LOGIN私はステージから目を逸らし、会場の向こう側をちらりと見た。所長たち、管理職の部署のテーブルは、私たちの席から少し離れている。瑛は上着を椅子の背にかけ、白いシャツにネクタイ姿で座っていた。隣の人に何か話しかけられて、いつもの涼しい顔で短く返している。忘年会の空気の中にいても、やっぱり瑛は瑛だった。落ち着いていて、少し近寄りがたくて、だけど視線を向けると不思議と目で追ってしまう。──あの人が踊る。その事実が、まだうまく結びつかない。「りおちゃん」「はい」「今、見てたでしょ」「何をですか」「所長」莉子さんがにやっと笑う。私はすぐにグラスを口に運んだ。中身は烏龍茶なのに、喉が少し熱い。「見てません」「見てた顔だったけど」「ステージを見てました」「ステージの延長線上に所長がいたんだ?」「莉子さん、酔ってます?」「まだ一杯目」まだ一杯目でこれなら、先が思いやられる。料理はどれも美味しかった。前菜は綺麗すぎて、最初どこから箸をつけていいのか迷った。魚料理にはソースがきらきら光っていて、肉料理が運ばれてくる頃には、会場のざわめきもだいぶ大きくなっていた。乾杯から一時間ほど経つと、司会を担当する総務部の二人がステージに上がった。「皆さま、お待たせいたしました」マイクを持った男性社員の声が、会場に響く。「これより、今年から恒例、部署対抗余興大会を始めます!」拍手と歓声が上がった。今年から恒例。社長、恒例にしたいのね。最初に出てきた営業部は、流行りの芸人さんのネタをかなり本気でコピーしていた。衣装まで用意していて、動きも揃っている。次の企画部は、社内あるあるを替え歌にしていた。誰もが思い当たる節のある歌詞に、会場は笑いっぱなしだった。経理部は、なぜかハンドベル。最初は静かすぎると思ったけれど、最後にはクリスマスソングをきっちり完成させて、妙な感動が生まれていた。「みんな、仕事以外でもちゃんとしてますね」私が小さく呟くと、莉子さんが頷いた。「採用時に特技聞かれなかった?」「……そういえば。あれ、忘年会の余興のためだったんですか?」「社長、結構昔に余興のために質問させたのに、実行するの忘れてたんだって。総務課の子が言ってた。りおちゃん、来年は出るでしょ?」「絶対に嫌です」「所長とペアダンスとか」「莉子さ
たぶん、瑛自身が一番できてしまうからだ。見本として前に立たれると、“できる人が言っている”の説得力が強すぎて、ぐうの音も出ない。「……そこ、もう一回」瑛が言って、軽く実演して見せる。足の運びは無駄がなく、腕の角度はぴたりと決まり、一瞬だけ流しただけなのに、会議室の空気がまた変わる。「ほら」蒼くんが小さく笑った。「所長がやると一発で分かるんですよね」「ずるいですよね、それ」榊くんが息を切らしながらぼやく。「見本がうますぎると、逆に心折れるんですけど」「折れるな」「即答!」神谷さんが笑い、莉子さんも吹き出した。私はポカリを配り終えたあと、机の端に腰を寄せて、その様子を見つめた。榊くんは死にかけながらも、ちゃんと食らいついている。蒼くんは何だかんだでマスターし始めている。神谷さんは全体を明るく回し、白石さんは淡々と音源を止めたり戻したりしている。そして瑛は、鬼コーチの顔で、全員をちゃんと引っ張っている。「……いいな」思わず呟くと、隣で莉子さんがにやっとした。「でしょ?」「うん」「りおちゃん、完全に楽しんでる顔してる」「だって、楽しいですもん」「うんうん」莉子さんは満足そうに頷き、それからもう一度スマホを見た。「……ほんとにそろそろ行かないとまずい」「やっぱり!」「でももう少しだけ見たいのよねぇ」「気持ちは分かります」その時だった。「休憩、五分」瑛が言った。一斉に「はぁーっ」と空気が抜ける。榊くんなんて、その場に座り込みそうな勢いだ。「所長! 五分って短くないですか!」「十分にしたら、戻らないだろ」「よく分かってる!」「当たり前だ」私は思わず笑ってしまった。ああ、やっぱり。この人、こういう時、本当に容赦ない。でも──厳しいだけじゃない。ちゃんと全員の限界を見て、折れない範囲で追い込んで、できたところは次へ繋げていく。鬼なのに、信頼できる鬼。それがまた、悔しいくらい似合っていた。「りお」休憩の合間、瑛が私を呼ぶ。「はい?」「ポカリ、助かった」「……どういたしまして」たったそれだけなのに、私の心臓は、また変な音を立てた。だってずるいでしょう。鬼コーチの顔をしていたくせに、そういう時だけ、少しだけ声がやわらかいなんて。「はいはい」莉子さんが、もう帰り支度をし
翌日から、勤務時間後の会議室は、にわかに熱を帯び始めた。白石さんが持ってきたスピーカーから音源が流れ、机は端に寄せられ、いつもの会議室は、数十分だけ“練習場”に変わる。「はい、そこ違う」瑛の声が飛ぶ。「え、今のですか?」榊くんが半分死んだ顔で振り返る。「今のだ」「えーっと……どの部分ですか?」「全部だ」「全部⁉︎」神谷さんが吹き出した。「榊、どんまい」「どんまいで済まないですよ! 所長、今のはどこのどれですか!」「どこも何も、リズムも足も角度も全部合ってない」「急に解像度高過ぎですっ!」会議室に笑いが起きる。でも瑛は笑わない。腕を組んだまま、真面目な顔で榊くんを見る。「まず音を聞け」「聞いてます」「聞けてない」「聞けて……ますって!たぶん」「聞けていたら、そこで逆足は出ない」ぴしゃりと言われて、榊くんはうっと詰まった。「……え、逆足なんですか」「逆だ」「蒼! 今の逆だった!?」「逆でしたね」蒼くんが涼しい顔で答える。「うわ、もうやだ」蒼くんは不思議なくらい覚えが早かった。最初こそ「いや、無理でしょ」と笑っていたのに、いざ曲が流れると、二、三回目にはもう身体が馴染んでいる。派手に目立つタイプではないけれど、要領よくコツを掴んで、気づけば全体の流れを外さない。「何で蒼くん、そんな普通にできてるの?」私が思わず聞くと、蒼くんは肩をすくめた。「見るの好きなんですよ、ダンス動画。ももちゃんが」「え、そうなの?」「ずっと一緒に観てると、何となく覚えるんですよ。カウントの取り方が分かると、意外と動けるようになる」「動ける、のレベルが高いのよ」莉子さんが笑う。その莉子さんは、練習の輪の少し外で、楽しそうに見守っていた。「いやぁ、青春だわぁ」と、口ではのんびり言いながら、時々スマホをちらりと見る。時間。たぶん、息子さん達のお迎えがあるんだろう。それでもすぐには帰らず、「ちょっとだけ見ていこうかな」みたいな顔で、その場に残っている。「莉子さん、時間大丈夫ですか?」私が小声で聞くと、「大丈夫大丈夫。あと少ししたら動く」と笑って返しながら、またスマホの画面を見る。全然“あと少し”じゃない気がする。「ほら、そこのマネージャー」急に瑛の声が飛んだ。「え、私?」「ポカリ」「あっ
片腕を上げる仕草ひとつで場が明るくなる。足を踏み替えるたび、リズムが見える。笑っていないのに、どこか楽しそうで、それが余計にずるい。「ちょっと待って、所長、何それ」神谷さんが吹き出した。「普通にうまいじゃないですか」「動きが素人じゃないですね」蒼くんが腕を組む。「身体が覚えてるんですよ」「覚えてない」瑛は踊りながら、しかも息も乱さずに言った。「いや、覚えてる人の動きなんですよ、それ」白石さんが淡々と返す。私はもう返事もできなかった。だって、見たかった。見たかったけど、まさかこんなに──こんなに、似合うなんて思わないじゃない。スーツ姿のまま、きっちり閉じていた人が、音に合わせて一瞬だけ何かをほどく。その感じが、腹立たしいくらい格好いい。サビ終わり、瑛が最後の動きを小さく止めた。ほんの一拍、会議室が静まり返る。次の瞬間、「きゃーーー!」莉子さんが最初に叫んだ。「うわ、ずるっ」神谷さんが笑いながら頭を抱える。「それ反則でしょう」「ほら、りおさん」蒼くんが私を見る。「見たかったんでしょ?」私は首がもげそうなくらいうなずいた。「見たかったどころじゃないです」「所長、何なんですか今の」「何でもない」「何でもなくないです!」「りお」瑛が少しだけ息をついて、私を見た。その目が、踊る前より少しだけ熱を帯びている気がして、心臓が変な跳ね方をした。「……一回だけと言っただろう」「もう一回」「調子に乗るな」「今のは乗るでしょ!」「乗らない」「私は乗ります!」会議室のあちこちで笑いが起きる。瑛は呆れたように眉を寄せた。でも、さっきまでの“今日いちばん渋い顔”ではなかった。そのわずかな緩みを見つけた瞬間、私は確信した。この人、たぶん昔、とんでもなくモテた。あの後──。私達、賃貸営業部と賃貸管理部は合同で余興をすることが決定した。賃貸管理部の鈴木部長は、社長の無茶振りメールを読んで頭を抱えていた。ところが即日余興が決まったので、相当喜んでいたらしいと望月主任が話していた。いつもの車内。いつもの助手席。いつも通りに運転する瑛の、整った横顔。いつもと違うのは、私の脳内だ。いやいやいやいやいや!何あれ⁉︎前から思っていた。瑛って、私の推しと少し雰囲気が似ている。そ
白石さんがさらっと続けた。「氷室さん、昔はセンターで煽ってましたよね」「してない」「してました」「してない」「してました」すごい。この人たち、所長への圧が全然引かない。「望月さん……所長って、本当にそんなにすごかったんですか?」思わず聞くと、望月主任は少しだけ口元を緩めた。「ええ。研究室にいる時とサークルにいる時で、別人みたいでした」「余計なことを言うな」「事実です」「望月まで乗るな」「乗るも何も、今日はそういう場では?」うわあ。望月主任、ちゃんとしてるのに容赦ない。「じゃあ、まず曲どうする?」莉子さんが手を叩く。「うちの営業と賃貸管理、合同なんだから、王道でいきたいわよね」「王道って何ですか」蒼くんが真面目に聞く。「王道は王道よ」「説明になってません」「じゃあ、氷室さんが一番いやがるやつ」「それは王道じゃなくて趣味だろ」「まあ、趣味ね」「認めるな」榊くんが、小さくため息をついた。「……僕、何でここにいるんでしょう」「忘年会の余興のためだろ」瑛が即答する。「所長は?」「監督」「ずるくないですか」「ずるくない」「いや、ずるいです」「榊さん」久世さんが明るく割り込んだ。「どうせなら一緒に踊りましょうよ!」「どうせなら、の意味がわかりません」「もう運命共同体ってことで!」「嫌です」「でも榊さん、顔は踊れる人の顔してますよ」「初めて言われました」「言われてないだけですって!」「その理論怖いな」「じゃあ、曲どうするか決めましょうよ」神谷さんが手を打った。「話題性あって王道なら、BTSどうですか?」「今年カムバしたしねぇ」莉子さんがすぐ乗る。「いや、それ、ただの莉子さんの趣味では?」榊くんが冷静に言う。「違うわよ。知名度よ、知名度」「でもまあ、BTSなら誰でも一回は聞いたことあると思います」蒼くんが真面目に補足する。「王道でいくなら……Dynamite? Butter?」久世さんが首をひねる。「Butterはちょっと洒落すぎてる気がします」白石さんが静かに言った。「コロナの時、よくカラオケで踊ってたの、Dynamiteでしたね?」その瞬間、瑛の顔が険しくなる。え?コロナの時に、踊ってた……だと?「白石」「事実ですよね」「余計なことを言うな」「じ
……ん?見間違い?社内の一斉メール。社長からだ。『今年の忘年会は各部署で余興を用意してください。楽しみにしてます』……余興?余興って、かくし芸とかする、あの余興?顔を上げて周りを見回す。私と同じく、ディスプレイを見たまま固まっているのが蒼くんと榊くん。口角上がってるのが莉子さん。表情が全く変わっていないのが我らが所長、瑛。アオバ賃貸パートナーズ代表取締役社長である、真田剣《さなだけん》社長。現場経験のある叩き上げタイプと聞いている。数字には厳しいが、人を見る目があるとか。たまに無茶振りをするという噂もあった。まさか全社員にこんな平和な無茶振りをするとか。お茶目さんだなあ。いや、私にも関わること。困ったことになったなあ。こういうのって、やるのはだいたい下っ端だ。蒼くんと榊くん。……年齢順でいけば、私もギリ入るかもしれない。逆に、莉子さんと瑛はたぶん安全圏。うん、困った。「……蒼くん。榊くん」「はい」反応早いのは蒼くん。榊くんはまだ固まっている。「社長のメール、見た?」「はい。これ、毎年なんですか?」「ううん。私が入社して初めて」「僕当たり年ですか」「……僕は当たりたくなかったですね。面倒ですが」やっと言葉を発した榊くん。“面倒です”って何。いや、わからなくはないけど、ちょっと引っかかる。「ねえ所長」「何だ」莉子さんの呼びかけに、瑛は露骨に嫌そうな顔をした。「所長……特技あるよね?」「無い」即答。瑛の特技?莉子さん、何か知ってそうな顔してる。え、何。めちゃくちゃ気になるんだけど、瑛の特技。「所長、特技……あるんですよね?」私も乗っかって瑛に振る。……うわ、何?氷の氷室レベルの冷たい視線が飛んできたんですけど。これはもう、追及せねば。「莉子さん、所長の特技、ご存じなんですか?」「そりゃ大学の研究室仲間ですからねえ、所長」「やめろ」「いいじゃん言えば。全国大会常連だったくせに」瑛の顔が引きつった。え? 全国大会?しかも常連?で、何の?「所長。これは、所長にも参加していただくやつでは」ひええ。蒼くん、怖いもの知らず。それ、新卒しか許されないやつね?「そうですよ。所長、僕たちも頑張るんで!」榊くんも加勢する。氷の氷室レベルの視線、榊くんにも発動。やべ、って顔をし







