LOGIN結婚式前日、僕は式場のキャンセル届に署名した。 窓の向こうでは、途中まで組まれていたガーデンアーチの解体が、すでに始まっていた。 担当プランナーの須藤さんが、ためらいがちにこちらを見た。 「水城様がお戻りになるまで、待たなくてよろしいんですか」 「待ちません」 「ですが、おふたりの結婚式は明後日ですよ」 ペンを置いた。 「玲奈は忙しいんです」 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。 「昨日、軽井沢で初恋の相手に『誓います』と答えたばかりですから」
View Moreそれから二年が過ぎた。瀬戸内のホテルは無事に開業し、海へ続く庭は、開業早々、僕たちの予想を上回る客でにぎわった。仕事は忙しかった。けれど、以前のように、自分だけが抱え込むことはなくなった。意見が違えば話し合う。無理なものは無理だと伝える。それで離れていく人ばかりではないと、ようやく知ったからだ。玲奈からは、何度かメールが届いた。最初のメールには、長い謝罪が書かれていた。自分は蒼真との思い出を守ったつもりで、僕の七年を踏みにじったこと。謝れば戻ってくると思い込み、僕の意思を最後まで聞かなかったこと。Xの投稿で、自分を被害者に見せようとしたこと。どれも、あのとき聞きたかった言葉だった。けれど、届くのが遅すぎた。二通目には、僕が部屋に残したもののことが書かれていた。雨の日の折り畳み傘。切らさないよう補充していた洗剤。玲奈の好物で、いつも買い置きしていたヨーグルト。『なくなってから、全部あなたがしてくれていたと知りました』返事はしなかった。一年ほどたった頃、最後のメールが届いた。『もう、戻ってきてとは言いません。あなたが私を捨てたんじゃなくて、私が先にあなたを大切にしなかったんだと、やっとわかりました』『本当に、ごめんなさい』読み終えて、メールを削除した。怒りはなかった。許したわけでもない。ただ、もう僕の生活とは関係のない言葉になっていた。玲奈と蒼真は、横浜の式場で別れたあと、一度も会っていないらしい。蒼真は予定どおりロンドンへ渡り、玲奈が返そうとした指輪も、受け取らずに送り返したと聞いた。永遠を誓うことより、問題が起きたあとに相手の隣へ残ることのほうが、ずっと難しい。ふたりが欲しかったのは、たぶん人生ではなく、きれいな一日だけだった。梓さんと付き合い始めたのは、瀬戸内のホテルが開業する半年前だった。特別なきっかけがあったわけではない。現地確認の帰りに一緒にうどんを食べ、新幹線ではじめて仕事以外の話をした。僕が疲れていると、梓さんは勝手に予定を変えず、『今日はやめておく?』と聞いてくれた。彼女がひとりで抱え込みそうなときは、僕も『手伝おうか』と尋ねた。相手のために何かを決めるのではなく、相手と一緒に決める。それだけで、関係は驚くほど穏やかだった。結婚を決めたあとも、準備をどちらかに任せきることはなかっ
これで終わったと思っていた。だが三日後、直人から一枚のスクリーンショットが届いた。玲奈が、実名で使っているXのアカウントに長い文章を投稿していた。水城グループのブランド企画担当として、ホテルの情報を発信してきたアカウントだ。『仕事の撮影で一日だけ花嫁役を務めたことを、婚約者に誤解されました』『七年間の関係も、本番の結婚式も、説明を聞いてもらえないまま一方的に終わらされました』名前は書かれていない。それでも、過去の投稿から僕の勤務先を特定する人が現れるまで、時間はかからなかった。『取引先のホテルで勝手に写真を撮ったらしい』『話し合いもせず結婚式をキャンセルした男も、相当ひどいのでは?』根拠のない言葉が、引用欄で増えていく。昼前には、勤め先の代表番号へ問い合わせが入った。会議室に呼ばれると、佐久間部長がスマホを机の上へ置いた。「高瀬。話せる範囲でいい。事実関係を教えてくれ」責める口調ではなかった。だからこそ、隠さずに説明した。軽井沢の撮影進行表には、プロモーション映像の収録は午後二時終了と記されていた。僕が見た式は午後五時半からで、チャペルのカメラは一台も動いていなかった。撮影日時が記録された現場写真。直人を通じ、軽井沢の式に出席した友人から受け取った、私的な式の招待状。そして、『湊は何も気づいてない』と話していたこと。持っている記録を、時系列に並べて提出した。「SNSで反論はしていません。今後もするつもりはありません」佐久間部長は資料に目を通し、静かにうなずいた。「それでいい。会社から水城グループのコンプライアンス窓口へ照会する。君ひとりで相手をするな」その日の夕方、水城グループでも社内調査が始まった。玲奈の投稿は、翌朝には削除された。しかし、もう遅かった。軽井沢の式に出席していた友人のひとりが、匿名で当日の案内状を公開したのだ。『仕事の撮影だとは聞いていません。新郎新婦の昔の約束をかなえる式だと招待されました』添えられた案内状には、玲奈と蒼真の名前が並んでいた。さらに、水城グループから事情を聞かれた蒼真は、あっさり責任を切り離した。『水城さんが望んだ私的なセレモニーです。高瀬さんの了承を得ていると聞いていました』あれほど永遠を誓った相手は、自分の立場が危うくなった途端、玲奈ひとりの判断だったことにした
式を取りやめた翌日、僕は藤沢の実家で目を覚ました。眠ったというより、気を失うようにベッドへ倒れ込んだらしい。時計は昼前を指していた。台所へ行くと、母が味噌汁を温め直していた。母は、直人から事情を簡単に聞いているはずだった。それでも母は、軽井沢のことも玲奈のことも尋ねなかった。「食べられる分だけでいいから」差し出された茶碗から、湯気が上がっている。その何でもない温かさに触れた途端、張りつめていたものが少しだけほどけた。この七年、僕は玲奈との予定を優先することを、愛情だと思っていた。正月に帰省する日も、母の通院に付き添う日も、玲奈に頼まれれば簡単に動かした。大切にすることと、自分を後回しにすることは、同じではなかった。それに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。午後は、生活を分けるための手続きに費やした。共同で使っていた口座から、家賃と光熱費の精算分だけを残す。家具と家電は玲奈に譲り、僕が持ち出したのは本と仕事道具だけだ。式場のキャンセル料、部屋の退去時期、残してきた荷物の一覧。感情を挟まず、確認が必要なことだけをメールにまとめた。それを、結婚準備用に作った共有アドレスへ送った。返事はすぐに届いた。『こんな事務的な話がしたいんじゃない。会って話したい』返信はしなかった。翌朝、母から電話があった。『玲奈さんが家の前にいるの。どうする?』両親まで巻き込みたくなかった。僕は玲奈に一度だけ電話をかけ、藤沢駅の北口を指定した。駅前のデッキに現れた玲奈は、帽子を深くかぶり、昨日のリングケースを両手で握りしめていた。目元は赤く腫れている。「来てくれて、ありがとう」「家には、もう行かないでほしい」玲奈の表情がこわばった。「連絡がつかないから……」「だからって、家族のところへ行っていい理由にはならない」玲奈は唇を噛み、リングケースを差し出した。「これ、持ってきた。式はできなくても、ふたりで書いておいた婚姻届は出せるでしょう?」「出さない」間を置かずに答えると、玲奈の指が震えた。「蒼真とは、もう会わない。母にも、間違っていたって言った。仕事だって、必要なら辞める」バッグから折り畳んだ紙を取り出し、僕の前で広げる。連絡先を消すこと。予定を共有すること。隠し事をしないこと。玲奈が考えたらしい約束が、十項目ほど並んでい
直人からの動画は、そこで途切れた。数分後、今度はビデオ通話がかかってきた。『湊、まだ見られるか』「大丈夫」画面には、披露宴会場前のラウンジが映っていた。玲奈を追いかけたのは従姉ひとりだけで、残された親族たちは重い沈黙の中にいた。僕はホテルの窓際に腰を下ろし、コンビニで買った冷めかけのコーヒーを一口飲んだ。自分でも不思議なくらい、心は静かだった。泣き崩れる玲奈を見たら、少しは胸が痛むと思っていた。けれど、何も感じなかった。痛みが消えたというより、玲奈に期待する気持ちがなくなったのだ。わかってほしいとも、後悔してほしいとも思わない。七年間、いつか届くと信じて差し出してきたものを、ようやく手放せた気がした。画面の向こうで、玲奈の母親が蒼真をにらみつけた。『あなたが玲奈をそそのかしたんでしょう。ロンドンへ行く前に思い出が欲しいなんて言うから、こんなことになったのよ』さっきまで『昔の約束』をかばっていた人とは思えない言い方だった。蒼真の顔から、申し訳なさそうな表情が消えた。『僕だけのせいにするんですか』『あなたがいなければ、玲奈と湊さんは今日結婚できたの』『軽井沢のチャペルを予約したのは玲奈です。指輪も、ドレスも、招待する友人も、玲奈が決めた』玲奈の母親の顔色が変わった。『あなたも言いましたよね』蒼真は声を低くした。『最後に湊さんと婚姻届を出せば問題ない。湊さんは玲奈を捨てられない人だからって』ラウンジが、しんと静まり返った。七年間の献身は、玲奈だけでなく、その母親にまで『何をしても離れない』という保証に変えられていた。『そんなことまで言ったの?』玲奈の叔父が、信じられないものを見る目で玲奈の母親を見た。『娘が別の男と式を挙げるのを手伝って、そのあと何も知らない湊君と入籍させるつもりだったのか』『違うの。玲奈は湊さんを愛していたわ。だから最後は、ちゃんと湊さんを選ぶはずで……』『選ぶ人間は、ふたりの男に同時に指輪をはめさせたりしない』玲奈の母親は、もう言い返せなかった。親族たちの視線から逃げるようにうつむく。きれいに整えられた留袖も、丁寧に結った髪も、今はむしろ痛々しく見えた。見栄を守るために僕へ黙っていた人は、その見栄をいちばん守りたかった相手たちの前で、すべてを失った。スマホが震えた。玲奈からだった。