大学在学中に応募した文学賞をきっかけに小説家デビューをした笑理は、文学賞の主催先でもあった『ひかり書房』の他にも、別の出版社とも契約を交わしており、まさに売れっ子作家の一人でもあった。
連載していた新聞小説が無事に最終回まで書き終えた後、別の出版社から発売する小説の執筆に追われながら、梢とのやり取りを何度も交わし、無事に最終稿を書き終えることができた。梢の意見には妥協がなく、改めて担当編集者になってくれて良かったと、笑理は心底思っていた。また装丁デザインのデータも、つい先日梢からのメールで確認をしたが、これもなかなかのクオリティだった。水彩画タッチの校舎のイラストに、『忘れられない青春』と書かれたポップなロゴマークは、今回執筆した笑理の作品に見事にマッチしていたのだ。ゲラを持った梢が笑理のマンションを訪れたのは、室内にいてもセミの鳴き声が響くのがよく伝わる八月の下旬のことだった。「こちらがゲラになります。最終確認、よろしくお願いします」梢から封筒を受け取った笑理は、クリップに留められた分厚い校正データを取り出して、読み始めた。「いよいよ、完成も目前になってきたね」「はい。私も一通り確認して、あとは三田村先生の最終チェックが済んだら、そのまま校閲部にも最終チェックをしてもらいます」「今回は時間かかったなぁ。プロットが出版会議で通って、そこから初稿を書き上げてさ……約三ヶ月半か」笑理は感慨深そうに、カレンダーを眺めた。三ヶ月半、それはつまり梢とプライベートで会わなかった時間でもある。「本ができるのは、いつ頃になりそう?」笑理が尋ねると、梢はなおも仕事モードの顔で、「ISBNコードも書籍コードも取得しましたので、後は印刷会社に完全データを入稿して、諸々の手続きを終えれば完成するので、遅くとも九月中旬には完成するかと思います」「完成が楽しみね。他の作家さんのほうはどう?」「全て順調に進んでます。出版会議は月一であって、その都度同時進行でいろんなプロジェクトが動いていくので、分身が欲しいほどですけど」苦笑して答える梢を見て、笑理は改まったように姿勢を直し、パーティー終了直前、高梨は幹部役員たちと相談の上、久子の作品の映画化発表の件を公表しないことを決定し、結果として社員たちに発表されたのは、高梨の文芸部担当執行役員就任の知らせのみにとどまった。久子の一件は水面下で動いたため公になることはなかったが、高梨にとっては梢と笑理が交際していることが気がかりであった。事の経緯や詳細を二人から聞きたかったが、「今日は帰ります。梢のケアしなきゃいけないので」と、一足先に帰っていく際に笑理に言われ、梢も放心状態で会話もままならなかったので、妙なモヤモヤだけが残っていた。マンションに帰宅した梢は、ソファーに小さく座り込んでいた。「はい、レモンティー。気分が楽になるよ」と、笑理が運んできてくれたが、梢にはまだ心の整理がつかず飲む気になれなかった。梢の手首には久子に強く押さえつけられた跡が薄ら赤く残っており、また久子も相当な力を入れたのか爪がめり込んだ跡も微かに残っている。「痛かったでしょ……」じっと梢の手首の跡を見つめた笑理は、腕を持ち上げて顔に近づけると部位にそっと優しく口づけを何度も繰り返した。「笑理……」「こんなことしたところで、梢の心の傷は治らないのに……」梢は手首にポタッと水が落ちる感触に気が付いた。よく見ると、目を潤ませた笑理の瞳から頬に伝った涙が、ポロポロと梢の手首に落ちている。「ありがとう、助けに来てくれて。私、それだけで嬉しい」「梢……」「どうして、パーティーに来てくれたの?」「梢のドレス姿、もっと見たいって思っちゃってね。でもまさか、あんなことに……」そのまま笑理に密着するように抱きしめられた梢は、笑理から伝わるぬくもりを肌で感じていた。「絶対離さない。梢は、私が守るから。これから先もずっと」「ありがとう、笑理」梢は安堵した途端、ドッと疲れが出て心の整理がついたのか、ようやく涙を流し始めた。笑理が微笑みながら涙をぬぐってくれると、その
久子の宿泊室のベッドで休んでいた梢がゆっくりと目を覚ますと、久子が様子を伺うようにこちらを見つめていた。「すいません。ご心配おかけしました」「ちょっと、薬の量が多かったかな」「え……?」梢は慌てて体を起こした。久子は次回作の参考のために今度は女性と関係を結びたいと考え、梢と強制的に関係を築こうと企んでいたのだ。「大丈夫。すぐに終わるから」恐怖を感じて後ずさりをする梢だが、久子はどんどん迫ってくる。「ほら、私の言うこと聞きなさい」馬乗りにされた梢は、両手首を強く掴まれた。「やめてください!」梢は必死に抵抗するが、薬の効き目のせいで体に力が入らず、久子は接近してくる。するとチャイム音が鳴り、勢いよくドアを叩く音が聞こえた。久子がその音に気付いて隙を見せた瞬間、梢は久子を勢いよく突き飛ばし、這いつくばりながらもオートロックになっているドアを開けた。「大丈夫だった!?」笑理と高梨が駆けつけ、部屋に入り込んできた。笑理の姿を見て安堵した梢は、そのまま抱き着いた。「西園寺先生、これはどういうことですか?」高梨は険しい顔で久子を問い詰めた。だが久子は目をそらしてごまかし、「幻覚でも見てたのか、この子が急に暴れ出すから。それよりも、この人は誰なの?」「初めまして、西園寺先生。同業の三田村理絵と言います」「あら、あなたが三田村理絵さん。お名前は拝見してますわ」「私の編集者に、何したんですか?」「別に何も」苛立ちが限度に達した笑理は、久子の頬を引っぱたいた。「何するのよ!」「ちょうど良い機会なのではっきり言っておきます。私、梢と付き合ってるんですよ。同棲もしてます」久子と高梨は、唖然となった。「あなた、何言ってるの」「これ見てください」笑理が手首につけたブレスレットを久子に見せつけたので、梢も同じものを見せた。「じゃあ、今からあなたに見せつけてあげますよ。私たちが付き合ってる証拠を」心の
記念パーティーは、すっかり会も中間に入っていた。梢も真由美も食事に舌鼓を打ちながら、場の雰囲気を楽しんでいた。「飲んでるかしら?」と、久子がシャンパンの入ったグラスを二つ持ってやってきた。「私、ちょっとトイレ行ってくるわ」真由美は逃げるようにそそくさと去っていき、梢は久子と一緒にシャンパンを飲むことになった。「乾杯」久子に言われ、梢はグラスを打ち合うと飲み始めた。「この後の発表が楽しみね」「ええ」何度かシャンパンを口にした後、梢は少しずつ頭がボーっとしていく感覚に襲われた。「どうしたの?」久子が不安そうに尋ねた。「ちょっと、めまいというか、立ちくらみが……」そんな梢や久子の様子に気が付いて、高梨も駆けつけた。「山辺君、どうした?」「立ちくらみがするんだって。私、今日ここに泊まるつもりで部屋取ったから、そこで休んでもらうわ」「ああ、よろしく頼むよ」久子に抱えられながら、梢はパーティー会場を去っていった。二十分ほど経ってからのこと。ホテルのロビーには地模様の入ったオープンショルダーの黒ドレスに身を包んだ笑理が、スマホを持ちながらソファーに腰掛けて待っていた。すると、高梨と真由美が話をしながら通りかかっているのが見えた。笑理は慌てて立ち塞がるように高梨たちの前にやってきて一礼した。「三田村先生」真由美は驚いた様子で、「え……この方が、三田村理絵先生」「紹介します。『ひかりセブン』を担当している、倉沢真由美君です」「山辺さんから話は伺ってます。連載小説の件、引き続きよろしくお願いします」高梨から真由美を紹介され、笑理は深々と頭を下げた。「こちらこそ、よろしくお願いいたします」真由美も恐縮するように頭を下げた。「それにしても、パーティーには来ないって言ってた人が一体どうして?」「気が変わったんです。それに、せっかく山辺さんが誘ってくれましたし。ただ、彼女に連絡してるんで
十一月の下旬のある日、『ひかり書房』設立六十周年記念パーティーは、都心の大きなホテルの大広間で開催された。『株式会社ひかり書房 設立六十周年記念パーティー』という白看板が天井から掲げられ、木箱を並べて上から絨毯を敷いた簡易ステージには、スタンドマイクが中央に設置され、背後には大きな金屏風が立てかけられている。会場は立食パーティーのビュッフェスタイルとなっており、壁側のテーブルには和洋中、様々な料理が彩りよく器に並べられている。ドレスコードをした梢や真由美は食事をしながら談笑しているが、次期役員就任が決まっている高梨はネクタイを締めてスラッとした背広姿で、幹部役員たちと共にウエイターが時折運んでくる白ワインを飲みながら何やら真面目そうな話をしている。「パーティーは十年ぶりの開催だから、結構賑やかにやってるね」料理に目がない真由美は、呑気そうに食べながらそう言ったが、梢の視線は役員たちと話をしている高梨に向けられていた。「多分、今日の役員就任発表の最終確認でもしてるんじゃない」梢の視線に気づいた真由美が、横から小さく呟いた。「まあ、ご無沙汰」どこからか、耳に残る高い声が聞こえてきた。振り向くと、見るからに高級な反物で設えたであろう留袖を着た久子が出席者と談笑をしていた。「出たぁ、西園寺久子」真由美が険しい顔で、久子のほうを見た。「真由美も知ってるんだ」「こないだ、何か炎上してたじゃん。平然とこういう場に来るなんて、やっぱり図々しいのかな、あの人」「まあ、否定はしないでおくよ」久子はやがて、高梨のもとへ近づいていき、会話を始めた様子が見えた。こちらもおそらく、久子の原作小説の映画化の発表についての相談をしているのだろうと、梢は思っていた。発表が公になれば、もう後戻りはできず、映画公開に向けて様々な準備が始まることは梢も覚悟しており、ふと久子の姿を見て大きな溜息をついた。同じ頃、笑理は書斎兼作業部屋にこもって、相変わらずパソコンに向かって原稿執筆をしていた。休憩をしようと思った笑理は、スマホを手にして、写真フォルダを開いた。一番新しい写真は、パーティーに出かける前
『ひかり書房』は今年で設立六十周年を迎え、十一月末開催に向けて、記念パーティーの準備が総務部を中心にして行われていた。当日は経営陣や幹部クラスの役員だけでなく、梢たち社員も出席することになっており、また任意ではあるが笑理や久子を始め『ひかり書房』の契約作家や、取引のあるデザイナーやイラストレーターといったクリエイターなども出席をする予定である。「ねえ、今回の六十周年記念パーティー、結構大がかりなものになるみたいだよ。いろいろ発表することもあるみたいだし」出勤した梢は、エレベーター前で会った真由美からそう聞かされた。恐らくは、久子の原作小説の映画化の発表と、高梨の執行役員就任の発表だろうと、内心見当がついていた。文芸部の自分のデスクにいつものように出勤してくると、同じタイミングでやってきた高梨に声をかけられた。「山辺君」「はい?」「今度の設立記念パーティーのことなんだけど、三田村先生にもぜひ出席してもらうように、君からお願いしてくれないか」高梨の話では、五年前の五十五周年パーティーは世間の状況を鑑みて中止となり、リモートで式典のみを開催したが、笑理は画面越しでも顔を出したくないという理由で欠席したそうである。それもあり、ぜひ笑理には出席をしてほしいというのが、高梨の想いであった。「分かりました。一度、相談してみます」上司からの頼みともあれば断わるわけにもいかず、梢はとりあえずの対応をすることにした。「パーティーねぇ。ごめんけど、やめとくよ、私は」その夜帰宅した梢は、夕食後にソファーに座って笑理と一緒にコーヒーを飲んだ際、パーティー出席の件を相談したが、案の定断られてしまった。「どうして? やっぱり、顔出したくない?」「まあね。どうも私は、ああいう場には合わなくて」「そっか……来てほしかったけどな……」梢は残念そうにうつむいた。「梢からお願いされたら断りたくないんだけどね。こればっかりは、ごめん」「しょうがないよね。三田村理絵先生の意向だもん」「高梨部長には、私から直接連絡入れとくよ。梢からだ
二日の静養を経て、梢は職場に復帰した。早々に梢は、高梨から個別で呼び出されたのだが、内心は穏やかではない。日曜日に笑理と出かけていたところを、もしかしたら気づかれたのではと思っていたからである。「え、本当ですか?」「ああ、先週配給会社のほうから連絡があって、上層部で正式なGOサインを出してから連絡しようと思ってね」高梨から伝えられたのは、梢の担当でもある久子の小説を原作にした映画化企画の話であった。梢はふと、日曜日に高梨と久子が街で会っていたのは、この件のことだったのかと合点がいった。「山辺君には西園寺先生の担当編集者として、配給会社との調整役をお願いしたい。今やメディア出演が著しくなった西園寺先生の作品が映画化になるんだ。これは、『ひかり書房』においても重要なプロジェクトだと思ってる」「分かりました。ぜひ、やらせていただきます」「ありがとう。俺も後方支援に回るから、何かあったらいつでも相談してくれ。元々癖の強い西園寺先生だ、映画化となれば、またどれだけ天狗になるか分からんからな」高梨は苦笑して呟いた。確かに久子の動向は見当がつかず、梢もひやひやすることが多々あったため、今回もどんなことになるのか少し不安な気持ちであった。その夜、梢が帰宅すると、エプロン姿の笑理が迎えてくれた。「おかえり、梢」「ただいま」今や帰宅時のハグは、二人の恒例となっている。「今日のご飯は何?」「秋っぽくしようと思って、栗ご飯にした」「すごい! 楽しみ」料理上手な笑理の夕飯が、梢にとっては同棲が始めってからの楽しみとなっていた。笑理には執筆活動に専念してほしいと思いながらも、梢は時期によっては残業になることもあったため、家事の手伝いがあまりできないことを内心申し訳ないと感じていた。だが笑理は気にしていない様子で、梢のおかげで自分は執筆活動ができているとむしろお礼を言われたほどだ。数日前に聞いた笑理の家族の話を聞いてからというもの、梢は自分が笑理の一番近い存在になりたいと思っていた。深夜になり、ようやく色違いの同じパジャマを着た笑理と一緒に眠ることができた梢は、ベッドで体を密着させなが