LOGIN胡桃の言葉に、明らかに電話の向こうにいる桔梗の声が明るくなる。 〈まあ、本当!?一時帰国なんかじゃなくて、もう帰ってきちゃいなさいよ。この仕事をするなら、海外にいるとリスキーだわ。すぐに先方との打ち合わせも出来ないじゃない〉 「やだ、お母さん。今はウェブで顔を見て会議だって出来るわよ」 〈それはそうだけど、やっぱり実際顔を合わせて親交を深めるのが大切よ。お酒を交えて交流するっていうのは大事なんだから〉 「──……」 桔梗の言葉に、胡桃は自分の下腹部を見下ろした。 そして、そっと自分のお腹に手を当てるとにんまり、と口を歪めて笑う。 「でも私、今はお酒が飲めないから」 〈──えっ〉 誠司が買って、この国に持ち込んだ避妊具はとっくに使い果たしている。 今は2箱目だが、胡桃は1箱目のように全てに針を通した。 だが、その必要はもうなくなったのだ。 この国に来てから、誠司とは数え切れないほど肌を重ねた。 ようやく、胡桃の狙いが実を結んだのだ。 胡桃が桔梗に伝えようとした時──、誠司が帰宅した。 「ただいま。胡桃?胡桃?」 「お帰りなさい、誠司!」 胡桃は桔梗に素早く「じゃあまたね」と言い終えるとさっさと電話を切った。 上機嫌で誠司を迎えに行く胡桃。 胡桃の頭には、どうやって誠司に自分が妊娠しているかを「知られようか」を考えていた。 「最近帰りが遅いわね?お仕事忙しいの?大丈夫?」 胡桃が心配そうに誠司を見上げると、誠司は優しく微笑みながら胡桃に口付ける。 「ああ、新規取引先の開拓に奔走していてな……。大変ではあるがやり甲斐はあるよ」 楽しそうに話す誠司に、胡桃は困ったような顔になり「じゃあ、難しいかな……」と呟く。 困った様子の胡桃に、誠司は優しく問いかけた。 「ん?どうした?何かあったのか?」 「あのね、誠司……。お母さんから聞いた情報なんだけど……」 そうして胡桃は、駅舎の立て替えの件と、駅舎デザインに関してを話した──。 ◇ 深夜。 もみじが眠っていると、もみじのスマホがけたたましい音を立てて着信を知らせた。 「ひゃあっ、なんなの!?」 びくっと体を跳ねさせてその場に起き上がったもみじは、スマホの画面を確認した。 寝起きでぼんやりとしていたが、そこに表示されていた名前を見て、もみじは眉を顰めた。 「ま
髙野辺が考えれば考えるほど、もみじはそのつもりじゃないか、と思いが強まる。 「1年半後のパーティーに、新島さんがSeaとして公の場に姿を現すつもりなら……」 謎に包まれたSeaの正体が、全世界に知れ渡ると言う事だ。 男なのか、女なのか。 そして、年齢はどれくらいなのか──。 全てがヴェールに包まれていた謎の天才デザイナーSeaが、あんな美しい女性だった、と世間に知られれば。 もみじの周囲は一瞬にして騒がしくなるだろう。 そして、その事が知られれば絶対に新島 誠司はもみじを手放さないつもりだろう。 「──早く離婚が成立するように突っつくか……」 髙野辺はぼそ、と呟くといそいそと弁護士、久保田 時陽に連絡をした。 ◇ 「──やったわ!二次も通った!」 それから、1週間以上の時が流れた。 ある日の夜。 もみじは、桔梗の家から戻って夕食を食べ終わると、仕事用のメールをチェックしていた。 すると、そこで午前中に来ていたデザインコンテストの二次審査通過決定の通知が来ていたのだ。 リビングのテーブルでメールを確認していたもみじだったが、思わずその場に立ち上がってしまった。 もみじが勢い良く立ち上がったからだろう。 椅子が派手な音を立てて倒れてしまったが、そんな事には構っていられず、もみじは急いでメールの内容をチェックする。 最終審査に関しては、コンテスト主催と協賛会社の役員・重役との面談がある。 そして、その際に追加情報を登録しなければならない。 デザイナーとして活動しているのなら、その活動名を追加登録するのだ。 その時点で、もみじが「Sea」だという事は、少なくとも主催、協賛会社の面談に参加している重役達にはバレてしまう。 「……でも、いい機会だから」 もみじはそろそろ国内の仕事に重点を起き、集中しようと思っていた。 海外に渡る必要がある仕事は、今後断って行こう、と考えていたのだ。 「離婚についても、色々と忙しくなるだろうし……」 もみじは頭の中で今後の重要案件を並べ、優先順位をつけていく。 離婚に、駅舎の仕事に、デザインコンテスト。 それ以外にも、細々とした仕事を受けている。 まずは、大きな仕事ではない納品して完了の仕事から片付けてしまおう、ともみじは自分のパソコンに向き直った。 ◇ 場所は変わり、E国。
それから、数日が経った。 ◇ その日、髙野辺は緊張した面持ちの蒔田に一枚の封筒を渡された。 「社長、こちらに駅舎のデザイナー情報が」 「ありがとう、蒔田。……今どき、アナログなんてな。……それだけ、外部に漏らしたくない情報なのか」 「ええ、そのようです。しっかりと封をされている状態です。会長も、内容は未確認です。この対応は社長に一任する、と仰られておりました」 「──そうか。分かった」 髙野辺がこくり、と頷くと蒔田も頭を下げてその場から退出した。 デザイナーを確認した髙野辺の反応すら見てはいけない──。 デザイナーの確認は、必ず1人で行うように、と先方から強く言われているのが分かるような蒔田の態度だった。 髙野辺は、蒔田から渡された茶封筒をペーパーナイフで慎重に開封する。 割印もなされており、デザイナーの情報は相当厳重に隠されているのが髙野辺にも窺えた。 「……さて、デザイナーはいったい誰だ?海外のデザイナーか?それとも、国内の……?」 何枚もある書類を取り出した髙野辺は、1枚1枚目を通していく。 そして、デザイナーが描いたデザイン画を目にした瞬間、髙野辺は目を見開いた。 「──はっ、はは……っ」 髙野辺の口から、驚愕とも、興奮とも取れる声が漏れる。 デザイン画を見ただけで、もう髙野辺はこの件に関わっているデザイナーが誰かなど、分かった。 だが、答え合わせはしないといけない。 髙野辺はデザイナー名が記載されている書類に目を落とした。 そこには── 駅舎デザイナー Sea と、書かれていた。 「──Sea。……いや、新島さん、あなたはこんな事まで」 そこまで口にした髙野辺は、そこではっとする。 先日、もみじと髙野辺は立て替え予定の駅で会っているのだ。 そこで、迷子の女の子を見つけて、2人で女の子のお母さんが来るまで過ごした。 「ああ、だからか……!あの時、新島さんは自分がデザインする駅舎を見に来ていたんだな」 偶然か、必然か──。 いや、最早運命だろう、と髙野辺は心の中で呟く。 書類には、1年半後に開催される駅舎の立て替え記念発表パーティーまで、デザインにSeaが関わっている事は他言無用。 その情報が外部に漏れた場合は、いくら支援をしてくれているとは言え、相応の賠償を請求すると記載されていた。 こん
蒔田が社長室を出て行き、田島も外に出るだろうと思っていた。 だが、田島は何か話したそうにしていて、髙野辺は眉を上げて口を開く。 「どうした?まだ何か話したい事でもあるのか?」 「その……。奥様──新島 もみじさんは、大丈夫、でしょうか?」 「新島さん?」 田島の言葉に、髙野辺ははっとする。 「そうか……。嶋久志は新島さんの実家でもあるもんな……」 髙野辺は呟き、自分の顎に手を当て考える。 そんな髙野辺に田島はこくり、と頷いた。 「はい。嶋久志家は、奥様のご実家ですから……もし、万が一ですよ……?本当に嶋久志の家が今回の件に一枚噛んでいたら……」 「それは大丈夫だ。新島さんは結婚して既に実家を出ている。それに……新島さんのご実家……ご両親は、新島さんと良好な関係じゃなさそうだろう。……良好な関係だったら、彼女はデザインコンテストで嶋久志姓を名乗ったはずだ」 「──あっ!」 「彼女が関係ないって事は、俺が何に変えても証明する」 強い力の宿った髙野辺の瞳。 それを向けられた田島は、ぐっと息を呑み、頷いた──。 ◇ 一方、もみじ。 駅舎のデザインの仕事に関する連絡が、もみじに届いた。 「──えっ?デザイナーが誰か聞かれているんですか?」 もみじに電話をかけてきた今回の仕事の仲介役が、困った様子で申し訳なさそうにもみじに説明をしている。 「……支援して下さっている会社の方が、デザイナーの情報を開示するように言っているのですね?ええ、ええ……」 デザイナーの情報は限られた人物だけが知っている。 それは、先方にも伝えており、今後の記念パーティーで、Seaのデザインだとサプライズ発表する予定だったらしい。 そういった企画も水面下で動いている状況で、Seaがデザインしている事を知っている人が増えるのは、と駅舎の方も難色を示しているらしい。 だが、情報を求めているのは支援してくれている大企業の会長。 かなり大きな金額を支援してくれている以上、駅舎としてもつっぱねる事が出来ないようで、困り果てているらしい。 もみじはその話を聞いて、悩んだのは一瞬だった。 「私の名前を出して下さって、構いません。ええ……ですが、デザインをしたのがSeaだと言う事は、その方にだけ開示してください、それが条件だと、先方にもお伝えいただけますか?」 も
◇ 数日後、ある日の昼下がり。 髙野辺は社長室で仕事をしていた。 そこへ、扉がノックされ、秘書2人が入ってきた。 「──どうしたんだ、2人とも?」 髙野辺は入ってきた自分の秘書、蒔田と田島を不思議そうに見た。 蒔田も、田島もどこか険しい表情を浮かべていて。 髙野辺の問いかけに、蒔田は険しい表情のまま、口を開いた。 「──社長、会長からご連絡が」 「……何だと?どんな内容だ?」 「はい。それが……支援している、とある駅舎の立て替えに関して……もしかしたら外部の人間が、情報を得ようとしている可能性がある、と」 「情報公開は来年だろう?何故そんな事が起きている?」 「はっ、それが……ここ最近になって国内で立て替え予定の駅舎の情報を探っている人間がいるようです」 「もちろんその人物の調べはついているんだろうな?」 髙野辺の目がすっと細められ、蒔田を見据えた。 社長室にぴりっとした空気が流れ、蒔田も田島も背筋を正した。 「はい。……田島さん、社長に報告を」 「はい」 蒔田に話を振られた田島は、背筋を伸ばしたまま髙野辺に告げた。 「駅舎立て替えについて探っている人物は、都内大手企業に勤める会社役員──飯島 力雄です。この飯島という人物、息子がおりまして……。その息子が嶋久志 忠の同級生でした」 「──嶋久志、嶋久志……」 嶋久志、と言う苗字に髙野辺は覚えがあった。 そして、すぐに思い出す。 「──新島さんの妹の苗字か……!?」 髙野辺が田島に向かってそう告げると、田島は何とも言えない難しい顔で頷いた。 「ええ……。胡桃様の苗字、ですね……。ご両親の苗字、です」 「じゃあ、嶋久志 忠と言う名前は、新島さんの父親の名前か?」 「おっしゃる通りです」 髙野辺は疲れたようにため息を吐き出し、額を片手で覆う。 「どうしてこのタイミングで……駅舎の立て替えに関しては限られた者しか知らないだろう?」 髙野辺の言葉に、蒔田が頷き、書類を取り出すとそれに目を落として答える。 「はい。知っているのは極一部です。支援をしている髙守株式会社の会長に社長、それに我が社の社長と……駅舎関係者。今の段階では、鉄道関係者も上層部のみかと。……あとは、駅舎のデザイナーですね」 「──デザイナー、か。そのデザイナーは誰か分かるか?」 髙野辺の問
「わ、ほ、本当だ……」 もみじは、髙野辺が見せてくれたスマホに映っている自分の写真を見て驚きに目を見開いた。 誠司にあんな事を言われたのだから、カフェでの事が出回っているのだろうな、とはもみじも思っていた。 だが、髙野辺も知っているほどSNSに出回っているなんて、ともみじはいたたまれない気持ちになる。 「優しくなんてないですよ……それに、あの日カフェを手伝ってくれた人は沢山いて、私だけじゃないんです」 「それでも、新島さんが率先して動いたんですよね?新島さんがすぐに動いてくれたから、勇気をもらって自分もお手伝いができたってコメントが書かれていますよ」 「えっ、ほ、本当ですか……?」 もみじは、髙野辺が表示した画面に釘付けになる。 画面には確かに髙野辺の言う通りのコメントが書かれていた。 自分が、誰かに勇気を与えてあげられるような存在になれた──。 Seaではなく「もみじ自身」がそんな存在になれたんだ、ともみじはふわりと嬉しそうに笑みを浮かべた。 「な、何だか恥ずかしいけど……こんな風に言っていただけるのって、嬉しいですね」 「恥ずかしくなんてないですよ。新島さんは困っている人を見て見ぬふりをせず、協力した……。それを当たり前に出来る人はあまりいないと思います」 だから、新島さんは優しい人ですよ。 髙野辺は、穏やかな声と表情でもみじにそう告げた。 そんな風に自分を肯定して、認めてくれるなんて──。 もみじは、じわじわと自分の頬が嬉しさで熱くなって行くのが分かった。 「あ、ありがとうございます……」 「いえいえ」 それから、もみじと髙野辺は暫く世間話をしてから、別れた。 ◇ 同時刻──E国。 「もしもーし?お母さん?」 胡桃は、パタパタとバスルームから出てくると自分の母親からの電話に出た。 〈こんな時間にごめんね、胡桃。誠司がいるんでしょう?大丈夫?〉 「ああ、誠司なら大丈夫。何か今日はE国にいる友人と飲むからって、まだ帰って来ないわ。それより、何かあったの?」 胡桃が電話の向こうに問いかけると、途端に桔梗の声が明るくなる。 〈そう──!聞いて、胡桃!あの人がやってくれたわ!〉 「えっ?お父さんが?」 〈ええ、そうよ!知り合いから近年立て替え予定の駅舎の情報をもらったわ!相当大きな駅よ!都内の主要駅だもの!〉
誠司と胡桃が会社に出勤したのは、始業時間をたっぷり2時間程過ぎてからだった。 ◇ 一方、もみじは。 誠司と胡桃が出て行った部屋で。寝室で、ゆっくりと横になっていた。 「誠司は、いつからあんな風に平気で嘘をつくようになったの……?」 あんな嘘が通用すると思っていたのだろうか。 それとも、自分が誠司に盲目的過ぎて、あんな嘘を今まで気づいていなかったから、あんな風に嘘をつくのに慣れてしまったのか──。 「誠司が好き過ぎて……盲目になっていた私も悪いわね……」 もみじは乾いた笑いを零す。 この寝室だって、そうだ。 最初、もみじが寝室のベッドで横になった時。 ふわりと香った、嗅
週明け。 朝、誠司は会社に出社し、パソコンを立ち上げてメールを確認した。 だが、時間が経ってもそこには──。 「何故、Seaから連絡が返ってきていない!!」 誠司は苛立ちを顕にして、デスクに強く拳を叩きつけた。 今回、誠司の会社では新しくアクセサリーの販売を手掛ける。 アクセサリーにはジュエリーが付き物。 質の良いジュエリーには、最高のデザイナーがデザインしてくれた物が相応しい。 だからこそ、誠司は国内──いや、海外でも最高のデザイナーであるSeaに仕事を依頼したのだ。 誠司がデザイン会社を立ち上げ、まだ会社が軌道に乗っていない頃。 毎日残業続きで、体を壊す寸前まで悩み
◇ その日の、夜──。 もみじを病室まで送り届けた髙野辺は、もみじにまた明日と挨拶をして部屋を出た。 そして、髙野辺はそのまま病院を出る事なくある場所に向かって歩いていた。 髙野辺が向かったのは、病院の「院長室」 院長室のドアをノックすると、院長自ら扉を開けた。 「髙野辺様!」 「院長、急にすまない」 「いいえ、いいえ!髙野辺様でしたらいつでも!いつもご支援いただき、本当に感謝しております!」 室内に案内された髙野辺は、促されるままソファに腰を下ろした。 院長が髙野辺の目の前にコーヒーの入ったカップを置くと、不安そうに視線を向けてくるのを感じる。 髙野辺は淹れてもらっ
「はっ、はは!無断外泊ときたか!」 「き、貴様!何がおかしい!俺の妻と不倫した間男の分際で──」 誠司が髙野辺に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってきたのを見て、もみじはいい加減我慢ならずに叫んだ。 「いい加減にして、誠司!」 もみじの怒声に、誠司ははっとして髙野辺の胸ぐらを掴もうとしていた手をぴたりと止める。 その間に畳み掛けるようにもみじは叫んだ。 「どうしてそんな不埒な考えが出てくるの!私の格好を見て分からないの!?私は昨日、あなたの会社で怪我をして秘書にも不審者だと言われ、会社を追い出されたの!自力で歩けなくなった私を、たまたまエレベーターで居合わせた髙野辺さんが助けて







