再び澄佳に会った翔雅の胸には、やはり感情が残っていた。彼は昔から彼女の華やかさを好んでいたし、出産を経て増した柔らかな女の色香に、なおさら惹かれていた。翔雅は澄佳のもとへ歩み寄り、手にした栄養剤を机に置くと、断りもなく腰を下ろした。澄佳は本を手にしたまま、怒るどころか微笑んだ。「翔雅、私はあなたを招いた覚えはないわ」翔雅は厚かましく笑った。「自分で来ただけだ。子どもたちの母親の様子を見に来たんだ」澄佳は冷たく嗤った。「もう見たでしょう。なら帰って」だが男が引き下がるはずもない。彼は膝をつき、手を伸ばして彼女の額に触れようとした。「少しは良くなったか?」澄佳の顔には、次第に苛立ちが滲んでいた。「一ノ瀬翔雅、人の言葉がわからないの?それともわざと?私たちはもうはっきりさせたでしょう。あなたは相沢真琴と曖昧にし続ける道を選んだ。なら私もきっぱり線を引くわ。今後あなたのご両親が子どもたちに会いたいなら周防家に来てもらえばいい。あなた自身は……どうでもいい」それでも翔雅は食い下がった。彼は低い姿勢で顔を仰ぎ見ながら、必死に乞う。「澄佳……少しだけ待ってくれないか。真琴の病気が良くなったら、海外に行かせるか、金を渡して別の街で暮らさせる。その時には、もう俺たちの生活に彼女はいない。誓うよ、男女の関係なんてない。あのキスも俺の意思じゃなかった」澄佳は笑った。「翔雅、あなたが情婦をどう養おうと、私に報告する必要なんてない。それに、なぜ私があなたを待たなきゃいけないの?私が嫌悪しているのは過去じゃない。相沢真琴そのものが嫌なの。ついでにあなたという人間も、吐き気がするほどよ。よく智也のことを持ち出すけれど、私が智也ときっぱり別れたように、今度も同じ。曖昧さなんて望んでない。章真と芽衣のことは、あなたの良心に任せるわ。ただ一つだけ言っておく。私の従姉・茉莉は、継母の不注意で事故に遭い、脾臓を失った。社交界では有名な話。だから子どもたちのためにも、相沢真琴を絶対に近づけないで。もし一度でも接触したら、私は相沢真琴の命を奪う。翔雅、これは誓いよ。私の忍耐を試さないことね。あなたがどれほど腐っていようと、私は関わらない。ただ——私を巻き込むな」澄佳の言葉は、断固としていた。翔雅は朦朧としな
翔雅は篠宮に電話をかけ、澄佳の病状と入院先を尋ねた。篠宮は最初こそ口を閉ざしたが、結局は情にほだされて答えた。「葉山社長は周防家にいますよ。でも……一ノ瀬社長、どうか刺激しないであげてください。やっと平穏を取り戻したんです。彼女は、あなたと相沢真琴の間に入りたくないんです」翔雅は革張りのシートに身を沈め、低く言った。「俺と真琴は、そういう関係じゃない。それに……澄佳とは何があろうと二人の子供がいる。彼女が病んでいるなら、見舞うのは当然だろう。もうすぐ正月だし」篠宮は苦笑した。「正月だって?あなた、自分がどれほど葉山社長を苦しめているか分かってますか?彼女はもう一緒にいなくてもいいと思ってます。相沢真琴とのことはあまりに見苦しいです。一ノ瀬社長、はっきり言います。相沢真琴はあなたが思っているほど弱い女じゃありません。全部偶然ですか?相沢強志の出所の日に撮影開始、そして彼に捕ました。彼女は大人でしょう、警戒心がまったくないとでも?都合よく流出する写真、都合よく撮られたキス……偶然が重なりすぎています。もしまだ彼女を純粋だと信じるなら、私はもう何も言いません」翔雅は静かに答えた。「確かに真琴が仕組んだこともあるかもしれない。けれど、相沢強志にわざと捕まったとは思えない。あんな屈辱的な写真を、自ら広めるはずがない。女なら誰だって名誉を守ろうとする」篠宮は言葉を失った。——翔雅はあまりに理想主義だ。芸能界の人間性の醜さを散々見てきた身としては、名誉も清白も手放す人間など珍しくないと知っている。だが言葉を尽くすだけ無駄だった。結局すべては、翔雅自身の選択。少年時代の初恋が、救済を待っている。しかも今の彼には、それを実現する力がある。英雄願望に酔った男に、自分が誰の夫で、誰の父親であるかを省みる余裕などなかった。篠宮は通話を切った。……翔雅は市街に車を走らせ、子供の玩具を山ほど買い込み、さらに女性用の栄養補助品も揃えた。後部トランクは満杯になった。黒いレンジローバーが周防家に着くと、門番に止められる。「一ノ瀬様、ご予約は?」窓を下げ、翔雅は短く告げた。「澄佳に会いに来た」門番は差し出された煙草を受け取り、一口吸ってから困った顔をする。「勘弁してくださいよ、私たち下っ端は命令に逆らえない
一ノ瀬夫人はソファに腰かけ、悠が持参した小物を指先で丁寧に眺めていた。孝心からの贈り物を、大切にしているのだろう。そこへ翔雅が入ってくると、彼女は手にしていた物を置き、冷ややかに言った。「やっと帰ってきたのね?」翔雅はカシミアのコートを脱ぎ、背もたれに投げかけると、母の隣に腰を下ろした。「母さん……どうして正月の準備が何もされてないんだ?」一ノ瀬夫人は冷笑を漏らす。「正月?あんたの父さんと私は、もう怒りで病気になりそうよ。翔雅、どうしてあの相沢真琴と絡み合うの?あの女に何の魔力があるというの。顔も姿も、澄佳には遠く及ばない。感情だって子供のままごとみたいなもの。澄佳は正式にあんたと結婚し、双子まで産んでくれた。普通の家なら、それだけで大きな福だって喜ぶわよ。それをあんたは大事にしない。いいこと?過ぎた好縁は二度と戻らないのよ。澄佳の才色、立都市ではどれだけの男が望んでいるか。あの相沢と絡み合うなんて、泥に沈むだけ」翔雅はソファに身を預け、深く息を吐いた。「母さん……俺は彼女と一緒になるつもりはない。真琴に対するのは男女の情じゃない」「男女の情じゃない?じゃあ、どうして自分で看病までするの。自分の子供を放って、あの女に入り浸るの。あの人は泥の中の女よ!翔雅、相沢真琴がこの家の敷居をまたぐことがあるなら、それは私と父さんの屍を踏んだときだけだわ」翔雅が口を開きかけたその時、平川が階段を下りてきた。手にはスマートフォンを握り、スピーカーホンのままだった。電話口から、芽衣の幼い声が響く。「おじいちゃん、ママと一緒にいるよ。ママは病院にいるの。病気なんだって」翔雅は凍りついた。——澄佳が、病気?先日の弱々しい姿が脳裏に浮かぶ。あれは、やはり病のせいだったのか。平川は電話を切り、険しい目で翔雅を見下ろした。「で、お前はその愛人の傍にいるのか?」「父さん、違う!俺と真琴はそういう関係じゃない」「ほう、そう呼ぶ割には随分と親しげだな。『真琴、真琴』と……関係ないなら、新聞で大騒ぎになった時に否定すればよかった。黙っていたからこそ、世間は次の一ノ瀬夫人に迎える気だと思ったんだ。いいさ。お前が望むなら、私も母さんも布団をまとめて出て行く。あとは好きにしろ。目を閉じた後のことなど、もうどうでもいい」
翔雅と真琴の関係が、ついにトレンド入りした。【翔雅と初恋、離れず寄り添う】——一時は、感天動地とまで言われた。あのドキュメンタリー映画『暗渠』の話題性も最高潮に達し、真琴は翔雅の存在によって価値まで塗り替えられていった。過去の汚点は、まるで彼女自身の光輪に変わったかのように。その日の午後には、すでに一流のマネジメントチームが真琴に契約を持ちかけてきた。しかし真琴は病院のベッドに横たわり、精神は不安定なままだった。翔雅は水を一杯注ぎ、ベッドサイドのテーブルに置いた。「どう考えている?もし契約したくないなら、個人事務所を作ればいい。安奈を手配してサポートさせる」真琴はじっと翔雅を見つめる。「誰かに預けたくない。翔雅……私が信じられるのは、あなただけ」翔雅が口を開こうとした、その時。窓の外から、かすかなはしゃぎ声が聞こえてきた。子供たちが雪合戦をしているらしい。翔雅が窓辺に歩み寄ると、案の定、小さな兄妹らしき二人が庭で雪を投げ合っていた。年の頃は章真や芽衣と変わらない。厚手のダウンに身を包み、マフラーで顔まで覆い、真っ赤な頬を輝かせながら無邪気に笑っている。翔雅は黙ってその光景を見つめた。胸の奥に、章真と芽衣の姿がよみがえる。もうどれほど会っていないのだろう。抱きしめることさえできていない。窓の下の楽しげな声は途切れず響き続け、男の瞳は赤く潤んでいった。——子供たちが恋しい。ポケットから携帯を取り出しかけた時、不意に背中から抱きしめられる。耳元で、真琴のかすれた声。「翔雅……さっき夢を見たの。あの年のことを、また……翔雅、私にはもう何も残っていないの。お願い、見捨てないで……」翔雅の手は携帯を握りしめ、緩めては強くしめ直す。「お前の病気がよくなるまで、そばにいる」低くつぶやいた言葉に、真琴は涙をあふれさせて彼を強く抱きしめた。翔雅の心もまた、湿った重みで言葉にできない感情に包まれる。視線を戻すと、あの子供たちの姿はもうなかった。雪原には、小さな足跡だけが残され、かつての歓声を証明していた。夕暮れが近づく頃、空からはまた細かな雪が舞い落ちた。硝子に触れては溶け、やがて薄い氷膜を作る。外の景色はぼんやりと滲み、先が見えない。——年の瀬は、刻一刻と迫っていた。真琴への注目は徐
朝の光はまだ弱く、かすかに白む空の下。澄佳は目の前の男を見つめ、コートをぎゅっと合わせながら低く言った。「翔雅……そんなことを聞いて可笑しいと思わない?感情が終わる時、誰一人として無傷でいられるはずがないわ。もし無傷な者がいるとすれば、それは新しい恋を手にした方よ」彼と過ごした恋は、二度。一度目は香坂との関係で終わり、二度目は真琴。澄佳は何度も自問した。翔雅に抱いていた想いは、ただの気まぐれだったのか——いいえ。最初は重圧に屈して始まった関係。それでも二人の子どもが生まれた今度こそ、真剣に考え、真剣に感じたからこそ共にいたのだ。想いを注ぎ込んだからこそ、傷つかないはずがない。彼女のやつれも、痩せ細った頬も、その痛みの証だった。だが、その痛みで決意が揺らぐことはなかった。翔雅の声はかすかに震えていた。「澄佳……俺には新しい恋なんてない」有ろうとなかろうと、もう澄佳にはどうでもよかった。真琴への気遣い、あの写真——それだけで十分だった。彼女は、この壊れた関係に留まるつもりはなかった。「そうかもしれないわね」淡く笑い、マフラーを整える。その小顔は布に埋もれ、まるで大病を患ったかのように細く見えた。彼女は身を翻し、立ち去ろうとする。だが翔雅の手が彼女を掴み、そのまま胸に引き寄せる。強く抱きしめなければ、もう二度と戻らないと分かっていたからだ。髪に顔を埋め、必死に囁く。「あのキスは誤解なんだ。そんなつもりじゃなかった。澄佳、どうか簡単に終わりにしないでくれ。頼む」しかし澄佳の心は動かなかった。「もう遅いのよ、翔雅。もっと早く言うべきだった」苦しげに彼を振りほどき、朝の光の方へ歩き出す。空は明け始め、淡い陽光が地を照らした。翔雅の手は虚しく空を切り、彼女の背を追おうとしたその時、スマホが鳴る。画面に映るのは真琴の番号。通話を取ると、消防の隊員の声が響いた。——真琴が飛び降りようとしている。現場に駆けつけると、人垣の向こうで彼女は三十八階の屋上に腰掛け、薄衣のまま虚ろに遠くを見つめていた。周囲の消防が必死に声をかける。「真琴!」翔雅の声に、彼女が振り返る。赤く滲んだ瞳で。「翔雅……ごめんなさい。あなたまで巻き込んで。もう放っておいて。私は生きる価値のない人間なの。こんな
雪が一片、また一片と舞い落ちる。まるで失恋の痛みそのもの、まるで一つの愛の終わりそのものだった。澄佳はもう言い争う気力もなく、静かに口を開いた。「翔雅、私はずっと冷静よ。最初から、ずっと」もし真琴が翔雅の宿命だというのなら、彼女は自分と子どもを巻き添えにするつもりはなかった。彼が真琴を憐れみたいのなら止めはしない。それは彼の自由だ。だが、線を引くのもまた彼女の自由。雪は止まず、立都市は一面の銀世界に閉ざされていた。翔雅は長い沈黙ののち、声を落として言った。「澄佳、俺と彼女の間には何もない。あの写真は偶然撮られただけだ。関係なんかないんだ。どうか、一度だけ俺の話を聞いてくれないか?会ってくれないか?」澄佳は首を振った。「もう必要ないわ、翔雅」いまさら何を説明するというのか。本当に彼女や子どもたちを思うなら、どうして真琴と二人きりになり、あんな写真を撮られる隙を与えたのか。しかも今になっても、彼は真琴を疑うことなく哀れみ、庇おうとさえしている。——可笑しい。こんな状況でなお、彼女に理解を求めるなんて。男の「救済願望」など一生の業かもしれない。だが澄佳は、その狂気に付き合う気はなかった。「もういいの、翔雅」その声は遠ざかるように淡かった。すべて終わり。彼女は公表文を出すつもりだ。それは他者のためであり、自らのためでもあった。電話を切る直前、受話器の向こうで翔雅が荒ぶる声をあげた。「澄佳!」だが、彼女は振り返らなかった。冷ややかに通話を切った。翔雅の手から力が抜け、スマホが滑り落ちそうになる。彼は顔を伏せ、やがてコートを掴んで外へ出た。向かう先は——星耀エンターテインメント。澄佳があんな声明を出すなど、絶対に許せなかった。たとえ破滅しても、彼女と縁を断たれることだけは耐えられない。安奈が廊下で彼を見て驚き、思わず声をかけた。「社長、どちらへ?広報部が会議でお待ちです」「星耀エンターテインメントへ行く」彼はコートを羽織り、足早に去った。安奈が止めようとしても、その背を止められるはずがなかった。吹雪を切り裂く黒のベントレー。二十分後、ビル前に着いた時には、すでに遅かった。澄佳の声明は世に出ていた。【感情は容易ではない。歩みながら、大切に】——その短い言葉の中で