INICIAR SESIÓN一年後。私の命日。空から細い雨が降り、霊園は静まり返っていた。もう誰も来ないと思っていた。人は亡くなれば、少しずつ忘れられていく。それも珍しいことではない。ところが、母が現れた。黒い傘を差し、濃い色のコートを着ている。一年前より、背中がさらに小さく丸まって見えた。私は黙って、その姿を眺めていた。すると、霊園の小道の向こうに、もう一つ人影が現れた。蒼真だった。二人は約束をしていたわけではない。偶然、私の墓前で出会っただけだった。蒼真はもう、酒に溺れた男の姿ではなかった。黒いスーツを身につけ、痩せてはいるものの、目には落ち着きが戻っている。ただ、その静けさの奥には、溶けることのない虚無が沈んでいた。二人は言葉を交わさず、それぞれが持ってきた白い菊を墓標の前へ置いた。長い沈黙のあと、母が口を開いた。声はひどくかすれていた。「あなた……元気にしていた?」「何とか」蒼真も乾いた声で答えた。再び、沈黙が落ちる。風にあおられた雨が、傘の下まで入り込み、二人の髪や肩を濡らしていた。それでも、どちらも気に留めなかった。「この前……日和の夢を見たの」母が不意に言った。「まだ小さかった頃の日和で、大好きだったワンピースを着ていたわ。私のあとを追いかけて、お菓子をねだって……それから言ったの。お母さん、もう許してあげるって……」話しながら、母の目から涙がこぼれた。雨に混ざり、頬を流れていく。蒼真の身体が、かすかにこわばった。墓誌に刻まれた私の名を見つめる目は、どこまでも空虚だった。「日和が俺を許すことはありません」静かな声だった。「俺には、許してもらう資格もありません」蒼真はポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。ふたを開けると、中には指輪が入っていた。私が大学を卒業したら、これでプロポーズすると、かつて彼が約束していた指輪だった。白い菊の横へ、そっと箱を置く。「日和、ごめん。それから……さよなら」最後にもう一度、私の名を見つめた。そして振り返ると、一歩ずつ雨の中へ消えていった。その後ろ姿は、ひどく孤独だった。母は、長いあいだ墓標の前に立ち尽くしていた。全身が雨に濡れ、霊園の職員に声をかけられて、ようやくその場を
人前で過去を暴かれたことが、蒼真に残されていた最後の支えまで打ち砕いた。一途な恋人という虚像は、一夜にして跡形もなく崩れ去った。霊園での出来事は、たちまち共通の知人たちの間に広まった。話す人によって尾ひれがつき、細部は違っていたが、中心にある話は同じだった。蒼真は偽善者で、日和の死に責任がないとは言えない。かつて同情し、慰めてくれた人たちは、今では軽蔑と疑いの目を向けていた。やがて彼は、周囲から総スカンを食うようになった。それ以来、蒼真は霊園へ来なくなった。いや、来られなくなったのだ。自宅に閉じこもり、一日中、酒に溺れた。私はそばで、自信に満ちていた一人の青年が、無精ひげを生やし、酒の臭いをまとった男へ変わっていくのを見ていた。何度も何度も、私たちのメッセージや写真を見返す。そして突然、狂ったようにスマホを壁へ投げつけ、獣のような声で叫ぶのだ。「どうして……どうして……」誰に尋ねているのだろう。どうして私が死んだのかと、私に聞いている?それとも、どうして自分がこんな人間になったのかと、自分自身に問い続けているのだろうか。一度だけ、母が彼を訪ねてきた。前に見たときより、10歳以上も老けて見えた。髪の半分は白くなり、背中も丸まっている。酔いつぶれた蒼真を見つめ、母は何かを言おうと唇を動かした。けれど、口から漏れたのは長いため息だけだった。「蒼真くん、もうやめなさい……日和だって、あなたがそんな姿になることを望んでいないわ……」「望んでいない?」蒼真は充血した目を上げ、突然笑い出した。正気を失ったような笑いだった。「そうでしょうね。日和は今頃、どこかで俺を笑ってる!きっと、いい気味だと思ってる!」両手で髪をかきむしり、冷たい床へ何度も額を打ちつける。鈍い音が、部屋に響いた。「俺が日和を殺した!俺が!俺は最低だ。こんな目に遭って当然なんだ!」蒼真は、偏執的なまでの自己嫌悪に沈んでいた。私を愛していたから、苦しんでいるのではない。自分を許すことができないから、苦しんでいるのだ。私の死は鏡となり、彼の心の底に潜んでいた身勝手さも、臆病さも、卑しさも、すべて映し出した。鏡の中の醜い自分と向き合えず、酒で意識を鈍らせることしかできなかった。母は、床
だからあなたは、今も私を愛し続ける男を演じなければならない。壮大な自己欺瞞を完成させ、自分自身を救うために。あなたが愛しているのは、私ではない。あなたが作り上げた、「誰よりもあなたを愛する私」そして、愛する人を失い、悔い続ける自分自身だ。もう、すべて私には関係ない。……一か月後、蒼真の芝居は、招かれざる客によって無理やり中断させられた。その日も彼は、いつものように白いバラを抱えて霊園へやって来た。けれど、墓誌の前には、すでに人影があった。小春だった。一か月前よりも痩せ、顔色は土気色だった。その目には、もうどうなっても構わないという狂気が宿っている。蒼真に気づくと、醜く口元を歪めた。「今日も、愛情深い恋人の芝居?」蒼真の顔が、たちまち険しくなる。「何をしに来た。帰れ」「どうして来ちゃいけないの?一応、いとこなんだから。お参りくらいしてもいいでしょう?」小春は声を立てて笑った。墓誌へ歩み寄り、刻まれた私の名を指先でなぞる。「日和さん、見えてる?あれほど好きだった蒼真くんが、今は毎日あなたのところへ通ってるよ。あの世で喜んでる?」声には悪意が満ちていた。「小春、黙れ!」蒼真は駆け寄り、小春の手首をつかんだ。「お前に日和の名前を口にする資格はない」「私に資格がない?」小春はその手を振り払い、狂気を帯びた目で蒼真をにらんだ。「蒼真くんこそ、何を演じてるの?そんなに憔悴して、いったい誰を感動させたいの?自分?」次第に大きくなる声に、霊園を訪れていた数人が遠巻きに振り返った。「日和さんが生きていた頃、私に何て言ってたか、忘れたとは言わせないよ」蒼真の顔から血の気が引いた。「お前に何か話した覚えはない」「本当に?」小春は一歩ずつ彼に迫り、目をそらさず、その瞳を鋭く見据えた。「日和さんは、誰かに構ってもらわないと何もできない子どもみたいだって言ったよね。一日中まとわりつかれて、息が詰まるって。あの人の繊細さも疑い深さも、もう限界だって。ほかの女の子と少し話しただけで、いつまでも問い詰めてくる。まるで嫉妬深い妻みたいだって笑ってたじゃない。家族ぐるみの付き合いがなければ、とっくに別れていたとも言った。なるべく騒がれずに別れるには、どう切り出せばいい
「俺が間違ってた……あの電話を切るんじゃなかった……信じればよかった……戻ってきてくれ。怒鳴っても、殴ってもいい。だから、頼むから……」蒼真は墓誌にすがりつき、幼い子どものように泣いた。私は黙って、彼を見下ろしていた。なんて深い愛情なのだろう。吐き気がする。もし私が死なず、重傷を負っただけだったなら、今の後悔にわずかでも救われたかもしれない。けれど、私はもう死んでいる。小春のラテ一杯を優先して私の電話を切った、あの瞬間から。今さら流す涙など、手遅れで、安っぽい自己陶酔にすぎなかった。蒼真、ひどい芝居だね。残念だけど、たった一人の観客は、もう見たくもないんだ。……あの日から、蒼真は「一途な恋人」を演じ始めた。仕事を辞め、毎日欠かさず霊園へ通った。雨の日も、風の日も。いつも私が好きだった白いバラを持ってきては、墓誌のそばで一日中過ごした。私の名前に向かい、思い出を途切れることなく語り続ける。幼稚園で私のキャンディーを横取りしたこと。小学校で、私をかばって喧嘩をしたこと。中学生の頃、毎日のように私の宿題を写していたこと。彼は細かなことまで、一つ一つ真剣に話した。まるで、あの美しい思い出が、一度も汚されたことなどなかったかのように。「日和、高校の頃、俺に傘を届けに来てくれたの、覚えてるか。自分はずぶ濡れになって、次の日に高熱を出したよな。大学のとき、一緒に旅行したことも覚えてるか。お前は高いところが苦手でロープウェイに乗れなくて、俺も付き合って、二人で長い山道を歩いた」彼が語ることを、私はすべて覚えていた。同時に、その後のことも覚えている。小春が「ロープウェイが怖い」と一言こぼしただけで、ずっと前から計画していた私との登山を取りやめ、彼女を遊園地へ連れていったこと。私が高熱を出して寝込んでいた日、小春が遠くの店のケーキを食べたいと言ったからと、私を一人きりで残して出かけたこと。人の記憶とは、都合よくできている。蒼真が選んで語るのは、自分が私に何かをしてやった思い出ばかりだった。私に何をしたのかは、きれいに忘れたことにしている。彼のSNSも、いつしか私を悼む投稿で埋め尽くされた。【君のいない世界は、何もかも色あせて見える】【時間を戻せるなら、すべてを差し
「毎日、日和さんは聞き分けが悪い、私のほうが優しいって言い続けたのは、あなたたちでしょう!蒼真くんだって、日和さんをうっとうしいと思ってたくせに。別れたいと思ったことがないなんて、言わせないよ。私に頼られて、慕われるのは気持ちよかった。でも、日和さんには自立しろって言ったよね!死んでから一途な恋人ぶって、何になるの?」小春は母へ向き直った。その目には、今にも憎しみがあふれ出しそうだった。「あなたに母親を名乗る資格なんてない!自分の娘が死んで半月もたつのに、何も知らないで、男と逃げたって罵っていたくせに!今さら私を責める権利がどこにあるの?全部、あなたたちが望んだことでしょう!あなたたちが、私にそうさせたの!みんな同罪よ。あなたたち全員が、日和さんを殺したの!」小春の絶叫は刃となり、この家に残されていた最後の取り繕いを切り裂いた。母は力なく床へ座り込み、死人のような顔をしていた。蒼真はその場から動けずにいた。小春が投げつけた言葉は、彼が認めようとしなかった醜い本心を、すべて白日の下にさらした。蒼真は、とっくに私に飽きていた。いつもそばにいたがる私に。何をするにも彼を中心に考える私に。ためらいもなく注がれる、私の愛そのものに。小春は、男としての彼の庇護欲と虚栄心を満たした。彼女が弱さを見せ、尊敬の眼差しを向けるたびに、自分が強く、必要とされる人間になったように感じていたのだろう。彼は、誰かに崇められる心地よさに酔っていた。だから、小春が何度私を挑発しても黙認した。むしろ、二人の女に求められる状況を楽しんでさえいた。小谷警部補は、目の前で繰り広げられる醜態に首を横に振り、私の遺品をテーブルへ置いた。「日和さんのご遺体は、自治体の手続きによって火葬されました。ご遺骨は、公営霊園の合葬墓に納められています。こちらが場所の案内と、返却できる所持品です。お悔やみ申し上げます」それだけ告げると、彼は家を出ていった。玄関の重い扉が閉じ、外の世界とこの家を完全に隔てた。リビングは、死んだような静けさに包まれた。笑ってしまう。私が生きていた頃、この家がこれほど騒がしくなったことは一度もなかった。母が娘の死を知ったのは、死後半月もたってからだった。遺骨のある場所さえ、赤の他人から教え
死亡診断書。その言葉は落雷のように、リビングを打ち抜いた。母の顔から、見る間に血の気が引いていく。書類を凝視したまま唇を震わせ、一言も発せずにいた。「そんな……あり得ない……」やがて、うわ言のようにつぶやいた。「私をだましてるのね……これも、あの子の芝居なんでしょう……」「落ち着いてください」小谷警部補の声には、いたわりがにじんでいた。「こちらは病院が作成した死亡診断書です。検視の結果とも一致しています。所持品や歯科記録など、複数の情報で身元を確認しました。亡くなったのは、日和さん本人です」そこで言葉を切り、同じように顔を青ざめさせた小春へ視線を移した。「もう一つ、事故当日の通話について確認したいことがあります。日和さんが亡くなる直前、最後に電話をかけた相手は、柊木蒼真さんでした」蒼真の身体が大きく揺れた。小谷警部補は彼をまっすぐに見据えた。「柊木さん、記録によると、あなたは電話で日和さんから助けを求められたにもかかわらず、それを拒んでいます。間違いありませんか?」「俺は……俺はてっきり……」蒼真の声はかすれ、喉仏が大きく上下した。「またいつもの芝居だと思って……」「芝居?」小谷警部補の声がわずかに強くなった。「事故車両は大破していました。日和さんは運転席に挟まれ、全身に重いけがを負っていた。その状況で、あなたに助けを求めた。それでも、芝居だと思ったということですか」言葉を重ねられるたび、蒼真は逃げ場を失っていった。彼の顔は青ざめ、こめかみから冷や汗が伝った。「違う……そうじゃない……小春が、ラテを飲みたいって言ったから……」その言葉で、全員の視線が小春へ集まった。小春は激しく震え、必死に首を振った。「違う……私のせいじゃない……何も知らなかったの……」「知らなかった?」ようやく衝撃から我に返った母が、勢いよく振り向き、小春の腕をつかんだ。目は血走っていた。「あなた、この前、日和を見たと言ったわよね?男と逃げたと言ったじゃない!」「私……あれは……見間違えたの……」小春は声を震わせた。「見間違えた?」母の甲高い声が室内に突き刺さった。「どうして嘘をついたの!どうして私をだましたのよ!答えなさい!」小春の身体をつかみ、引き裂か