「漣くん」
端整な顔立ちを眺めながら、私が言う。 夜が明ける前に、どうしても彼の名前を呼んでみたかった。 いつもとは違う呼び方で。ひとりの男性として。呼びかけてみたかったのだ。 「漣くん」 もう一度。夢から覚めたあとでは呼べなくなると思ったら、唇が勝手に彼の名を紡いでいた。 ただ名前を呼んでいるだけなのに、なんだか……いけないことをしているみたいでそわそわする。 「漣くん、好きだよ。大好き」 どれだけ想いを伝えても、それが実ることはない空しさで胸が苦しくなる。 いっそ嫌いになれたら楽なのに……と思うけど、すぐに「ううん」と思い直す。 たとえ彼に嫌われようと、冷たく当たられようと、私の気持ちは変わらない。 私と彼が一緒に暮らしてきた長い時間のなかで、彼からの愛情をたくさん受け取ってきた。 母よりも、父よりも、そばで私の相手をしてくれたこの人を嫌いになれるはずがない。 急に心臓をぎゅうっと鷲掴みにされたような感覚に陥って、目の前が涙で滲む。 忘れるなんて無理だ。 好きな人の肌の感触を知ってしまったら。温もりを知ってしまったら。それをなかったことになんてできない。それでも距離をとらなければならないのなら、もうこの家を出ていくよりほかはないだろう。
現状のように、頻繁に顔を合わせるからつらいという部分は大きいのかもしれない。 物理的に距離を置けば、徐々に彼のことを考える時間も減っていくはずだ。 どうせ来年には自立しなければいけなかったのだから、時期が少し早まっただけ。 私自身のため、そして迷惑をかけてしまった彼のためにも、そうするべきなのかも。 もちろん、本音を言えば離れたくないけど……でももう、これしか方法がないのだ。 「ん……」 そのとき、目の前の彼が小さく呻いた。そしてゆっくりと目を開く。 起き抜けなのにぱっちりした二重の目は、アーモンドを思わせる形で美しい。「……瑞希?」
彼が私の名前を呼ぶ。 ほかの人には感じないのに、彼の「みずき」と呼ぶトーンだけいつも特別に感じてしまう。今だってそうだ。 「ぐっすり寝てたね……お兄ちゃん」 私は、愛する彼――兄に、そう笑いかける。 夢の時間はもうおしまい。もう、きょうだいに戻らなきゃ。 最初から叶わぬ恋だと覚悟してたのだから、たったひと晩でも彼を独占できたことに感謝こそすれ、口惜しく思うなんて図々しすぎる。 兄がこの部屋を去るとき、私は絶対に泣いてしまうだろう。 兄もそれを理解しながら、きっと気付かないふりをするに違いない。 私と兄が一線を超えるに至ったきっかけは、およそ二週間前に遡る――私と兄の出会いは、今から十四年ほど前。 実のところ、私と兄に血のつながりはない。 それどころか、戸籍上の家族でもなかったりする。 私の実の両親は、私が物心つく以前に交通事故で他界。 児童養護施設で生活していた私を、縁あって里親として引き取ってくれたのが、兄の両親――朝比奈家の父と母だ。 私が朝比奈家の一員として育てられるようになったのは、朝比奈家の長女であり、兄の実妹の愛莉さんという人が病気で亡くなったことに起因するらしいけれど……詳しいことはよくわからない。 たまにある冠婚葬祭の席で親戚筋から聞きかじった情報をまとめると、おそらくそうなのだろう。 自分がこの家にやってきた経緯を詳しく知りたいと思いつつ、なにごとにも明るく前向きなわが家が、この話に限ってはタブーな雰囲気があり、両親にも兄にも、まだ正確な内容を聞けていない。 この先も、聞けるかどうかはわからない。 とにかく、七歳の秋、私はこの朝比奈家へ里子としてやってきて、兄の妹として育てられるようになった。 事情を知らない周りの友人たちは、私と兄を実のきょうだいだと思い込んでいる。 それくらい、両親は私を朝比奈家の長女として温かく迎え入れてくれて、兄と分け隔てなく育ててくれた。 小学校から高校までは私立の女子校に入れてくれたし、大学も「兄と同じ聖南に行って、検査技師を目指したい」と行ったら、快く応援してくれた。 そんな両親には、心から感謝している。 思えば、施設で初めて顔を合わせたときから、父も母も優しい人柄が顔に滲み出ていて、安心感を覚えた記憶がある。 そんなふたりから「瑞希ちゃんに、うちに来てほしいと思ってるの」と言われて、すごくうれしかった。 初めて朝比奈家を訪ねたのは七歳の夏。 里親制度には『交流期間』というお試しの期間が設けられていて、その間、里親の家に滞在して双方の相性を確認することができる。「瑞希ちゃん、自分の家だと思ってゆっくりしてね」 玄関の立派な扉を潜ると、私の手を引いてくれていた母が私に笑いかけてくれた。その直後。「漣、そこにいるんでしょう。こっちにいらっしゃい」 母が家の中にそう呼びかけると、一番手前の扉から誰かが出てきた。 ――わぁ、カッコいい。 その人を見るなり、胸がときめいたのを今でもよく
フライパンの上の白身が半透明から白色に変わっていくのをぼんやりと眺めながら、本当は、もっといろんなことを話せたらいいのに、と思う。 兄の近況も詳しく聞きたいし、私の近況も知ってほしい。 例えば、もうすぐ大学の臨床実習が始まること。 私も兄の背中を追いかけて、同じ聖南大学の医療技術学部に入学した。 学科は、臨床検査学科を選択。 卒業時に臨床検査技師の国家資格を取得するのが目標のこの学科では、四年生の春から夏ごろにかけて、医療機関での臨床実習が行われる。 実習場所はもちろん、兄も働く聖南大学病院。 病院や検査部の雰囲気を聞いてみたい気持ちがありつつ、兄の様子を見る限りでは忙しそうで、とても私の話を切り出せそうな雰囲気はなかった。 ――忙しいのもあるんだろうけど、私との会話が煩わしいのかも。 昔はもう少し言葉を交わしていたような気がするけれど、最近は常にこうだ。 あまり会話が弾まずに、終わってしまうというか。 いったい、いつごろからだったろう。兄との間に、見えない壁を感じるようになってしまったのは。 私たちはいわゆる普通のきょうだいとは違うし、兄は昔からクールで感情表現の乏しいタイプだけれど、それでも他愛のない話を気軽に話せるくらいの仲ではあった。 こんな風になるに至った理由に、心当たりがないわけじゃない。でも、シンプルにさみしい。 「もう出るの?」 焼き上がった目玉焼きのお皿をダイニングに運ぼうとしたとき、ノートPCをバッグにしまい込み、席を立った兄の姿が目に入ったので、短く訊ねる。 「うん。それじゃ」 「いってらっしゃい、気を付けて」 兄は微かにうなずくと、トーストをのせていた皿をキッチンのシンクに置いたあと、こちらを振り返ることなくリビング側の扉から出て行った。 自身のお皿を抱えたまま、私は、バタンと音を立てて閉まる扉から目が離せないでいた。 昔みたいに、もっと仲良く出来たらいいのに。 ……でも仕方ない。 それを壊してしまったのは、ほかでもない、私自身なのだから――
「……おはよう、瑞希」 気配を感じたためだろうか。ふと顔を上げた兄が私に気付くと、短く挨拶する。 「おはよう、お兄ちゃん」 「そんなところで、どうして突っ立ってるんだ?」 私が取り繕うように、サッと顔面に笑みを貼り付けたことに、兄はまったく気づいていない様子だった。 その証拠に、兄は不思議そうに軽く首を捻っている。 朝食をとるためにここへ来たのではないのか。 そう問いたげな兄に、私は「あぁ……」とか、曖昧に答えながら、となりに腰かける。 さすがに、見惚れていたとは伝えにくい。 「珍しいね、今日はゆっくりなんだ」「本当なら、いつもこのくらいの時間だけど」 「そうだよね。……毎日お疲れさまだね」 再びPCの画面とにらめっこする兄に労いの言葉をかける。兄はなんでもない風に首を横に振った。 「別に。そういう仕事なのは承知の上だから」 医師は肉体的にも精神的にもハードな職業だ。 兄自身も、父の姿を見てきたためによく理解しているのだろう。 だからか、いかにスケジュールがタイトでもその状況をすんなりと受け入れ、愚痴をこぼす姿を見たことがない。 ……相変わらずしっかりしていて、素敵だ。さすがは王子様。 「ご飯、ちゃんと食べてるの?」 PCの横に置かれた、トーストのお皿に視線を向けながら問う。 看護師の母は家族思いで、私たちが幼いころは夜勤のたびに夕食や翌日の朝食をワンプレートにまとめて、冷蔵庫に置いて行ってくれていた記憶がある。 最近は母自身も責任のあるポジションに着いたこともあって忙しくなり、夕食は週に二度ほどやってくるヘルパーさんが作り置きをしてくれたものをいただいている。 朝食は各々で賄うようになったのだけど、私はスクランブルエッグや目玉焼きなど、比較的手軽なものを自分で作っているのに対し、兄は食事に無頓着。 見ていると、今日に限らずトーストだけで済ませてしまうことが多いようだ。 「母さんみたいなことを訊くんだな」 「いつも忙しそうだから、心配になるよ。目玉焼き作るけど、お兄ちゃんもいる?」 「俺は大丈夫。体調管理は医師の基本だから、問題ない」 「そっか」 目も合わさずサラッと断られてしまったことに、うっすらと寂しさを覚える。 もちろん兄の食生活が心配なのは本
兄はいつだって、私の王子様だった。 朝比奈漣(あさひな れん)。私より八歳年上の二十九歳。 幼稚舎から高校までをエリートと名高い聖南大学附属で過ごしたあと、同大医学部へ進学。 父と同じ外科を志し、外科専門医となった現在も聖南大附属病院に勤務している。 系列の別病院で働く父との会話を聞く限り、複雑なオペの執刀や第一助手を任される機会が増えたみたいで、医局では若手のホープと称されているようだ。 医師として順調にステップアップしているのが窺える。 兄が素晴らしいのは、医師としての能力だけに留まらない。 たとえば、穏やかで冷静沈着な人柄もそのひとつだ。 昔から、兄が怒りを露わにしたところを見たことがない。 ゆえに、きょうだいゲンカになるようなこともなく、私がわがままを言っても苛立ったりせず、根気よく諭してくれた。 類まれに整った容姿も、兄の大きな魅力だ。 清潔感のある黒髪のショートヘアはいつも艶がよく、くっきりとした二重の大きな目と長いまつげ、高い鼻梁、薄く三日月のように形のいい唇がバランスよく配置された顔立ちは、妹の私が見ても惚れ惚れしてしまうほど。 スラリとした一八〇センチの体躯も程よく筋肉質で、まるで雑誌から飛び出てきたモデルさんみたいだ。 周囲から見た兄は、非の打ちどころがない理想の男性。ひとことで言えば、やっぱり王子様だ。 兄と初めて顔を合わせた『あの日』から、私にとっての憧れの存在でありつづけている。 ◆ ◇ ◆ 朝六時半。自分の部屋で目を覚ました私は、朝食をとるべくパジャマ姿のまま階下へと向かった。 先にバスルームへ立ち寄り洗面台で軽く顔を洗ってから、ダイニングスペースへと向かう。 わが家のダイニングはリビングやキッチンと一続きで、見通しのいい空間になっている。 キッチン側の扉が開いていたのでそこからダイニングテーブルを覗くと、そこには先客が座っていた。 兄だ。傍らでノートPCを操作しながら、トーストを齧っている。 ――朝にお兄ちゃんに会えたのって、いつぐらいぶりだろう? うれしくなって、自然と頬が緩んでしまう。 ひとつ屋根の下に住んでいるというのに、ここのところ兄は夜間呼び出しや早朝カンフ
「漣くん」 端整な顔立ちを眺めながら、私が言う。 夜が明ける前に、どうしても彼の名前を呼んでみたかった。 いつもとは違う呼び方で。ひとりの男性として。呼びかけてみたかったのだ。 「漣くん」 もう一度。夢から覚めたあとでは呼べなくなると思ったら、唇が勝手に彼の名を紡いでいた。 ただ名前を呼んでいるだけなのに、なんだか……いけないことをしているみたいでそわそわする。 「漣くん、好きだよ。大好き」 どれだけ想いを伝えても、それが実ることはない空しさで胸が苦しくなる。 いっそ嫌いになれたら楽なのに……と思うけど、すぐに「ううん」と思い直す。 たとえ彼に嫌われようと、冷たく当たられようと、私の気持ちは変わらない。 私と彼が一緒に暮らしてきた長い時間のなかで、彼からの愛情をたくさん受け取ってきた。 母よりも、父よりも、そばで私の相手をしてくれたこの人を嫌いになれるはずがない。 急に心臓をぎゅうっと鷲掴みにされたような感覚に陥って、目の前が涙で滲む。 忘れるなんて無理だ。 好きな人の肌の感触を知ってしまったら。温もりを知ってしまったら。それをなかったことになんてできない。 それでも距離をとらなければならないのなら、もうこの家を出ていくよりほかはないだろう。 現状のように、頻繁に顔を合わせるからつらいという部分は大きいのかもしれない。 物理的に距離を置けば、徐々に彼のことを考える時間も減っていくはずだ。 どうせ来年には自立しなければいけなかったのだから、時期が少し早まっただけ。 私自身のため、そして迷惑をかけてしまった彼のためにも、そうするべきなのかも。 もちろん、本音を言えば離れたくないけど……でももう、これしか方法がないのだ。 「ん……」 そのとき、目の前の彼が小さく呻いた。そしてゆっくりと目を開く。 起き抜けなのにぱっちりした二重の目は、アーモンドを思わせる形で美しい。「……瑞希?」 彼が私の名前を呼ぶ。 ほかの人には感じないのに、彼の「みずき」と呼ぶトーンだけいつも特別に感じてしまう。今だってそうだ。 「ぐっすり寝てたね……お兄ちゃん」 私は、愛する彼――兄に、そう笑いかける。 夢の時間はもうおしまい。もう
この世にこんな幸せがあることを、初めて知った。 見慣れた自分の部屋の、見慣れたベッド。 シーツから這い出て上体を起こした私のとなりで、横たわったまま静かに寝息を立てているのは、私がずっと想い焦がれていた人。 清潔感のある短い黒髪も、シャープな輪郭も。 形のいい直線的な眉も、その下の閉じた長いまつげも、思わず指先でなぞりたくなるような高い鼻も、どちらかといえば薄い唇も。 モデルのように整った顔立ちだけど、私はすっかり親しみをもってしまっている。 見慣れた場所に、見慣れた『彼』の姿。 日常的に目にしているにもかかわらず、蕩けるような情事の名残りで、私同様、なにも身に着けずに眠るその人を見つめていると、「信じられない」と内心でつぶやかずにはいられなかった。 私はまだ、夢のなかにいるのだろうか? これが現実であるのを確かめたくて、彼の前髪にそっと手を伸ばす。 真ん中に分け目のある、さらさらした髪の感触がくすぐったくて懐かしい。 思えば、この人の髪に最後に触れたのは、ずっと昔のことだったかもしれない。 毛先を遊ぶように撫でたあと、そっと手を離す。 指先からこぼれた髪がぱらぱらと額に触れたけれど、彼はまったく起きる気配がない。 いつだったか、仕事に追われているがゆえに、暇さえ見つければどんなときでも熟睡できるようになったと話していたことが頭を過ぎった。 いつもお疲れさま。労いの思いで、額に触れるだけのキスを落とす。 こんなことができるのは、私とこの人の距離感が、かつてなく縮まったおかげ。 ――私……本当に、好きな人と結ばれたんだ。 湧き上がるのはもちろんよろこびだけれど、戸惑いや心細さがゼロだと言ったらうそになる。 本当なら、この恋は少しも報われることのないまま、手放さなければいけなかった。 苦しいけど、つらいけど、忘れる努力をしていたはずなのに……いたずら好きの神様が、最初で最後のチャンスを与えるとばかりに、奇跡を起こしてくれたのだ。 誰よりもそばで感じる彼の温もりは、ドキドキするのに心地いい。 このまま、私たちふたりだけの世界になったらどんなにいいか――なんて、バカげた想像をしてしまう。 私は窓際に視線を投げ、