Masuk結安の瞳には、まだ怯えが残っていた。けれど彼女は分かっていた。――この勝負は自分の勝ちだと。章真の目には、疑いではなく感動が浮かんでいる。それどころか、嬉しそうですらあった。たった一通の手紙で、ここまで機嫌が変わるなんて。あれほど冷酷な男でも、結局は家族の温もりに飢えているのか――結安は胸の奥で、どこか白けたように笑う。その時、桐生が駆けつけてきた。蝶野も、様子を窺うように後ろから現れる。二人は扉の前で恐る恐る声を掛けた。「葉山社長……」だが、先ほどまでの怒気は完全に消えていた。いや、むしろ機嫌がいい。章真は振り返り、穏やかに言う。「もう大丈夫だ。二人とも下へ行ってくれ」蝶野は不安でたまらない。結安は縛られ、口まで塞がれていたのだ。こんな乱暴な扱いをされて、心に傷が残らないはずがない。何か言おうとしたが、桐生にそっと腕を引かれる。廊下へ出たあと、桐生は小声で言った。「葉山社長が本気で怒ったら、誰にも止められません。下手に口を挟むと余計悪化します。でも今は……たぶん大丈夫です」蝶野は青ざめたまま頷き、渋々その場を離れた。……ウォークインクローゼットには、まだ湿った空気が残っていた。結安の涙のせいだ。カーペットには札束が散乱している。そしてあの手紙は章真が回収していた。丁寧に畳み、胸ポケットへしまっている。――まさかアヒルが、あそこまで自分を慕っていたなんて。章真はソファの前へしゃがみ込む。結安は半ば崩れるように膝をついたまま、両手をネクタイで縛られていた。口にはまだ彼のポケットチーフ。涙でぐしゃぐしゃになった顔は見るからに痛々しい。章真はゆっくり布を外してやる。そのまま髪を撫でながら、これまでにないほど優しい声で言った。「プレゼントを買いたかったなら、最初から俺に言えばよかっただろ。服は全部お前の物なんだから。売ったら着る物がなくなるぞ?」声には呆れと――満足感が滲んでいた。結安はようやく危機が去ったことを理解する。全身から力が抜けた。そのまま崩れるようにソファへ座り込む。額が章真の膝へ触れた。起き上がろうとしても身体に力が入らない。もしあの場を切り抜けられなければ、自分の未来は終わっていた。学
結安は顔を上げた。突然戻ってきた章真を見つめ、大きな瞳を揺らす。無意識に両手を背中へ隠す仕草。問い詰められている最中だというのに、章真はその瞳を見て思ってしまう。――本当に綺麗な目だ。潤んだような大きな瞳。立花夫婦も、まったく無能だったわけじゃないらしい。少なくとも、この娘を生んだことだけは価値がある。見ていて気分がいい。だが、可愛いだけでは意味がない。ようやく会社を手に入れた今、アヒルに逃げられるわけにはいかなかった。もし問題を起こされれば、自分の評判に傷がつく。だからこそ――確認しなければならない。結安はなおも同じ言い訳を繰り返した。「……今日は暑かったので」章真は笑った。「十一月だぞ。どこの世界が暑いんだ?」考えれば考えるほど怪しい。次の瞬間、章真は少女の腕を掴み、そのまま衣装部屋へ引きずっていく。――まさか。自分の物を盗み売りしながら、表では愛想よくしていたなんて話だったら笑えない。二人は揉み合いながら進む。結安が怯えれば怯えるほど、章真の疑念は深まっていった。ウォークインクローゼットへ入ると、ずらりと並ぶ服やアクセサリー。だが章真は何をどれだけ買ったか把握していない。そこで彼はスマホを取り出し、桐生へ電話を掛けた。購入リストを持って来させ、全部確認するつもりだった。これで不足があれば分かる。電話越しの桐生は空気の異変を察したが、すぐこちらへ向かうと答えた。その頃には結安の服は汗でぐっしょりだった。章真はさらに靴棚まで確認しようとする。すると結安が悲鳴混じりに止めた。下の階で様子を窺っていた蝶野も、さすがに不安になり、恐る恐る二階へ上がって来る。だが部屋の入口へ着いた瞬間。章真の低い声が飛んだ。「下へ行け」蝶野は震えながら言う。「でも結安ちゃんはまだ子どもですし……叱るにしても、ちゃんと話して――」章真は冷たく笑った。――子ども?こいつ、頭の中は相当だぞ」そう思って結安の腕を掴み、横へ突き飛ばす。だが次の瞬間。小さな身体が背後から彼へしがみついた。細い腕で必死に腰へ抱きつき、顔を背中へ押しつけながら泣きじゃくる。「葉山叔父さん……お願い、見ないで……っお願いです……見ないで……!」
結安は一瞬、息を止めた。宇佐美は章真の側近だ。彼に知られるのはまずい。少女はすぐに視線を落とし、小さな声で言った。「ちょっと気分転換で歩いてただけです。暑かったので、中で休ませてもらってて……宇佐美さんこそ……叔父さんとご一緒なんですか?」上手く注意を反らされたことに、宇佐美自身は気づかない。所詮、彼は雇われの秘書だった。結安と同じ家で暮らしているわけでもない。そこまで深く気に掛けてはいない。少し考えたあと、彼は答えた。「葉山さんなら、前のビルにいますよ。行きますか?」結安は素直そうに微笑む。「お仕事中でしょうし……私は大丈夫です」宇佐美は彼女に好印象を抱いていた。華奢で綺麗な少女。しかも礼儀正しい。嫌う理由などない。宇佐美が立ち去ったあと、結安はようやく小さく息を吐いた。けれど胸のざわつきは消えない。もし宇佐美が章真へ話したら?もし疑われたら?章真は宇佐美みたいに簡単に誤魔化せる相手ではない。結安は唇を噛む。だが数秒後には、ゆっくり表情を整えていた。……宇佐美が向かったのはクラブだった。五階のVIPルームは目が眩むほど豪奢だ。部屋にいるのは章真と、若い男が一人。章真はソファへ腰掛け、男は立たされたまま。男は天宇グループ案件の主任エンジニアだった。プロジェクト自体は手に入れた。だが肝心の技術責任者が協力的ではない。だから章真は話し合いの場を用意したのだ。章真はマグカップを片手に持っていた。中には琥珀色の酒。ゆるく揺らしながら、気怠げに口を開く。「若いうちは理想論を捨てられないもんだ。分かるよ。宇佐美だって新卒の頃はお前みたいに尖ってた。でも現実ってのは残酷だ。立花拓哉は終わった。耐えきれず飛び降りて、奥さんも後を追った。残った一人娘は今うちで預かってる。大事に育ててるよ。いい服を着せて、美味いもの食わせて、可愛がってる……でも、それは俺の機嫌がいいからだ。俺が欲しいものを手に入れてるから成立してる。もし千億単位の損失を出したら?俺が孤児一人に優しくする余裕、まだあると思うか?」章真は軽く笑った。「顔はいいんだよな、あの子。商品価値は高そうだ。芸能界にでも入れるか?学校なんか辞めさせてさ」
結安は小さく唇を結び、遠慮がちに言った。「蝶野さん……少し外へ出てもいいですか?」蝶野はもともと結安に甘かった。束縛するつもりなど最初からない。ただ、子どもに寂しい思いをさせたくなくて、慌てて運転手を手配しようとする。けれど結安は、柔らかく微笑んで首を振った。「近くの市民ライブラリーで勉強するだけです。歩いて行けるので」蝶野は何度も頷いた。「いい場所よねぇ、あそこ。静かだし雰囲気もいいし。ちゃんと勉強して、立派になるのよ」結安は淡く笑った。――本当は医学部へ進みたい。けれど、それには長い年月が必要だ。そして莫大なお金も。だから彼女は、どうしても資金を作らなければならなかった。結安は静かに二階へ上がり、自室のウォークインクローゼットへ向かう。中から慎重に服を選び出し、それに合わせた靴とアクセサリーも揃える。タグ付きのまま、丁寧に畳み、綺麗にバッグへ詰め込んだ。リュックを背負い、再び階下へ降りる。庭で蝶野を見つけると、礼儀正しく手を振った。「お昼には戻ってきますね」蝶野はもう可愛くて仕方がない。ほとんど実の娘のように思っていた。いつか結安が結婚する日が来たら、自分はきっと泣いてしまうだろう――そんな未来まで想像している。できれば、この家にずっといてほしいとすら思っていた。けれど彼女は知らない。結安が、その目の届く場所で少しずつ服やアクセサリーを持ち出し、売り払っていることを。そして十分なお金を手にしたら、いつか遠くへ逃げるつもりでいることを。……午前十時。結安は高級ブランド専門のリユースショップへ足を踏み入れた。店主は少女の姿を見るなり、冷房目当ての学生くらいにしか思わず、ほとんど相手にしない。だが結安は黙ってカウンターへ歩み寄り、リュックを下ろした。そして中から取り出したのはシャネルの最新限定コレクション。富裕層の女性たちですら入手困難な人気モデルだった。セットアップだけで六百万円近い価値があり、タグも付いたまま。さらにアクセサリーと靴まで揃っている。女店主の目の色が一瞬で変わった。最初は偽物を疑った。けれど生地に触れた瞬間、本物だと分かる。さらに結安自身の雰囲気。一目で本物のお嬢様育ちだと察せられた。店主
章真は、まるで息をするみたいに人の好意を手に入れる。若く。端正で。金を持っていて。――しかも気前がいい。学年主任との話のあと、章真は学校へ四億円近い寄付を申し出た。新しい図書館建設のためだ。その瞬間、彼は学校中の特別なお客様になった。この学校では、数百万円規模の予算申請ですら毎回苦労する。それなのに章真は、軽く笑って巨額の寄付を決めてしまったのだ。もはや福の神扱いだった。けれど結安だけは知っている。彼が立花家から手に入れたものに比べれば、そんな金額など微々たるものだということを。そして――彼の優しさは、すべて気まぐれだということも。葉山叔父さんごっこに飽きれば、彼はいつでも自分を捨てられる。今は機嫌がいいから優しくしているだけ。価値がなくなれば、きっと迷いなく本性を見せる。結安はそれを理解した上で彼に合わせていた。彼は欲しいものを手に入れた。――結安もまた、同じだった。学年主任と校長が章真へ媚びへつらう中、結安は彼の隣で大人しく座っていた。仲の良い保護者と少女。そんなふうに見える距離感。それが章真を満足させる。――引き取って正解だったな。彼はそう思う。私生活はかなり乱れている。だが経営者である以上、世間体は必要だった。このままずっとアヒルを養っていても悪くないかもしれない。見た目も可愛い。家に置いておくだけでも気分がいい。せいぜい肩でも揉ませれば、養育費の元くらいは取れるだろう。本来なら、そのまま結安は授業へ戻るはずだった。だが章真が、「周防本邸へ連れて行く」と言い出したため、学年主任は即座に許可を出した。しかも自ら駐車場まで見送りに来る。顔中に愛想笑いを貼りつけながら、何度も頭を下げる姿は、完全に大口寄付者への対応だった。章真もまた気前よく小切手を渡し、そのまま結安を車へ乗せる。シートベルトを締め終えた結安を見ながら、彼はふいに尋ねた。「なんだ、不機嫌そうだな。授業なんて、そんなに大事か?大学なんて、立都市ならどこでもどうにでもしてやる。そんなことより、マッサージとか覚えた方が役に立つぞ」……結安は馬鹿ではない。つまり彼は、自分をメイドとして育てるつもりなのだ。今はまだ幼いから面白がっている
結安は立ったまま――じっと「葉山叔父さん」を見つめていた。普段はスーツ越しに隠れているせいで細身に見える。だが浴衣一枚になった章真の身体は、想像以上に男らしかった。厚みのある胸板。うっすら覗く引き締まった腹筋。日頃から鍛えているのが一目で分かる。そんな結安の視線を受けながら、章真はゆっくりと近づいてくる。そして見下ろすように立つと、静かに言った。「そこに座って、大人しく待ってなさい。俺が身支度を終えるまでだ……今回だけだからな。次またやったら休学させる。家で料理と掃除でも覚えて、メイドとして働いてもらうぞ。メイド代も浮くしな」まだ数日しか経っていないのに、もう平気で睡眠を邪魔してくる。しかも隠す気すらない。結安はこくりと頷き、リュックを背負ったまま素直に腰を下ろした。背筋をぴんと伸ばして。その様子に、章真は少し満足する。彼は支配することを好む男だった。こうして従順でいてくれるなら――将来的に、この家に置いてやっても悪くないと思う。昼は学校へ通い、夜はここでメイドとして働く。案外悪くない生活かもしれない。やがて章真は身支度を終え、仕立ての良いスリーピースに着替え、細い金縁眼鏡を掛けて結安と共に階下へ降りた。章真には朝食を摂る習慣がない。ブラックコーヒーを一杯飲むだけだ。一方、結安は卵サンドを片手に車へ乗り込み、そっと彼へ差し出した。それを見た章真は目を細める。「俺が空腹で倒れるとでも思ったか?まだ毎朝朝飯を食う年齢じゃない……そういうのはお前の父親くらいの歳になってからだ」拓哉の話題が出た瞬間、結安は黙ってサンドイッチを引っ込め、そのまま自分で食べ始めた。章真は何も言わず、アクセルを踏み込む。――慰めもしない。彼は拓哉という男を心の底では見下していた。弱肉強食。ビジネスの世界では当たり前のことだ。力がないのが悪い。それを他人のせいにはできない。それどころか、自分は娘まで引き取ってやっている。こんな善人が他にいるだろうか、とすら思っていた。学校へ掛け合い、生活を気に掛け、面倒を見てやっている。三十分後。黒のベントレーはある公立高校へ静かに滑り込んだ。設備はどれも古びていて、校舎にもどこか時代を感じる。いかにも普通の高
髪を適当に乾かし終えると、寒真は逃げるように浴室へ隠れた。しばらくして、浴室から微かな音が聞こえてきた。夕梨は軽く笑った。男も心にもないことを言うものだ、本当はしたいくせに。シャワーを浴びて髪を乾かした後、彼女は心地よくベッドヘッドにもたれ、何気なく本をめくっていたが、内容は頭に入ってこず、浴室の物音が気になって仕方なかった。およそ二十分後、寒真が浴室から出てきた。全身びしょ濡れだ。腰に小さなバスタオルを一枚巻いているだけ。上は何も隠せず、下もろくに隠せていない。水滴が隆起した胸筋を伝ってゆっくりと落ち、あの小さなタオルの中へと消えていき、想像をかき立てる。夕梨
マグノリア映画祭が、予定通り開催された。予想通り会場は央筑ホテルで、その夜、ホテルには名士が集い、星々のように輝いていた。今夜は、夕梨が立都市の央筑ホテルに勤務する最後の夜だった。彼女は深夜二十四時のフライトを予約していた。米国へ向かい、二年間の研修に入るのだ。六年前、彼女が央筑ホテルに入ったのは寒笙のためだった。しかし数年が経ち、彼女はこの場所を深く愛するようになっていた。だから今夜、彼女は自分の数年間のキャリアに完璧な終止符を打ちたかった。ホテルの前庭には、百メートルのレッドカーペットが敷かれた。夕梨は主催ホテルの責任者として、来賓を出迎えていた。黒のスーツに身
二人が振り返ると、そこには玲丹がいた。玲丹はお腹を突き出しており、妊娠四ヶ月といったところだ。一年ほど前、玲丹は富豪に嫁いだ。最初の年に娘を産んだが、相手の母はあまり喜ばず、娘がまだ生後三ヶ月の頃から、次の子作りを迫られ、運良くすぐにまた妊娠したのだ。第一子は帝王切開だったから、まさに命がけの出産だ。玲丹の事情はわざわざ聞かずともゴシップニュースに書かれている。夕梨はこの女に何の感情も抱いていなかった。彼女は寒真の手を振りほどき、一言だけ残した。「昔のご縁、大事にしてらっしゃい」寒真は彼女を引き留め、車のキーを彼女の手に握らせた。「車で待っててくれ、すぐ
冷たい氷水が、頭から足先まで容赦なく浴びせられた。寒真は目を覚ました。目を開けると、そこには激怒した仁政と、情けないものを見るような両親の姿があった。ソファには弟の寒笙が座り、悠々とサプリメントを飲んでいる。その横では翠乃が静かに刺繍の本を読んでいた。寒真は頭を振った。氷の雫が祖父の顔に飛び散った。仁政はさらに激昂し、罵声を浴びせた。「家にまともな人間がもう少し多ければ、私は今頃H市の豪邸で安穏とした余生を送っておったわ!こんな辱めを受けることもなくな!見ろ、今の自分のザマを。バーで泥酔なんぞしおって、野垂れ死にしなかったのが不思議なくらいだ!」晴臣が思わず口を







