「久しぶりに家族四人、集まれてよかったわね~」
七月初旬の土曜の夜。
二週間ぶりに朝比奈家が全員そろい、ダイニングテーブルで夕食を囲んでいた。 母の声はどこか浮き立っていて、嬉しさを隠せていない。「そんなに時間経ってないって」
「母さんにとっては長かったんだろ。なぁ、瑞希?」
兄が茶化すと、父もにこやかにうなずき、こちらへと話を振る。
「うん。今日が待ち遠しかったんだよね、お母さん」
兄が「週末に帰る」と連絡をくれた日から、母はずっとうれしそうだった。
私がからかうと、母は少し慌てて首を横に振る。「べ、別にそういうわけじゃないけど」
「素直じゃないなぁ」
あれほどわかりやすくよろこんでいたのに。
思わず笑ってしまうと、父と兄もつられて声を立てた。 照れ隠しする母の姿が微笑ましく、胸がじんわり温かくなる。本当は、私も兄が帰ってくるのを心待ちにしていた。
三人だけで食卓を囲むとき、いつも隣の空席が寂しく思えて仕方なかったのだ。 今夜はその場所に兄が座っていて、それだけで心が温かいもので満ちていく。「漣、ひとり暮らしは順調? なにか困ってない?」
「特に問題はないよ」
箸を止めた兄が少し考え、肩をすくめる。
「快適ならいいけど」
「まぁ、多少の寂しさはあるかな。ひとりだと会話もないし。だから余計に家族のありがたみを実感してる」
言葉を聞いて、胸がちくりと痛む。
兄が家を出たのは――私のせいだ。 あの日がなければ、引っ越しなどしなかったかもしれない。両親との距離まで作らせてしまったことに、罪悪感が込み上げる。
「どうせご飯は適当でしょ。今夜はしっかり食べて、ゆっくりしていきなさい」
「そうさせてもらうよ」
母は「家族のありがたみ」という言葉に満面の笑み
亮介から「会いたい」と言われたのは、あのドタキャンしてしまったデート以来のことだった。『うん、大丈夫。そうだね。全然会えてなかったよね』 純粋に「久しぶりに会いたい」という気持ちもあったけれど、それ以上に、あのときの不義理を少しでも埋め合わせたい気持ちや、彼から届いていたメッセージを放置してしまった後ろめたさがあった。 だから、私は迷うことなくすぐに返信を送った。 こうして、日曜日の昼に会う約束が決まったのだ。 ◆◇◆ 待ち合わせ場所は大学最寄りの駅ビルにあるカフェだった。あの、以前に私が「企画展に行きたい」と話していたビルだ。 結局あの企画展には行けずに終わってしまったけれど、懐かしい気持ちが胸をよぎる。今は別の催しが開かれているらしい。 指定されたカフェはチェーン店ながらも、女性客に人気のある落ち着いた雰囲気の店だった。木目調のインテリアと柔らかい照明が心地よく、静かに会話をするにはぴったりだ。 入り口で「待ち合わせです」と伝えると、店員さんが席まで案内してくれる。 視線を向けると、亮介はすでに到着していて、手前の席に腰を下ろしていた。「久しぶり」「うん、久しぶり」 顔を上げた彼が軽く笑みを浮かべてそう声をかけてくる。私も同じ言葉で返した。 ほんの数週間ぶりのはずだし、顔を合わせる機会はゼロではなかったのに、ずっと会っていなかったような不思議な感覚が胸をよぎる。「悪かったな、わざわざ来てもらって」「そんなことないよ。むしろ私こそごめん。返事、全然できてなくて……」 座りながら謝ると、彼は肩をすくめて笑った。気にしていないと示すその笑顔に救われる。「いや、わかるって。レポート漬けだもんな。俺も毎日必死。……なに飲む?」 気遣うように差し出されたメニューを眺め、私はアイスティーを、彼はアイスウーロン茶を頼む。 店員が去って少し落ち着くと、亮介が自然に
かける言葉が見つからず、困ったような顔をしている翠に、私はわざと明るくおどけてみせた。「……ヤケ酒、ヤケスイーツ、ヤケカラオケ。いつでも、なんでも付き合うから言ってよ?」 無理していることに気づかない翠じゃない。ふうっと息を吐き出すと、彼女はひとつひとつ指を折りながら、優しく微笑んだ。「……ありがと」 その気持ちがうれしい。 どんな言葉よりも、そばで寄り添ってくれる姿勢に胸が熱くなる。 翠の思いやりに、今にも涙がこぼれそうになりながら、私はぽつりとお礼を言った。 翠はホッとした様子でうなずいたけど、その直後、椅子の背もたれに大きく体を預けて、オーバーにため息を吐いた。「はぁ~……お兄さんのこと悪く言いたくないけど、義理の妹に嫉妬して実習でイビるような人と付き合うなんて、ちょっと信じられないな。美人は得だよねぇ」「まぁ……言い方はきつかったし怖かったけど、イビるってほど的外れなことは言われなかったから」「瑞希って、本当に人が好すぎ。そこはもっと怒っていいんだよ」 真剣な顔の翠に、私は苦笑する。 確かに理不尽なこともあったけれど、細かい指摘の多くは事実に基づいていたから、怒る気持ちは湧かなかった。 それでも私の立場に立って憤ってくれる親友の存在が、ありがたくて心強い。「そこが瑞希のいいところなんだけどね。……ま、これを機に、もう少し亮介のことも見てやってよ」 世間話の延長みたいな調子で友人の名前を出され、私は小さく「あっ」と声を漏らしてしまう。 すると翠がにやりと笑った。「聞いたよ。亮介からのメッセージ、返してないんでしょ?」「……無視したわけじゃないんだけど。ただ、いっぱいいっぱいで」 ――そうだ。兄とのやり取りがあってから心に余裕がなくて、返信する気力がどうしても
「あー……」「もしかして新庄さん、お兄さんのこと狙ってて、瑞希にヤキモチ妬いてたんじゃない? ふたりって一般的なきょうだいより仲良さそうだし。だから、あんなに冷たかったとか」 見事な推理力。翠はやっぱり名探偵だ。 私もこれまでに何度か、ふたりが一緒にいる場面を目撃している。 もちろん、見ようと思って見ていたわけじゃない。同じ病院内にいる以上、どうしてもタイミングが悪いと鉢合わせてしまうのだ。 そんなとき、私は決まって回れ右をして迂回したり、近くで気づかれないようにやり過ごしたりしていた。 ――まだ、正面から直視する勇気なんて持てなかったから。「え、当たり?」 私が曖昧に笑ったせいか、翠がぎょっとした顔で訊ねてきた。たぶん冗談のつもりで言ったのだろう。「わからないけどね」 でも、あのとき新庄さんが言った雰囲気を思い返すと、その推理は外れていない気がする。「おさまったってことは、お兄さんがうまく止めてくれたのかな」「どうだろうね。……もう嫉妬する必要がなくなったって思ったのかも」「……? どういうこと?」「お兄ちゃんと新庄さん、付き合い始めたんだって」 どうせもう覆らない事実だ。隠す意味もなくて、私はヤケになったみたいに口にした。「えっ!?」「翠、声が大きいよ」 思わず叫んでしまった翠に、私は人差し指を唇の前に立てる。「ご、ごめん……だって、瑞希がびっくりすること言うから」 慌てて小声になる彼女に、私は兄に電話をかけ、本人から新庄さんと付き合っていると告げられたことを説明した。 本当はあの夜、兄が「ずっと好きだった」と言ってくれたことも話してしまいたかった。けれど――翠に兄の優柔不断さや不誠実さを疑われるのがいやで、その部分はどうしても言葉にできなかった。「事情はわかったけど……瑞希はそれで平気なの?」 翠はずっと心配そうな顔をしていた。 彼女は私が兄を想っていることを
翌日からの私は、まるで現実から目を背けるように、ひたすら実習に没頭していた。 実習はおよそ一週間ごとに担当する検査室が変わり、そのたびに提出するレポートが増えていく。 課題に追われる生活は息が詰まるけれど、今の私には救いだった。 勉強や作業に時間を割いていれば、余計なことを考えなくて済む。 頭の中が兄と新庄さんのことで埋め尽くされそうになるたび、「課題を仕上げなきゃ」と自分に言い聞かせ、なんとか心を保っていた。 ……そうでもしなければ、きっと私は壊れてしまっていただろう。 気づけば実習も一ヶ月半が過ぎ、いよいよ終盤に差しかかっていた。 七月も下旬、夏らしい強い日差しが窓から差し込む午後。 休憩室で向かい合って座る私と翠は、短い昼休憩を過ごしていた。「はぁ……しかし、病理検査室はヘビーだね」 コンビニで買ったというサンドイッチを食べ終えた翠が、ペットボトルの紅茶をひとくち飲んでから、肩を落とすようにしてつぶやいた。 私は今日もお弁当。食べ終わったお弁当箱をランチバッグにしまいながら、「うん」と相づちを打つ。 病理検査室とは、臓器や組織、腫瘍の一部などを切り出して観察し、病気を特定する検査を担う場所。 午前中の実習では実際に標本を作り、染色したスライドを顕微鏡で覗いた。 普段は教科書でしか見られないものを自分の手で扱う貴重な経験だったけれど、やはり衝撃は大きい。 その臓器を通して、いま苦しんでいる患者さんの存在を思わずにはいられない。 命の重みを突きつけられるたび、外科医として日々人の命と向き合っている兄の姿を思い出して――また、胸が苦しくなる。「わかるよ~。でも仕事にする以上、ちゃんと向き合わなきゃだもんね」 私の顔が曇ったのを、翠は実習内容のせいと解釈したらしい。 私は曖昧にうなずき、気づかれないように心のざわめきを押し隠した。 すると翠がふと、なにかを思い出したように目を丸くし、手にしていたペットボトルをテ
「綾乃と……もう一度付き合うことにした。綾乃のことが好きだから」 はっきりと告げられた瞬間、目の前が真っ暗になった。 言葉の意味は理解できるのに、頭がついていかない。 心臓を鷲づかみにされたように苦しくて、呼吸さえ乱れそうになる。 ――あの夜、私に言ってくれた「好き」は、うそだったの? 私を想い続けてくれていたからこそ苦しんでいたんじゃなかったの? 混乱で胸がかき乱されて、もうなにが本当なのかもわからない。 けれど、いくら私が縋ろうとしても、兄の気持ちを縛ることはできない。 兄が綾乃さんを好きだと言い、付き合うと決めたのなら――私には口を出す権利なんてないのだ。「……そうなんだ。わかった。……それだけ確認したかったの。答えてくれてありがとう」 必死に平静を装って言葉を返す。 けれど本当は、身体がバラバラに砕け散ってしまいそうで、立っているのもやっとだった。 兄の心はもう、私には向いていない。別の場所へ行ってしまった。 そう突きつけられ、涙が込み上げてくるのを必死で堪える。「瑞希のほうは……上手くいってるのか?」「私?」「大学の同級生。デートしたって言ってたろ」「そんな――」 思わず言葉を飲み込む。 ――そんなわけない。私はお兄ちゃんがこんなにも好きなのに。 ほかの人を好きになる余地なんて、心のどこにも残っていない。 けれど、反発しかけて気づく。兄はまだ、私が『デートに行ったふり』をしていたことを知らないんだ。 だから、私と亮介がこれから関係を深めていくと勘違いしているのかもしれない。 ……だとしたら、なおさら残酷だ。 どうしてそんな無神経なことが言えるの?
「うん?」 自然に聞き出す方法を模索したけれど、回りくどい言い方では真実に辿り着けそうにない。 胸がきゅっと締めつけられるのを感じながら、私は思い切って核心に触れた。「……新庄さんと付き合ってるって、本当なの?」 声に出した瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。 返事を待つわずかな間が、とてつもなく長く感じられた。どうか、あの人の言葉がうそでありますように――そう祈らずにいられなかった。 けれど。「……どうして、それを?」 硬い調子の声。 わずかに動揺を含んだ響きは、兄が完全には否定しなかった証のように聞こえた。 ――やっぱり、本当なんだ。 心の奥で「きっと否定してくれる」と信じていた期待が、音を立てて崩れていく。「今日……新庄さんと話をする機会があって。そのときに、聞いたの」「……そうか」 短く応じただけで、兄は気まずそうに黙り込んでしまう。「正直、びっくりした。だって、新庄さんとはもう別れたって言ってたから」 それでも、私は希望を手放したくなくて、言葉を重ねる。 「でも違うんだよ」「相手がそう思ってるだけで」――そんな都合のいい台詞を、どこかでまだ期待していたのだと思う。 しかし。「……ごめん」 返ってきたのは、謝罪だけだった。 ――やめてよ。それじゃ、新庄さんの言ってることが本当みたいじゃない。「お兄ちゃんが、なにを考えてるのか……全然わからないよ」 苛立ちが混じった声になってしまう。責めたいわけじゃない。けれど、このままでは納得できない。 ほんの数日前――私に「好きだ」と言ってくれた兄が。どうして今さら彼女と。「瑞希のことを、綾乃に訊ねたとき…&hellip