Short
彼の言う「永遠」は、もういらない

彼の言う「永遠」は、もういらない

By:  梓Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
8Chapters
39views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

夫の神谷研(かみや けん)には、生活のあらゆる予定を優先順位ごとにきっちり振り分ける癖があった。 共有カレンダーでは、赤は変更不可、黄色は調整可能、灰色はいつ延期してもいい予定を意味している。 研の母親の誕生日は赤。 友人との飲み会は黄色。 そして、私、浅倉妙(あさくら たえ)に関する予定は、いつも灰色だった。 付き合って7年間、私はずっと、研にとって後回しにされる存在だった。 結婚記念日の日、私はレストランで、テーブルの上の蝋燭が燃え尽きるまで彼を待っていた。 けれど研は、夕食を来週に延期すると一方的に決め、ボイスメッセージを送ってきた。 「寧々さんが潔癖症で、引っ越し業者に段ボールを触らせたくないらしい。少し手伝ってくる。 君ならわかってくれるよな。今度ちゃんと埋め合わせるから」 冷めきった料理を見つめながら、私は研を問い詰めることもしなかった。 ただ、静かに共有カレンダーに残された過去の記録を開いていった。 私の胃カメラの再検査は、白井寧々(しらい ねね)の猫を迎えに行く予定のために変更されていた。 父が手術を受けた日も、彼は寧々の家の鍵を交換するために出向き、来なかった。 婚姻届を提出する日でさえ、彼は先に寧々のマットレス選びに付き添い、私は一人で役所の閉庁時間まで待たされた。 彼が変更した灰色の予定の後ろには、必ず寧々の赤い予定が入っていた。 その下のメモ欄には、たった一言だけ残されていた。 【無条件で最優先】 その一文を長い間見つめて、ようやく私は、研が以前言っていた言葉を思い出した。 「予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだ」 つまり、私の体も、私の家族も、私たちの結婚生活も――研の優先順位の中では、寧々の潔癖症にすら及ばなかったのだ。 私は共有カレンダーを削除し、離婚協議書を弁護士へ送った。 研は何もかも予定通りに進む人生が好きなら、今日から私は、彼の残りの人生のカレンダーから姿を消す。

View More

Chapter 1

第1話

家に戻ると、家の中は灯りもついておらず、ひっそりとしていた。

研はまだ帰ってきていなかった。

ダイニングテーブルの上には、朝出かける前に飾った花があった。花はもう、すっかり元気を失い、うなだれている。

本来なら、記念日を彩るためのものだった。

けれど今見ると、枯れゆくその花は、私たちの結婚の行き着く先を映しているようだった。

私は玄関で灯りをつけ、うつむいたまま靴を脱いだ。

昔、研はよく言っていた。

私が家にいるかどうかは、すぐに分かる、と。

どんなに遅い時間に帰ってきても、家の中から聞こえる生活音と、灯りがついているのを見れば、家には自分を待っている人がいると分かるのだと。

けれど今になって、ようやく気づいた。

彼が好きだったのは、私じゃない。

いつも明かりが灯っていて、いつまでも自分を待ってくれる誰かがいる「家」が好きだっただけだ。

私はキッチンには向かわず、そのまま書斎へ入った。

書斎の一番奥の棚には、私の書類ケースが置いてある。

パスポート、銀行のカード、父がこの数年で受けた手術の診療記録、それから祖母が私に残してくれた小さな家の権利書……

どれも研とは関係のない、私だけのものだった。

そして、ここを離れる私が何より先に持っていくべきものでもあった。

書類をバッグにしまい終えたその時、玄関の鍵が回る音がした。

研が帰ってきた。

彼は靴を履き替えながら、うつむいたままスマホを見ていた。

眉間には、面倒ごとを片付けたあとの疲れが浮かんでいる。

車のキーを玄関の棚に置き、そこでようやく私の存在に気づいたように口を開いた。

「もう帰ってたのか。寧々さんのところ、荷物の片付けが終わった」

私は短く「うん」とだけ答えた。

彼はダイニングのほうへ視線を向け、テーブルの上の萎れた花に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。

ネクタイを緩めながら、少し困ったような声で言う。

「まだ怒ってるのか?今度埋め合わせるって言っただろ。寧々さんは一人で引っ越しだし、荷物も多かったんだ。

それに、師匠が亡くなる前に寧々さんのことを頼むって言ってた。放っておくわけにはいかないだろ」

私はバッグのファスナーを閉めた。

「ええ。放っておかなくていいのよ」

研が顔を上げ、私を見る。

たぶん、私の声があまりにも静かだったからこそ、逆に落ち着かなかったのだろう。

「妙、君……前はこんなんじゃなかったよな」

「前って、どんなだった?」

「少なくとも、俺の話を聞いてくれてただろ」

私は彼を見つめた。

7年の間、彼は約束を破るたび、必ず理由を用意していた。

寧々の猫がストレスを感じていたから、病院へ連れて行かなければならない。

寧々の家の水道管が壊れたから、様子を見に行かなければならない。

寧々のアレルギー、風邪、引っ越し、鍵の交換、不眠……

彼女の人生は、まるでどこかで絶えず水漏れしている家のようだった。

そして研は、いつだって誰よりも早く工具箱を抱えて駆けつける業者だった。

しかし、私のほうはどうだった。

胃が痛くても、我慢すればよかった。

記念日は、あとで埋め合わせればよかった。

父の手術に立ち会えなくても、仕方がなかった。

役所の職員が帰ってしまっても、婚姻届は別の日に出せばよかった。

以前の私は、研はただ責任感が強すぎるだけなのだと思っていた。

でも後になって、ようやく気づいた。

問題だったのは、責任感じゃない。彼の中にある、明らかなえこひいきだったのだ、と。

研が近づいてきて、私の顔に触れようと手を伸ばした。

「もう怒るなよ。明日の夜、店を予約して、君が好きなあの料理屋に連れて行ってやるから」

私は体を横にずらし、その手を避けた。

彼の手は宙に残ったまま、表情がわずかに曇る。

「妙」

「私、明日は少し出かけるから」

「どこへ?」

「片付けたい用事があるの」

彼は眉を寄せた。

「俺たちの記念日より大事な用事なのか?」

その言葉が彼の口から出ると、なぜか妙におかしく感じた。

私は答えず、書類ケースをスーツケースの一番下へしまった。

研はそれを見て、ようやく何かがおかしいと気づいたようだった。

「荷物をまとめて、何をするんだ?」

「自分のものを、少し持っていくだけ」

彼はスーツケースを数秒間じっと見つめたあと、突然小さく笑った。

「もういい加減にしろよ。芝居はやめろ。結局、俺に気にかけてほしいだけなんだろ?埋め合わせるって言ってるのに、これ以上どうしろっていうんだ。

まだ気が済まないなら、明日また話そう」

彼はドアの前まで歩いてから、さらに一言付け加えた。

「そうだ。寧々さんが明日、病院で再検査を受けるんだ。君、午前中は空いてるだろ?ついでに送って行ってくれないか」

私はその場に立ったまま、静かに答えた。

「空いてない」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
8 Chapters
第1話
家に戻ると、家の中は灯りもついておらず、ひっそりとしていた。研はまだ帰ってきていなかった。ダイニングテーブルの上には、朝出かける前に飾った花があった。花はもう、すっかり元気を失い、うなだれている。本来なら、記念日を彩るためのものだった。けれど今見ると、枯れゆくその花は、私たちの結婚の行き着く先を映しているようだった。私は玄関で灯りをつけ、うつむいたまま靴を脱いだ。昔、研はよく言っていた。私が家にいるかどうかは、すぐに分かる、と。どんなに遅い時間に帰ってきても、家の中から聞こえる生活音と、灯りがついているのを見れば、家には自分を待っている人がいると分かるのだと。けれど今になって、ようやく気づいた。彼が好きだったのは、私じゃない。いつも明かりが灯っていて、いつまでも自分を待ってくれる誰かがいる「家」が好きだっただけだ。私はキッチンには向かわず、そのまま書斎へ入った。書斎の一番奥の棚には、私の書類ケースが置いてある。パスポート、銀行のカード、父がこの数年で受けた手術の診療記録、それから祖母が私に残してくれた小さな家の権利書……どれも研とは関係のない、私だけのものだった。そして、ここを離れる私が何より先に持っていくべきものでもあった。書類をバッグにしまい終えたその時、玄関の鍵が回る音がした。研が帰ってきた。彼は靴を履き替えながら、うつむいたままスマホを見ていた。眉間には、面倒ごとを片付けたあとの疲れが浮かんでいる。車のキーを玄関の棚に置き、そこでようやく私の存在に気づいたように口を開いた。「もう帰ってたのか。寧々さんのところ、荷物の片付けが終わった」私は短く「うん」とだけ答えた。彼はダイニングのほうへ視線を向け、テーブルの上の萎れた花に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。ネクタイを緩めながら、少し困ったような声で言う。「まだ怒ってるのか?今度埋め合わせるって言っただろ。寧々さんは一人で引っ越しだし、荷物も多かったんだ。それに、師匠が亡くなる前に寧々さんのことを頼むって言ってた。放っておくわけにはいかないだろ」私はバッグのファスナーを閉めた。「ええ。放っておかなくていいのよ」研が顔を上げ、私を見る。たぶん、私の声があまりにも静かだったからこそ、逆に落ち着かな
Read more
第2話
研が振り返ると、その目に一瞬だけ苛立ちが浮かんだ。「そんなに大事な用事があるっていうのか?」私は彼を見つめた。「これからは、彼女のことを私に押しつけないで」彼は2秒ほど黙り込んだ。それから、まるで理不尽な要求でも突きつけられたかのように、手を上げて眉間を揉んだ。「妙、寧々さんには頼れる身内がほとんどいないんだ。俺が少し面倒を見ることの何が悪い?君は俺の妻なんだから、少しくらい手伝ってくれてもいいだろ」私はふと、もう言い争うことすら意味がないように思えた。だから、ただ頷いた。「ええ。あなたの言う通りよ」研の表情が少し緩んだ。きっと、また私が折れたと思ったのだろう。でも違う。私はただ気づいただけだった。彼の中では、私は拒むことすら許されない存在なのだと。翌朝、研は珍しく早く起きた。クローゼットの前でシャツを選びながら、スマホはベッド脇の枕元に置いたままだった。その画面が一度光った。寧々からメッセージが届いたのだ。【研さん、昨日の夜もあまり眠れなかった】続けて、1枚の写真が送られてきた。白い手首には、病院で点滴を受けた跡のテープが貼られていた。研はすぐにスマホを手に取り、眉間にしわを寄せた。【また病院に行ったのか?】すぐに返信が届く。【大丈夫。引っ越しで疲れただけかもしれないから。心配しないで。一人で大丈夫よ】研はそのメッセージを数秒見つめたあと、すぐに電話をかけた。「病院で待ってろ。すぐ行くから」そう言ってから、ようやく私がベッドの端に座っていることを思い出したようだった。「妙、寧々さんを送るのは君じゃなくていい。俺が行く」私はうつむいたまま、最後の書類をケースにしまった。「ええ」研はカフスボタンを留める手を一瞬止めた。私がこんなにもあっさり受け入れるとは、思っていなかったのだろう。以前の私は、寧々のことになるたびに、長い間黙り込んでいた。彼に「行かないで」と言いたかったからではない。ただ、私は彼の説明を待っていたのだ。実はそういう説明が欲しくないのだ。今までの7年間、私は一番欲しかったのは、彼が私を選ぶこと、彼が私のことを最優先にすることだった。でも今更、彼の説明も、彼が私を選ぶことも、もういらない。研はドアの前まで行くと
Read more
第3話
法律事務所は家からそう遠くなかった。弁護士の高橋誠(たかはし まこと)は私が持参した資料に目を通し終えると、顔を上げて尋ねた。「浅倉さん。本当に離婚されるおつもりで間違いありませんか?」「はい。決意は変わりません」「神谷さんが同意されない場合、手続きが長引く可能性があります」「構いません」私は少し間を置いてから、静かに続けた。「彼に急いでサインしてもらおうとは思っていません。彼はいつも、私が待つものだと思っているんです。だから……彼にも一度、待つ側を経験してもらおうと思います」誠は少し意外そうな表情を浮かべた。法律事務所を出ると、空はどんよりと曇っていた。その時、研からメッセージが届いた。【寧々さんが低血糖で倒れて、点滴が終わるまで付き添う】数分後、またメッセージが届く。【夜、帰って一緒に飯を食べよう。君の好きなスペアリブを買って帰る】私は長い間、画面を見つめていた。彼はいつもそうだった。先に私の心を傷つけておいて、後から食事ひとつで機嫌を取ろうとする。まるで、自分が埋め合わせさえすれば、私がなぜ傷ついたのかなんて忘れるべきだと言わんばかりに。家に着いた時、研はまだ帰っていなかった。私は書斎へ入り、自分のパソコン、カメラ、仕事の資料を段ボールに詰めた。本棚には、分厚い旅行アルバムが1冊あった。最初のページには、付き合い始めた頃、一緒に海へ行った時の写真が貼られている。あの頃、研は私を抱きしめながら言った。結婚したら、毎年違う街へ連れて行く、と。その後、彼は本当にたくさんの街へ行った。ただ、その隣にいたのは、ほとんど私じゃなく、寧々だった。寧々は寒がりだからと、彼は彼女を南浜市へ連れて行き、砂浜で日光浴をさせた。寧々が失恋した時には、古城市へ気晴らしに連れて行った。私が一度「海が見たい」と言った時、彼はいつも「忙しい仕事が落ち着いたら」と答えるだけだった。そして仕事が落ち着いた後には、今度は寧々のことがあった。私はアルバムを閉じ、段ボールの一番下へしまった。……夕方6時。研が帰ってきた。手にはスペアリブと果物の袋を提げていて、家に入ってきた時には笑顔さえ浮かべていた。「腹減っただろ?寧々さんには先に帰ってもらった」まるで自分が何かを成
Read more
第4話
搭乗口が閉まる前に、私は最後の委任状へのサインを終えた。誠は書類を受け取ると、静かに私へ問いかけた。「浅倉さん。本当に、神谷さんが戻られてからもう一度話し合わなくてもよろしいのですか。彼はまだ、あなたが本当に離れるつもりだとは理解していないと思いますが……」私はペンのキャップをきちんと閉めた。「待ちません。彼が理解しているかどうかに関係なく、私が行くことに変わりはありません」再び搭乗を知らせるアナウンスが流れた。私はスーツケースを引き、前へ進んだ。スマホは、手のひらの中で何度も震え続けていた。研からの着信だった。私は出なかった。彼からメッセージが届く。【妙、今どこにいる?家のものを運び出したのはどういう意味だ?離婚協議書って何なんだ?とにかく電話に出てくれ】私はそのメッセージを見つめながら、ふと7年前のことを思い出した。研が初めてプロポーズしてくれたのも、空港だった。あの時、彼は出張から戻ったばかりで、到着ロビーにスーツケースを引いて立っていた。手には、少し萎れかけたひまわりの花束を持っていた。彼は、飛行機が遅れて、花を買うタイミングが早すぎたんだと言った。私は笑って、「大丈夫」と答えた。彼はもう二度と私を待たせないと言った。でも後になって、私はようやく気づいた。彼は私を待たせないんじゃない。ただ、彼は待たされている私の時間が、どれほど大切なのかを、最初から気にしていないだけなのだ。私はスマホを客室乗務員に渡して、機内モードにしてもらった。飛行機が滑走路を離れる瞬間、私は窓にもたれ、7年間暮らしたこの街が少しずつ遠ざかっていくのを眺めていた。研はきっとまだ玄関に立っているのだろう。もしかしたら、あのメモを長い間見つめているのかもしれない。もしかしたら、私が大げさに騒いでいるだけだと思っているのかもしれない。彼はいつもそうだった。私が自分で怒りを収めれば、すべて元通りになると思っていた。でも、今回はもう戻れない。……着陸した時には、すでに夕方になっていた。母と父が到着ロビーで待っていた。母は私を見るなり、目を赤くした。そして早足で近づいてくると、私のスーツケースを受け取った。「どうしてこんなに痩せたの」私はうつむいて笑った。「
Read more
第5話
研は3日目に、私の実家の住所を突き止めてやってきた。母が玄関のドアを開けると、彼は廊下に立っていた。目の下には濃い隈ができていて、シャツはひどく皺になっていた。手には、果物の入った袋を提げていた。その中には、マンゴーも入っていた。母はちらりとそれを見ると、表情を冷たくした。「妙がマンゴーを食べないこと、知らなかったの?」研の手が、一瞬強張った。「……忘れていました」母は袋を受け取らなかった。「忘れたんじゃないわ。気にしていなかっただけよ」研は玄関に立ち尽くしたまま、しばらく何も言えなかった。私はリビングに座っていた。彼の声が聞こえた瞬間、胸の奥がほんの少し締めつけられる。7年かけて染みついた習慣は、数日で消えるものではなかった。彼の足音を聞けば、今でも無意識に顔を上げてしまう自分がいる。それでも、私は立ち上がらなかった。研はドア越しに私を見つめ、声を少し落とした。「妙、話をしよう」母が彼を止めようとした。でも、私は立ち上がった。「お母さん、大丈夫」階下の小さな庭には、人影はほとんどなかった。研は私の後ろをついて歩いた。いつもより、ずっとゆっくりと。以前の彼は、私の歩幅に合わせようとはしなかった。いつも先に歩いて、振り返るたびに「早く来い」と急かしていた。でも今、彼は私の半歩後ろを歩いている。まるで、私が永遠に彼の背中を追いかけて歩くわけではないと、ようやく気づいたかのようだった。「痩せたな」彼が言った。私は答えなかった。「ここ数日、ずっと君を探してた。弁護士は居場所を教えてくれなかった。君の会社にも行ったし、よく行っていたカフェにも行った。君の父親が入院していた病院にも行った」私は足を止めた。「私を探して、何がしたいの?」「家に連れて帰る」「どの家?」彼は言葉を失った。私は彼を見た。「あなたが、いつでも白井寧々のために出て行ける、あの家のこと?」「それは違う」彼はすぐに否定した。「寧々さんのことは説明できる。あの夜、彼女は本当に怖がっていたんだ。彼女は一人暮らしで、以前にも鍵を壊されたことがあるし、後をつけられたこともあった。師匠に彼女を頼むと約束した以上、放っておくわけにはいかないんだ」私は
Read more
第6話
研はそれ以上実家には来なかった。誠の話では、彼がようやく協議に応じる気になったらしい。1回目の話し合いは、法律事務所で行われることになった。私が着いたとき、研はすでに会議室に座っていた。彼の前には、あの離婚協議書が置かれている。紙の端は少しだけよれていた。きっと、何度も何度も読み返したのだろう。彼は私を見ると、すぐに立ち上がった。「妙」私は誠の隣に腰を下ろした。「始めましょう」研の顔色はひどく悪かった。「そんなに事務的に進めなきゃいけないのか?」「今は事務的な話をしているのよ」誠が財産目録を私たちの前に差し出した。家は研が結婚前から所有していたものだから、彼の個人財産になる。私は争わなかった。家具のほとんどは私が少しずつ買い足したものだったけれど、それも欲しいとは思わなかった。私が求めたのは、自分の預金と仕事用の機材、それからこの数年間、彼のために立て替えていた240万円だけだった。研はその金額を見て、眉をひそめた。「こんな金、前に一度も言わなかっただろ」「前は、私たちは家族だと思っていたから。でも、今は違うから」彼はその数字をじっと見つめたまま、しばらくサインをしなかった。「240万円は今日中に振り込む」「ええ」「どうして、こんなものまで細かく分けるんだ?」私は顔を上げて、彼を見た。「あなたが教えてくれたんでしょう?予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだって。だから今、私もえこひいきしないまま、分けているの。それにあなたに関係するものは、もう何ひとつ残したくないから」研の唇が、かすかに動いた。「じゃあ……俺たちの7年はどうなるんだ?」会議室が静まり返った。私はすぐには答えなかった。7年という時間は、あまりにも長かった。長すぎて、かつての私は、それが自分の人生のすべてだと思っていた。「7年はお金でもないし、1枚の協議書で分けられるものでもない。でも研、7年の間に、私はもうたくさんのものを失った。これ以上、私の未来まで失うわけにはいかないの」彼はうつむき、ペンを強く握りしめた。そのとき、彼のスマホが鳴った。画面には、寧々の名前が表示されていた。研はその名前を見つめたまま、電話に出なかった。着信
Read more
第7話
離婚届を提出し、手続きが進み始めてから、研は何度もメッセージを送ってきた。彼はもう、寧々のことは一切話さなかった。代わりに、昔のことばかりを話すようになった。【君が初めて俺のために作ってくれたスケジュール表、見つけた。俺が出張するたびに、行き先の天気まで調べて書いてくれてたんだな。到着したあと、胃が痛くならないかまで気にしてくれてた】私は返信しなかった。1日経つと、彼はまた写真を1枚送ってきた。私たちの家の書斎にある引き出しの写真だった。中には、以前私が彼のために整理していた薬箱が入っていた。一つひとつの仕切りに、ラベルまで貼ってあった。研は一言だけ添えてきた。【どうして今まで気づかなかったんだろう。君がこんなにいろいろしてくれていたのに】私はその写真を見ると、トーク画面を閉じた。彼が気づかなかったのは当然だった。だって、彼が帰ってくる頃には、薬はすでに用意されていて、食事は温め直すだけになっていて、シャツにはきれいにアイロンがかかっていた。私は何もかも、あまりにも静かにやりすぎたのだ。静かすぎて、彼はそれらが最初からそこにあるものだと思うようになっていた。その後、誠から聞いた話では、研と寧々は完全に決裂したらしい。私のせいではなかった。研が彼女を拒むようになってから、寧々はついに本性を見せたのだ。彼女は引っ越しをする際、研が来ないと知ると、今度は研の母親に連絡した。研が家賃を1年分払うと約束してくれている、と言ったのだ。研の母親は、本人に確認の電話を入れると、そこで初めて研は知った。寧々がとっくの昔から自分の名前を勝手に使い、母親から何度もお金を受け取っていたことを。彼女は急な出費だからと言い、必ず返すと約束していた。けれど、一度も返してはいなかった。研が彼女に問いただしに行くと、この数年間で立て替えていた家賃、引っ越し費用、修理代が、すでに無視できない金額になっていることがわかった。その中には、私たち夫婦の共有貯金から出ていたお金も含まれていた。以前の研は、そんなことを一度も確認しなかった。寧々が必要だと言えば、そのまま送金した。寧々が泣けば、自分が責任を取らなければならないと思った。研は後日、電話で私に言った。「金が惜しいわけじゃない。ただ……俺
Read more
第8話
父はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「そこまでわかっているなら、それでいい」研はリビングへ入ってきた。私はソファに座ったまま、立ち上がらなかった。彼は書類ケースをローテーブルの上に置いた。「これ、家の名義変更の書類だ」私は眉をひそめた。「どういうこと?」「家を君の名義に変える」「いらない」「妙、これは俺が君にしてきたことへの償いだ」「神谷研」私は彼を見た。「あなたが私に返すべきものは、家なんかじゃない。7年の間、あなたが一度もそばにいてくれなかった、その一つ一つの瞬間よ。でも、そんなものはもう、あなたには返せないの」研の目が赤くなった。「わかってる。でも、ほかに何ができるのか、もうわからないんだ」「だったら、何もしないで」彼は言葉を失った。私は続けた。「もう償おうとしなくていい。後悔しているって証明するために、罪悪感を抱え続けなくてもいい。私が離れたのは、あなたに後悔してほしかったからじゃない。ただ、自分自身を取り戻したかっただけなの」研はその場に座ったまま、とうとう涙をこぼした。彼はうつむき、手の甲で目元を拭った。私が彼の泣く姿を見たのは、それが初めてだった。以前の私はずっと思っていた。彼はとても冷静な人で、何が起きても優先順位に従って物事を処理できる人なのだと。でも今になって、ようやく気づいた。彼は冷静だったわけじゃない。ただ、自分にとって重要ではない人を後回しにすることに慣れていただけだった。そして私は、彼にあまりにも長い間、後回しにされ続けてきた。長すぎて、彼がようやく私の大切さに気づいた頃には、私はもうずっと遠くまで来てしまっていた。帰る前、研は静かに私へ尋ねた。「妙、これからも帰ってくるのか?」私は答えなかった。だって、わかっていたから。彼が聞いているのは、この街に戻ってくるかどうかじゃない。私がもう一度、彼の隣へ戻るのかを聞いているのだ。でも、一度閉めた扉を、振り返ってもう一度開けるべきではない。研は玄関に長い間立ち尽くしていた。母が台所から出てきて、まだ彼がいることに気づくと、淡々と言った。「神谷さん、もう遅いから」研は小さくうなずいた。そして最後に、私を見た。「妙、これから、もう
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status