい。彼は鏡面へ触れないように縁を寄せ、何重にも巻いた後、膝の上に置いた。  その手が、途中で止まった。  自分の掌を眺め、何かを思い出そうとするように目を細めた。 「観月さん」  静が呼ぶと、彼はすぐに顔を向けた。 「まだ、分からなくなりますか」 「少しな」  それ以上は言わなかった。  静も、聞き直さなかった。何を失っ

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第二話:澱み②

     ようやく解放を告げるチャイムが鳴り響いた時、静はほとんど虚脱していた。我先にと席を立つ学生たちの作る人の波が、新たな「澱み」の渦を巻き起こす。苛立ち、安堵、空腹、性欲。生々しい感情の奔流が、最後の気力を奪い去っていく。静は、その濁流が過ぎ去るのを、息を殺して待った。 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、よう

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第一話:澱み①

     ざらついた空気が、肺を満たす。 ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。 氷鉋静は、背中を丸めて、机の木目の一点をただ見つめていた。黒く染めていない髪が、肩のラインで無気力に切り揃えられている。長く伸ばした前髪が、その表情を隠すための重いカーテンの役目を果たしていた。度の弱い丸眼鏡は、他人と視線を合わせないための盾。そのレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めて

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第七話:影喰の噂②

     燈は、静の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。だが、その瞳の奥に宿る光は、単なる好奇心とは異質な、もっと粘り気のある何かに変質しているように見えた。静は、彼の背後に一瞬だけ見えた、あの黒い人影の幻覚を思い出していた。あれは、彼の内側に巣食う「何か」の予兆だったのかもしれない。「ビビってんの、しずく? まあ、名前からしてヤバいもんな」 彼はわざと軽い口調で言い、フォークでケーキを一口分すくい取った。しかし、それを口に運ぶことなく、再び皿の上に戻す。食欲など、とうに失せているようだった。「そのウツロ様ってのが、この咎凪市の、いわば|土着神《どちゃく

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第六話:影喰の噂①

     ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。 大学のカフェテリアは、昼のピークを過ぎてもなお、無数の声と食器の触れ合う音、そして様々な人間の感情の匂いで飽和していた。氷鉋静は、テーブルの隅で背中を丸め、色の抜けたチャコールグレーのパーカーのフードを深く被っていた。気休めに過ぎないとわかっていても、そうせずにはいられない。他人の視線が、声が、その裏側にある粘ついた本音が、彼女の皮膚を直接撫でるようで、全身の肌が粟立つのを止められなかった。 誰もが、無害な笑顔の仮面を貼り付けている。友人の成績を妬む声。恋人の無神経さを詰る声。講義への退屈と、未来への漠然とした、しか

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