Mag-log in氷室所長こと、瑛の機嫌が悪い。原因はわかりきっている。「──榊、俺、あれ程言ったよな?先方に確認をしてから進めろと」「は、はい」「なあ、お前何年目だっけ?」「……5年目です」「5年目ってまだ俺らのフォローが無いとやれないわけ?自分の穴埋めしてもらって当然って思うのは違うぞ」ひええ。瑛の低くて静かな声がフロアを包む。大声の叱責の方がよっぽど怖くないんじゃなかろうか。莉子さんと蒼くんと目配せをしつつ、聞こえないふり。アオパ賃貸営業部、賃貸仲介課名物、氷の氷室発動中。氷の氷室を喰らうと大抵の社員は馬車馬モードに変換されるという伝説が……。榊くんもついに馬車馬育成入ったか。榊くんには中途半端な扱いを受けたから、あまり優しくしたいとは思わない。でも、榊くんのミスで被害を受けるのはお客様。だから私はちょいちょいフォローに入っていた。瑛はそれも、気に入らなかったんだろう。職場では指輪を外している婚約者が、他の男に手を貸している。瑛から見れば、面白いはずがない。氷の氷室から解放され、肩を落とした榊くんが自席に戻る。ここで優しくしては、氷の氷室の意味が無い。「朝比奈さん……」慰めて欲しいわけね。でもね、今回の非は完全にキミにあるのよ?「良かったじゃん」「え」何を言ってるんだこの人は?って顔してる。ちょっと前だったらこのタイミングでお菓子あげてたもんね。慰めてくれないの?僕が、傷ついてるんだよ?って全力で顔に書いてあるの笑っちゃうんですけど。やめて。仕事中の笑ってはいけないは拷問過ぎる。「いやね。氷の氷室、発動してたじゃん?」氷の氷室って呼ばれ方は、実は瑛本人は知らない。知ったらむくれるのが見えてるから教えてない。「はい……」「あれ喰らった人って、その後どうなるか知ってる?」「え……どうなるんですか」「バリバリに仕事出来るようになるのよ。おめでとう!キミもこれからバリバリの人だ!」意味がわからない、って顔中に書いてある。でもいい。榊くんには、これからちゃんと使い物になってもらわないと困る。使い物になってくれないとまずい。最近、蒼くんの頭のキレっぷりが目立っている。営業成績が、榊くんを超えそうだった。瑛は意図的に榊くんに発破をかけたのだろう。「ひとまずさ、その処理を今日中
瑛の家に入るのは、慣れているはずだった。なのにその夜は、玄関をまたぐだけで妙に緊張した。昨日までとは何かが違う気がして。リビングに入る。照明が落ち着いていて、静かで、余計に逃げ場がない。私はソファの前で立ち止まったまま、鞄を抱えた。瑛が少しだけ離れた場所で向き直る。「昨日は悪かった」まっすぐ言われて、胸が詰まる。「……何がですか」「全部だ」「雑です」「雑にしたくないから、順番に言う」そこで一度、瑛は息を吸った。「言葉を後回しにした」「……」「言わなくても伝わると思ってたわけじゃない」「……」「言うのが遅かった」「……うん」「遅すぎた」私はうつむいた。泣きたくないのに、喉が痛い。「お前が欲しかったのが、ちゃんとした言葉だってわかってた」瑛が言う。「わかってたのに、行動だけで埋められると思ってた」「……」「昨日、お前に“いらない”って返されて、やっとわかった」私は唇を噛んだ。送り迎えも。保護者みたいな過干渉も。全部、嬉しかった。嬉しかったからこそ苦しかった。「……私は」やっと声が出る。「瑛のこと、好きです」「うん」「好きだから、あれだけしてもらって、名前がないのがつらかった」「うん」「ずっと、彼女ですって言ってほしかった」そこで瑛が、一歩近づく。私は反射的に少しだけ息を止めた。でも今度は、逃げたいわけじゃなかった。「彼女じゃなくて」瑛が言う。そのまま、私の前に片膝をついた。頭が真っ白になる。え、と思った時には、もう小さな箱が開いていた。灯りを受けて、石が静かに光る。「妻になってほしい」低い声。でも、震えていた。瑛がこんなふうに緊張するのを、私は初めて見た。言葉が出ない。「りおのいない人生なんて、考えられない」「……」「彼女って言葉で止める気がなかった」「……」「最初から、お前しかいらない」涙がこぼれた。こんなの、ずるい。ずっと欲しかった言葉を、こんな形で全部まとめて渡してくるなんて。「……今さらです」泣きながら言うと、瑛が苦く笑う。「知ってる」「遅いです」「悪かった」「すごく遅い」「うん」「……でも」そこで声が崩れた。瑛はまだ膝をついたまま、まっすぐ私を見ていた。その顔が本気すぎて、もう意地を張り切れない。「……返事、してい
「明日からは私、部下に戻りますね」やっと、瑛の方を見る。「……さよなら」泣く寸前の顔で笑ったのは、自分でもわかった。これ以上見たら、たぶん揺れる。だから自分でドアを開ける。「りお、待て」「待ちません」そのまま降りた。後ろから名前を呼ばれた気がしたけれど、振り返らなかった。玄関の鍵を閉めた瞬間、膝から力が抜ける。本当に、終わったんだと思った。翌朝、目は最悪だった。泣いたのなんて久しぶりで、鏡の中の自分はひどく見えた。眼鏡とマスクで誤魔化せるだろうか、と本気で考えるくらいには。でも会社には行かなきゃいけない。今日から、部下に戻る。そう決めたのは自分だ。玄関を出て、道の先にある見慣れた車に気づいた瞬間、心臓が止まりそうになった。……来るんだ。昨日、あんなふうに言ったのに。私は一度だけ立ち止まって、それから見なかったふりをして歩き出した。助手席のドアが開く音。「乗れ」低い声。私はそのまま通り過ぎようとした。「朝比奈」「歩いて行けます」「乗れ」「昨日、言いましたよね」「聞いた」「だったら」「聞いたから来た」足が止まる。悔しい。悔しいのに、泣き腫らした目をこの人に見られていると思うと、もっと悔しい。「……遅刻するぞ」瑛が言う。「その目で電車乗る方がきついだろ」最低だ。優しい言い方をしないで、そういうところだけちゃんと見るのが最低だ。私は結局、助手席に乗った。車内で、会話はほとんどなかった。でも昨日の夜とは違う沈黙だった。瑛の中で、何かが決まっている。そんな気配だけがあった。午前中の瑛は、異様だった。仕事が速すぎる。電話も、資料の確認も、判断も、全部いつも以上に容赦がない。いつもなら私に一言振るところも、今日は先に片付けていく。鬼仕事モード。でも、その鬼の顔の下で何を考えているのかは、こっちだってもう少しわかるようになってしまった。たぶん、仕事をしていないと保てないのだ。昼休み、私はイヤホンを耳に入れた。BTSの音を大きめに流す。今日はもう、推しに脳を洗ってもらわないと無理だった。Dynamite。Butter。流して、流して、無理やり心を整える。瑛のことは考えない。考えない。そう決めても、昨日の「さよなら」が自分の中でまだ生々しい。同じ頃、瑛は昼休みに外
塾はバーから歩いてすぐだった。「この距離がいいんだよね」莉子さんが言う。「待つのも迎えも楽」「毎回言ってる」「毎回本当にそうだから」そんな会話を聞きながら、私はさっきの“昔”を引きずっていた。研究室の連中。昔みたい。今ここにいない誰か。瑛には、私の知らない時間がある。それは当たり前なのに、急に形を持ったみたいで、少し落ち着かない。その時。「ママー!」元気な声が飛んできた。続いて、もう一人。「パパー!」塾帰りらしい男の子たちが、リュックを揺らして駆けてくる。そして、その勢いのまま。「あ、瑛くん!」私はその場で固まった。……え?もう一人も当然みたいに言う。「ほんとだ、瑛くんいた」「今日もいた」「瑛くん、何飲んでたの?」瑛は少しだけ眉を寄せた。「お前らにはまだ早い」「またそれ」「じゃあいつ飲めるの?」「まず宿題やれ」「それ関係ある?」「ある」ぶっきらぼうなのに、慣れてる。そのやり取りがあまりに自然で、私は何も言えなくなる。“瑛くん”その呼ばれ方も。その呼ばれ方に違和感なく反応してる瑛も。私の知らない瑛が、またひとつ目の前に出てきた。すると片方の男の子が、今度は私を見た。「この人、瑛くんの彼女?」世界が止まる。「ちょっと」莉子さんがすぐにたしなめる。「そういうの急に聞かない」「なんで?」「なんでも」直人さんは笑いを堪えてる。絶対面白がってる。私は答えられない。否定したら、たぶん痛い。肯定したら、もっと痛い。一番ひどいのは、本人だ。瑛は黙ったまま、何も言わない。何も言わないくせに、否定もしない。「違うの?」男の子がもう一度聞く。その時、直人さんがにやっとした。「それは本人に聞けよ」「直人」「だってそうだろ」悪友。瑛は心底嫌そうな顔をして、それでも“違う”とは言わなかった。「帰るぞ」低い声で言う。「えー、違うの?」「いいから歩け」「答えてない」「歩け」「照れてる?」「歩け」声が、少しだけ掠れていた。私はその場で、たぶん人生で一番変な心拍数になっていた。“彼女”そんな単語、本人はまだ一度もくれていないのに。私って、瑛の、何なの……?胸の奥でカチリと嫌な音が立った。私がいちばん嫌だった形。都合の良い女、っていう枠。榊くんにその
莉子さんがスマホを取り出した。「じゃあ旦那も呼ぶ」「は?」「四人ならいいでしょ」「なんでそうなる」「保護者がうるさいから」即答。莉子さん、そういうところある。一回面白がると、展開を止めない。「直人、今から来られるって」「聞く前に決めるなよ」「りおちゃんは?」「……行きます」「はい、決まり」ピコン、と莉子さんのスマホの通知が光る。「息子たち、塾到着。さ、行こうか」にっこり微笑む莉子さん。瑛が深く息を吐いた。でもそれは、反対のため息じゃなかった。諦めたみたいな、受け入れたみたいなやつ。今日の朝も、私は瑛に車で送られてきた。たぶん帰りもそうするつもりでいる。好きだとは言う。離れるなとも言う。飲みに行くと知れば止めに入る。なのに。──どうして“付き合おう”だけ無いの。駅前の通りを、一本中に入る。控えめな店構えのバーだった。ドアを開ける。「こんばんは」眼鏡をかけた髭のマスターが目を細めて出迎えてくれた。カウンターの少し奥に座っていたその人は、私たちを見て軽く手を挙げた。「直人、おつかれ」「おつかれ。瑛、本当に来たんだ」「来ちゃ悪いか」「彼女を過保護にするのに忙しいって、莉子から聞いてたからな。……その子か」「ああ」「直人。こっち、朝比奈りおちゃん」「こ、こんばんは」平静を装ったよ、私。今、直人さん、瑛に彼女を過保護に……とか、言ったよね⁉︎で、瑛。否定しなかったよね⁈「余計なこと言うな」「まだ余計なこと言ってないだろ」「じゃあそのまま黙ってろ」「無茶だなあ」直人さんは笑って、カウンター席からテーブル席に移動した。私の隣に莉子さん。莉子さんの向かいに直人さん。その隣に瑛。「何飲む?」莉子さんがメニューを開く。「私は白」「俺はビール」「氷室は?」「ノンアル」「真面目か」「車」「知ってる。そういうとこ昔から変わんないな」瑛は答えず、ノンアルコールビールを頼んだ。私も軽めのカクテルを選ぶ。その瞬間、瑛が低く言った。「一杯な」「わかってます」「怪しい」「氷室、ほんと保護者」莉子さんが笑う。「今日はもう保護者でしょ」直人さんまで乗る。「何のですか」私が返すと、直人さんが吹き出した。「ちゃんと返すんだ」「何ですか、それ」「いや、もっと
早すぎて、心臓が跳ねる。「……お前は」瑛が言いかけて止まる。一度、喉が上下する。それから、低く続けた。「そういう言い方をするな」「……どういう」「……俺が」そこで一瞬、言葉が切れる。瑛の手が、首から肩へ移動して私を鏡の前から少しだけ引き寄せた。背中に、胸が触れそうな距離。「……俺が、増やしたくなる」低音。理性ギリ。“言ってはいけない告白”みたいな声。私は息を呑んで、コンシーラーのパフを置いた。「……仕事」「分かってる」即答。でも離れない。瑛の指が、もう一度首筋をなぞる。さっきより少しだけ強く。「見える場所は、今日はやめる」言い方が、完全に“業務判断”。でも、次に続いた一言で全部崩れる。「……代わりに」瑛の唇が、私の耳の後ろに触れた。触れるだけ。押し付けない。でも、呼吸が熱い。「消えないところにする」耳元で落ちる低音に、足元が揺れる。「……瑛」「時間だ」言いながら、瑛は私の肩紐を“元に戻す”。乱さない。整える。その丁寧さがいちばん危険。鏡の中で、瑛がネクタイを締め直す。完璧な顔に戻そうとしてるのに、目だけが全然平静じゃない。「……行くぞ、朝比奈」名字に戻った。でも、背中に回された手だけは一瞬、離れなかった。──瑛は私を、大事にしてくれている。でも、「付き合おう」という言葉は、未だ言われていない。「俺から離れるな」とか言うくせに。「好きだ」って言ったくせに。私が食事したかどうかとか、確認するくせに。私の家に2着もスーツもインナーも置いてるくせに。私も瑛の家に置いてるけど。剃刀置いてるくせに。私の化粧品も瑛の家に置いてるけど。「中途半端なことはしない主義だ」とか言ってたくせに。週の大半は私の家にいるくせに。……じゃない方は瑛の家に私もいるけど。毎日私を車で送迎するくせに。朝も夜も、当たり前みたいに私を気にかけるのに。──なのにどうして?どうして「付き合おう」が無いの?「はああああ……」「大きいなあ、ため息」昼休み。今日は莉子さんとふたりでの外ランチ。海鮮丼についてきた味噌汁を飲んでひと息ついただけのはずが、大きなため息になっていた。「あ、すみません」「謝らなくてもいいけどさ。……氷室のこと?」胸が跳ねる。莉子さん!直球!莉子さんは瑛とは大学







