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第230話

Author: 風羽
ビカソ幼稚園——立都市で最も高級な幼稚園のひとつ。

年間の学費は、なんと四百万円にもなる。

通っている子どもたちは、いずれも裕福な家庭の子ばかり。誰が誰を傷つけてもおかしくない、そんな緊張感すら漂う場所だ。

舞が急いで園に到着し、園長室に案内されると、部屋の中には二人の子どもがいた。

ひとりは九条の娘、夕月。もうひとりはまだとても小さな男の子だった。

小さくて色白で、驚くほど整った顔立ちをしている。

けれど、舞が思わず見つめてしまったのは、その見覚えだった。

どこかで——いや、何度も夢に見たような——

その子は、舞をじっと見つめていた。今にも駆け寄りそうなのに、なぜかぐっとこらえているようで。

そのとき、慕美が彼女に抱きつき、うるんだ瞳で甘えるように言った。

「叔母さん」

舞はその子の頭をそっと撫でたが、どうしても気になって、視線は自然とあの小さな男の子のほうへと向けられていた。

慕美はくるりと振り返り、腰に手を当てながら澪安に向かって得意げに言った。

「この人はね、私の叔母さんよ!これからパパと結婚して、私のお母さんになるんだから!」

子どもの言うことだと、舞は笑って流した。

けれど、その間も、視線はあの男の子から離れなかった。

「喧嘩したって聞いたけど……澪安、泣かせちゃったんでしょう?ほら、ちゃんと謝ろうね」

二人とも、お母さんがいない子だった。ちょっとした意地の張り合いが喧嘩に発展したのだ。

もちろん、体の小さな男の子は元気な慕美には敵わなかった。涙ぐんで鼻をすすっている。

でも慕美は勝ったことに満足したのか、堂々と彼の前に立ち、「周防澪安、ごめんね。もう喧嘩しない。誰かにいじめられたら、私の名前出しなよ。助けてあげるから」と言った。

それでも、澪安の目は舞を見つめたままだった。

その瞬間、舞の中の何かが崩れた。

血の気が引き、立っていられないほどの衝撃。

どんな風にして、その子の前にたどり着いたのか覚えていない。ただただ、本能のままに、膝をついてその子の顔を見上げ、震える指でそっと頬に触れた。

「……澪安、っていうの?パパの名前は?」

……

その問いに、澪安は唇を結び、ほんの少しの時間のあと、小さく答えた。

「パパの名前は……ハンサムさん」

舞の頬には、いつの間にか涙が伝っていた。

彼女は澪安の小さ
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