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「……何をしているの」
乱れたシーツの上で、婚約者が別の女に覆いかぶさり、肌を重ねていた。
枕の両脇に腕をつき、彼女に口づけている。女の腕は、彼の裸の背中に回されていた。
西園寺瀬里奈(さいおんじ せりな)の声に、二階堂怜士(にかいどう れいじ)の動きが止まった。
けれど、すぐには離れなかった。ゆっくり顔だけをこちらへ向け、眉をひそめる。
「……なんで入ってきた」
謝る言葉より先に、それだった。
女の腕が、怜士の首へ回り、その指がためらいなく彼の髪へ入り込んでいた。
花菱梨花(はなびしりか)は、怜士の肩越しに瀬里奈を見た。
驚いた様子はなかった。
戸口に立っているのが瀬里奈だと分かると、むしろ口元に笑みが浮かんだ。
梨花は瀬里奈を見たまま、怜士の頬にもう一度、唇を寄せる。
それから彼の肩を軽く押した。怜士が身を起こすと、梨花はゆっくりとベッドを下りた。
梨花は何も身につけていなかった。
隠そうともせず、寝室の入口へゆっくりと歩いてくる。
すらりとした長身に、豊かな曲線。
背筋を伸ばした立ち姿には、舞台の中央に立つ女優のような華があった。
艶やかな髪が肩から滑り落ちる。あらわになった首は白くなめらかで、しわひとつない。
瀬里奈は、自分の襟元に伸びかけた手を握りしめた。
目をそらすのは、自分のほうなのか。
手を伸ばせば触れられるところで、梨花は止まった。
「こうなったら、瀬里奈さんにも認めてもらわないとね」
瀬里奈は一歩退き、ドアの縁に手をかけた。
梨花はそれを見て微笑んだ。
梨花はベッドへ戻り、脱ぎ捨ててあった薄いシルクのガウンを拾った。
梨花は怜士のほうを向いたまま、ゆっくりと袖を通す。
怜士は上半身裸のまま枕に身を預け、梨花を目で追っていた。
その口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。
瀬里奈に見られても、怜士は起き上がろうとさえしなかった。
瀬里奈の背後には、居間へ続く扉がある。
その先の廊下を挟んだ向かい側が、瀬里奈に用意されたブライダルスイートだった。
今回の航海では、挙式までの衣装合わせや親族への対応もあるため、花嫁と花婿にはそれぞれ別のスイートが用意されている。
怜士の部屋は同じフロアの少し先。
そして、瀬里奈の部屋の真向かいに用意されていたのが、梨花のスイートだった。
豪華客船、グラン・ルミエール号。
海を望むスイートルームに、シャンデリアの輝くラウンジ。
限られた乗客しか入れない専用フロアからは、どこまでも続く海が見渡せる。
乗船6日目に、瀬里奈と怜士は結婚式を挙げるはずだった。
帰港は、その翌日。
両家の親族や友人、昔から付き合いのある人々も、その日を祝うために乗り込んでいる。
今日は、その旅の初日だった。
今夜のウェルカムパーティーを主催したのは、怜士だ。
瀬里奈はつい先ほどまで、彼の隣で招待客からの祝福を受けていた。
パーティーの途中で姿を消した怜士を捜し、瀬里奈は部屋へ戻った。
自室の向かいの扉が開いていて、聞き慣れた声がした。
呼びかけながら居間を抜けた先に、このベッドがあった。
「認めるって、どういう意味?」
声が掠れた。梨花は怜士の隣に腰を下ろし、ガウンの帯を結んだ。
「私と怜士は、お互いの初恋なの。瀬里奈さんと婚約するずっと前から、好きだったのよ。親同士が婚約を決めたからって、急に気持ちまで変えられないでしょう?そのくらい、瀬里奈さんにも分かるでしょ」
幼馴染だから。昔から家族ぐるみだから。
梨花が怜士の腕に触れるたび、ふたりきりで出かけるたび、瀬里奈はそう聞かされてきた。
疑えば、自分だけが昔からの友人関係を理解できない女になる。
だから、これまではそれ以上聞かなかった。怜士が選んだ結婚相手は自分なのだと、信じようとしてきた。
それが今夜は、初恋だからと言う。
「怜士。あなたも同じ考えなの?」
怜士は顔だけをこちらへ向けた。枕元の時計を見て、面倒そうに息を吐く。
「会場に戻れ。皆が待ってる」
瀬里奈は立ったまま、両手を握りしめた。爪が掌に食い込んでも、指を緩められなかった。
怜士の眉が寄った。
「お前が余計なことをするから、こうなるんだ」
瀬里奈は怜士の顔を見た。
「余計なことって……あなたを捜しに来ただけよ」
「呼んでもいない部屋に入ってきて、騒いで。俺の女なら、踏み込んでいいところと悪いところくらい察しろ」
謝るつもりがないだけではなかった。
自分がここへ来なければ、ふたりは何も悪くなかったかのような言い方だった。
「私たち、結婚するのよね」
「する。だから大袈裟にするな」
梨花が怜士にもたれた。彼はそれを拒まず、背に腕を回した。
瀬里奈は自分の首元へ触れた。
指に当たるのは、薄い布だった。夏の夜でも首を覆う、淡い青のドレス。
その下には、肩まで続く火傷の痕がある。
怜士を助けるために負った傷だった。
彼も知っている。
なぜ瀬里奈が、首の開いた服を着なくなったのか。
なぜ鏡の前で何度も襟を直すのか。
助けたことを後悔した日はなかった。
傷を見るたび、彼が生きているならよかったと思おうとしてきた。
なのに今、彼は瀬里奈がこの部屋から出ていくのを待っている。
「結婚するなら、何をされても黙っていればいいの?」
「そういう言い方をするな」
怜士は低い声で答えた。
「梨花とのことを、お前との結婚に持ち込む必要はないだろ」
別の話なのだ。彼にとっては。
瀬里奈には、明日から同じ食卓につくことも、皆の前で腕を組むことも、この部屋の光景と切り離せなかった。
会場で飲みかけたシャンパンの甘さが、今になって喉の奥へ戻ってくる。
梨花が怜士の腕に手を添えた。
「私のせいで喧嘩しないで。瀬里奈さんだって、急すぎて驚いているだけよ」
その声は、さっきまでとは違って柔らかかった。瀬里奈を見る目だけが、笑っていない。
「怜士、今は責めないであげて。瀬里奈さんだって、結婚式を楽しみにしていたんだから。少し落ち着くまで、待ってあげましょう?」
梨花は心配そうに眉を下げ、怜士の顔を見上げた。
両家の親が婚約を決めてから7年。
好きだと言われることは減っても、いつか一緒になる人なのだと思っていた。
結婚式の案内を送った人たちの顔まで浮かぶ。
今夜の歓迎宴で、瀬里奈は何度も礼を言った。
お似合いですね。幸せになってね。
その言葉を受け取っている間に、怜士はここへ来ていた。自分の部屋の、すぐ向かいへ。
「……このまま結婚なんて、できない」
梨花の手が止まった。
怜士の目が、すっと細くなった。
梨花が彼の腕から身を離す。
「私、部屋を出たほうがいい?瀬里奈さんが怒るから怖い」
声を落とし、ガウンの胸元を押さえた。
さっき自分から近づいてきた人が、今は瀬里奈の視線を怖がるように怜士の陰へ寄っている。
「梨花はここにいろ」
怜士はすぐに言った。
そこにいてほしいのは、梨花なのだ。
瀬里奈はドアの縁から手を離した。
これ以上この部屋で、怜士が誰をかばうのかを見ていたくなかった。
「待て」
呼び止められ、足が止まる。
それでも振り向いてしまった。
そんなつもりではなかったと、一度くらい言ってくれるのではないかと思った。
怜士は梨花の肩を抱いたまま、瀬里奈を見ていた。
「謝れ!梨花に」
怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。瀬里奈は一度も出なかった。何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。どれも変わっていなかった。「……ただいま」誰もいない部屋に、小さく言った。寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。下の道を、自転車が通り過ぎていく。帰ってきたのだ。ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。瀬里奈は短い文を消した。そのまま蒼介との画面を開く。【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】送信してから、もう一文だけ添えた。【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。返事は、着替えを選んでいる間に届いた。【分かりました。今日はゆっくりしてください】瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。ここでは、誰に見られるわけでもない。髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。……冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。今日はもう、紅茶が冷める前
窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。怜士がどこに立っているのか、もう分からない。瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。「寒くありませんか」顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。「少しだけ」差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。「ありがとうございます」蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。さっき、皆の前で言った。結婚しません、と。もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。そう思った途端、窓の景色が滲んだ。声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。「すみません」「聞こえません」思わず彼を見る。蒼介はヘッドセットに軽く触れた。「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。……着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。カーテンも、テーブルの水も揺れていない。瀬里奈は入口で立ち止まった。海ではない。窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」蒼介の声に振り向いた。「そこまで、すみません」言ってから、機内での言葉を思い出した。彼の眉がわずかに上がる。「……ありがとうございます」今度は頷いてもらえた。ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったような静かな表情に戻っていた。「結婚式は、いつですか」「明後日です」蒼介は一度だけ頷いた。「分かりました。こちらでも、それまでに確認できることを整理します」「お願いします」それ以上、結婚について聞かれることはなかった。通話が終わる。暗くなった画面を見ながら、瀬里奈は小さく息を吐いた。翌日の夕方。船長主催のキャプテンズ・ディナーが開かれた。スイート客と招待されたVIPだけが入れるメインダイニングには、シャンデリアの光が降り注ぎ、窓の向こうには黒い海が広がっている。入口では船長が1組ずつ客を迎え、記念撮影を終えた人々がシャンパンを手に席へ向かっていた。船がゆっくり揺れるたび、天井のクリスタルが細かな光を散らす。ピアノと弦楽器の生演奏。磨かれた銀のカトラリー。白い花の向こうを、正装したスタッフが音もなく行き交う。窓の外では、船が残す白い航跡だけが、月明かりの下で長く伸びていた。明日は結婚式。そのために乗船した親族や、両家と長く付き合ってきた人々も多かった。瀬里奈がテーブルへ向かうと、梨花が怜士の隣に立っていた。「あ、瀬里奈さん」梨花はにこやかに振り返る。「まだ体調、完全じゃないでしょう?私が怜士の隣に座るから、瀬里奈さんは端でゆっくりしたら?」海へ落ちたことを気遣っているような口調だった。「ありがとう」瀬里奈は微笑んだ。「でも今日は、私にご挨拶くださる方も多いから。自分の席に座るわ」梨花の笑顔がわずかに止まった。「そう……だよね」瀬里奈は、自分の名前札が置かれた席へ座った。以前なら、場を乱したくなくて譲っていたかもしれない。今日は、その必要が分からなかった。船長の乾杯が終わると、何人もの人が瀬里奈へ声をかけた。「瀬里奈ちゃん、いよいよ明日だな」「ありがとうございます」「お父様がいたら、きっと喜んだだろう」胸の奥が少しだけ痛んだ。父なら、今の自分に何と言うだろう。瀬里奈は笑顔を崩さず、頭を下げた。別の女性が懐かしそうに目を細める。「小さい頃はホテルのロビーを走っていたのにね。結婚したら、少しはホテルのことから離れて休めるでしょう?」瀬里奈は一瞬だけ言葉を選んだ。「いいえ。これからも関わっていくつもりです」「あら、そうなの?」「はい。まだ、やりたい
ベッドで目を覚ました時には、もう10時を回っていた。瀬里奈はスマートフォンを手に取る。今夜20時。鷹司蒼介との通話。その予定を確認し、ベッドを出た。遅めのブランチを取るため、プールデッキ横のレストランへ向かった。白いパラソルの向こうには、どこまでも海が広がっている。怜士たちはすでにテーブルにいた。「昨夜、ひとりでショーに行ったんでしょう?」梨花が聞く。「ええ」「寂しくなかった?」「思っていたより、ずっと楽しかったわ」航平が笑った。「へえ。瀬里奈さん、急にひとり旅満喫してるじゃん」「ひとり旅ではないけど」「怜士への当てつけ?」瀬里奈は顔を上げた。「ひとりでショーを見るだけで、誰かへの当てつけになるの?」航平の笑顔が止まった。「いや、そういう意味じゃ……」「ならよかった」瀬里奈は何事もなかったようにメニューへ視線を戻した。「瀬里奈さん、昨日からちょっと雰囲気変わったよね」梨花の目が、瀬里奈の首元へ向く。今日もハイネックではない。火傷の痕が少し見えていた。「そう?」「うん。服も――」「瀬里奈」怜士が遮った。「昨日の書類、今日中にサインしておけ」「まだ確認が終わってないわ」「何を確認することがあるんだよ」「私が署名する書類でしょう?」瀬里奈は彼を見る。「私が確認するわ」怜士の眉が寄った。「昨日説明しただろ」「説明されたことと、私が確認することは別よ」以前なら、まず「分かった」と答えていた。けれど今は、その一言が出てこなかった。「昨日から何なんだよ」航平が笑う。「まだ海に落ちたの怒ってるんじゃない?」瀬里奈は彼を見る。「怒ってはいないわ」「じゃあ何?」「一度海に落ちたら、自分の足元くらい自分で確認したくなるものよ」航平は黙った。怜士と梨花は顔を見合わせる。まだ、少し拗ねているだけだと思っているようだった。午後、瀬里奈は部屋で資料を整理した。父の信託資料。1年前の鷹司グループからの提案書。二階堂から求められている議決権委任契約。議決権を二階堂側へ委任すること。発効日は婚姻成立時であること。挙式前に署名を求められていること。必要な部分だけを整理し、契約の趣旨が分かる資料にまとめた。父のホテルの情報を、相手が鷹司だからといって無造作に渡すつもりはない。開示して







