さっき庭の階段に座っていたせいで、両脚がすっかり痺れてしまっていた。 そんな状態で急に引っ張られたものだから、力が入らず、そのまま誠健の胸に倒れ込んでしまった。 しかも運悪く、彼の白くセクシーな鎖骨に口をぶつけてしまった。 あまりの痛さに、思わず涙が溢れた。 「ちょっと、なんで引っ張るのよ!夜はダイエット中だから何も食べないって、知らなかったの?」 彼女はまん丸の瞳で睨みつけた。その目にはほんのり赤みが差している。 ぶつけた衝撃で唇が切れ、淡いピンク色の唇に小さな血の玉が滲んでいた。 誠健はそんな彼女を見ても怒ることなく、すぐにポケットからティッシュを取り出し、優しく唇に当てた。 さっきまでの軽い調子とは打って変わって、口調もどこか真剣味を帯びていた。 「食べないならそれでいいけど、なんでそんなに不機嫌なんだ?最近俺、何かしたか?そんなに嫌われる覚えはないんだけど、俺を家から追い出すほどに」 知里はティッシュをひったくると、鋭く睨みつけた。 「ただ気に食わないだけ、文句ある?」 そう言い放つと、彼女はそのまま踵を返して去っていった。 誠健はその場に取り残され、風に吹かれながら呆然と立ち尽くした。 こんなに頑固な性格で、一体誰が将来彼女を嫁に迎えるんだろう。 そんなことを考えていた矢先、突然携帯が鳴った。 着信の表示を見ると、誠健は眉をひそめ、しばらくじっと画面を見つめてからようやく通話ボタンを押した。 「誠健、お前の大森お爺さんが転んでしまった!今、救急センターへ搬送中だから、後で迎えに来てくれ」 誠健はすぐさま尋ねた 「今、容態はどう?」 「意識はあるけど、血圧が少し高くなっていて、腕を打撲したみたいだ。ただ、心臓病もあるし、慎重に対応しないと」 「了解、すぐに準備する」 電話を切ると、誠健は急いで知里を追いかけた。 「知里、お前たち今夜救急シーンを撮影するんだろ?ちょうど患者がくるぞ」 さっきまで不機嫌そうだった知里の表情が、この一言で一変した。 彼女はすぐに携帯を取り出し、撮影チームの監督に連絡を入れた。 十分ほどして、患者が救急センターの入り口に到着した。 知里は撮影の主役として、すぐにその場へ向かっ
「いえ、石井さん、人違いじゃないですか?監督が呼んでるので、ちょっと行ってきますね」 知里はそう言って、そそくさとその場を離れた。 彼女の後ろ姿を見送りながら、石井お爺さんは首を傾げた。 「絶対にどこかで会ったことがあるんだがな……どこだったか思い出せん。この記憶力、ほんとに衰えたもんだ」 誠健は苦笑しながら茶化した。 「むしろもっと記憶力が悪くなった方がいいですよ。僕の政略結婚の話も忘れてくれたら助かるんですが」 「それは無理だな。大森お爺さんまでわざわざ来てるんだぞ? ちゃんと話をつけないと。彼の孫娘はB市にいるから、近いうちにうまく誘い出して、お前と会わせてみるつもりだ。結婚の日取りも決めないとな」 「会いたいならお爺さんが会えばいいじゃないですか。俺は忙しいんで」 そう言い捨てると、誠健は隣にいた看護師に何か指示を出し、そのまま自分のオフィスへ戻っていった。 --- 大森お爺さんが入院している間、知里は何度かこっそり様子を見に来ていたが、一度も見つかることはなかった。 退院の日、彼女は最後にもう一度だけ顔を見ようと病室へ向かったが、意外なことに誠健が中にいるのを目にした。 大森お爺さんは落ち着いた表情で彼を見つめながら言った。 「本当に孫娘に会う気はないのか? すごく美人になったぞ。小さい頃はお前とよく遊んでたんだ」 誠健は肩をすくめ、気楽に笑った。 「大森お爺さん、それは昔の話ですよ。あの頃は近所に子どもがたくさんいましたし、正直、誰が誰だったか覚えてません」 「それに、今は好きな子がいます。ですから、お爺さんが気を回してくださる必要はありません」 大森お爺さんはじっと彼を見つめ、眉をひそめた。 「それは本当か? ただ政略結婚を避けるための口実じゃないだろうな?」 「本当ですよ。その子は同僚で、とても綺麗な人です。お爺さんが僕を信頼して孫娘を託そうとしてくれたのはありがたいですが、やっぱり合わないと思います」 大森お爺さんは静かにため息をつき、首を振った。 「そうか……まあ、私も頑固じゃないからな。今度、お前の祖父と話して婚約を解消することにしよう。それで、お前が誰と結婚しようと、もう関係ない」 病室の外でそれを聞いていた知里
「うん、いるよ」 「じゃあ、いつ会えるの?」 佳奈の声には少し鼻にかかった甘さが混じっていて、その響きに智哉の胸が軽く震えた。 「ベランダに出てみて。雪がどれくらい降ってるか、写真を撮って送ってくれない?」 佳奈はゆっくりとソファから起き上がり、窓際へと歩いていった。 まだ眠気の残る目をこすりながら外を見ると、そこには一面の銀世界が広がっていた。 窓辺に頬を寄せ、舞い落ちる雪を見上げながら、かすかにため息をつく。 「まだ降ってるよ。智哉、たぶんクリスマスまでには会えないね」 智哉は低く笑った。「そんなに会いたい?」 「うん、すごく会いたい」 「じゃあ、よく目を開けて、外を見てみて」 佳奈は不思議に思いながらも、言われた通りに窓の外をじっと見た。 すると、雪の中に小さな光が揺らめき始めた。 その光が少しずつ集まり、大きなハートの形を描いていく。 佳奈は驚いて目を大きく見開いた。 その瞬間、色とりどりの花火が雪の中から打ち上げられた。 夜空に大輪の花が咲き、花びらのような光が雪とともに舞い落ちる。 佳奈はその美しさに息をのんだ。 喉が詰まったようになり、言葉が出てこない。 ベランダから見下ろすと、智哉がこちらを見上げて微笑んでいた。 「佳奈!俺、すごく会いたかった。すごく、すごく」 佳奈の喉が詰まり、涙が滲む。 「智哉、私も……」 そう言いかけたその時、ハート型の光の中に、黒いロングコートを着た長身の男の姿が浮かび上がった。 彼は静かに顔を上げ、佳奈と視線を交わした。 その瞬間、佳奈の心臓が止まりそうになった。 まるで、三年前に智哉と再会した時と同じ感覚だった。 彼女は呆然と雪の中の彼を見つめ、ようやく震える声を絞り出した。 「嘘つき」 智哉は唇の端を上げ、優しく微笑んだ。 「佳奈、暖かい格好して、降りておいで」 「うん、待ってて」 佳奈は慌てて部屋を飛び出し、パジャマの上からロングのダウンコートを羽織っただけで駆け出した。 「ハク! パパが帰ってきたよ! 一緒に行こう!」 佳奈の声を聞いたハクは、興奮して尻尾を振りながら彼女の後を追いかけた。 庭の雪は深く、足首
天地は果てしなく白く染まり、その純白の世界が智哉の輪郭をよりくっきりと際立たせていた。 黒い瞳は静かに揺らぎ、冷ややかな眉間には深い想いが滲んでいる。 智哉は顔を上げ、佳奈を見つめた。 その声は、優しく、そして絡みつくように甘い。 「佳奈、君に出会うまで、結婚なんて考えたこともなかった。俺にとって結婚は束縛でしかなく、ただの重荷だと思ってたし、結婚したからといって必ずしも幸せになれるわけじゃないとも思ってた。 でも、君がそんな俺の考えを変えてくれた。 君がいたから、初めて誰かをこんなにも強く求めるようになった。 君を手放したくない。君と一緒に、これからの未来を歩んでいきたい。 佳奈、俺と結婚してくれるか?」 その言葉を聞いた瞬間、佳奈の目から涙が溢れた。 彼女は目を伏せ、目の前に跪く男を見つめる。 冷たく孤高で、何にも縛られないはずだった智哉が、今はまるで信者のように、ただひたすら彼女の答えを待っている。 これは、彼女が三年間ずっと夢見てきた光景だった。 何度も夢の中に現れた場面が、今、現実になっている。 今すぐ手を伸ばして、そのピンクダイヤの指輪を受け取りたい。 「いいよ」 そう答えたいのに、彼女の手は途中で止まった。 自分の身体のことを考えると、どうしても踏み出せない。 佳奈はゆっくりとしゃがみ込み、冷たい指先で智哉の髪に積もった雪をそっと払い落とした。 そして、湿った唇を彼の頬に軽く押し当てる。 声には、隠しきれない痛みが滲んでいた。 「智哉、少しだけ、待ってくれる?」 智哉の黒い瞳が微かに揺れ、鋭い顎のラインが緊張で引き締まる。 彼は佳奈の腰を強く引き寄せ、低く、揺るぎない声で問いかけた。 「妊娠したら答えをくれるのか?」 佳奈の涙が次々とこぼれ落ちる。 その目には、どうしようもない不安と、言葉にならない悲しみが宿っていた。 智哉は冷えた手で彼女の頬を包みこみ、掠れた声で囁く。 「二十時間以上かけて、やっとここに来たんだ。君を驚かせたくて、喜ばせたくて……それなのに、これが君の答えか?」 「智哉……ごめん」 佳奈の熱い涙が、智哉の手の甲に落ちる。 その涙には、彼女の苦しみも、
佳奈の目に映るダイヤの輝きが、あまりにも眩しくて痛いほどだった。 胸の奥では、言葉にならない複雑な感情が渦巻いていた。 智哉は佳奈の耳元に顔を寄せ、冷えた耳たぶを軽く噛んだ。低く掠れた声が、彼女の鼓膜を震わせる。 「これからは、君は俺のものだ。逃げたら、足折るからな」 そう言い放つと、智哉はゆっくりと立ち上がり、佳奈を抱き上げた。 顔には隠しきれない喜びが滲み、一方的に唇を奪いながら微笑む。 「ここ、寒すぎる。君が冷え切っちまう前に、部屋に戻ろう。それから、ちゃんと満足させてやるよ?」 彼の声は掠れ、いつも以上に低く響く。そして、どこか悪戯っぽい色気を帯びていて、まるで人を惑わす妖精のようだった。 佳奈の頬は一瞬で熱を帯び、彼の腕の中で縮こまるしかなかった。声を出すことすらできない。 雪を踏みしめる靴音が響く中、大雪はなおも降り続け、冷たい風が頬を刺すように吹きつける。 それなのに、胸の奥からはじんわりと温かいものが溢れ出していた。甘く、心地よく、まるでこの寒さすら溶かしてしまいそうなほどに。 智哉は佳奈をベッドに降ろし、彼女のダウンコートを脱がせた。 大きな手で冷えた頬を軽くつまむ。「布団に入って待ってろ。俺、シャワー浴びてくる」 佳奈は素直にベッドへ潜り込み、布団をしっかりと被った。 十数分後、バスルームのドアが開く音がした。 智哉がゆっくりと出てきた。 彼の体には黒いシルクのナイトガウンがゆるく羽織られているだけで、結び目は適当に縛られ、隙間から冷たく滑らかな肌が覗いていた。 濡れた黒髪は無造作にかき上げられ、鋭い眉目がはっきりと露わになる。 深く整った顔立ちは、圧倒的な存在感を放っていた。 その姿は、どこか気だるげで、それでいて抗いがたい色気を纏っていた。 佳奈は完全に見惚れてしまった。 呼吸が浅くなり、指先がわずかに震える。 布団の中で、小さな手をぎゅっと握りしめるしかなかった。 智哉がゆっくりと近づき、佳奈の眉間に軽くキスを落とす。 「そんなに見惚れるなよ。これから、もっといいもの見せてやるんだから」 佳奈の顔が一瞬で熱くなり、慌てて布団の中に潜り込んだ。 しかし、智哉は容赦なく彼女を布団から引き
佳奈の思考が一瞬止まった。 潤んだ瞳で目の前の端正な男を驚いたように見つめる。 「何の届出?」 「もちろん結婚届だよ。昨夜、君が約束したんだからな。取り消しはなしだ」 智哉は意地悪そうに彼女の唇を軽く噛み、口元に悪戯な笑みを浮かべた。 その瞬間、佳奈の意識がゆっくりと戻ってきた。 確かに昨夜、そんなやり取りがあった。智哉に翻弄され、理性が吹き飛ぶほど乱れたあの瞬間、男は突然動きを止め、彼女の耳元で囁いたのだ。 「明日結婚届を出しに行こう」 残されたわずかな理性で拒もうとしたが、彼の仕掛ける誘惑があまりにも強烈すぎた。血が逆流するほどに昂らされ、つい無意識に「うん」と答えてしまったのだ。 その記憶が蘇り、佳奈はじとっとした視線で智哉を睨みつけた。 「色仕掛けだけじゃなく、結婚詐欺まで……訴えてやる!」 智哉は低く笑い、面白そうに言った。 「藤崎弁護士、どうやって俺を訴えるつもりだ?無理矢理じゃないし、薬も使ってない。むしろ君の方が泣いて俺に懇願してたんだぜ?証拠もある」 そう言うと、彼はポケットからスマホを取り出し、ある動画を再生した。 画面には、昨夜の恥ずかしい光景が映し出されていた。 佳奈の顔が一瞬で真っ赤になり、慌ててスマホを奪おうと手を伸ばした。 しかし、智哉は軽々とそれをかわし、彼女をぐいっと抱き寄せた。 そのまま唇を奪う。 少し淫靡なキスだった。唇が離れた頃には、佳奈の目尻はほんのり赤く染まっていた。 智哉は彼女の唇を指で優しくなぞりながら、かすれた声で囁く。 「もう俺、SNSに載せちゃったんだよな。みんな結婚証明書の写真を待ってるんだけど……まさか、旦那の顔を潰す気?」 佳奈は一瞬、呆気に取られた。 この男、一体どれだけ結婚を自慢したいんだ!?証明書もまだ取ってないのに、もう先走って投稿済みだなんて。 呆れつつも、心の奥にほんのり甘い気持ちが広がる。 何か言おうとしたその時、スマホが突然鳴り響いた。 画面を見ると、父からの電話だった。すぐに応答する。 「お父さん、どうしたの?」 清司の声はどこか焦っていた。 「佳奈、あなたのひいお爺さんが今朝転んで、大腿骨を骨折したらしい。だけど、高速道路
智哉は佳奈の手の指輪を掲げて、笑いながら言った。「佳奈にプロポーズしたんです。今日、結婚届を出そうと思ってます」娘の指にある、あまりにも大きく目を惹くダイヤの指輪を見て、清司の目が潤んだ。彼は娘がついに居場所を見つけたことを嬉しく思った。同時に、こんなに大きく育てた小さな娘が嫁ぐことに悲しさも感じていた。智哉はその気持ちを察したのか、すぐに声を落として慰めた。「お義父さん、ご安心ください。佳奈はいつまでもあなたの娘です。結婚しても、彼女はよく実家に帰るでしょう。その時は私も一緒に行って、あなたに付き添います」清司は熱い涙を浮かべながら、笑顔で頷いた。「いいよ、君たち二人が幸せなら、それでいい」「ご安心ください。佳奈を大切にします」男が父親に約束する言葉を聞いて、佳奈は心が温かくなった。彼の手を握り、思わず強く握り返した。ヘリはすぐに村に到着した。佳奈は皆を連れて、急ぎ足でひいお爺さんの家へ向かった。家に入ると、すぐにベッドに横たわる老人の姿が見え、周りには何人かの子や孫がいた。彼女が入ってくるのを見て、老人のそれまでの苦しそうな表情に、一瞬笑顔が浮かんだ。「佳奈、どうして来たんだ?」佳奈はすぐに駆け寄り、ひいお爺さんの手を取った。「ひいおじいさん、お医者さんを連れてきたの。診てもらいましょう」老人は彼女の後ろにいる白衣を着た人を見て、にこにこ笑い始めた。傍にいる数人を見て言った。「誰が女の子はダメだって言ったんだ?見てみろ、うちの佳奈はどれほど有能か。大雪の日に医者を連れてきてくれた」横には老人の孫と孫嫁がいて、皆佳奈の二番目のおじいさんの子孫だった。小さい頃から清司が女の子を産んだことをよく笑った人たちだ。数人が佳奈の隣にいる端正な顔立ちの智哉を見た。思わず白い目を向けた。「彼女は女の子に過ぎないじゃない。何ができるというの?お母さんと同じで、色気で男を誘惑するだけでしょ」佳奈がこの女性と言い争おうとした時、智哉に制止された。男の高くてすらりとした体格は、この小さな部屋では少し窮屈そうだった。その凛々しい顔、深い目元、しわひとつない高級スーツは、この場の人々とは明らかに不釣り合いだった。智哉は冷ややかな表情で横の数人を睨み、佳奈の手を引いてひいお爺さんの側へ行っ
この言葉を聞いた智哉は冷たい目で彼らを見下ろし、口元に意味深な笑みを浮かべた。「何を贈るつもりだ?」女性は得意げに笑った。「お爺さんは古代の茶碗を持っているんです。かなりの値段がつくって聞いています。これをあの社長に贈れば、来年うちの次男は支社の責任者になれるでしょう。年収は2000万円を超えますよ。あなたのような若い医者とは比べものになりませんわ」佳奈はこれらの人々の皮肉っぽい態度を見て、思わず眉をひそめた。これだけ長い年月が経っても、彼らの見栄を張る性格はなぜ変わらないのだろう。父は能力が高く、祖父から引き継いだ会社を経営していたが、これらの人々からひどく妬まれていた。いつも母親が家門の評判を落としたことを持ち出して、家族内での父の影響力を貶めていた。佳奈はこれらの人々と言い争いたくなかった。智哉の腕を軽く引っ張り、小声で言った。「気にしないで、彼らはいつもこんな感じだから」智哉は平然と笑った。「俺は単に嫁に骨董品でももらってやろうかと思っただけだよ」佳奈は彼を睨みつけた。「あれはひいお爺さんの宝物よ、誰にもあげないわ」「もらうつもりもないさ。俺たちが結婚しても、誰でも好きに贈り物ができるわけじゃない」高橋グループの支社の責任者どころか、本社の重役でさえ、彼らの結婚式に参列する機会はないだろう。医師は老人を診察した後、言った。「今のところ単なる骨折のようです。ここで整復して添え木をします。一ヶ月後にはほぼ回復するでしょう」智哉は老人を見て、身をかがめて言った。「聞こえましたか?大したことはありません、ご心配なく」老人はこの若者を見れば見るほど好印象を持ち、にこにこと笑った。「大したことないって言ったのに、お前の義理の父親がわざわざ大げさに駆けつけてきた。でも彼がお前と佳奈を連れてきて、一目見させてくれたから、彼の余計なことは許そう」智哉はゆったりとした口調で言った。「お義父さんはあなたを心配していたんです。それに、あなたが具合が悪いなら、私たち若い者が来てお見舞いするのは当然のことです」彼の言い方は謙虚で礼儀正しく、普段の冷たくて無情なイメージとはまったく異なっていた。それは佳奈をしばし困惑させた。ひいお爺さんの家は清潔に保たれていたが、やはり田舎で、家屋は質素で設備も不十分だった。智哉
その言葉を聞いた瞬間、晴臣の張り詰めていた心の糸がふっと緩んだ。彼はすぐに身を乗り出して尋ねた。「誰なんですか?」「高橋社長です。本当に奇跡的です、肝臓の適合率が非常に高く、しかも血液型も一致してます。これで安心してください、手術は問題なく進められます」晴臣の眉間がきつく寄った。「でも……彼はついこの前まで大火傷を負ってたはず、まだ体力も戻ってない。手術なんて、耐えられるんですか?」医師は彼の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。「大丈夫です。高橋社長からの伝言でもありますが、どんなに辛くても、あなたのお母さんを救えるならそれで十分だと。では、すぐに手術の準備に入ります。外でお待ちください」その後すぐに、智哉は別名義で秘密裏に手術室へ運び込まれた。身元が漏れるのを防ぐため、頭には包帯を巻き、担当医以外には正体を知らせなかった。約二時間後――手術室の扉が開いた。医師は疲労の色を滲ませつつも、口元には安堵の笑みを浮かべていた。「手術は無事成功しました。患者さんは、明日には目を覚ますでしょう」晴臣はこぶしを強く握りしめ、興奮と安堵の入り混じった声で尋ねた。「智哉は……彼の状態は?」「高橋社長も問題ありません。麻酔が切れたら、すぐに目を覚ますでしょう」奈津子は、智哉の隣の部屋に移された。病室で母の顔を見つめながら、晴臣はその手をしっかりと握った。額の髪をそっと撫でながら、かすれた声で語りかける。「……母さん、また生き延びたね」もはや何度目か分からない、生死の境を乗り越える旅。自分が母の腹にいる頃から、二人は追われる生活をしてきた。祖父に保護され、ようやく平穏を手に入れたあの頃から、今日まで――。思い返すたび、胸の奥に苦しみがよみがえる。「母さん、安心して。必ず黒幕を突き止めて、あなたの人生の晩年を、穏やかで幸せなものにしてみせるよ」その時、征爾が病室のドアを開けて入ってきた。やつれた晴臣を見て、声を落とす。「俺が代わりに見てる。少し休め。彼女が目を覚ますのは明日だ。体力もたないぞ」晴臣はじっと彼を見つめ、低い声で訊いた。「智哉は、目を覚ましたか」「目は覚ましたよ。佳奈がついてる。あいつは身体が丈夫だから、ちょっとの手術じゃ倒れないさ。心配いらん」「見
佳奈は微笑みながら唇を少し曲げた。「しっかりして、奈津子おばさんには、あなたが必要なの」「分かってる」それから三十分後、手術室の扉が静かに開いた。出てきた医師は表情を固くしたまま言った。「患者さんの肝臓は深刻な損傷を受けています。すぐに肝移植が必要です。ただ、全ての提携病院に連絡しましたが、適合するドナーが見つかっていません。ご家族の方、至急検査をお願いします」その言葉に、晴臣は両拳を握りしめ、唇をかすかに震わせた。「分かりました、すぐ行きます」征爾もすぐに口を開いた。「俺も検査を受ける。ついでに知人たちにも声をかける」そう言って、彼はすぐにスマホを取り出し、電話をかけ始めた。その後、少しずつ人が集まり、次々と適合検査を受けていった。数時間後、ようやく結果が出た。晴臣はすぐさま医師の元へ駆け寄る。「どうでしたか?適合する人はいましたか?」医師は慎重な面持ちで答えた。「適合したのはあなた一人です。ただし、あなたと患者さんの血液型が一致していません。彼女の体力では、異なる血液型の肝臓を受け入れるのは困難です。安全のためには、同じ血液型で適合するドナーを見つける必要があります」その言葉に、晴臣の胸が一気に締めつけられた。「母さんは、あとどれくらいもつんですか?海外にいる親戚にも連絡を……」「時間がありません。手術は今日中に行わなければ、命に関わります」その瞬間、誰かに背中を思いきり叩かれたような衝撃が走り、晴臣の背筋が自然と丸まった。彼はこの状況の重さを痛いほど分かっていた。肝臓移植は、すぐに見つかるようなものではない。祖父も遠く海外にいて、今すぐ来られる状況ではない。たとえ来られても、もう八十を超える高齢では、ドナーにはなれない。そんなとき、征爾がふと口を開いた。「智哉はA型だったな。試してみろ。他にもA型の人間を集めて検査させる」晴臣は恐怖を押し殺し、低く頭を下げた。「……ありがとうございます」今は、どんな可能性でも手を伸ばすしかなかった。たとえ確率が低くても、やらなければ始まらない。佳奈がそっと晴臣の腕に手を置き、優しく微笑んだ。「私が医師と一緒に智哉さんのところに行ってくる。あなたはここで、奈津子おばさんを見守ってあげて。大丈夫、絶対に見つか
晴臣はすぐさまドアの外に向かって叫んだ。「医者!助けてください、早く!」声を聞いた医師たちが駆け込み、奈津子を急いで手術室へと運び込んだ。その様子を床に座ったまま見ていた玲子は、ぞっとするような笑みを浮かべた。「クソ女……二十年以上も余計に生きられたんだから、もう十分でしょ。あんたに与えた最後の慈悲だったのよ」奈津子の傷ついた姿を目の当たりにした征爾は、しばらくその場に立ち尽くした。まるで心臓の鼓動が、突然止まったかのようだった。胸の奥を切り裂かれるような痛みが、彼の目に涙を滲ませ、頬を伝ってこぼれ落ちていく。智哉が負傷した時ですら、冷静でいられたのに。今の彼は、完全に平常心を失っていた。まるで、人生で最も大切なものを奪われたような――そんな喪失感。どうして、こんな感情が生まれるんだ。自分と奈津子は、いったいどんな関係だったのか。崩れかけた思考の中で、玲子の笑い声が再び耳に届く。その瞬間、征爾の中で何かがはっきりと壊れた。怒りに満ちた彼は一気に玲子へと詰め寄り、彼女の首を両手で締め上げた。「お前みたいな毒婦……今すぐ地獄に送ってやる!」腕の血管が浮き上がるほどの力で締めつけられた玲子は、白目をむき、胸を叩いてもがく。だが、征爾は微塵も手を緩めない。むしろその怒りはますます強くなっていく。玲子の命が尽きかけたその瞬間――佳奈が駆け込んできて、征爾の腕をつかんだ。「高橋叔父さん!やめてください、玲子の罪は明らかです。でも、あなたまで人生を棒に振らないで。奈津子おばさんは、きっとそんなこと望んでません!」その一言で、征爾の目に理性の光が戻った。血走った目で玲子をにらみつけ、低く呟いた。「お前なんか、一生、塀の中で生き地獄を味わうがいい」そう言って、彼は電話を取り出し、番号を押した。すぐに警察官が二人やってきて、玲子に手錠をかける。地面を這うようにして、彼女を連れ出していった。その背中を見送りながら、征爾は額を押さえ、かすれた声で言った。「智哉と麗美に……こんな母親がいたなんて、情けない」佳奈はそっと言葉を返した。「私たちは、親を選べません。でも、自分の人生は選べます。麗美さんも智哉さんも、玲子さんに流されるような人じゃありませんよ」征爾はその言葉
玲子はマスクをつけ、荷物を手に取り、そのまま病室を出た。そして、静かに奈津子の病室のドアを開ける。ベッドで眠る奈津子の、ほんのり赤みを帯びた美しい顔を見た瞬間、玲子の中に激しい嫉妬が渦巻いた。――なんで、あの火事で焼け死ななかったの。 ――なんで、顔が変わったのに、こんなに綺麗なの。 ――記憶を失って、昔の姿じゃなくなっても、征爾の心にいるのは、結局この女。その事実が、玲子にはどうしても許せなかった。静かに一歩一歩、奈津子のベッドへと近づいていく。ポケットから取り出したのは、一丁の手術用メス。これを一振りすれば、もう二度と、この女が征爾を惑わすことはなくなる。玲子は歯を食いしばり、その刃を奈津子の腹部へ、ためらいなく二度突き立てた。真っ赤な血が瞬く間に流れ出す。玲子はその場で数歩後ずさり、怯えと、そしてどこか満足げな光をその目に宿した。口から思わず言葉が漏れる。「このクソ女、あの火事で焼け死ななかったからって、結局、私の手で殺されるんだよ。征爾を誘惑しようなんて、100年早いわ!あいつは私の男よ……一生、誰にも渡さない!」そう吐き捨てて、玲子はメスと手袋を袋に詰め、踵を返そうとした、その時。背後から、女の静かで冷たい声が響いた。「玲子……あの火事で殺せなかった私を、今さら殺せるとでも?」その声を聞いた瞬間、玲子は振り返る。そして、目に映った光景に、思わず手に持っていた袋を床に落とした。奈津子が血まみれの姿で、ベッドからゆっくりと起き上がってきた。そして、一歩一歩、玲子に近づいてくる。玲子は震えながら頭を振った。「来ないで……来たら、地獄に送ってやる。お前なんか、二度と生まれ変われなくしてやる!」奈津子は冷たく笑った。「そう?じゃあ、試してみれば?」そう言って、彼女は玲子の頬を思い切り平手打ちした。その勢いで、流れていた血が玲子の顔にも跳ねる。玲子は目の前の女の姿を見て、言葉を失った。「あんた、人間じゃない……あんなに刺したのに、なんで死なないのよ……そんなの、あり得ない!」奈津子の口元に、狂気めいた笑みが浮かぶ。「死ぬべきは、私じゃない、お前よ」そう言い放ち、もう一発、玲子の頬に手を振り抜いた。――その瞬間、部屋の明かりがパッと点い
その言葉を聞いた瞬間、晴臣は一切の迷いなく拒絶した。「俺は反対です!そんなこと、間違ってると思いませんか?あなたには妻も子供もいる。そんな状態で母さんに付き添うなんて、母さんを“愛人”の立場に置くのと同じです。当時もそのことで、母さんは散々な目に遭ったんです。だったら俺は、母さんが一生このままでも構いません。絶対に、あなたには任せません」征爾は真っ直ぐな目で晴臣を見返し、はっきりと言った。「玲子との結婚は、もう何年も前に終わってる。俺たちは二十年以上も別居してるし、法的にも婚姻破綻の条件は十分にある。ただ、彼女が俺の母の命を救ってくれた恩義があって、離婚を先延ばしにしてきただけなんだ」そう言って、今度は佳奈を見つめた。「佳奈、俺は玲子と離婚する。その裁判、勝たせてくれ」佳奈は少し困った顔をした。「高橋叔父さん、裁判に勝つのは難しくないと思います。今回の件で玲子さんが高橋家に与えた損害も大きいですし……でも、それをやることで奈津子おばさんの気持ちを傷つけませんか?」「離婚が終わってから、奈津子さんに気持ちを伝えるよ。うまくいくかどうかは関係ない。少しでも病気の回復に繋がるなら、それでいい。俺はただ、彼女に記憶を取り戻してほしいんだ」奈津子の記憶のどこかに、自分の存在がある気がしてならなかった。彼女は一体、どんな存在だったのか。なぜ、自分には何一つ記憶が残っていないのか。 その理由を知りたい。それだけだった。智哉は佳奈をそっと引き寄せ、きっぱりと断った。「親父、離婚したいなら、他の弁護士を紹介するよ。雅浩も優秀だから。佳奈は妊娠してて、法廷に立つには向かない。それに、玲子は佳奈に強い敵意を持ってる。出廷中に何をするか分からない」その言葉で征爾はハッとした。玲子はいつも佳奈の出自を利用して揺さぶろうとしていた。彼は苦笑しながら言った。「俺もすっかり忘れてたな……雅浩に連絡するよ。すべて片付いたら、奈津子にも話す。今はまだ、黙っておく」そう言い残すと、晴臣の反応も待たずにスマホを取り出し、電話をかけながら部屋を出ていった。父の浮き立つような背中を見送りながら、智哉は思わず首を横に振った。「こんな顔、何年も見てなかった。玲子との結婚生活は、もうずっと死んだようなもんだった。道徳という名の鎖に縛られて、身
智哉は低く笑った。「残念だったな。俺が佳奈と出会ったのは、あいつが生まれる前だ。あいつは子供の頃から、俺がずっと嫁にするって決めてた相手なんだ。お前じゃ、一生かかっても敵わないよ」得意げに言い放ったその瞬間、彼は深く後悔することになる。佳奈の驚いた視線に気づいて、舌を噛み切りたくなるほどだった。佳奈は不思議そうに智哉を見上げた。「それって、美桜さんのことじゃないの?正確には遠山家が失った子供、私じゃないでしょ?」彼女の目に疑念が浮かんだのを見て、智哉は慌てて話題をそらすように、彼女の小さな鼻をつまんだ。「うちのアホな嫁、俺の作ったウソ、あっさり見破るなよ。お前、まさかアイツの味方か?」佳奈はあまり気に留めず、顔を上げて智哉を見た。「じゃあ、どうする? 高橋叔父さんと奈津子おばさんに話す?」晴臣が真っ先に否定した。「まだ事実が分かってないうちは、知らせたくない。余計な混乱を避けたいんだ。母さんが略奪者なんて言われるのは、絶対に嫌だから」それだけは、どうしても信じられなかった。彼は真実を突き止め、母親の名誉を取り戻すと心に誓っていた。智哉もうなずいて賛同した。「当時、お前たちを殺そうとしたのは、玲子じゃないかもしれない。その背後に本当の黒幕がいる。万が一、あの人にお前たちが生きてるとバレたら、危険かもしれない」その言葉を聞いて、佳奈は急に不安そうな顔になった。「でも、さっきエレベーターの中で、玲子は奈津子おばさんの顔を見てた。おばさんもすごく動揺してたから、もしかして、もう何か気づいたかも」「俺が人をつけて守らせる。真相もすぐに調べる。お前は心配するな、赤ちゃんによくない」智哉は彼女の頭を優しく撫で、軽く唇にキスを落とすと微笑んだ。「安心して、子供を産めばいい。俺の花嫁になる準備だけしてればいいんだ、分かった?」その声は風のように柔らかく、瞳には深い愛情が溢れていた。ビジネス界で冷酷非情と呼ばれる男とは思えないほど。佳奈にだって、それがわからないはずがない。頬を赤らめて彼を押しのけた。「智哉、人前でキスするなって、何回言えば気がすむの?」智哉は低く笑った。「人前じゃないよ。アイツは俺の弟だから」「だからってダメ!それにまだ兄さんって認められてないでしょ!」「は
智哉の口調は問いかけではなく、断定だった。その深く澄んだ瞳が、晴臣をじっと見つめている。部屋の空気は異様なほど静まり返り、お互いの呼吸音さえも聞こえるほどだった。十数秒の沈黙のあと、晴臣がふっと笑った。「いつ気づいた?」その一言に、智哉の胸がズシンと重くなった。この世に突然、自分と同じ血を引く兄弟が現れた。どう言葉にすればいいか分からない、複雑な感情が渦巻いていた。智哉はずっと晴臣に警戒心を抱いていた。彼の素性が謎に包まれていたこと、そして佳奈への感情――。いろんな可能性を考えたが、まさか異母弟だったとは夢にも思わなかった。数秒の沈黙ののち、智哉がようやく口を開いた。「俺がいつ気づいたかは重要じゃない。問題はお前はもう知ってたってことだ。玲子が母親をハメた犯人かもしれないって、ずっと調べてたんだろう?」晴臣は隠そうともしなかった。「そうだ。お前と初めて会ったとき、お前の持ち物を使ってDNA鑑定した。征爾が俺の母親を捨てたクズだってことも、とっくに分かってた。もし佳奈がいなければ、あいつに手出ししないでいられるわけないだろ?」その言葉に、智哉は眉をぴくりと動かした。「奈津子おばさんはこのことを知ってるのか?」「知らない。でも、あの人がお前の父親に特別な感情を持ってるのは、見りゃ分かるだろ」「それでも、お前の父親でもあるんだ」「違う。あいつがいなけりゃ、うちの母さんは傷つかなかった。俺たちも、ずっと追われるような生活を送らずに済んだんだ。全部あいつのせいだ。お前が父親って呼べるのは、あいつがお前に裕福で穏やかな生活を与えたからだろ? でも、俺がもらったのは、何度も死にかける日々だった。うちの母さんは、他人に家庭があるのを知ってて付き合うような人じゃない。きっと、あいつに騙されて子供ができたのに、あいつは一切関わろうとしなかった。母さんを見捨てたんだ」穏やかで上品な印象だった晴臣が、過去を語る今、その顔には確かな感情が滲んでいた。あの深い瞳も、どこか紅く揺れていた。征爾への憎しみが、無いはずがなかった。ひとりで妊娠し、大火で命を落としかけた母親。薬を使わず、子供を守ろうと必死に痛みに耐えた――その姿を想像するたび、心が引き裂かれるようだった。智哉は晴臣をじっと見つめ、かすかにか
彼はあまりの痛みに、呼吸すら忘れそうになった。眉をひそめながら奈津子を見つめ、できる限り優しい声で言った。「安心してください。絶対に誰にも彼を傷つけさせない」その言葉を聞いた奈津子は、ようやく彼の腕をそっと離し、少しずつ落ち着きを取り戻していった。晴臣は彼女を抱きしめ、目には何とも言えない感情が滲んでいた。その様子を見て、智哉は強く布団を握りしめた。晴臣と奈津子が、過去にどれだけ命を狙われてきたか。想像するだけで胸が痛んだ。そして、その命を狙った人物が誰なのか、彼にはもうほとんど見当がついていた。きっと、それは母・玲子——だから奈津子はあんなにも激しく反応したのだ。智哉の胸がずきんと痛んだ。晴臣を見つめ、低い声で問いかけた。「カウンセラーを呼んだ方がいいんじゃないか?」晴臣は首を振った。「大丈夫。今は落ち着いてる。ただ、毎回発作があると体力が消耗して、半日はぐったりしちゃうんだ」佳奈がすぐに奈津子を支えて言った。「おばさん、ベッドで横になりましょう」奈津子はふらふらと歩きながらベッドへ向かい、ゆっくりと身体を横たえた。佳奈は布団をかけてやりながら、そっと声をかけた。「私たちがそばにいます。誰にもおばさんやお兄ちゃんを傷つけさせません」奈津子は涙ぐんだ目で佳奈を見つめた。「佳奈、晴臣は小さい頃からたくさん苦労してきたの。あの子を捨てないで、ちゃんと幸せにしてやって……お願い」その言葉を聞いて、佳奈の目に一気に涙が溢れた。彼女は何度も何度もうなずいた。「晴臣は私にとって一番大切な兄です。絶対に離れません。安心してください」そう言って、彼女はそっと奈津子の額を撫で、柔らかくささやいた。「少し眠ってください。私がここにいます」奈津子はゆっくり目を閉じ、やがて穏やかな寝息を立て始めた。佳奈はその手を最後まで握りしめ、片時も離れようとしなかった。征爾はベッドのそばで静かに立ち尽くし、奈津子の顔をじっと見つめていた。なぜだろう、この女性にどこか見覚えがあるような——心の奥を、まっすぐ射抜くようなこの感覚は何なのか。まさか、本当に過去に付き合っていて、その記憶を失っているだけなのか?けど、当時自分が好きだったのは玲子だったはず……そ
晴臣はすぐさま駆け寄り、母を抱きしめて宥めた。「お母さん、怖がらなくていいよ。俺が絶対に守るから」奈津子は必死に首を振り、完全に取り乱していた。口の中ではずっと繰り返していた。「彼女がうちの子を殺すって、早く助けて、殺されちゃう、まだあんなに小さいのに……」征爾はそんな奈津子の姿を見て、胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼は玲子の膝に思いきり蹴りを入れ、氷のように冷たい声で言い放った。「死にたいのか」玲子は数歩よろめき、車椅子に尻もちをついた。奈津子の顔を見つめながら、彼女の口にした言葉を思い出し、悔しそうに歯を食いしばった。「征爾、あんた他の女のために私を殴るなんて、あんまりじゃない?いくら私が悪くたって、子供まで産んで育てたのよ?そんな仕打ちってある?」征爾は彼女の言葉に怒りでこめかみに青筋を立てた。VIP病棟のフロアに到着すると、彼は奈津子と佳奈を庇いながらエレベーターから降りた。そして冷たく命じた。「このイカれた女を連れて帰れ。俺の許可があるまで、絶対に外に出すな」「征爾、どうして他の女は私の子に会えるのに、私には会わせてくれないの?もうあの女とできてるんでしょ?だから私と離婚したいのね」征爾は、奈津子が恐怖で震えているのを見て、なおも追い詰めてくる玲子に怒りを爆発させた。手を振り上げて、彼女を平手で打った。「玲子、いい加減なことを言うんじゃねぇ。今すぐ黙れ、さもないと、殺すぞ」玲子はその一撃で目が回るほどの衝撃を受けた。ちょうどその時、もう一台のエレベーターから佳奈が降りてきた。手には薬の入った袋を持っている。この場の様子を見た瞬間、佳奈は思わず立ち止まった。無意識に両手でお腹を庇う。玲子が暴れたら、お腹の子に何かあるかもしれないと恐れたのだ。しかし、その仕草を玲子は見逃さなかった。彼女の目に陰険な光が宿り、すぐに泣き顔を作って佳奈にすがりついた。「佳奈、お願い、智哉に会わせて。ほんの一目でいいの。あの子、まだ目を覚まさないのよ。心配で眠れないの」佳奈は玲子が近づいてくるのを見て、驚いて身を引いた。冷たい目で彼女を睨みつけながら言った。「智哉がどうしてケガしたか、あなたは分かってるでしょ?目を覚ましてたとしても、一番会いたくないのはあなただと