LOGIN「樹くん、おはよう……!」
あの日から、毎朝必ず自分から挨拶をするようになった。 少しでも印象に残りたくて。 少しでも私という存在を知ってほしくて。 「おはよう。」 樹くんはいつも笑って返してくれる。 たったそれだけなのに、その一言だけで一日中気分が良くなった。 そして休み時間になると、決まって蒼人のところへ向かう。 「ねぇ、今日も返してくれた!」 「そう。」 「『そう。』じゃないでしょ!」 「良かったじゃん。」 またその一言。 相変わらず反応は薄いのに、不思議とその言葉を聞くと安心した。 気づけば、私の恋の報告係はいつも蒼人だった。 ◇ 少しずつ気温も上がり始めた頃、学校では体育祭の準備が始まった。 「体育祭実行委員、やってくれる人いるかー?」 担任の声が教室に響く。 その瞬間だった。 樹くんが迷いなく手を挙げる。 ――今しかない。 気づけば私も手を挙げていた。 「お、じゃあ二人頼んだぞ。」 その一言だけで、胸がいっぱいになる。 同じ実行委員。 それだけなのに、特別な何かを手に入れた気がした。 体育祭の準備。 打ち合わせ。 連絡事項。 樹くんと話す理由が、少しだけ増える。 それが嬉しくてたまらなかった。 ホームルームが終わると、私はすぐに樹くんの席へ向かった。 「樹くん! 当日までよろしくね!」 「うん。よろしく。」 優しく笑って返してくれる。 その笑顔をもっと見ていたくて、私は慌てて次の言葉を探した。 「えっと……こういう委員会とか、好きなの?」 「うん。結構好きだよ。」 少し考えるように笑って続ける。 「最初のうちは友達増やすためってのもあるけどね。」 「あ、そうなんだ。」 「実際、委員会やると結構仲良くなるし。」 「たしかに。」 自然に会話が続いていく。 夢みたいだった。 入学式の日、一目惚れした人とこうして笑いながら話している。 たった数分の会話。 それだけなのに、胸の奥は何度も何度も小さく跳ねていた。 ──もっと話したい。 ──もっと私を知ってほしい。 そんな願いばかりが、少しずつ大きくなっていった。付き合い始めて数か月。 今日は特に予定も決めず、二人でショッピングモールを歩いていた。 緋夏は相変わらず落ち着きがない。 「あっ、見て!これ可愛い!」 さっきまで服を見ていたと思えば、今度は雑貨屋に吸い込まれていく。 「……忙しいな。」 そう言いながらも、その後ろを歩く。 店を出ると、緋夏が何も考えず車道側を歩こうとした。 遠くの方に車が見える。 無意識に腕を引く。 「え?」 「こっち。」 そのまま自分が車道側に立つ。 「……?」 不思議そうな顔。 別に深い意味なんてない。 危ないから。 それだけ。 歩いている途中、緋夏が急に立ち止まった。 「蒼人。」 「ん。」 「荷物持とうか?」 「……は?」 「いや、私が荷物持とうかって」 「意味分かんない。」 「えへへ」 何が面白いんだ。 そのまま歩き出そうとした時だった。 「……ねぇ。」 「なに。」 「蒼人ってさ。」 嫌な予感がする。 「こんな気遣いできたんだね。」 …… …………。 「はぁ?」 「できないと思ってたの?」 「思ってた。」 「失礼すぎるだろ。」 「だって前の蒼人ってさぁ。」 指を折り始める。 「荷物持たない。」 「持てって言われてない。」 「『寒い』って言っても『へぇ』しか言わない。」 「事実だろ。」 「『眠い』って言っても『寝れば?』って冷たい。」 「寝ればいいじゃん。」 「ほらぁ!」 ケラケラ笑っている。 ……なんか腹立つ。 「でも今はさ。」 緋夏は俺の顔を覗き込んできた。 「車道側歩いてくれるし。」 「重そうだったら荷物持ってくれるし。」 「寒かったらマフラー巻いてくれるし。」 「人混みだと手繋いでくれるし。」 「体調崩しそうだとすぐ休ませるし。」 「意外だった。」 「蒼人ってこんな人だったんだね。」 …… いや。 違う。 昔からできなかったわけじゃない。 ただ。 やる理由がなかっただけ。 「……はぁ。」 ため息をつく。 「なにそのため息ー。」 「別に。」 「またそうやって誤魔化す!」 ほんとよく喋る。 少し黙ってろ。
受験前日。 机に向かっていても、文字が頭に入らない。 スマホが震えた。 『ねぇっ!!緊張やばい!!』 画面を見て、小さく笑う。 俺だって緊張してる。 けど、そんなこと言ったら余計不安になるだろ。 指を動かす。 『早く寝ろバカ。』 送信。 これでいい。 明日は、万全な体調で来い。 それだけだ。 ⸻ 試験当日。 駅へ向かう途中、少し前を歩く見慣れた背中が目に入る。 ちゃんと起きられたらしい。 それだけで少し安心した。 「ちゃんと寝れたの。」 後ろから声を掛けると、 「わっ!」 大げさなくらい肩を跳ねさせる。 ……いつもの緋夏だ。 その反応に、自然と肩の力が抜けた。 大丈夫。 俺も、いつも通りでいよう。 ⸻
自習室は静かだった。 参考書をめくる音と、シャーペンが紙を走る音だけが響く。 緋夏が席を立ち、トイレへ向かう。 その姿を見送りながら、ふと手が止まった。 もし。 もし緋夏と違う大学になったら。 もし俺だけ落ちたら。 もし、このまま離れることになったら。 ――嫌だ。 そんな未来、考えたくもない。 気づけば参考書に視線を戻し、無意識にペンを走らせていた。 一問でも多く。 一点でも高く。 絶対に受かる。 何が何でも、緋夏と同じ大学へ行く。 その一心だけで、問題を解き続けた。 冬休みに入ってから、緋夏からの連絡は一度も来なかった。 きっと勉強している。 あいつのことだから、不安になりながらも必死に机へ向かっているんだろう。 だったら俺もやるしかない。 連絡したい気持ちは何度もあった。 でも、今は邪魔したくなかった。 ただ一つだけ。 毎年欠かさず送っているメールだけは、今年も送りたかった。 時計の針が零時を指す。 『あけおめ。』 送信ボタンを押して、スマホを机に置く。
最近の緋夏は、見ていて少し怖かった。 自習室に着けば雑談もせず、鞄を置いた瞬間に参考書を開く。 前なら「今日さー」なんてどうでもいい話をしてきたのに、今はそれすらない。 俺が声をかけても反応が遅いことがある。 もう一度呼びかけてようやく「ん?」と返してくる。 ……体調、崩さなきゃいいけど。 そう思っていた。 そして、その嫌な予感は当たった。 その日の緋夏は、朝から様子がおかしかった。 焦点が合っていない。 問題を解いているはずなのに、同じ場所をずっと見つめている。 何度も声をかけようとして、やめた。 「大丈夫?」 そんな一言で止まるようなやつじゃない。 案の定、放課後も残ると言い張った。 勉強どころじゃないだろ。 そう思いながらも、隣に座るしかできなかった。 他の居残り組が全員帰る頃には、参考書を開いたまま 動かなくなった。 机に突っ伏している。 寝息が聞こえた。 ……寝てるのか。 先生が教室を覗き込む。 「もう閉めるぞー。」 「……あ、はい。」 起こそうか迷った。 でも、この
三年生になって最後の体育祭。 二人三脚の練習は、思っていた以上にうまくいかなかった。 「ねぇ、もっと右!」 「違う、今絶対速かった!」 「歩幅合わせてってば!」 緋夏は転びそうになるたび文句を言ってくる。 分かってる。 緊張してるんだ。 でも、何度も何度も言われているうちに、頭の片隅にずっと引っかかっていたものが、少しずつ大きくなっていく。 ――俺じゃなかったら、もっと上手くできたのか。 本当はそんなこと思いたくない。 思いたくないのに。 「じゃあ……樹と交代する?」 口に出した瞬間、自分で固まった。 ……何言ってんだ、俺。 そんなつもりじゃなかった。 交代なんてしたくない。 緋夏の隣を譲る気なんて、一ミリもない。 「はぁ!? なんでそうなるの!?」 予想以上の勢いで返ってくる。 「蒼人じゃないとできるわけないじゃん!」 一瞬だけ息が止まった。 ……そうか。 もちろん、幼なじみだから。 そういう意味だってことくらい分かってる。 それでも。 その言葉だけで十分だった。 「……ごめん。撤回する。」 それ以上は何も言わず、もう一度スタート位置へ戻る。 ⸻ 体育祭当日。 緋夏は朝から落ち着きがなかった。
模試が近づき、放課後は緋夏と教室に残って勉強するのが当たり前になっていた。 シャーペンの音だけが響く静かな教室。 ふと、緋夏が顔を上げた。 「いいなぁ……。」 小さく漏れた声につられて、俺も廊下へ目を向ける。 男女二人が並んで歩いていた。 荷物を持ってやったり、何気ないことで笑い合ったり。 見ているだけで、居心地の良さが伝わってくる。 「あの二人、付き合ってるのかな。」 「関わったことないから知らない。」 「だよねー……。」 それだけ言うと、緋夏は何事もなかったように参考書へ目を戻した。 俺はもう一度、緋夏を見る。 ――俺は。 緋夏にとって、安心できる存在でいられているんだろうか。 そんなことを考えながら、また問題集へ視線を落とした。 ◇ 数週間後。 模試の結果が返ってきた。 適当に書いた大学の判定は、E。 「……やば。」 思わず声が漏れる。 一方、緋夏はC判定。 先生にも友達にも褒めら