登入「出て行って。ここには来ないで」健司は彼女の整った顔を見つめると、いきなり手を伸ばした。しかし綾香に手を払われる。「綾香、君って本当に薄情だな。今日は絶対に何か作ってもらうからな」そう言いながら勝手にソファへ腰を下ろし、鋭い目で部屋の中を見回した。そして、その視線が思奈に止まる。「じゃなきゃ、君の妹を食っちまうぞ。唐辛子とネギを散らして蒸してやる」「……」綾香は呆れて白目を向けた。どうやら本当に酔っているらしい。「待ってて」彼女はキッチンへ向かい、生姜とレモンを使って温かい飲み物を作った。しばらくして、湯気の立つマグカップを運んでくる。気づけば思奈は健司の膝の上に座っていた
綾香はわかっている。自分のこの癖は本当に厄介だ。お酒を飲むと、秘密を次々と口にしてしまい、何も隠しておけなくなる。新婚初夜もそうだった。酔っぱらった自分は、健司の首に腕を回しながら、うとうとした声で話し始めた。子どもの頃、近所にとても優しくしてくれたお兄さんがいて、「大きくなったらお嫁さんにする」と言ってくれたこと。そして、自分はそのお兄さんのことが本当に好きだったこと。もしそのお兄さんが海外へ留学しなければ、自分が健司と結婚することなんてなかったはずだ、と。その後のことは思い出したくもない。健司はその場で激怒し、一晩中容赦なく自分を追い詰めた。まるでベッドの上で大喧嘩をしている
東方レジデンス。由梨の車を地下駐車場に停めると、女性のハウスキーパーを呼び、二人がかりで悪戦苦闘しながら、泥酔した綾香をようやく家まで連れ帰った。ゲストルームのベッドに寝かせると、由梨は大きく息を吐いた。その時、綾香が突然寝返りを打ち、怒鳴るように言った。「健司……このバカ……奈々は……渡さない……どうして……裏切ったの……?」由梨は思わずため息をついた。やっぱり酔っぱらうと何でも口にするタイプだ。健司に連れて行かせなくて正解だった。慌てて水を用意しに行き、戻ってくると、綾香の姿が消えていた。探してみると、ぬいぐるみを抱きしめたまま、ウォークインクローゼットの隅にしゃがみ込
ホテルを出たそのとき、遠くから耳をつんざくようなエンジン音が近づいてきた。真っ赤なスポーツカーがタイヤを鳴らしながら滑り込んできて、彼らのロールス・ロイスの前にぴたりと横付けする。ドアが開くと、由梨がハイヒールを鳴らしながら勢いよく駆け寄ってきた。「健司!綾香を下ろして!」健司の表情が一瞬で曇る。「酔っているんだ。俺が家まで送る」由梨は冷笑を浮かべ、腕を組んだまま彼を上から下まで眺めた。「元夫のあんたが送り届けるつもり?それじゃ羊を狼の前に放り出すようなものでしょ。綾香をこっちに渡して」健司は綾香を抱く腕に力を込めたまま、渡すつもりはなかった。由梨の目つきはさらに鋭くなる。「黒崎社長
綾香は思わず健司へ視線を向けた。彼は上座に座り、ゆったりとグラスを回している。その深い瞳は彼女を見つめていたが、助け舟を出す気配はまるでない。ただ静かに見ているだけだった。結局、綾香は覚悟を決めてグラスを手に取った。辰樹と和也は息の合った連携で次々と酒を勧めてくる。料理はほとんど口に入らなかったが、酒だけは一杯、また一杯と重ねていった。東雲グループ側の希望比率は30%。だから彼女は六杯目まで必死に耐えた。刺激の強い酒が喉を焼きながら流れ落ち、胃の中まで熱くなる。白い頬はとっくに赤く染まり、その姿は息を呑むほど艶やかだった。綾香はトイレでひとしきり吐いたあと、ふらつく足取りで廊下
綾香は、この男がまだ諦めていないことくらい分かっていた。むっとしながら、娘を健司の腕の中へ押しつける。「はい、どうぞ。あげます。一日四回ミルクで、ニンジンは嫌い、あと海鮮アレルギーがあります」健司は、ふわふわでミルクの香りがする小さな思奈を抱きながら、どうしていいか分からず固まった。「君、名前は?」健司が尋ねる。「私は水野思奈。思奈の『思』は思いの『思』。みんなには『奈々』って呼ばれてるの」思奈は真面目な顔で自己紹介した。黒ぶどうのような大きな瞳が、嬉しそうにきらきら輝いている。「じゃあ、あの人は?」健司は綾香を指差した。「お姉ちゃんだよ、かっこいいパパ!」思奈はそう言って、ま
外へ出て一息つこうとしたところで、高級オーダードレスに身を包んだ女性が目の前に立った。「あなた、黒崎社長の秘書よね?」「はい」綾香は礼儀正しくうなずく。すると女性は、いきなり一枚の小切手を差し出した。「黒崎社長の今後一か月のスケジュールが欲しいの。これは報酬よ」綾香がちらりと見ると、六百万円。ずいぶん気前がいい。そして相手の正体にも気づいた。朝霧市の名家・小泉家の令嬢で、新進気鋭のジュエリーブランドを立ち上げた小泉美月(こいずみ みづき)だった。「申し訳ありません。上司のプライバシーを守るのは、秘書として当然の務めです」「少ないってこと?」美月は鼻で笑い、今度は腕にはめていた
綾香はハッと我に返り、思い切り健司の唇に噛みついた。口の中に鉄のような味が広がる。ようやく男は彼女を解放した。「最低」健司は満足そうに口元を上げた。「でも、君も気持ちよさそうだったぞ」綾香「……」もうこの男とは口も利きたくなかった。二十分後、ロールスロイスは超高級ホテルである御堂ホテルの前に停まった。車が停まるや否や、瑞原市商工会の会長・中村康弘(なかむら やすひろ)が小走りで駆け寄り、自らドアを開けて出迎えた。健司が東雲グループを手に入れ、瑞原市へ華々しく戻ってきたことは、上流社会最大の話題となっていた。注目されているのは東雲グループではない。健司本人だ。海外で立ち上げ
その瞬間、小学校で読んだ『首飾り』という作品が頭をよぎった。「社長、これは高価すぎます。もし壊したら弁償できません……」お年玉を無理やり渡そうとする親戚と、それを必死で断る子どものような勢いで手を振る。「故意に壊したのでなければ弁償はいらない」彼は呆れたように彼女を見た。「俺のパートナーがそんな地味な格好でいたら、俺の立場がないだろう」綾香は一瞬言葉に詰まった。確かに自分は裕福ではない。今季のオートクチュールドレスなんて買えるはずもなく、このドレスだって去年、元社長に付き添ってパーティーへ出るために思い切って買ったものだ。百六十万円以上したのに、一度しか着ていない。「じゃあ……
自己都合で退職したら会社に四億円の違約金を払わなければならない。ゼロが八つ並ぶ金額だ。考えただけで頭が痛くなる。気分は最悪だった。ようやく目的地の白鷺オークションに到着する。名前からして高級そうな雰囲気だ。受け取り手続きは思ったより簡単だった。だが、その分恐ろしかった。白い手袋をしたスタッフが、ベルベットの箱を彼女の前へ差し出す。「綾香様、こちらにサインをお願いいたします」綾香の視線は受領書の最後に止まった。落札価格の欄に並ぶ数字を見て、目がくらむ。一、十、百、千、万……十億四千万円。心臓がぎゅっと縮み上がり、危うく息をするのも忘れるところだった。ペンを持つ手まで震えている。







