登入ギイ……。
鉄格子の扉にある重い配膳口が、がたんと開いた。プラスチックの薬用カップと、ぬるい水が1杯、差し入れられる。
「朝のお薬の時間です。相沢美月さん、起きて飲んでください」
夜勤を終える前の看護師が、格子の向こうから厳しい目で私を見張っていた。
カップの中には、赤や黄色の向精神薬のカプセルが3つ。私の状態などお構いなしの高用量の薬を飲まされ続けたら、ひどい眠気と認知機能の低下で、まともに判断することさえ難しくなるかもしれない。
私はぼんやりと焦点の合わない目をしばたたかせ、ふらつく足で配膳口の前へ立った。
「おくすり……ごっくん……したら、おうちに帰してくれる……? だんなさんに、会いたい……」
幼い子のようなたどたどしい口調で言い、3つのカプセルをまとめて口へ放り込んだ。
紙コップの水を含んで、上を向く。
でも、薬は喉を通さなかった。3つとも素早く舌の裏の奥へ押し込み、水だけをごくりと音を立ててのみ下した。
「口を開けて。舌も上げてください」
看護師の鋭い指示に、私は舌先を少し持ち上げるふりをしながら、カプセルを舌の付け根の奥、奥歯と歯茎の隙間へ器用に押しやった。
その視線が口の中から外れるまで、ろくに息もできなかった。
「はい、いいですよ。ベッドでおとなしく横になっていてください」
鉄の扉が乱暴に閉まり、規則正しい足音が遠ざかる。
私はすぐに部屋の隅のトイレへ走り、口の中に隠したカプセルを3つとも便器へ吐き出した。唾液に濡れた薬が、渦巻く水にのみ込まれていく。
水を流すと、扉の監視窓からいちばん見えにくい、ベッドと壁の間に身をかがめた。
病衣の内側、スポーツブラの裾の二重の縫い目から、爪ほどの大きさしかない特殊な超小型スマートウォッチを取り出す。
実家のIT研究所で、セキュリティテストに使っていた超小型のウェアラブル端末だった。リストバンドから本体だけを外し、ブラの裏地に隠しておいたおかげで、持ち物検査でも没収されずに済んだ。
電源ボタンを長押しすると、闇の中に青い光がにじんだ。
【セキュアOS 起動完了】
【eSIMデータ接続成功――暗号化トンネル有効】
心臓が激しく打った。
コンクリートの壁のせいで電波は弱い。それでも、暗号化通信の回線は生きていた。
画面の明るさを最低にし、音も振動も切る。監視窓を一度確かめてから、震える指で送信先を選んだ。
両親の会社と資産に関する法律業務を任されてきた顧問弁護士。元特捜検事の、神崎蓮司先輩。
【蓮司先輩。私、生きてます。夫の相沢修司に、私立の精神科病院へ監禁されました】
短いSOSのメッセージに、現在地のGPS座標を添えて送った。
送信完了を示す緑の表示がともった途端、先輩からの返信が飛び込んできた。
【美月、無事だったのか。今すぐ管轄の捜査班と警察に連絡して、病院に踏み込む】
即座に返ってきた言葉に胸の奥が熱くなった。それでも私は迷わず、きっぱりと返事を打ち込んだ。
【待ってください、先輩。今、私だけを連れ出したら、向こうは証拠を消して口裏を合わせます。修司と宮田院長の不法な監禁に関する記録と、お金のやり取りを先に押さえます。明後日の後見開始の審問で、あの人たち自身に偽の書類を出させたいんです】
少しして、先輩の返信が届いた。
【わかった。捜査班と、すぐ動けるようにしておく。無茶はするな。危なくなったら、証拠よりお前の安全が先だ】
画面を消し、端末をまた裏地の中へ押し込んだ。
ここから私がすることは、耐えながら記録することだけ。
あの人たちが動けば動くほど、私の手元に残るものも増えていくのだから。
それからさらに時が流れ、季節が2つ巡ったころ。港区・芝の小さなオフィスに、新しい看板が掲げられた。【一般財団法人 泰和希望財団】私は、窓辺に置いた両親の写真を、しばらく見つめていた。「お父さん、お母さん。守れたよ」港区のビルを含む、10億円規模の相続財産の名義整理は、すべて終わった。修司が手を出そうとした口座も不動産も、きちんと私の名義になっている。刑事事件とは別に続いている損害賠償の手続きも、先輩の法律事務所が担当していた。その間に刑事事件の控訴手続きも終わり、修司は懲役12年、宮田正隆は懲役10年、玲奈は懲役5年の実刑が確定した。修司との離婚判決も確定した。損害賠償の本案訴訟は残っていたけれど、婚姻関係が私の足を引っ張ることは、もうなかった。私は遺産の一部を、財団の基本財産と運営費に充てた。閉鎖病棟に閉じ込められていたときに見た人たちを、忘れられなかったからだ。お金がなくて、弁護士を頼めない人。家族が入院を強引に進めても、どこに助けを求めたらいいかわからない人。きちんと意思を伝えても、『患者の言うことだから』と取り合ってもらえない人。少なくとも、助けを求められる連絡先がひとつは必要だった。「理事長」後ろから、先輩が呼んだ。「設立式の準備、できたぞ。下に行こう」「たくさん来てますか?」「お前が思ってるよりは」私は、緊張した息を吐いた。「法廷に入るときより、緊張するんですけど」「あのときだって、ちゃんと入れただろ」「あのときは、腹が立ってて、それどころじゃなかったんです」先輩が笑った。「今日は怒る必要ないから。ゆっくりでいい」1階の会場は、支援に協力する弁護士や相談員、被害者支援団体の関係者たちで埋まっていた。病院の極秘帳簿に名前があった人たちも、何人か、家族と一緒に来ていた。捜査機関や関係機関の確認によって、不法な入院の実態が明らかになった人たちだった。中年の女性が1人、私の手を両手でぎゅっと握った。「あのとき、あの帳簿が見つからなかったら、母があとどれだけあそこにいたか……。本当に、ありがとうございます」何と答えればいいかわからず、私はしばらく、その手を握り返していた。「本当に、大変でしたね」それしか、言えなかった。ステージ前の横断幕には、財団が最初に取り組む事業が記されていた。【違法・不当
控訴審を控えた、ある午後。私は東京拘置所の面会室に座っていた。分厚いアクリル板の向こうで扉が開き、相沢修司が入ってきた。数か月の間に、顔はずいぶんやつれていた。頬はこけ、髪も整っていない。それでも、私の記憶にある人の面影は、まだ残っていた。以前なら、その顔を見ただけで、新婚のころの記憶が浮かんだだろう。今回は、不思議と何も重ならなかった。いい思い出を引っ張り出して許す理由を探すことにも、憎むために嫌な場面をたどることにも、もう疲れていた。私を見ると、修司は受話器を奪うような勢いで取った。「美月。来てくれたんだな」私はゆっくり受話器を取った。「話があるんでしょ」「ごめん。本当に、ごめん」修司は、ろくに息継ぎもせず、言葉を吐き出した。「控訴審の前に、示談書だけでも書いてくれないか? 処罰を望まないって意思を示してくれるだけでも、量刑に考慮してもらえるかもしれないって。出たら、一生かけて償う。お前が言うこと、何でもするから」「出たら?」「ああ。もう金なんかに欲を出さない。玲奈にも会わない。会社だっていらない。お前のそばで……」あきれて、笑いが漏れた。「まだ、私がそばに置いてあげると思ってるの?」修司の言葉が止まった。私はバッグから、1枚の書類を取り出した。裁判所の赤い公印が押された、離婚の判決書だった。「今日は、これを見せに来たの」判決書をアクリル板へ押し当てると、修司の目が、その一文を追った。原告相沢美月と被告相沢修司とを離婚する。修司の顔が、くしゃりとゆがんだ。「美月、待ってくれ。それは……まだ確定してないじゃないか。俺が控訴すればいいんだろ」「すれば。最後まで争って。私も、最後までやるから」「俺は、離婚したくない」「私にはもう、この結婚を続けなきゃいけない理由がないの」思っていたより、穏やかな声が出た。私は、次の書類を取り出した。別に進めている損害賠償の訴訟と、修司名義の財産に対する仮差押命令の内容だった。「あなたの預金も、株も、車も、不動産の持分も、もう仮差押えされてる。5億円の損害賠償請求は、本案訴訟で最後まで判断してもらうつもり」「5億円なんて、どうやって払えっていうんだ!」修司が、初めて声を荒らげた。私は一度受話器を耳から離し、それからまた当てた。「私の10億円の財産を奪うのは、簡単に思
数か月後、東京地方裁判所の刑事法廷。私は傍聴席の最前列に座り、被告人席を見つめていた。相沢修司、篠原玲奈、宮田正隆が、並んで立っていた。修司は拘置所で支給された服を着て、顔は明らかに痩せていた。玲奈は化粧気のない顔でうつむき、宮田院長は弁護人の隣で、落ち着きなく指をいじっていた。法廷が静まると、検察官が立ち上がった。「被告人相沢修司は、製薬会社の営業課長として勤務する中で、管理対象の医薬品を不法に持ち出して配偶者に投与し、被害者の財産を管理する目的で私立病院の関係者と共謀し、強制的に入院させました」検察官の声が、法廷にはっきりと響いた。「また、被害者の意思に反して委任状に拇印を押させ、虚偽の診断資料を用いて後見開始を申し立てています。犯行は長期間にわたって準備され、被害者の身体、財産、意思決定の権利を同時に侵害するものでした」膝の上で、私の指がゆっくりと曲がった。検察官は、修司の会社での懲戒処分に関する資料と、病院に対する行政処分の資料を、順に示した。修司は向精神薬の不正な持ち出しが発覚したあと、会社を懲戒解雇されていた。社内の監査資料には、在庫と持ち出し記録の食い違いも残っていた。捜査機関はその記録と病院で確保した医薬品の明細を照合し、修司が職務上のアクセス権限を私的に利用したことも、公訴事実に含めていた。宮田正隆が経営していた病院は、捜査の過程でほかの不法な入院事例も確認され、閉鎖された。関係行政機関では、病院の開設許可と医師免許の取消しの手続きが進められた。玲奈についても、私の持ち物を携えて出国しようとしたところを逮捕された事実や、修司と交わしたメッセージが、証拠として提出されていた。最後に、検察官が求刑した。「被告人相沢修司に懲役15年、宮田正隆に懲役12年、篠原玲奈に懲役7年を求刑します」玲奈の肩が、大きく揺れた。修司はすぐに立ち上がり、裁判官に向かって頭を下げた。「本当に申し訳ありませんでした。被害者には、一生かけておわびします。どうか一度だけ、寛大なご判断をお願いします」一生かけて、おわび。病院では、私が自分の名前すら思い出せなくなるようにすると言っていた男だった。私は表情を変えなかった。今さら、その言葉を信じる理由なんてない。判決の日、裁判長は判決理由を長く読み上げた。被害者を精神疾患のある人間に仕立
数日後、続行となった後見の審問期日に、私は再び東京家庭裁判所へ出席した。修司と宮田院長はすでに勾留されており、審問室には私と双方の代理人だけがいた。裁判官は提出された資料へもう一度目を通し、私を見た。「相沢美月さん、いくつか確認します。現在、ご自身の財産や法律行為について、自分で判断し、処理できますか?」「はい、できます」「誰かに財産の管理を任せたり、成年後見を受けたりすることを望みますか?」「いいえ」私は、はっきり答えた。修司が提出した診断書と委任書類は、その作成経緯が捜査の対象となっていた。私本人の状態を確認した裁判所は、もはや修司の主張だけをもとに後見開始を判断することはできなかった。結局、相沢修司による後見開始の申立ては、却下された。審判書には、私が自ら出席して意思を明確に述べたことと、提出された医療資料の信用性に重大な疑問が生じたことが記されていた。修司がでっち上げた『自分では判断できない人間』という虚像は、私の短い返答だけで崩れた。成年後見の名目で私の財産に手を出そうとした、最初の計画が潰れた瞬間だった。審問室を出ると、先輩が書類を2組、渡してくれた。「ご両親の相続の件も、整理し直した。お前が単独の相続人だということは、戸籍やこれまでの書類で確認できていたし、これで修司が後見人として割り込む道もなくなった。ビルの登記と金融資産の名義変更は、そのまま進めていい」最初のページには、両親の名前の下に、相続人として私の名前が記されていた。私はその1行を、しばらく見つめた。港区のビルを含む、10億円規模の相続財産。修司は、裁判所がひと言認めれば自分の口座に金が流れ込むかのように話していた。けれど、そもそも両親の相続人は、私だった。あの男が狙ったのは、私の判断能力をなかったことにしたうえで、後見と偽造した委任状を使い、財産を動かす権限だった。その権限を、結局、手にすることはできなかった。「それから、こっちも」先輩が、もうひと組の書類を開いた。別途起こした損害賠償請求を保全するために申し立てた、仮差押命令だった。修司名義と確認された預金、株式、車、不動産の持分などについて、請求額5億円の範囲で処分を封じる命令が出ていた。「今すぐ5億円を手にした、という意味じゃないからな」先輩が、先に念を押した。「本案の判決が出
玲奈が空港で逮捕されたと連絡が入ったのは、その日の午後だった。詳しい逃走経路は、数日後、先輩が見せてくれた捜査記録と空港の監視カメラ映像で知った。玲奈は裁判所の外でタクシーを拾い、そのまま成田空港へ向かっていた。タクシーのドライブレコーダーには、切羽詰まった声も残されていた。「運転手さん、第1ターミナルへお願いします。できるだけ急いで。飛行機に乗り遅れるわけにはいかないの」後部座席で身を縮めた玲奈は、何度も携帯を確認していた。ニュースの検索結果やネットの掲示板には、すでに『10億円規模の相続財産』『強制入院』『相沢修司逮捕』に関する投稿が次々に上がっていた。玲奈のSNSアカウントにも、スポンサー契約の打ち切りを求めるコメントが殺到していた。『人の財産目当てに、本人を閉じ込めたってこと?』『まず警察で事情を聞かれてこい』『案件出してたブランド、説明するべきじゃないの?』捜査記録には、玲奈がタクシーの中で何度も修司へ電話したと記されていた。当然、つながるはずはない。空港に着いた玲奈は、大きなスーツケースをひとつ持っていた。あとで押収品の一覧を見て、初めてわかった。中に入っていたのは、私のクローゼットから消えたダイヤのネックレスや高級腕時計、そして外貨の現金だった。玲奈はサングラスとマスクで顔を隠し、パリ行きの便のチェックインカウンターへ向かった。午後1時ごろ。出国エリアの監視カメラに映る玲奈の足取りが、次第に速くなった。何度も振り返り、パスポートを握る手は、目に見えて震えていた。そのころ捜査班は、裁判所で得た供述と資料をもとに、玲奈の共犯の疑いを確認していた。逃走の形跡が確認されると、出国を差し止める措置と逮捕の手続きが、並行して進められた。玲奈が出国審査の自動化ゲートへ入った瞬間、画面に、通過できないことを知らせる表示が出た。ピピッ。玲奈は、もう一度パスポートをかざした。また、同じ表示だった。「どうして開かないの? もう搭乗時間まで、あまりないんですけど」近くの職員が本人確認を求めている間に、空港の警察官と捜査員たちが、出国エリアへ入ってきた。玲奈は航空券の画面を職員に突きつけ、繰り返し急かした。けれど職員は、通過の可否を勝手に変えることはできないと説明する。そのわずか数分の間に、捜査員たちが距離を詰めた。そこでよ
玲奈が裏の扉から姿を消した直後、出入り口にいた捜査員たちが、修司と宮田院長の前へ進んだ。修司が、一歩後ずさった。「何をするんですか。ここは家庭裁判所ですよ。俺が何をしたっていうんだ!」捜査員が書類を広げた。「相沢修司さん、宮田正隆さん。裁判所が発付した逮捕状です。まず、内容を確認してください」修司の顔が、真っ白になった。私はその姿を見ながら、前へ歩いた。コツ、コツ――。修司の視線が、私の右手で止まった。数日前にあの男にねじられた親指の関節は、まだ少し腫れていた。「相沢修司」「み、美月……待ってくれ。ちょっと話そう」急に、声が低くなった。「ほんの一瞬、金に目がくらんだだけなんだ。本当だよ。俺たち、3年も一緒に暮らしてきたじゃないか。全部、ちゃんと説明するから」「病院では、説明する時間、たっぷりあったでしょ」「……」「私、一生薬漬けで腐っていくんじゃなかった? あなたが後見人にさえなれば、私の財産も好きにできるって、そう言ってたよね」修司が私へ手を伸ばした。私は反射的に一歩引いた。すると、捜査員がその腕を遮った。「接触しないでください」修司が慌てて首を振る。「美月、頼む。玲奈がそそのかしたんだ。俺は、ただ……」「その口で、また人のせいにするんだ」言葉が、ひとりでに冷たく落ちた。「私が狂ってるって言ったよね? いいよ。まずはその言葉を、もう一度法廷で言ってみて。私に薬を飲ませて、病院に閉じ込めたのが誰なのかも、一緒にね」私はスマートウォッチを外し、証拠品用の袋の上に置いた。「録音と映像の元データは、この中にあります。48ページの帳簿を撮影した画像も、すでに提出しています」先輩が捜査員へ、資料の一覧を手渡した。「被害者側から、原データを記録した端末を任意提出します。複製データとの同一性を確認するための資料も、お渡しします」捜査員はうなずき、修司へもう一度令状を示した。「相沢修司さん。監禁、傷害、強要、私文書偽造などの容疑で逮捕します。弁護人を選任できます。また、供述を拒む権利があります」カチャリ。修司の両手に、手錠がかかった。その音は、不思議なくらいはっきり聞こえた。数日前には、私の手首に革の拘束ベルトが締まる音を聞いた。今は修司の手首で、金属の手錠が閉じた。同じ、自由を奪う音なのに、意味はまるで違