Se connecter朔は取り憑かれたようになっていた。そのまま、その場に跪いて頭を地面に打ちつけ始めた。硬いコンクリートにぶつかり、彼の額からは血が滲み出してきた。誰もいない殺風景な砂浜で、顔を血で染めた朔の姿は異常なまでに恐ろしかった。しかし、私の心は少しも動かなかった。彼が私にしてきたことの重さを考えれば、これくらいは当然の報いだと思えた。かつて、彼を殺して自分も死のうと思っていた。当時の私は、失うものが、何一つ残っていないと考えていたから。いっそ死ぬことで楽になれるのではないかと感じていたのだ。だが、彼のために自分の命を投げ出すなど馬鹿げていると思い直した。今の私には、そんな考えを抱くことは一切なかった。心の中には、大切な人がいるからだ。辰也が車にもたれて私を待っていた。彼は何も聞かず、ただ静かに私を抱きしめた。彼の行動に感謝の気持ちが溢れた。今、私が最も必要としていたのはその温もりだったから。朔の自殺を知ったのは、3年後、私と辰也の結婚式の時だった。辰也は私を心配したが、私は驚きこそしたものの、それ以上の感情は湧かなかった。あのプライドの高い朔が自ら命を絶つとは。発見されたときには遺体が酷く腐敗していたという話だった。それだけはまったく予想外だった。そして辰也には知ってもらいたいことがある。朔の生死よりも、目の前のこの幸せな式のほうが私には重要だということを。彼はこの日のために、随分前から入念に準備を進めてくれていた。ウェディングドレスも、私がずっと憧れていたデザインそのものだ。床の絨毯さえも、私の理想に合わせてカスタマイズされたものだった。ゲストを出迎える大きなウェディングフォトのパネルも、彼が婚約フォトをもとに手描きしてくれたものだ。彼は毎日少しずつ、筆を入れて完成させていた。集中して一時間描くときもあれば、たった何分かで切り上げるときもあった。そんな彼を見ているうちに、私は居ても立っても居られなくなり、隙を見てはこっそり筆を加えたこともあった。というのも、彼はいつもリハビリとして私に絵筆を握ってほしいと伝えていた。きちんと医者と相談して、私の手が回復できるように頑張ってくれた。しかし、私の中にはどうしても乗り越えられない心の壁があった。手のひらに残る消えない傷跡
「暮葉!」聞き覚えのある声が、不意に耳に飛び込んできた。振り返ると、朔が駆けてきていて、私は思わず言葉を失った。朔は怒っていて、私が辰也と一緒にいることが許せないようだった。朔は無防備な辰也をいきなり蹴り飛ばし、彼は無様に地面へと倒れ込んだ。私は急いで朔を強く突き飛ばし、辰也に駆け寄った。自分が突き飛ばされるとは思ってもみなかったのだろう。朔はそのまま浜辺でバランスを崩した。彼は驚愕に目を見開き、私を呼んだ。「暮葉、まさか、あいつのために俺を突き飛ばすなんて」そんな朔には構わず、私は辰也を慎重に抱え起こした。「辰也さん、大丈夫ですか?どこか怪我しましたか?」「俺は平気ですよ、咲和さん。彼は誰ですか?」「ただの知り合いですよ」私が「ただの知り合い」と朔を紹介した瞬間、朔は逆上して手をあげようとした。何も悪くないのに蹴られた辰也を見て、私も我慢できなかった。私はそのまま、朔の頬をビンタした。朔の頬に、真っ赤な手の跡が浮かび上がった。突然のことで気が動転したのか、朔は呆然と立ち尽くした。「辰也さん、先に車へ戻っててくれませんか?」「うん、分かりました。もし何かあったらすぐに呼んでください。迎えに行きますからね」朔の様子を見た辰也は、私が彼と二人きりになるのを心配しているようだった。私は小さく首を振って、大丈夫だと伝えると、彼はようやくゆっくりと去っていった。「暮葉、あれは誰だ。二人はどういう関係なんだ」朔は、すこし鼻声になっていた。「あなたに関係ないことだわ。もう用がないなら行かせて」辰也を先に行かせたのは、巻き込んでほしくなかったからだ。それに、朔の執念深さはよく知っている。何より、彼と関わりたくないのが本心だった。私が歩き出すと、朔は腕を掴んできた。反射的に嫌悪感を覚えて腕を振り払った。手が離れた瞬間、彼の顔色がみるみるうちに悪くなった。その時ふとよく見ると、朔は以前より随分と痩せこけていた。まるで、別人みたいだ。いつも清潔感のあった顔にも、無精髭が生えていた。私が戸惑っていると、彼は口を開いた。「暮葉、以前は全部俺が悪かった。もう間違いには気づいたんだ。やり直すチャンスをもらえないか?晴香なら、ちゃんと罰を与えておいた。彼女を痛い目に遭
涙が溢れてしまい、今の私はきっと間抜けな顔をしていると思う。「喜んでくれると嬉しいですよ。咲和さんに楽しんでほしかったからです」辰也はそう言って、恥ずかしそうに耳を赤くしながら視線を逸らした。海辺に着くと、彼は私に先に休むよう言い、荷物を取りにその場を離れた。私は促されるまま、用意されていた椅子に腰を下ろした。ここの景色は本当に彼が言った通り綺麗で、気温も心地よかった。暗くなっていた私の気持ちも、すっと明るくなった気がした。遠くから、カルトンと画材を抱えた彼がゆっくりとこちらに向かってきているのが見えた。手伝おうと歩み寄ると、「絵具が少し漏れていて、スカートを汚してしまいますよ」と彼が止めた。私は海に行くと知って新しいスカートを買ったのだ。「急にどうしました?今日は海を描くつもりですか?」「いや。海よりもずっと美しいモデルを描きます」見渡す限りの浜辺には、私たち二人以外誰もいなかった。彼が私を見つめ、「今日一日、俺のモデルになってくれませんか。今の咲和さんがとても美しく見えます」と聞いた。「でも、うまくポーズがとれるか分かりません。昔、絵のモデルをした時も、先生に『向いていない』と言われたんです」自分でも不思議なほど、思ったことをそのまま口に出していた。出会ってからまだ間もないのに、彼の前ではなぜか警戒心が薄れるのだ。さらに、自分の気持ちまで素直に言葉にできていた。彼に心を許し、頼っているのだと改めて実感した。「大丈夫です。そこに座っているだけで十分素敵ですよ。少し顔を俺の方に向けてくれませんか。そう、その角度です完璧ですね。疲れたら動いていいですよ、輪郭を覚えましたから」彼の導くまま、私は言われるがままに体を動かした。モデルというのは長時間同じポーズを強いる退屈な仕事だと思っていた。でも彼は、少しでも私の疲れを感じ取るとすぐに休憩を提案してくれた。見渡す限りの水平線を眺めながらポーズを取り、全く苦にならなかった。あっという間に時間が過ぎ、彼は満足げに筆を置いて私に完成した絵を見せてくれた。彼の筆致は確かで、輪郭の捉え方から色彩のバランスに至るまで見事だった。特に素晴らしかったのは人物の表情で、画の中の自分が今にも動き出しそうなほど生き生きと描かれていた。
「暮葉!聞いた?あの晴香さんっていう悪い女に、ついに天罰が下ったわ!清原家が隠し持ってる地下室に監禁されて、もう半分死んでいる人間みたいになってるんだって。それに、あなたのあのクズのお父さんも朔さんを訪ねてから行方不明らしいの。彼の『いい奥さん』は警察すら呼ばなかったんだって……朔さんがまとめて処分して、足まで折ったっていう話よ。私に言わせれば、家族揃ってそこに放り込めばよかったのに!あなたのお父さんだって、あれほど『俺たちが本物の家族だ』って言ってたじゃない?まあ、あの一家全員ろくでもないわ。朔さんのそのやり方は一線を超えてるかもしれないけど、あの人たちの当然の報いね」友人が再び彼らの名前を口にするのを聞いて、私はそれほど驚いていなかった。私にとって、晴香も父も、とっくの昔に「家族」として認識していなかった。だからこそ、彼らの行く末になどまったく興味がなかった。あの人たちだって、私を傷つけたことなどとっくに忘れているだろう。けれど、私は決して彼らを許さない。過去の記憶は、夜になるといつも私を苦しめるのだ。どうして家族だった彼らが、あんなふうになってしまったのかと、よく考えることがあった。昔、父は酒ばかり飲んでいた。酔うといつも「お前のお母さんもお前も心底大嫌いだ」と私に吐き捨てたものだ。だから、母が亡くなった時でさえ、彼は涙を落とさなかった。たぶん彼にとって、晴香こそ本物の家族だったのだろう。そして私は、最初から彼に愛されていなかったのだ。そんな時、辰也から電話が来た。私は深く息を吸い込み、応答ボタンを押した。いつからだろう。彼の着信が一日の中で一番の楽しみになったのは。あの穏やかな声を聴いているだけで、心が静かになるのだ。「咲和さん、今なにしていますか?この前行った遊園地の写真、現像できたんです。手元にあるから、もしよかったら見てくれませんか?」私は、彼の行動に言葉を失った。以前に、「アルバムを作りたいのに自分の写真が全然なくて……」と彼の前で言っていたことがある。彼はそれを覚えていて、わざわざ現像までしてくれたのだ。胸に込み上げるものがあった。私は素直に、「見たいです」と返事した。そう伝えると、電話の向こうで彼が嬉しそうに笑ったのがわかった。「よかったです!じゃあ、このあと
朔は笑っていたが、宗一には地獄から来た悪魔のように見えた。宗一は身をもがいて、後ろへ下がろうとした。一刻も早く、ここから離れたかったからだ。「ふざけるな!俺たちが何をしたって言うんだ!恨みはないはずだろ?警察を呼んでやる、覚えておけ!」目には恐怖が浮かんでいたが、口から出たのは強気な言葉だった。宗一の態度が、朔の機嫌を損ねた。「ふざけるな?ああ、今やっていることか。言われて思い出したよ。俺はまだ、お前にやらなければならないことがあった」朔は背後のボディーガードに命令した。「熱湯を持ってこい」熱湯と聞いて、宗一は何事かを思い出したのか、急に顔が引きつった。自分では抑えきれないほど、全身が震え始めた。すぐにボディーガードがバケツ一杯の熱湯を運んできた。沸騰した水がバケツの中で泡を立てていた。朔は宗一に、一歩ずつ詰め寄った。恐怖に呑み込まれた宗一は逃げようとしたが、ボディーガードに押さえつけられ、身動き一つとれなかった。「あの恩知らずのバカ娘のためか?」「恩知らず?自分の娘をそう呼ぶのか。だったら、お父さんはどうなんだ?人としての価値があるのか?」この状況でさえ暮葉を侮辱するその態度が気に食わず、朔は思いっきり彼に平手打ちを食らわせた。力いっぱいの一撃で、宗一の口角から血がにじんだ。あまりの衝撃に視界がぐらりと揺れ、その場に立っているのがやっとだった。滴る赤い血を見て、なぜか朔は気分が晴れやかになった。言葉もどこか優しげになったほどだ。朔は熱湯を指さし、まるで赤子をあやすかのように静かに尋ねた。「よく思い出すんだ。暮葉のどっちの手を火傷させたんだ?俺は忘れっぽくてね。もし思い出せないなら、両手ともバケツに押し込むからな!」宗一の瞳に恐怖が広がり、目の前の男なら何をしでかしてもおかしくないと悟った。自分の命さえ平気で奪えるのだと。宗一は口をつぐんだ。朔は期待外れといった様子で溜息をついた。「答えてくれないのか。言ったろ、思い出せないなら両手だ」朔の合図で、宗一の両手はボディーガードによって強引に熱湯へ突き込まれた。熱湯に触れた瞬間、宗一は激しい悲鳴を上げた。両手は赤くただれ、肌が膨らみ、醜い色になった。湯気が立ち上るたび、皮が焼けただれる嫌な臭いが漂った。
一方、国内では、朔があらゆる手段を使い暮葉の行方を追っていたが、何の消息も掴めなかった。暮葉はとうに名前を変えて異国にいるなんて、彼は夢にも思わなかったでしょう。朔はリビングのソファに深く腰を沈め、暮葉が残していった離婚届をただ呆然と見つめていた。朔には、どうやって暮葉を連れ戻せばいいのか見当もつかなかった。今や居場所さえわからず、ただ途方に暮れるほかなかった。そんな彼の胸中に、珍しく焦燥感が渦巻いた。部屋に入ってきた律は、目の前の男のうなだれた姿を見て、すべてを察した。「晴香の親たちが大騒ぎしている。晴香と連絡が取れないから探してくれって、押しかけてきたんだ」「実の娘が行方不明になれば、親が心配するのも当然だろう?ましてや連絡すら取れないなんて。やはり家族は全員一つ屋根の下で生きるものだ。そう思わないか?」朔は冷淡な口調で、まるで他人事のように返事した。まもなく、数人のボディーガードに取り押さえられ、暮葉の父親が入ってきた。「放せ!無礼な!俺が誰だと思っているんだ!」宗一は抵抗しながら叫び声を上げた。しかし、訓練されたボディーガードたちは表情一つ変えず、有無を言わさず宗一を部屋に連れてきた。朔の姿を見ると、宗一は急に態度を柔らかくして、媚びるように口を開いた。「朔さん、これは一体どういうことかな?晴香と何か揉め事でもあったのか?彼女のお母さんもあの子と連絡がつかないから病気になるほど心配しててな。居場所を知らないか?あの子が、君のところか、それとも律さんのところで隠れているんじゃないのか?」自分に満面の笑みで質問する宗一の顔を見下ろしながら、朔の脳裏にはあの日、晴香が自作自演で階段から転げ落ちたにもかかわらず、彼は暮葉の責任だと決めつけ、彼女の手を滾る熱湯に押し込んだ記憶が繰り返されていた。あの日、暮葉は二度と絵が描けなくなった。暮葉が失踪したならきっと何も動揺しないこの男は、晴香のこととなればこんなにも気が動転するのか。朔の心の中で、宗一に対する怒りが激しく燃え上がった。彼は手にした離婚届を握りつぶすと、冷たい笑みを浮かべた。「お父さん、晴香に会いたいなら、俺のところに来て正解ですよ。彼女はずっと私のそばにいる。最近、食欲がないようだったので、どうにかしてたくさん食べさせてあげようと努力していた