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last update Last Updated: 2025-07-22 14:55:00

   兄は、いつだって私の王子様だった。

 誰が見ても完璧。けれど私にとっては、それ以上の存在。

 『あの日』から、ずっと憧れの人。

 ◆ ◇ ◆

 朝六時半。パジャマ姿のまま階下へ降りる。

 五月の中旬、薄手のカーディガンがちょうどいい季節だ。

 顔を洗ってダイニングへ向かうと、テーブルに見慣れたシルエット。

 私の兄――朝比奈漣が、ノートPCに視線を落としながら片手でトーストを齧っていた。

 黒いTシャツにチノパンというラフな格好なのに、姿勢がいいのできちんとして見える。

 艶のある黒髪が光を受けてきらりと揺れた。

 ――朝にお兄ちゃんに会えたのって、いつぐらいぶりだろう?

 ここのところ夜間呼び出しや早朝カンファレンスで、私が起きる頃にはもういなかったからうれしい。

 そのとき、兄のスマホが軽い音を鳴らした。

 兄は画面をちらりと見てから短く息を吸い込み、電話を受ける。

 「朝比奈です……はい……ええ、了解しました」

 かしこまった口調。病院からだろうか。

 幼稚舎から高校まで、名門・聖南大学附属で過ごしたエリートな兄は、そのまま同大医学部へ。

 今は父と同じ外科医として、聖南大附属病院に勤務している。

 きびきびとした声と落ち着いた表情――ああ、この感じ。「医局で若手のホープと呼ばれている」と父が言っていたのを思い出す。

 通話を終えると、何事もなかったように再びトーストを手に取った。

 その動作まで無駄がなくて綺麗で、つい目が離せなくなる。

 少しうつむき気味に噛み切ると、長いまつげが伏せられ、頬のラインがわずかに動いた。

 唇の形にまで見惚れてしまい――「もしこの唇にキスされたら」とか考えて、背徳感で喉が熱くなる。

 「……おはよう、瑞希」

 はっと我に返ったのは、兄に呼びかけられたからだ。

 「おはよう、お兄ちゃん」

「そんなところで、どうして突っ立ってるんだ?」

 胸の奥で小さな警告音が鳴る。

 兄をそんな目で見ちゃいけない――わかっているのに。

 慌てて席に着く。

「珍しいね、今日はゆっくりなんだ」

「本当は、いつもこのくらいの時間だ」

「……毎日お疲れさまだね」

「別に。そういう仕事だから」

 愚痴をこぼさないのは、昔から変わらない。

 そういえば、兄が怒りを露わにしたところを一度も見たことがない。

 私が子どものころにわがままを言っても、声を荒らげず、根気よく諭してくれた。

 いつも穏やかで、落ち着いていて、感情に振り回されない――そんな兄の人柄に、何度も救われてきた気がする。

「ご飯、ちゃんと食べてるの?」

 視線を兄の皿に向ける。トーストだけで足りるのだろうか。

「母さんみたいなことを言うんだな」

「心配だから。目玉焼き作るけど、一緒に食べる?」

「俺は大丈夫。体調管理はドクターの基本だよ」

 あっさり断られ、少し胸がしぼむ。

 本当は兄を食卓に引き留めたかっただけなのに。

 兄はもうPCに視線を戻している。

 画面には手術のスライドらしき図がちらりと見えた。

 きっと今日も複雑なオペがあるのだろう。

 単純に忙しいだけかもしれないけど、私と話すのを避けているようにも感じられて寂しい。

 私はキッチンでひとり分の目玉焼きを作り始めた。

 白身がじわじわ固まっていくのを眺めながら思う。

 ――もっと話がしたい。

 たとえば実習のこと。来月からは私も兄と同じ病院で実習が始まるのだ。

 兄の背中を追いかけて、同じ聖南大学の医療技術学部に入学した。

 学科は、臨床検査学科。卒業時に臨床検査技師の国家資格を取得するのが目標だ。

 四年生の春から夏ごろにかけて、医療機関での臨床実習が行われる。

 その相談もできれば、なんて思っていたんだけど……難しそうか。

 いつからか、兄との間に見えない壁を感じるようになった。

 特に最近は、目を合わせてくれないどころか、まともに顔を見てももらえない気がしている。

 私たちはいわゆる普通のきょうだいとは違うし、兄は昔からクールで感情表現の乏しいタイプ。

 だとしても、他愛のない話を気軽に話せるくらいの仲ではあったのに。

 それが今は、ただの『妹』としてすら扱ってもらえないような気がして、怖い。

「もう出るの?」

 皿を持ってダイニングテーブルに戻ると、兄はバッグを肩に掛け、出かけようとしているところだった。

「うん。それじゃ」

「いってらっしゃい。気をつけて」

 軽くうなずき、兄は扉の向こうへ消えた。

 音を立てて閉まった扉から、しばらく目を離せなかった。

 ……また、仲良くできたらいいのにな。

 でも、叶わなくても仕方ないと納得しなきゃ。

 ――それを壊したのは、多分、私自身なのだから。

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