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第70話

Author: 風羽
公演が終わり、バイオリニストがカーテンコールに姿を見せたころ、舞はその場を後にした。

無数のネオンがきらめく中を歩きながら、舞は思った。人生にも終幕はある。それは彼女と京介の関係のように。

背後から呼ぶ声がした。「舞」

舞はゆっくりと振り返り、口と鼻から吐いた白い息が、お互いの視界をぼやけさせた。

霞む視界の中から、京介の震える声が聞こえた。「まだ俺を愛してる?舞、もう一度だけ愛せる?」

舞は穏やかに言った。「私にまだ愛する力があるのか、それはわからない。でも、もうあなたを愛することはない。周防京介」

京介、あなたを一度愛しただけで、私はすべてを使い果たした。

京介、あなたを愛したことで、私はあまりにも多くのものを失った。

京介、あなたを愛したせいで、私は私でなくなった。

京介、もうあなたを愛する余力なんてない!

白い息が消えたとき、舞は男の目が赤くなっているのを見た。

次の瞬間、舞は男の腕に強く抱きしめられていた。

京介は手放すつもりも、離婚する気もなかった。彼は舞を抱きしめたまま、何度も耳元で「ごめん」と繰り返し、もう二度と同じことはしないと誓い、もう一度だけ信じてほしいと懇願した。

男の誓いの言葉なんて、舞にはただ滑稽に聞こえた。

彼女は夫を見上げ、静かに問いかけた。「もっと早く気づいてくれればよかったのにね、周防京介。あなたは愛果とおばあちゃんの間で愛果を選んだのよ。忘れてないでしょ……あなたは外の安っぽい女を選んだの」

舞は全力で平手打ちを叩きつけた。

その鋭い音が路地に何度も反響し、まるで古びた鐘の音のようだった。

京介はゆっくりと顔を上げた。白い頬にはくっきりと手の跡が浮かんでいた。それには目もくれず、彼は舞の手首を掴んで強引に車に押し込んだ。

もちろん舞は簡単には応じなかった。車に乗った時には、二人とも激しく息を乱していた。

それでも舞はもう抵抗しなかった……

彼女は本革のシートに身を預け、真夜中のような瞳でフロントを見つめながら静かに言った。「一番近い五つ星ホテルにして!時間がないの、周防京介。一時間しか空いてない」

京介の黒い瞳が深く沈んだ。「どういう意味だ?」

舞はかすかに笑い、その口調にはあからさまな嘲りが滲んでいた。「周防京介、あなたが私を探したのはこれが欲しかったからじゃない?それ以外に、私に何
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