「消えて」私が亮に残したのは、その一言だけだった。他に何も言う気にはなれなかった。真由が出した復讐案も、亮の顔を見た瞬間に全部どうでもよくなって、むしろ、こんな風に引き留めてくる彼が、もうただただ鬱陶しくてたまらなかった。亮はまさか私がここまで冷たくするとは思わなかったのか、呆然とした顔で立ち上がり、私の腕を掴もうとする。でも、その前に隼人が間に入った。「もうやめときな。彼女が『消えろ』って言ってるの、聞こえなかったか?」亮は私の前ではあんなに弱腰なのに、他人にはすぐ攻撃的になる。「お前に何の関係がある?」亮は隼人を値踏みするように見て、私に声を荒げる。「俺と結婚しないっていうのは、まさかこんなケーキ売ってる奴のためか?こいつのケーキで家賃が払えると思ってるのか?」私は思わず言い返しそうになったけど、隼人がすっと手をあげて亮を制した。「それは違うね。うちは家賃なんていらないんだよ。このビル、俺のものだから。ケーキ作りなんて、ただの趣味だ」まさか、隼人が私の大家さんだったなんて思いもしなかった。念のため、契約書の名前を何度も確かめたけど、そこには彼のお母さんの名前が書いてあった。「今、母は太平洋で釣り三昧です。家のことは全部俺に任されてるから、まあ、俺のものってことで間違いないですよ」あまりのことに私は口をあんぐり開けてしまって、そのまま勢いで店のケーキを全部お持ち帰りしてしまった。しかも、お金も払わずに。でも翌日ちゃんとお店に行って、「昨日のは冗談ですよ」ってお金を渡してきた。彼はお金に困ってるわけじゃないだろうし、お礼もかねて、店に合う小さなインテリア雑貨をプレゼントした。それは、ずっと店の片隅に「何を置こうか」と悩んでいた場所にぴったりだった。昨日助けてくれたお礼も込めて。隼人はあまり気にしてないようだったけど、「あなたたち、神谷亮を本気で追い出したいんですよね?」と聞いてきた。私と真由が何度か話してたのを、どうやら聞いていたらしい。「あなたたち、まだまだ優しすぎますよ。俺に任せてください。どうやったら彼に何も残さず去らせて、さらに一泡吹かせられるか教えてあげますね」真由はすぐに「それ最高!」と食いついた。「彼、あんたのこと何年も苦しめてきたんだから、精神的損害賠
一週間後、真由がこっちにやって来た。けど、すっかり体調を崩してホテルでダウン。仕方なく私がホテルまで看病しに行くと、弱々しい声で「明日クライアントと会うから、この資料よろしくね」と渡された。そんなに弱ってるのに仕事だけはしっかりしてる。ほんとにこの人は。まあ、自分たちの商売だし、どっちが行っても同じことだ。でも、いざホテルに着いて資料を開いた瞬間、後悔した。すぐに真由に電話する。「ねえ、相手が神谷亮って聞いてないんだけど!」真由は寝込みながらも、一気に目が覚めたみたいな声で言う。「そんなはずない、絶対そんな手違い起こさないって!」あれこれ話してるうちに、背後から亮の声が。「クライアントに頼んで、担当替えてもらったんだ。お前にどうしても会いたくて」私はくるりと振り向いて、亮と三メートルは距離を取る。彼はどこかおそるおそる、私の顔色を伺っている。「お前が会いたくないのは分かってる。でも、どうしてもあきらめきれないんだ。澪、もう一度だけチャンスをくれないか?」私は呆れて、思わずため息。「どんなチャンス?早く帰れっていうチャンスでいいなら」結局、その日の食事も途中で席を立った。真由はクライアントを相手に、勝手に担当者を替えた件でしっかり文句を言ってくれた。クライアントは、こんなにも発注先側から怒られたのは初めてだろう。真由は言いたいこと全部言ってすっきりした顔。なのに私に向かって、「やっぱり、亮と取引しようよ」と言い出した。「は?」「だってさ、あの人がもう一度やり直せるかもって顔で希望持ったのに、最後はガツンと突き落としてやったら気持ちいいじゃん。全力で追わせて、最後に無理ですって突き放す。それでやっと、全部返せるんじゃない?」確かに、もう亮に心が揺れることはないと思ってた。でも、彼が私の静かな生活に土足で踏み込んできて、全部ぐちゃぐちゃにしようとするのを見て、「真由の言う通りかも」なんて思ってしまう自分がいた。真由は二日ほど寝込んだあと、少し元気を取り戻した。「澪の人生のためにも、私が営業してくる!」と気合い十分。その日のうちに、亮との交渉に出かけていった。亮は、私とまた取引できると分かって、やたらテンションが高かったらしい。昔は私が何を言っても響かなかったくせに、
新しい沿岸の街に着いたとき、私はどこか肩の力が抜けていた。新しいSIMカードを買って、まずは真由に連絡する。それから、スマホの中で亮に関係する人を片っ端からブロックした。彼が空港での号泣動画なんて、送られてきても一つも見なかった。全部ブロックして、削除して、スマホの中はきれいさっぱり。これでもう、煩わしいものは何も残らない。こっちでは新しい会社の仕事に打ち込み、事業の拠点も全部ここへ移した。忙しい毎日のおかげで、男のことなんて考える暇すらない。男のことを気にしなくていい日々が、こんなに気楽だったなんて。ある日、真由が電話会議をつないできて、向こうのプロジェクトが大成功で終わったことを興奮気味に報告してくれた。ここまで来るのにいろんなことがあったけど、最後はふたりともちゃんと稼げてるんだから文句なし。私は何気なく「あのプロジェクト、大丈夫そう?」と聞いた。真由はあっさりと答える。「大丈夫大丈夫。向こうの代表、何か大きなミスでクビになったらしいよ。神谷社長、あんなに彼女を大事そうにしてたのに、意外とあっさり切ったなんてね」私は思わず鼻で笑ってしまった。そうだよ、私が妻だったときでさえ、彼は利益のためなら私にだって容赦なかった。すみれとの関係なんて、ただのいっときの曖昧な関係にすぎない。亮みたいな男は、結局いつだって自分が一番大事なんだ。真由は「そのうちこっちに行くから、一緒に新しい仕事を広げよう」と言ってくれた。何年も一緒にやってきた相棒だから、別れのときは寂しかったけど、まさか彼女まで来てくれるとは思ってなかったから、正直嬉しい。こっちで借りたオフィスは小さな一室で、今のスタッフは新人アシスタントの斉藤(さいとう)だけ。毎日忙しくて、時々ふたりで一階のカフェのケーキを食べて、ご褒美にしている。ケーキを作っているのは、背が高くて腹筋バキバキのイケメン店主。身長はたぶん188センチで、筋肉もばっちり。おかげで、アシスタントの斉藤は、毎日そのケーキを食べながら、目を輝かせている。その日の午後、斉藤が山ほど資料を片付けていて、甘いものがないとダメだと嘆くので、仕方なくケーキを買いに行った。店に行くと、すでに売り切れ。「少しお待ちください」と店主の片瀬隼人(かたせ はやと)が新しいケ
亮はどんどん声を荒げていった。もうこれ以上、彼とやり合う気もなくて、スーツケースを引いて背を向ける。「離婚協議書、テーブルの上に置いてあるから。自分で確認して」そうだけ言い残して、家を出た。タクシーを呼んで空港へ向かう。亮は私の言葉を聞くなり、慌てて家に飛び込んだ。テーブルの上には、前から用意していた離婚協議書。そこには、しっかりと亮のサインがある。彼の字は力強くて、「亮」の最後の一画をいつも長く引く癖があった。亮が自分の字を見間違うはずがない。ただ、まさか自分がいつの間にか「お別れの書類」にサインさせられていたとは、思いもしなかっただろう。空港へ向かうタクシーの中で、亮から電話がかかってきたけど、出なかった。それどころか、SIMカードを抜いて、真っ二つに折った。運転手さんがミラー越しに私の行動を見て、からかうように声をかけてくる。「彼氏とケンカでもしたのですか?」私は首を振った。「いいえ、元夫です」運転手さんはおしゃべりな人で、それからずっと話が止まらなかった。「何があったんですか?離婚して、もう二度と関わりたくなくなるくらい。浮気でもされたのですか?」私はしばらく答えに困ってしまう。正直なところ、亮とすみれが本当に何かあったかなんて、誰にも分からない。どれだけすみれに気をつかっていたとしても、絶対に一線は越えない。そんな風に、ちゃんとセーフティラインを引いていた。誰も決定的な証拠なんて掴めない。すみれも、昔から真面目な顔で「ただの有能な秘書」を演じてきた。「まあ、そんな感じです」そう答えると、運転手さんはさらに勢いづいて、自分の娘婿の愚痴を延々と語り始めた。どうやら運転手さんにも痛い過去があるらしい。私はただ、静かに聞いていた。気がつくと、もう空港に着いていた。荷物を預けて、手荷物検査の列に並ぶ。飛行機の出発までは、あと一時間半。やっと、十年分の苦しい日々にさよならできる。手荷物検査の順番が回ってくるその直前、突然、後ろの列がざわついた。亮が息を切らせて駆け込んできて、私を列から引っ張り出した。そして、私の目の前で離婚協議書をビリビリに破いた。「こんなもん、サインした覚えはない!無効だ!」私は辺りに舞い散る紙くずを見て、ため息をつく
私はチケットを亮に見せた。そこには、三千キロも離れた都市の名前が書かれている。亮は眉をひそめる。「なんで急に、そんな遠くへ行くの?俺には何も言わないで……何かあったらどうするんだ?」私は肩をすくめて答えた。「心配いらないよ。ただの仕事の異動だから」亮は私の手首をつかんで、信じていない顔をした。「そんな急に?一緒に進めているプロジェクトを放り出すの?」私はそっと彼の手を外して、一歩だけ距離を取った。「プロジェクトはもうほとんど終わったから。あとはビジネスパートナーに任せる。私は別の仕事があるの」けれど、その一歩が、亮を深く傷つけてしまったみたい。亮は困惑した目で私を見つめ、差し出した手がわずかに震えているのに、下ろそうとしない。まるで、何かを感じ取ったみたいに、静かに聞いてくる。「……いつ戻ってくる?」私は首を横に振り、笑って答えた。「もう戻らない」亮の顔には、どうしようもない悲しみが広がっていく。信じられないという目で私を見つめ、何度も私を引き止めようと手を伸ばしてくる。でも私は、一歩ずつ下がりながら、その手を避けていった。まるで、突然捨てられた子犬みたいに、進みたいのに怖くて近寄れないでいる。亮は慌てて外に飛び出して、どこからか大きなバラの花束を抱えて戻ってきた。九百九十九本のバラ。それは、付き合い始めてから結婚するまで、私がずっと夢見て、結局一度も手に入れられなかったもの。亮は大きな花束を私の目の前に差し出しながら言った。「さっき全部準備してきた。結婚式、今週末にしよう。澪、行かないで。お前だってずっと、結婚式を挙げたがってたじゃないか。今週はずっとお前のそばにいる」その巨大な花束を見つめながら、私はふと、結婚したばかりのころを思い出す。あの頃、私は亮に一輪だけでいいからバラが欲しいと頼んだことがあった。でも、あのときの亮は首を振った。あとで彼の日記を読んで知った。彼の中で、愛を込めて贈るバラは、心から大切に思う人にしか渡せないものだったらしい。今、こんなにたくさんのバラを目の前にしても、私の心は少しも動かなかった。本当にもう終わったんだ。亮から花束を受け取ると、そのまま家の前のゴミ箱に投げ入れた。亮の顔が、驚きから呆然へと変わっていく。私は、もっとスカッ
離婚関連の手続きが終わるまで、残り一日。もうお互いに空気を読むようになったのか、私と亮が同じプロジェクト会議に顔をそろえることは、ほとんどなくなった。たまにすみれが不在のときだけ、亮が突然フロアに降りてきて、会議でもほとんど発言しないまま、私のことをちらりと見ることがある。この男が最近何を考えているのか、もう分からないし、分かろうとも思わない。私はこっそり、少しずつ荷物をまとめて運び出し始めた。できれば彼に気付かれずに済ませたかった。でも、やっぱり彼は気づいた。その日の会議の後。亮が珍しく私を自分のオフィスに呼んだ。席についた途端、彼が聞いてきた。「最近、いろいろ荷物を運び出してるよな?全然家にも帰ってきてないし」私はうなずいて、前から考えてあった理由を口にした。「うん、ちょっと前の家に、しばらく住もうと思って」亮の表情がほんの少し曇る。「結婚式のこと、ずっと考えてるんだけど、もう一度ちゃんとやり直しても……」私はその言葉を途中でさえぎる。「もう、そんな時間ないから。大丈夫」亮は驚いたような顔をした。「そんな時間ないって、どういう意味?」私は少し迷った。すでにサイン済みの離婚協議書を、今ここで見せてしまおうかと考えた。でも、ちょうどいいタイミングで、すみれから電話がかかってきた。私はその着信を見て、少し笑った。「出ていいよ。私たちのことは、別に急がなくていいから」亮はドアノブに手をかけて、ふと振り返った。「明日、絶対に前の家に会いに行くから」でも、翌日になっても、彼はやっぱり約束を守らなかった。私は前の家のソファで、スマホを見つめていた。カウントダウン、残り十二時間。ふとスマホのニュースアプリが、突然ローカルニュースを知らせてきた。新しいプロジェクトで記者会見に出るすみれ。その後ろに立つ亮。昨日、彼がくれた約束の言葉を思い出して、自分で苦笑いするしかなかった。もしこれが、本当に私との最後の十二時間だって知っていたら、彼は約束を守っただろうか。守ったかもしれないし、やっぱり守らなかったかもしれない。でも、もうその答えはどうでもよかった。私は何時間かけて、部屋の中をもう一度片付けた。すっかり空っぽになったこの家には、私の物なんてもうほとんど