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【13】⑥

last update 最終更新日: 2025-08-26 11:00:01

 するとその直後、兄がゆっくりと目を開け、再び顔を上げて私を見た。

「瑞希は『置き換え』とか『代償』って聞いたことある? 心理学の用語なんだけど」

「え……あ、ちゃんと勉強したことはない、かも」

 唐突な問いかけに戸惑いながら、必死に記憶を探る。

 医療系の本で目にした気もするけど、意味を説明できるほどの知識はない。

 正直にそう答えると、兄は小さくうなずいた。

「対象に向けられた心のエネルギーを、別の対象に向けかえることを言うんだ。……俺はきっと、瑞希をかわいがることで、愛莉を亡くしたつらさや負い目を忘れようとしたんだと思う。つまり」

 一拍置いて、震える声で続ける。

「俺が瑞希を好きだと思ったのは、自分を守るための錯覚なんだ」

 言葉が胸に突き刺さり、場の空気が重く沈む。

 兄の「好き」が一瞬で「錯覚」に変わり、持ち上げられた直後に突き落とされたみたいだ。

 私の心情を察したのか、兄がさらに口を開く。

「綾乃とのことを説明するには、自分の気持ちを隠したままじゃ難しかった。……俺は綾乃も傷つけた。絶対に結ばれない相手を好きになって、その現実から逃げたくて……綾乃と付き合うことにしたんだ。彼女が、たまたま俺にアプローチをしてくれたから。……最低だよな」

 自嘲気味の声。私に向けられたのか、ただの独り言なのかはわからない。

 けれど、彼の言葉には新庄さんへの後悔がにじんでいた。

「直接伝えたことはないけど……なにかの拍子に、俺が想っていたのが瑞希だと察して、攻撃したのかもしれない。俺から綾乃に話をしてみるよ。……迷惑をかけて、本当に悪かった」

 深く頭を下げると、兄はソファから立ち上がり、そのまま扉のほうへ歩き出す。

「待って!」

 兄が立ち去ろうとしたのを止め、私は思わず立ち上がった。

「まだ話は

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