LOGIN私と夫は、どっちも嘘つきだ。 彼は「初恋なんて忘れた」なんて言いながら、スマホの中はあの人の写真ばかり。 私は「絶対に離れない」って言いながら、彼のいない未来を用意してた。 一か月前、私は夫に離婚協議書へサインさせた。 今日は、そのカウントダウンの最終日。 カウントダウン、残り三時間。荷物は全部まとめ終わった。出国のチケットも、もう手元にある。 カウントダウン、残り二時間。二人で撮った写真は全部切り抜いて、アルバムには私だけ。 カウントダウン、残り一時間。彼に残す、最後の動画を撮った。 「亮。今日で、あなたを愛して十年。そして、あなたから離れる一日目」
View More「消えて」私が亮に残したのは、その一言だけだった。他に何も言う気にはなれなかった。真由が出した復讐案も、亮の顔を見た瞬間に全部どうでもよくなって、むしろ、こんな風に引き留めてくる彼が、もうただただ鬱陶しくてたまらなかった。亮はまさか私がここまで冷たくするとは思わなかったのか、呆然とした顔で立ち上がり、私の腕を掴もうとする。でも、その前に隼人が間に入った。「もうやめときな。彼女が『消えろ』って言ってるの、聞こえなかったか?」亮は私の前ではあんなに弱腰なのに、他人にはすぐ攻撃的になる。「お前に何の関係がある?」亮は隼人を値踏みするように見て、私に声を荒げる。「俺と結婚しないっていうのは、まさかこんなケーキ売ってる奴のためか?こいつのケーキで家賃が払えると思ってるのか?」私は思わず言い返しそうになったけど、隼人がすっと手をあげて亮を制した。「それは違うね。うちは家賃なんていらないんだよ。このビル、俺のものだから。ケーキ作りなんて、ただの趣味だ」まさか、隼人が私の大家さんだったなんて思いもしなかった。念のため、契約書の名前を何度も確かめたけど、そこには彼のお母さんの名前が書いてあった。「今、母は太平洋で釣り三昧です。家のことは全部俺に任されてるから、まあ、俺のものってことで間違いないですよ」あまりのことに私は口をあんぐり開けてしまって、そのまま勢いで店のケーキを全部お持ち帰りしてしまった。しかも、お金も払わずに。でも翌日ちゃんとお店に行って、「昨日のは冗談ですよ」ってお金を渡してきた。彼はお金に困ってるわけじゃないだろうし、お礼もかねて、店に合う小さなインテリア雑貨をプレゼントした。それは、ずっと店の片隅に「何を置こうか」と悩んでいた場所にぴったりだった。昨日助けてくれたお礼も込めて。隼人はあまり気にしてないようだったけど、「あなたたち、神谷亮を本気で追い出したいんですよね?」と聞いてきた。私と真由が何度か話してたのを、どうやら聞いていたらしい。「あなたたち、まだまだ優しすぎますよ。俺に任せてください。どうやったら彼に何も残さず去らせて、さらに一泡吹かせられるか教えてあげますね」真由はすぐに「それ最高!」と食いついた。「彼、あんたのこと何年も苦しめてきたんだから、精神的損害賠
一週間後、真由がこっちにやって来た。けど、すっかり体調を崩してホテルでダウン。仕方なく私がホテルまで看病しに行くと、弱々しい声で「明日クライアントと会うから、この資料よろしくね」と渡された。そんなに弱ってるのに仕事だけはしっかりしてる。ほんとにこの人は。まあ、自分たちの商売だし、どっちが行っても同じことだ。でも、いざホテルに着いて資料を開いた瞬間、後悔した。すぐに真由に電話する。「ねえ、相手が神谷亮って聞いてないんだけど!」真由は寝込みながらも、一気に目が覚めたみたいな声で言う。「そんなはずない、絶対そんな手違い起こさないって!」あれこれ話してるうちに、背後から亮の声が。「クライアントに頼んで、担当替えてもらったんだ。お前にどうしても会いたくて」私はくるりと振り向いて、亮と三メートルは距離を取る。彼はどこかおそるおそる、私の顔色を伺っている。「お前が会いたくないのは分かってる。でも、どうしてもあきらめきれないんだ。澪、もう一度だけチャンスをくれないか?」私は呆れて、思わずため息。「どんなチャンス?早く帰れっていうチャンスでいいなら」結局、その日の食事も途中で席を立った。真由はクライアントを相手に、勝手に担当者を替えた件でしっかり文句を言ってくれた。クライアントは、こんなにも発注先側から怒られたのは初めてだろう。真由は言いたいこと全部言ってすっきりした顔。なのに私に向かって、「やっぱり、亮と取引しようよ」と言い出した。「は?」「だってさ、あの人がもう一度やり直せるかもって顔で希望持ったのに、最後はガツンと突き落としてやったら気持ちいいじゃん。全力で追わせて、最後に無理ですって突き放す。それでやっと、全部返せるんじゃない?」確かに、もう亮に心が揺れることはないと思ってた。でも、彼が私の静かな生活に土足で踏み込んできて、全部ぐちゃぐちゃにしようとするのを見て、「真由の言う通りかも」なんて思ってしまう自分がいた。真由は二日ほど寝込んだあと、少し元気を取り戻した。「澪の人生のためにも、私が営業してくる!」と気合い十分。その日のうちに、亮との交渉に出かけていった。亮は、私とまた取引できると分かって、やたらテンションが高かったらしい。昔は私が何を言っても響かなかったくせに、
新しい沿岸の街に着いたとき、私はどこか肩の力が抜けていた。新しいSIMカードを買って、まずは真由に連絡する。それから、スマホの中で亮に関係する人を片っ端からブロックした。彼が空港での号泣動画なんて、送られてきても一つも見なかった。全部ブロックして、削除して、スマホの中はきれいさっぱり。これでもう、煩わしいものは何も残らない。こっちでは新しい会社の仕事に打ち込み、事業の拠点も全部ここへ移した。忙しい毎日のおかげで、男のことなんて考える暇すらない。男のことを気にしなくていい日々が、こんなに気楽だったなんて。ある日、真由が電話会議をつないできて、向こうのプロジェクトが大成功で終わったことを興奮気味に報告してくれた。ここまで来るのにいろんなことがあったけど、最後はふたりともちゃんと稼げてるんだから文句なし。私は何気なく「あのプロジェクト、大丈夫そう?」と聞いた。真由はあっさりと答える。「大丈夫大丈夫。向こうの代表、何か大きなミスでクビになったらしいよ。神谷社長、あんなに彼女を大事そうにしてたのに、意外とあっさり切ったなんてね」私は思わず鼻で笑ってしまった。そうだよ、私が妻だったときでさえ、彼は利益のためなら私にだって容赦なかった。すみれとの関係なんて、ただのいっときの曖昧な関係にすぎない。亮みたいな男は、結局いつだって自分が一番大事なんだ。真由は「そのうちこっちに行くから、一緒に新しい仕事を広げよう」と言ってくれた。何年も一緒にやってきた相棒だから、別れのときは寂しかったけど、まさか彼女まで来てくれるとは思ってなかったから、正直嬉しい。こっちで借りたオフィスは小さな一室で、今のスタッフは新人アシスタントの斉藤(さいとう)だけ。毎日忙しくて、時々ふたりで一階のカフェのケーキを食べて、ご褒美にしている。ケーキを作っているのは、背が高くて腹筋バキバキのイケメン店主。身長はたぶん188センチで、筋肉もばっちり。おかげで、アシスタントの斉藤は、毎日そのケーキを食べながら、目を輝かせている。その日の午後、斉藤が山ほど資料を片付けていて、甘いものがないとダメだと嘆くので、仕方なくケーキを買いに行った。店に行くと、すでに売り切れ。「少しお待ちください」と店主の片瀬隼人(かたせ はやと)が新しいケ
亮はどんどん声を荒げていった。もうこれ以上、彼とやり合う気もなくて、スーツケースを引いて背を向ける。「離婚協議書、テーブルの上に置いてあるから。自分で確認して」そうだけ言い残して、家を出た。タクシーを呼んで空港へ向かう。亮は私の言葉を聞くなり、慌てて家に飛び込んだ。テーブルの上には、前から用意していた離婚協議書。そこには、しっかりと亮のサインがある。彼の字は力強くて、「亮」の最後の一画をいつも長く引く癖があった。亮が自分の字を見間違うはずがない。ただ、まさか自分がいつの間にか「お別れの書類」にサインさせられていたとは、思いもしなかっただろう。空港へ向かうタクシーの中で、亮から電話がかかってきたけど、出なかった。それどころか、SIMカードを抜いて、真っ二つに折った。運転手さんがミラー越しに私の行動を見て、からかうように声をかけてくる。「彼氏とケンカでもしたのですか?」私は首を振った。「いいえ、元夫です」運転手さんはおしゃべりな人で、それからずっと話が止まらなかった。「何があったんですか?離婚して、もう二度と関わりたくなくなるくらい。浮気でもされたのですか?」私はしばらく答えに困ってしまう。正直なところ、亮とすみれが本当に何かあったかなんて、誰にも分からない。どれだけすみれに気をつかっていたとしても、絶対に一線は越えない。そんな風に、ちゃんとセーフティラインを引いていた。誰も決定的な証拠なんて掴めない。すみれも、昔から真面目な顔で「ただの有能な秘書」を演じてきた。「まあ、そんな感じです」そう答えると、運転手さんはさらに勢いづいて、自分の娘婿の愚痴を延々と語り始めた。どうやら運転手さんにも痛い過去があるらしい。私はただ、静かに聞いていた。気がつくと、もう空港に着いていた。荷物を預けて、手荷物検査の列に並ぶ。飛行機の出発までは、あと一時間半。やっと、十年分の苦しい日々にさよならできる。手荷物検査の順番が回ってくるその直前、突然、後ろの列がざわついた。亮が息を切らせて駆け込んできて、私を列から引っ張り出した。そして、私の目の前で離婚協議書をビリビリに破いた。「こんなもん、サインした覚えはない!無効だ!」私は辺りに舞い散る紙くずを見て、ため息をつく
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