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第336話

Author: 風羽
山田は段取りを終えると、振り返った先に京介の姿を見つけ、歩み寄って手から煙草を取り上げた。

「体調がやっと戻ったんですから、煙も酒も控えてください」

京介は苦笑する。

「さっきは何も言わなかったじゃないか」

「皆さん楽しそうでしたから、水を差すのもと思いまして」

柔らかな声でそう返し、京介を立たせようとする。

しかし京介は淡々と断り、床に落ちていた願乃のおもちゃを拾い、手すりを支えにゆっくりと階段を上っていった。

山田はその背中を見送り、笑いながら首を振った。

夜はやわらかな光を帯びている。

京介は子ども部屋を覗き、澄佳と澪安の寝顔を確かめてから主寝室の扉を開けた。

ランプの灯りは黄味を帯び、ほのかに赤子のミルクの香りと、湯上がりの舞の肌から漂う淡いバスフレグランスが混じる——優しく、心を解かす匂い。

舞はイギリス風のソファに身を預け、エンタメ誌を読んでいた。

京介は彼女の隣に腰を下ろし、頭を背もたれにあずけてから、ふと覗き込む。

「こういうの、好きだったか?」

ページをめくると、男のモデルまで載っている。

意味ありげな視線を向け、彼は舞を腕に抱き寄せ、自分の肘に頭を預けさせた。

家では滅多に隠そうとしないその腕——舞の細い指先が、無骨な傷跡をなぞる。

黒と白がくっきり分かれる肌に、野生の獣の鱗のような凹凸。

ひと撫でに、京介の身体が微かに震えた。

舞が見上げると、深く沈んだ瞳が返ってくる。

「……舞、そこは触るな」低く呟く声。

「じゃあ……どこなら?」

艶を帯びた声色に、京介は目を閉じた——まるで命を奪うかのようだ。

今の彼には、触れてほしい場所も、触れられない場所も同じくらい危うい。

酒気と男の匂いが混ざり、酔わせるような空気になる。

抱擁も口づけも、幾らあっても足りない。

長年連れ添った夫婦だからこそ、京介はどうすれば舞を喜ばせられるかを知っている。

——やがて、二人は乱れたソファに身を委ねたまま抱き合っていた。

京介は舞の華奢な身体を抱き寄せ、やや気だるげに、子どものこと、会社のこと、輝と瑠璃のこと、そして岸本の話までしていく。

京介は片腕を枕にし、胸に抱いた彼女を見下ろして問いかけた。

「もしお前なら、どう選ぶ?」

「輝のお金を全部もらって、そのお金で娘を育てるわ。一生かけて観察する」

「つま
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