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第6話

Author: 炎筆
一樹は弾かれたように立ち上がった。その顔には、現実を拒絶するかのような驚愕が張り付いている。

「まずは中村社長の怒りを解くのが先決だ。嘉代が最近の過労で数日の休養を必要としていると伝えてくれ。後日、必ず明確な返事をするから、神谷グループの存亡が懸かっていると、なりふり構わず説得しろ」

追いかけようとしていた紫穂のことさえ意識から消え、焦燥に駆られた一樹は真っ先に嘉代へ電話をかけた。一刻も早く事情を確かめねばならない。

しかし、受話器から返ってきたのは、電源が切られていることを告げる無機質で冷淡なアナウンスだけだった。

わけもなく怒りが込み上げ、心が激しくかき乱される。

一樹には理解できなかった。あれほど細やかな気配りのできた女が、どうしてこれほどまで自分を翻弄する女に変貌したのか。

信じられない。嘉代には身寄りもなく、地方の田舎出身の女だ。彼を離れ、この街を離れて、一体どこへ行くというんだ!

そう自分に言い聞かせると、一樹の心にわずかな余裕が戻った。今はまず、紫穂を宥めることを優先しよう。

嘉代のような女を、あまり甘やかしてはいけない。譲歩しすぎれば、これまでの苦楽を共にした恩義を忘れ、図に乗るだけだ。

その頃、港都。

嘉代は、矢野家へと向かう車の中にいた。

神谷グループの煩わしい業務など、もはや一片の未練もない。携帯の通知も早々に遮断していた。

矢野家のお膝元である港都。その馴染み深い空気に再び包まれ、彼女の表情はどこか魂が抜けたように虚ろだった。

過去に、両親をひと目見ようとこっそり戻ったことがないわけではない。だが、いつも遠くから眺めるだけで、近づく勇気を持てなかった。

あの一樹のために婚約を破棄し、青木家への不義理のせいで、一族がどれだけ肩身の狭い思いをしたか。

直弥と話がついた今、両親は……もう彼女を責めないでいてくれるだろうか。

青木家も、きっと同じ態度で迎えてくれるはずだ。

「お嬢様、お帰りなさいませ!」

執事の山崎(やまざき)が嘉代の姿を認めた瞬間、驚愕に目を見開き、次いでそれを上回る驚喜の声を上げた。

嘉代が小さく頷きを返した時、その視線は正門から現れた二人の人影に吸い寄せられた。

叔母の細川絢子(ほそかわ あやこ)と、その娘で従姉妹の細川香澄(ほそかわ かすみ)だ。

嘉代の姿を見た二人の顔にも、同様の驚きが走った。

「……嘉代?」

嘉代は彼女たちに好感を持っていなかった。実の両親以外、一族の誰とも心を通わせることなどできなかったのだ。

絢子はコートの襟を引き寄せ、品定めをするような奇妙な目つきで嘉代を眺めた。

「戻ってくるつもりなの?昔、あんなA市の平凡な男のために、分別もなく青木家との素晴らしい縁談を不意にして……

おかげで矢野家は青木家と協力することさえ憚られ、顔色を窺う日々を強いられたのよ。今の青木家は当時よりもさらに勢いを増し、港都で絶大な権力を握っているらしいじゃない」

香澄は口元を覆って、くすくすと含み笑いをした。その声には隠しきれない歪んだ優越感が滲んでいる。

かつては嘉代の「幸運」に激しい嫉妬を燃やしていたが、今の彼女には嘉代の没落が痛快でならなかった。

「そうよ。今さらどの面下げて詫びを入れたところで、向こうは見向きもしないでしょうね。戻ってきてこれからどうするつもり?青木家と顔を合わせたら逃げ回るしかないし、万が一、あの気まぐれな御曹司様の機嫌を損ねたりしたら……」

青木直弥。港都の頂点に君臨する名門の跡取りであり、容姿端麗にして莫大な富を持つ、全女性の理想を体現したような男。香澄も例外ではなく、当時、嘉代がその縁談を蹴ったと知った時は、内心で快哉を叫んだものだ。

「それに聞いたわよ。A市で新規上場したあの神谷社長に、おじさん家の私生児、細川紫穂が復縁しに行ったんですってね」

香澄は追い打ちをかけるように言った。嘉代が私生児にも劣る身分であることを暗に嘲笑っているのだ。

嘉代は小さく目を見開いた。同じ苗字とはいえ、紫穂が香澄の伯父が外に作らせた、日陰の身の私生児だったとは、今の今まで知る由もなかった。

香澄の言葉には、幾重にも塗り固められた悪意が潜んでいた。嘉代はそれを正確に読み取っていた。

一つは自分への嘲笑。もう一つは、港都に戻っても青木家の威光に怯え、華やかな宴に列席する資格さえないだろうという見下しだ。何しろ港都のあらゆる社交は、青木家の後援なしには成立しないのだから。

嘉代はふっと、軽やかな笑みを漏らした。わざわざ、くだらない負け惜しみを聞くために戻ったわけではない。

「私が今戻ってきたのは、それなりの自信があるからですわ。おばさん、そんなに高尚な目的で矢野家へいらしたの?

口を開けば青木家は矢野家を相手にしない、右を向けば矢野家はダメだと言いながらここに居座るなんて。本当は細川家の経営が行き詰まって、お金を借りにいらしたのでしょう?」

細川家が衰退しているからこそ、紫穂は必死に一樹という藁を掴もうとしているのかもしれない。

もちろん、二人が「真実の愛」を貫いている可能性も否定はしないが。

A市に身を置いていた間も、嘉代は港都の財界の動向を常に注視していた。かつては神谷グループが成長した暁には、矢野家と協力して共に繁栄することを夢見たこともあった。だが今は違う。他人を支えるより、自ら権力を握る方がよほど確実だ。

「嘉代、あなた……!」

痛いところを突かれた親子の顔が青白く引き攣る。

香澄が怒りに震え、捨てられた女の分際で何を、と罵声を浴びせようとしたその時――

執事の山崎も険しい表情を浮かべ、いかにしてこの不躾な客を送り出すか思案していた矢先、一台のマイバッハが静かに、だが圧倒的な存在感を持って矢野家の大門前に滑らかに、かつ威圧的に寄せた。

低く重厚なエンジン音は、近づくにつれ無形の圧迫感を周囲に撒き散らす。

「何の車よ?うるさくて礼儀も何もないわね!」香澄は苛立って振り返った。

漆黒の流線型。控えめな装いの中に隠しきれない覇気を纏った最高級車が、矢野家の別荘前に寸分の狂いなく停車した。

香澄は呆然と立ち尽くした。「……こんな遅くに、まだおじさんと商談をする客がいるの?」

これほどの覇気を放つ主は、一体誰なのか。

絢子が何気なく一瞥し、その場で凍りついた。視線が、その車に釘付けになる。

港都でこれを知らぬ者はいない。至高の身分と地位、そして権力の象徴。

「まさか……これは……」香澄も気づき、悲鳴のような声を上げた。「お母さん!あの車を見て!青木家の車よ!青木直弥が来たんだわ!」

長年、矢野家を避けてきた青木家が、なぜ今ここへ?

車のドアが静かに開き、背筋を伸ばした白い手袋の特別秘書が降りてきた。

彼の視線は真っ直ぐに嘉代を捉え、短く会釈をすると、次いで鷹のように鋭い眼差しで、先ほど声を荒らげた香澄を冷徹に射抜いた。

「……そちらのお嬢様。今、我々の車を『うるさい』と仰いましたか?」口を開いた秘書の言葉は、音量は控えめながらも、夜の空気を切り裂くような冷ややかさを帯びていた。

香澄の顔が強張り、自分がどこにいるのかさえ忘れたように硬直する。

「失礼ながら」秘書は言葉を継いだ。一言一言が、心を抉るような鋭さを持っていた。

「車を寄せた折、お二方のあまりに品のないお声が耳に入りましたもので。そのような言葉遣いと品格は、大人の社交場には到底相応しくない。事情を知らぬ者が聞けば、矢野家の名誉を傷つけることになりかねません」

絢子二人の顔色が、屈辱で青と白を交互に変える。巨大な権力を前に、彼女たちに反論の余地など残されていなかった。

「それに比べ」秘書はわずかな軽蔑を滲ませて言った。

「この車は、青木グループの主席エンジニアが心血を注いで調整し、港都最高の静音基準を達成した移動手段です。これが発する僅かな駆動音すら耳障りだというのなら……ならばお嬢様、一度、耳鼻科へ行かれることをお勧めしますよ」

「青木家」という重圧に、嘉代以外の全員の足が震えた。

「仰る通りです!娘は今夜……少し飲みすぎて戯言を申しました。どうか、どうかお気になさらないでください!」

絢子は慌てて卑屈な笑顔を作り、内心で激しく後悔した。青木家の人間だと分かっていれば、死に物狂いで娘を売り込んだものを。

だが高田秘書は、もはやその薄汚れた母娘を相手にせず、真っ直ぐ嘉代に歩み寄り、恭しく告げた。

「矢野様。青木様が車内でお待ちしております。どうぞ、お乗りください」

周囲が静まり返る中、嘉代は驚きを隠せなかった。

こんな夜更けに、直弥が自ら矢野家まで迎えに来るなんて、一体何の御用だろう?

最悪の予感が脳裏をよぎる。まさか、この深夜に婚約の解消を切り出されるのでは――

疑念を抱えたまま、嘉代は高田の案内で車へと向かった。

嘉代の背中を見送る香澄の顔は、嫉妬と屈辱で歪んでいた。

「ありえない……どうして青木家が嘉代を招待するの?二人で何を話すっていうのよ!」

山崎が一歩前に出て、露骨な嫌悪を込めた声で追い打ちをかけた。

「夜も更けました。お二方、お引き取りを」

車内は、奇妙なほど静まり返っていた。

直弥は今日、黒のハイネックセーターに身を包み、片手で顎を支えていた。街灯の光に照らされたその横顔は、彫刻のように端正で美しい。

この人……本当に、毒を秘めたように危険な色気だわ。

嘉代が密かに盗み見た視線が戻る前に、彼はその気配を察知した。姿勢を崩さぬまま、彼は淡々と唇を開く。

「いつまで見ているつもりだ?」
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