佳奈が目を覚ました時には、すでに外は真っ暗だった。朦朧とした意識のなかで、智哉の香りを感じた気がした。彼の声も聞こえたように思った。それどころか、彼とキスをする夢まで見てしまった。自分はどれだけ彼を想っているのだろう。窓の外からは大晦日を祝う爆竹の音が次々と響き、色鮮やかな花火が夜空に舞い上がっている。年越しの雰囲気が濃くなるほど、佳奈の智哉への想いも強くなり、胸が苦しくて堪らないほどだった。佳奈はそっと自分のお腹に手を当て、心のなかで静かに語りかけた。「無事に生まれたら、次のお正月はパパも一緒に過ごそうね」ちょうどその時、智哉が佳奈のそばにやってきた。佳奈の潤んだ瞳から、一滴また一滴と涙が頬を伝い落ちていく。智哉はゆっくりと彼女の前にしゃがみ込み、冷たい指先で優しく涙を拭った。声には切ないほどの優しさが溢れていた。「佳奈、どうして泣いてる?……もしかして、俺に会いたくなった?」その声に驚いて佳奈がはっと目を見開くと、視界いっぱいに智哉の深く愛おしげな眼差しが広がった。胸がキュッと締めつけられる。思わず掠れた声が漏れた。「智哉……」智哉は大きな手で佳奈の頬をそっと撫で、低く囁いた。「うん、俺だよ。一緒にお正月を過ごしに来たんだ」まるで電流が流れたように、佳奈は慌ててソファから身を起こした。呆然と智哉を見つめながら問いかける。「いつ来たの?」ここで初めて、自分の体に智哉のコートが掛けられていることに気づいた。先ほどのキスは夢だったのか、それとも現実だったのか。佳奈の戸惑う視線を受け、智哉は彼女が何を考えているのかを察し、低く笑った。「とっくに来てたよ。ずっとお義父さんとキッチンで年越しの料理を作ってた。顔がそんなに赤いけど、もしかして夢の中で俺と何か恥ずかしいことでもした?」「してない!」佳奈はとっさに反論した。何かがバレたら困ると思い、瞬時に表情を引き締め、冷淡に言い放った。「私たちはもう別れたのよ。お義父さんなんて呼ばないで。今日は大晦日だし、あなたは家族と過ごすべきでしょう?どうしてここにいるの?」智哉はそんな佳奈の頭を優しく撫でながら、穏やかに言った。「お婆さんが家族を連れて旅行に行ったんだ。俺は一人だけ置いてきぼりだよ。君まで俺を追い返したら、
佳奈は震える声で続けた。「私に護衛をつけてくれたけど、それがどうなったか覚えてる?簡単に薬を盛られて倒れたじゃない。智哉、私は理屈が通らない女じゃないわ。でも、ここまでの危険を目の当たりにして、本当に怖くなったの。私があなたと一緒にいる限り、次から次へと危険が降りかかる。自分や家族を守るために、あなたと離れるしかないのよ。だから、お願い、私から離れてくれない?」そう言い終える頃には、佳奈の目は赤く潤み、喉が詰まって言葉が震えてしまった。彼女は自分自身が傷つくことは耐えられても、お腹の子は違う。 まだ小さくて、とても弱い存在だ。 たった一度の転倒でさえ命取りになりかねない。 彼女には、そのようなリスクを負う勇気がなかった。佳奈が震えながら恐怖に怯える姿を見て、智哉は胸が裂けるほど辛くなった。 彼はそっと彼女の頭を撫で、低くかすれた声で語りかけた。「佳奈、この一連のことは美桜や玲子だけで成し遂げられるような単純な話じゃない。彼女たちの背後にはもっと大きな黒幕がいるんだ。その人物を見つけ出せば、君を絶対に安全に守れる。今は詳しく話せない事情もあるけど、俺を信じてほしい。俺から離れれば、君はもっと危険になる」かつて美智子の事故から清司の誘拐事件まで、そのすべてが巧妙に仕組まれていた。 警察でさえ証拠を掴めなかったほどだ。 背後にいる人物は、並外れた警戒心と反捜査能力を持っているに違いない。 彼の狙いは単なる個人の命ではなく、もっと大きな陰謀が隠されていると智哉は確信していた。佳奈が何か言おうと口を開きかけた時、玄関から誠健の飄々とした笑い声が響いた。「どうりでこの野郎に電話が繋がらないと思ったら、こんなところまで嫁を追いかけてきてたのか」誠健は贈り物を手に提げながら家に入ると、細めた目で意味深に笑った。智哉は彼を冷たく睨みつけ、容赦なく言った。「正月に婚約者の家にも行かず、俺の妻の家に来て何してるんだ。出て行け!」誠健は鼻で笑った。「随分親しげに『妻』なんて呼んでるけど、佳奈さんとはまだ正式に結婚できてないだろ。婚姻届だって途中じゃないか。あんまり調子に乗るなよ」「残りは印鑑を押すだけだ。電話一本で終わることを、佳奈と二人で行った方が記念になるから待ってるだけだ
花火が炸裂する音は激しく響いていたが、それでも智哉の声は佳奈の耳に一字一句はっきりと届いた。熱を帯びた唇がいきなり彼女の唇をこじ開けると、柔らかく濃厚なキスが、酒の香りを纏いながら佳奈を飲み込んだ。一瞬、佳奈の頭は真っ白になり、心臓が止まったように感じた。認めざるを得なかった。彼女はこのキスに溺れ、この感覚を渇望していたのだと。 心の奥では激しく彼に応えたい衝動さえ感じていた。しかしすぐに理性が戻ってきて、佳奈は智哉をぐいと押しのけた。濡れた瞳は花火の光に照らされ、まるで夜空にきらめく星のように鮮やかだった。佳奈が怒り出す前に、智哉は急いでポケットから極上翡翠の仏像を取り出し、そっと佳奈の首にかけてあげた。掠れた低い声で彼は囁いた。 「佳奈、これは禅一大師に頼んで開眼してもらった玉の仏様だ。 お守りとして身につけていてくれ。絶対に外したらだめだぞ、効き目がなくなるからな」佳奈は冷たい指先でその玉仏に触れた瞬間、口に出しかけていた叱責の言葉が喉に詰まった。禅一大師なら佳奈もよく知っている。白塔寺の方丈様で、彼が開眼したお守りはとてもご利益があることで有名だった。ただし、大師に開眼をお願いするのは決して簡単なことではない。 佳奈が以前、智哉のために安全祈願のお守りを貰う時も、毎日お寺の掃除を一週間続け、何度も礼拝を重ねてようやく叶ったほどだった。それなら、この玉仏を得るために智哉が経験した苦労は、そんな程度では済まないはずだ。佳奈は玉仏を見つめながら、小さく呟いた。 「智哉、これが最後よ。もうこんなことしないで」佳奈が怒らないことを確認した智哉は、唇の端を持ち上げて嬉しそうに微笑んだ。「わかったよ、これからは君の言う通りにする」そして佳奈の帽子をそっと引き下げ、冗談めかして尋ねた。「俺にも新年のプレゼントがあるんだろう?いつになったら渡してくれるんだ?」その言葉で佳奈はふと、以前オークションで智哉のために落札したカフスボタンを思い出した。元々、年越しに渡そうと考えていたのだ。佳奈は目を上げて智哉を見た。「あとで渡すわ」智哉は寒さで赤くなった佳奈の鼻を見て、優しく言った。「じゃあ家に戻るか?外は寒いから」佳奈は小さく頷き、静かに振り返って家に戻った。一方、知里はず
「どうした、まさか他人の子供の父親になるつもりかよ?」誠健の口元がピクリと動き、不敵な笑みを浮かべた。「努力せずに父親になれるなら、それも悪くないだろ。お前なんて、何ヶ月もせっせと耕してたのに、ひとつも芽が出なかったじゃないか。俺から見たら、佳奈の体に問題があるんじゃなくて、お前がダメなんだろ?」智哉は意に介さず、くすっと笑って返した。「お前にできるんなら、なんで他人の子供の父親になろうとしてんだよ」「誰がなりたいって?俺はただの友達として心配してるだけだ。お前みたいに冷血で、家族さえ平気で切り捨てるやつとは違う」「じゃあ、お前はここに残って心配してろ。俺は先に帰って、嫁さんからもらったプレゼントを試させてもらう」そう言って、智哉はポケットからあのカフスボタンを取り出し、誠健の目の前でわざと見せびらかした。顔には得意げな笑みが浮かんでいる。誠健は呆れて笑い、悪態をついた。「嫁さんがいるような口ぶりだが、年越しの夜に追い出された男が何を言ってんだ。 一緒に過ごせてないくせに、何がそんなに得意なんだよ」「でも俺にはプレゼントがある。お前にはない。それだけで勝ち」「お前な、幼稚にもほどがあるぞ。ちょっと見せろよ、それ。どこで買ったんだ?」「オークションで落としたんだ。ヴァイオレット・キスっていう名前で、永遠の愛を象徴してるんだぜ。わかる?」「愛だと?バカ言えよ。別れたくせに、何が愛だよ。恥ずかしくねえのか」「黙れ!」「嫌だね。今夜はお前んとこ泊まる。じいさんに家を追い出されたんだ」言い合いをしながら、二人はそのまま車に乗り込んでいった。だがその様子を、少し離れた場所に停まった黒い車の中から、じっと見つめる一人の男がいた。唇の端には冷笑が浮かんでいる。「へぇ……こいつ、案外情に厚いんだな。ならば、利用価値がある」前方で車を運転していた男が、おそるおそる声をかけた。「旦那様、結翔が美桜の正体を知ったようです。このままだとバレて、彼女が危険な目に遭うかと、『本物』を消しておきますか?」黒いマントを羽織った後部座席の男は、低く笑った。「美桜なんて、ただの駒だ。死んでも惜しくない。だがあの本物のお嬢様……あれは面白い。うまく使えば、智哉を思い通りに操れる」男の鷹のような眼差しには、
ストレッチャーの車体が佳奈にぶつかる寸前——突然、大きな手が車輪をガシッと掴み、強引にその動きを止めた。斗真が険しい表情で担架を押していた若い看護師を睨みつける。「クビにされたいのか?」その鋭い一言に、看護師は顔面蒼白となり、すぐに佳奈へ深々と頭を下げた。「す、すみません……コントロールができていませんでした」佳奈はその声に振り返り、担架と自分の距離が拳一つ分しかなかったことに気づき、背筋に冷たい汗がつっと流れた。担架の上には一人の患者が乗っており、勢いがついていた。 もし斗真が間に合わなかったら、彼女は確実に倒れていただろう。 妊婦であることを考えると、その「もしも」の結果は最悪だ。さりげない表情を装いながら、佳奈は斗真の腕を軽く引いた。「斗真、ぶつからなかったんだから大丈夫よ。病人の治療が遅れる方が大変。行かせてあげて」斗真は看護師の腕を放し、「さっさと行け」とでも言いたげな目線を投げた。 看護師は怯えた様子で担架を押し、その場を去っていった。佳奈はそっと斗真の耳元でささやいた。「こっそりあの人を追って。誰と接触するか見てきて」斗真は何事もなかったかのように歩き出し、病院の中へと消えていった。約10分後、車に戻ってきた斗真の顔には明らかな怒気が浮かんでいた。「やっぱり予想通りだった。あの看護師、上の階で美桜と接触してた。美桜の外祖母の病室にいる介護士だ」その言葉を聞いた知里は、怒りで机を叩きそうな勢いだった。「マジであのクソ女、包丁でぶった切ってやりたいわ!なんであんなにしつこいの?腐ったハエかよ!」佳奈の目にも冷たい光が宿る。彼女の唇がわずかに引き締まった。「私たちが婦人科に行ったのを見て、妊娠の有無を確かめようとしたんでしょうね」知里は顔をしかめながら頷いた。「さっき私が機転利かせて自分の名前使ってなかったら……あのクソ女、何しでかしたかわかったもんじゃないわよ」運転席に座る斗真は、ハンドルを握る手に力が入り、青筋が浮かんでいた。そして、口元にふてぶてしい笑みを浮かべた。「C市に来たからには、俺がしっかりおもてなししてやらないとな」それから一行は知里の実家に向かい、新年の挨拶を済ませた。昼食を食べ終えたあと、佳奈は斗真と一緒に白川先生の家を訪
「それはダメだよ。妻はあなたが来るって聞いて、美味しいものをたくさん用意してくれたの。ご飯も食べずに帰ったら、きっと一年中気に病んじゃうよ」二人は話しながら屋内へと入っていった。玄関ホールに入った瞬間、佳奈の目の前に見覚えのある人影が現れた。紅色のウールワンピースに身を包んだ麗美が、玄関に立って笑顔で佳奈を見ていた。「佳奈、明けましておめでとう」佳奈はその場でぴたりと足を止め、ぼう然と麗美を見つめた。先生が言っていた親戚って……高橋家のことだったの? まさか、お婆様たちが旅行でここに来てるってこと?佳奈は驚いたように微笑んだ。「麗美姉さん、もしかしてみんなここに?」麗美は笑顔で頷いた。「そうなの。ここはお婆様の実家で、何年も帰ってなかったんだけど、今年はちょうど私も時間ができたから、一緒に来たの」佳奈は苦笑しながら「なんて偶然なの」と呟いた。麗美は彼女の手を取り、屋内へと誘いながら言った。「知らなかったでしょ?お婆様達があなたが来るって知ってから、ずーっと台所で料理してたのよ。あなたが好きな料理、全部作ってくれたの。私と斗真なんて、完全におこぼれもらってるだけ」その声を聞きつけて、白川先生の奥様と高橋お婆様が台所から顔を出した。どちらも格式高い名家の奥様で、そんな二人がわざわざ自ら台所に立ってくれたのだ。佳奈が感動しないはずがなかった。智哉と一緒になれないとしても、彼女はこの家の人たちの温かさを拒むことはできなかった。佳奈はにこやかに高橋お婆様に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。「お婆様、明けましておめでとうございます」その「お婆様」の一言に、高橋お婆様の目元が一気に潤み、嬉しそうに何度も頷いた。「明けましておめでとう、佳奈も幸せでありますように」佳奈もまた頷き、今度は白川先生の奥様に抱きついた。「明けましておめでとうございます」白川先生の奥様は柔らかな笑みを浮かべながら佳奈を見つめた。「顔色が少し悪いわね。移動が大変だったの?」「いえ、お会いできて嬉しくて、ちょっと興奮してしまいました」白川先生は笑いながら言った。「見たか?うちの佳奈は本当に愛嬌がある。お前たち全員足しても、彼女一人にはかなわないよ」斗真の父親も近づいてきて言った。「佳奈、
佳奈はさっきまで激しく吐いていて、頭の中はまだ真っ白だった。 そんな状態で不意に高橋お婆様から問い詰められ、返事に詰まってしまった。 けれど、お婆様の頬を伝う涙を見た瞬間、佳奈の胸も痛みで締めつけられる。 隠そうとした言い訳が喉元で詰まり、どうしても言葉にできなかった。 その沈黙で確信したのか、お婆様は佳奈の手をぎゅっと握った。 「佳奈、やっぱりね。あなたみたいに優しくて真面目な子に、神様が赤ちゃんを授けないはずがないと思ってたの。これは智哉には言わないつもりなのね?」さすがは高橋家の家主。 佳奈の胸の内をすぐに見抜いた。佳奈は少し困った顔をして、小さな声で答えた。 「お婆様、ごめんなさい。私、この子を守りたいんです。玲子さんや美桜さんに知られたら、きっとまた何か仕掛けてくると思うんです」 佳奈の言葉に、お婆様はようやく安心したように息をついた。 そして涙を拭いながら言った。 「じゃあ教えて。これからどうしたいのか、全部話してちょうだい。全力であなたを守るわ。誰にも話さないって約束する」 「国外に行こうと思ってます。赤ちゃんを産んでから、智哉に伝えるつもりです。彼に妊娠を知られたら、絶対に別れを許してくれない。そうなると、私と赤ちゃんの身が危険なんです」 「それでいいわ。どの国に行くつもりなの?私の知り合いがいろんな国にいるから、全部手配してあげる」 「いいえ、大丈夫です。自分で準備しました。大学卒業の時、留学のオファーをもらっていたんです。 あの時は智哉と一緒にいたくて断ったけど……今度は行こうと思ってます」 お婆様は嬉しそうにうなずいた。 「安心して行ってらっしゃい。玲子のことは私が監視をつけておくから、絶対に近づけさせない。 赤ちゃん、ママと一緒に苦しい思いさせてごめんね。ひいお婆様があなたたちのことをしっかり守るからね」夕食後、佳奈はみんなに挨拶して知里の家へ向かった。 玄関を開けた瞬間、知里の怒鳴り声が聞こえてきた。 「美桜のバカ、ホントに従姉に会いに行ったんだって!カードまで渡してさ!あの女、マジで懲らしめてやりたいわ!」佳奈は眉をひそめた。 「従姉さんは何って言った?」 「私たちのことは知らないふりして、カードを
四大家族には大森家と白川家のほかに、橘家と瀬名家がある。 それぞれの家族が老若男女集まって、ざっと二百人はいるだろう。 それでも佳奈が車を降りた瞬間、すぐに見覚えのある人影が目に入った。 美桜が叔父湊の腕にしなだれかかりながら、にこやかにこちらへ歩いてくる。 知里は思わず奥歯を噛みしめた。 「どこにでもいるな、あの女……顔見るだけで吐き気する」 佳奈は静かに笑って言った。 「きっと、ただの挨拶じゃ済まないわ。警戒して」 その言葉の直後、美桜の澄ました笑い声が聞こえてきた。 「叔父様、この方が私が話していた藤崎弁護士です。B市の法律業界でも有名な方でして、何か案件があればお任せしてもいいかと。元カノの仕事を少しでも助けてあげれば、智哉兄さんも喜ぶかと思って」 その一言で、智哉と佳奈の関係は終わっていると印象付けつつ、自分の立場をぐっと高く見せつける。 佳奈はさらりと微笑んだ。 「お気遣いありがとうございます、美桜さん。でも、私の案件は手一杯でして、橘家のご依頼はお受けできません」 美桜は明るく笑いながら続けた。 「藤崎弁護士、橘家はC市の四大家族の筆頭ですよ? 毎年法務案件も山ほどありますし、一度ご検討されては?」 「申し訳ありませんが、私は仕事相手を選びます。どれだけ報酬が高くても、好きになれない相手とは組みません。以前あなたのご家族からの依頼をお断りした理由もそれです。お忘れですか?」 その言葉は、かつて美桜のスキャンダルが露呈した件を明らかに思い出させるものだった。 美桜の顔から一気に血の気が引いた。 佳奈は丁寧に湊に頭を下げた。 「橘社長、お気を悪くされたらすみません。私が苦手なのは彼女だけです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」 そう言い残し、知里の手を取ってその場を後にした。 湊は去っていく佳奈の後ろ姿を見つめながら、どこか意味深な笑みを浮かべた。 「智哉のフィアンセは、口も達者だが度胸もある。いい子だな。あの子の母親が若い頃を思い出す」 その言葉に、美桜は内心で歯噛みした。 どうして誰もかれもが佳奈と美智子を重ねたがるのか。 不満げに唇を尖らせて言った。 「叔父様、どうしてあの女の肩を持つんですか。
智哉はお婆様の問いかけに少し驚きながら尋ねた。「お婆ちゃん、この写真の人たちをご存知なんですか」高橋お婆さんは写真の中の女に目を留め、静かに口を開いた。「この女の人は江原英子(えはら えいこ)って言ってね、あんたの祖父と幼馴染だったのよ。家同士の因縁で結ばれることはできなかったけど、昔ふたりの間には子どもがいたって聞いてるの。あんたのお父さんよりも一歳年上だったはず……まさか、写真のこの男の子がその子なのかね」その言葉を聞いた瞬間、智哉の頭の中で全ての点が線になった。「そのあと、その女の人はどうなったんですか」「子どもと一緒に国外に出たそうよ。だけど、空港へ向かう途中で事故にあって亡くなったって話だったわ」智哉は眉をひそめ、お婆様に向かって問いかけた。「それって……祖父がやったんですか」「なにバカなこと言ってるのさ!」お婆様は目を見開いて彼を睨んだ。「あの人がそんなことするわけないでしょう。やったのは、あの人の弟だよ。兄に罪を着せて、江原家の人間に恨みを抱かせるためさ。それが、江原家が今でも高橋家を仇だと思ってる理由よ」お婆様はそう言いながら、写真をじっと見つめた。「でも、この女も子どもも事故で死んだはずなんだけど……この写真、どこで手に入れたの?」智哉はすでにすべてを理解し、重い声で言った。「高橋家を潰そうとしてるのは、この人です。あの時の子どもはきっと死んでない。車椅子に乗ってる男……あれが彼です」その言葉に、高橋お婆様は深いため息をついた。「その人は、ずっとあんたのお祖父ちゃんが自分たちを殺そうとしたって思い込んでたんだろうね……ほんと、因果な話だよ。あの時の過ちのせいで、今あんたと佳奈が苦しんでる。うちの家が、佳奈に申し訳ないね」お婆様は佳奈の手を取り、目に涙を浮かべた。この因縁のせいで、佳奈は母親を失い、命の危機に何度も晒された。 すべては、昔の憎しみの連鎖が原因だった。何も知らない彼女が、無関係のまま巻き込まれたのだ。それを察した佳奈はすぐにお婆様をなだめた。「お婆さま、大丈夫です。このことももうすぐ終わります。あの人を捕まえれば、きっとすべてが元通りになりますから」その優しさに、お婆様は感極まったように頷いた。「いい子だね……智哉があんたに出会えたことは、
智哉の目がさらに鋭く光った。このバッジを持つ者は、黒風会の各堂主だけだ。 つまり、ずっと高橋家を狙っていたのは、黒風会の関係者――。黒風会はヨーロッパを拠点とする地下組織で、各国の経済の要を握るほどの影響力を持つ巨大勢力だ。 噂では、彼らの堂主は全員、ヨーロッパ名門家系の実力者たちであり、手を組んでヨーロッパ全体の産業チェーンを牛耳っているという。そして近年、国内の経済発展が加速する中、黒風会の触手は国内企業にも伸びてきた。 智哉のもとにも、組織に加わるようにという打診があった。 ヨーロッパ市場を与える、という魅力的な誘い付きで。だが、智哉はその背後に本当に黒風会の意志があるとは思っていなかった。あの黒風会が本気で企業を潰したければ、二十年もかける必要などない。 つまり、これは黒風会の堂主の一人による動きであり、しかもその男は高橋家への復讐者だ。その時、高木がポケットから一枚の写真を取り出し、智哉に手渡した。「高橋社長、別荘の主寝室のベッド下からこの白黒写真が見つかりました。写っている少年……もしかすると、これが黒幕かもしれません」智哉は写真を受け取り、静かに目を伏せた。写っていたのは一組の母子。女は妖艶で色気があり、男の子は整った顔立ちをしているが、どこか怯えたような表情を浮かべている。そして、女の肩には一つの男の手が置かれていたが、その男の部分だけが写真から切り取られていた。智哉はじっと写真を見つめ続けた。おそらく切り取られた男は、高橋家に関係する人物。 正確に言えば、「高橋家の男」――。その晩、智哉は部下を動かし、残党を尋問させた。口を割った者の証言によれば、黒幕は足の不自由な男だという。 だが、本名は誰も知らない。顔を見たことがある者もほとんどいない。ここまで巧妙に身を隠し、これほどの網を張っても尻尾すら掴めない―― 智哉の中で、その男への興味がどんどん膨らんでいく。その時、病室のドアがゆっくり開いた。高橋お婆さんが執事を伴って入ってきた。 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。「智哉、もう全部片付いたわよ。悪党どもも捕まったし、そろそろ佳奈と結婚したらどうなの?ぐずぐずしてたら、曾孫が生まれちゃうじゃない」佳奈のそばに歩み寄り、その
その名を聞いた瞬間、智哉と清司は思わず顔を見合わせた。まさか聖人が、美桜の仇を討つために、高橋家との長年の付き合いを裏切ってまで、他人の手先になるとは。まったく、二人はお似合いだ。 智哉には命知らずの母親がいて、佳奈には分別のないろくでなしの父親がいる。智哉の目が静かに鋭さを増した。玲子から受けた傷は、もう取り返しがつかない。 だからこそ、聖人が再び自分たちの間に割って入ることだけは、絶対に許せない。彼はスマホを手に取り、結翔へと電話をかけた。――数日後。郊外の別荘、その広いリビング。黒いスーツに身を包んだ男が車椅子に座り、満足げな顔で部下の報告を聞いていた。「旦那様、高橋家はすでに百億以上の損失を出しています。この打撃で高橋グループは致命的なダメージを受けました。麗美小姐は焦って記者と口論になるほどで、もはや高橋家を飲み込むのは時間の問題かと」男は口元に冷笑を浮かべる。「もうすぐ高橋家の身内が牙をむいてくる。代理社長の麗美じゃ、その混乱を抑えきれないだろう。その時こそ、我々の人間がトップの座に就き、高橋家を奪い返す絶好の機会だ」そう言いながら、車椅子のアームレストを両手で力強く握りしめた。まさに勝ち誇っていたその時、入口から慌ただしい足音が響いた。警備の者が慌てて駆け込んでくる。「旦那様、大変です!外に黒ずくめの連中が大勢現れて、武器を持って別荘を包囲しています!」男の目が一瞬で鋭くなり、手の甲には青筋が浮き上がる。同時に、彼のスマホがけたたましく鳴り始めた。すぐに応答すると、電話の相手は四大家族の一人だった。「旦那様、大変です!我々四大家族の全ての資産が壊滅的な打撃を受けています。今まで手に入れた高橋グループのプロジェクトや株も、誰かに激安で買い叩かれました。倒産寸前です!」「旦那様、地下カジノが摘発されました!関係者全員が連行されました!」「旦那様、例のヨーロッパの黒幕宛の荷が警察に押収されました!あれは我々の命綱だったのに……!」立て続けに鳴る電話、そして次々と報告される悪報――。男の目の奥には、次第に凶暴な光が宿っていく。そして、ついに手にしていたスマホを地面に叩きつけた。「役立たずばかりだ!」怒鳴る彼に、側近がすぐさま声をかける。「旦那
久しぶりに肌を重ねた二人は、抑えようのない本能に身を任せていた。一通り情熱を交わしたあと、智哉は満ち足りたように佳奈にキスを落とした。その瞳には、まだ情欲の余韻が残っている。「高橋夫人、気持ちよかった?」頬を赤らめた佳奈が睨みつける。「智哉、最低……あんなにお願いしたのに、なんで止まってくれなかったの?」智哉は彼女の耳元でくすっと笑った。「あれはお願いじゃなくて誘惑だろ?止まれるわけないじゃん。ていうか、さっき君も……」その言葉を言い終える前に、佳奈がその唇を塞いだ。「変なこと言うなら、もう口きいてあげないから!」智哉は笑いながら、彼女の手にキスを落とした。「はいはい、もう言わないよ。これからは全部奥さんの言う通りにする。早くって言われたら早くするし、止めてって言われたらちゃんと止める。それでいい?」「うるさい!」佳奈は彼を押しのけ、服を整えてベッドから降りた。ちょうどその時、病室のドアがノックされた。清司が手に食事の入った箱を持って立っていた。乱れた二人の服装と、赤く染まった頬を見て、何があったかすぐに察した。佳奈が赤面したままバスルームへ入っていくと、清司は智哉をじっと見据え、少し警告めいた眼差しを向けた。「若いからって元気なのはいいけどな、佳奈はまだ安静が必要な時期だ。あの子、やっと授かった命なんだ、無茶はするなよ」智哉はにっこり笑って答えた。「分かってますよ、お父さん」「よし、じゃあ手を洗ってご飯にしよう。今日は焼きスペアリブと、他にもちょっとしたおかず作ってきた」「ありがとうございます。お疲れ様さまでした」清司は彼の背中を見ながら、笑みを浮かべて首を振った。二人が仲睦まじいのは嬉しいことだが、若さゆえの勢いで何かあってからでは遅い。食事をテーブルに置いたあと、清司は何気なくテレビをつけた。画面ではニュースが流れていた。【あ高橋グループの社長・智哉氏が火災で重傷を負い、植物状態になる可能性が高いとのこと。父・征爾氏はショックで会社の経営どころではなく、高橋グループは今、完全な混乱状態に陥っています。港湾輸送は他者に掌握され、銀行からの融資は停止。大型プロジェクトは次々と問題を起こし、たった数日で株価は連続ストップ安。損失は数十億円に上ると見られます。
征爾は、普段は穏やかで理知的な晴臣の額に、怒りで浮かび上がった青筋を見つめた。 その目には、決して消えることのない憎しみが宿っていた。 その姿を見て、征爾の胸は鋭く締めつけられるような痛みに襲われた。 いったいどれほどのことを経験すれば、あの晴臣がここまで取り乱すのか。 目の奥が熱くなり、喉が詰まりそうになる。 言葉にしようとしても、父親として認めてほしいなんて、とても言えなかった。 長い沈黙のあと、ようやく征爾は低く、静かに口を開いた。 「正直、俺には当時のことがまったく思い出せない。だが、たとえ記憶がなくても、お前たちに苦しみを与えたのが俺であることは確かだ。 だから父親として認めてもらおうなんて思ってない。ただ……せめて償わせてくれ。奈津子を支えたい。記憶を取り戻すためにも、そばにいさせてくれ」 晴臣はしばらく、征爾の瞳をじっと見つめ続けていた。 やがて、その手がゆっくりと征爾の胸元から離れる。 目は、赤く潤んでいた。 「もし、すべてが明らかになって、お前が本当に母さんを裏切った張本人だって分かったら、絶対に許さない」 そう言い残し、晴臣はくるりと背を向け、病室の中へ入っていった。 征爾は、その背中が消えていくのを黙って見送り、小さくため息をついた。 そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかける。 「24年前、俺と関わった女性の記録をすべて洗ってくれ」 同じ頃、別の病室では。 佳奈はちょうど産科検診を終え、携帯を手に智哉に赤ちゃんの心音を何度も聞かせていた。 眉のあたりには、幸福と興奮が滲み出ていた。 「聞こえた?これが赤ちゃんの心臓の音なんだって。先生が言うにはね、もう頭の形も分かるし、体の器官もはっきりしてるんだって。 ねえ、この子、智哉に似てると思う?それとも私に?」 そう言いながら、彼女はお腹に優しく手を添える。 数ヶ月後には、ここから新しい命が生まれてくる――その未来を、彼女ははっきりと描いていた。 智哉はそんな彼女を愛おしそうに見つめながら、唇にそっとキスを落とした。 低く、掠れた声で囁く。 「どっちに似てても、誠治の娘なんかより、絶対何倍も可愛くなる。あいつの娘なんて、色
征爾の言葉は、まるで鋭い針のように、奈津子の胸の奥深くに突き刺さった。もし晴臣が本当に征爾の子どもだったとしたら、彼女と征爾は、玲子の存在を知りながらも、背徳の関係に踏み込んでいたことになる。その想像に、奈津子は苦しげに手を引き抜き、かぶりを振った。「あり得ない……晴臣があなたの子どもなんて、絶対にあり得ない!」その激しい拒絶に、征爾はすぐさま優しい声で宥めた。「分かった、落ち着いて。俺はただの可能性として言っただけだ。真相はちゃんと調べてる。必ず、お前と晴臣に事実を伝えるから」けれど、奈津子の感情はもう抑えきれなかった。パニック寸前の様子に、征爾はすぐ医師を呼び、安定剤の注射を打ってもらった。薬が効き始め、静かに眠りについた彼女の目尻には、まだ涙が残っていた。それを見た征爾の胸に、鋭い痛みが走る。彼女は、一体どれほど傷ついてきたのだろうか。そっと手を伸ばし、その涙をぬぐってやる。その時、ポケットの中の携帯が震えた。病室を出て応答すると、電話の向こうから男の声が聞こえた。「征爾さん、先日お預かりしたサンプルの結果が出ました」その言葉に、征爾の呼吸が止まりそうになった。「結果は?」「二つのDNAサンプル、一致しました。親子関係に間違いありません」その瞬間、征爾は壁に背中をぶつけるようにして、ずるずるとその場に立ち尽くした。やはりそうだった。晴臣は、奈津子との間に生まれた、自分の実の子だった。征爾は、何とも言えない感情に飲み込まれた。驚き、罪悪感、そして深い後悔と苦しみ。なぜ、どうして自分はその記憶がないのか。なぜ、彼女にそんな思いをさせたのか。電話を切ると、彼はしばらく廊下に一人立ち尽くしていた。震える指でポケットからタバコを取り出し、火をつける。深く吸い込むと、ニコチンが喉を焼き、咳が止まらなくなった。奈津子。晴臣。ようやく全てが繋がった。なぜ晴臣が、初めて会ったときから自分を憎んでいたのか。なぜ、あの目に憤りが宿っていたのか。それは――彼が母を捨てた男だと知っていたから。征爾の胸が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。どれだけタバコを吸っても、この痛みは紛れない。そのとき、不意に背後から低く澄んだ声が聞こえた。「病院で
奈津子が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは征爾の姿だった。彼はベッドのそばの椅子に座り、書類に目を通しながらペンを走らせていた。眉間に寄せた深い皺と、署名をするときの力強い筆跡――その様子に、奈津子の脳裏にふと、奇妙な映像が浮かんだ。――ひとりの女性が、頬杖をついて微笑みながら男性を見つめている。男性の表情は今の征爾とまったく同じ。書いている文字の癖も同じ。そして、ふと男性が目を上げると、そのまま女性をやわらかく見つめる。眉の間に、優しい光が滲んだ。彼は大きな手で、女性の鼻をそっとつまみながら微笑む。「こっちにおいで」女性はうれしそうに椅子から立ち上がり、そのまま征爾の胸の中へ飛び込んだ。白くしなやかな指先が、彼の喉仏にある小さな黒子を撫でながら、甘えるように囁いた。「征爾、赤ちゃん……作ろう?」征爾は彼女の瞼に口づけを落とし、低く響く声で答えた。「何人欲しい?今夜、全部叶えてやる」そう言うと、彼は彼女の唇をやさしく、けれど迷いなく塞いだ。――思い出したその一連の記憶に、奈津子の頬は一瞬で熱を帯びた。どうして、こんな記憶があるの?記憶の中の女性の顔は、自分ではないのに、まるで自分の体験のように鮮明だった。もしかして……自分は、玲子と征爾のそういう場面を、どこかで見てしまったのだろうか?本当に、玲子の言う通り、自分はふたりの関係を壊した「第三者」なの?そんな思いが胸をよぎり、奈津子は震える手で布団を握りしめた。だが、次の瞬間、否定の思いが胸に湧き上がる。――違う。私は、そんな女じゃない。晴臣だって、征爾の子どもなはずがない!混乱する思考のなかで、征爾が顔を上げた。彼は奈津子の涙に気づき、慌てて書類を放り出し、駆け寄った。「奈津子、どこか痛むのか?すぐに医者を呼ぶ」立ち上がろうとした瞬間、奈津子の手が彼の手首を掴んだ。その声はかすれていたが、はっきりと聞こえた。「高橋さん、私は大丈夫」征爾はその目をじっと見つめ、声を落とした。「なぜあんな無茶を。防具も用意してあったのに、自ら危険に身を投じて……。もしものことがあったら、晴臣はどうするんだ。あなたにまで失われたら、あいつは……」奈津子の目から涙がこぼれた。「玲子のやり方は知ってる。あの時
玲子はこのまま、誰にも構われず見捨てられて、朽ちていくなんて絶対に許せなかった。そう思っていた矢先、頭上に何かが降りかかる気配を感じた。驚いて顔を上げると、女囚のひとりが湯桶を手にしながら、何かを玲子の頭にぶちまけていた。長年、上流の暮らしに慣れ切っていた高橋夫人にとって、こんな屈辱は生まれて初めてのことだった。玲子は怒りに任せて立ち上がり、その女に向かって突進した。「今の、何をかけたのよ!」歯を食いしばりながら詰め寄ると、相手の女はけたけたと笑い出す。「嗅いでみりゃ分かるでしょ?」玲子が鼻をひくつかせると、強烈な悪臭が鼻孔を突いた。その臭いで、かけられた液体が何だったのか、瞬時に理解した。怒りで顔が歪み、思わず手を振り上げてその女を打とうとした――だが、腕が振り切られる前に、誰かに手首をがっちりと掴まれた。次の瞬間、頭に重い衝撃が走る。椅子が彼女の頭上に振り下ろされたのだ。視界がぐらつき、めまいが襲ってくる。それと同時に、数人の囚人たちから容赦ない暴行が始まった。拳と足が、何度も何度も彼女の体に叩きつけられる。三十分もの間、途切れることなく殴られ蹴られ続け、玲子の意識は朦朧とした。その時、ようやく美桜の言っていた言葉の意味を理解した。「侮辱され、殴られた」――それが、どれほどの地獄だったかを。命だけは守ろうと、玲子は床にひざまずき、泣きながら許しを乞うた。それを見てようやく暴行は止み、玲子は這うようにしてベッドに戻る。ベッドに横たわったそのとき、彼女の目に入ったのは、見覚えのある顔だった。やせ細り、色も抜け落ち、かつての輝きはどこにもない。だが、それは紛れもなく――美桜だった。玲子の目から、思わず涙がこぼれる。這い寄るようにして美桜のそばへ近づき、声を震わせて言った。「美桜……あなた、無事だったのね?」だが美桜は、まるで悪霊でも見るかのような目で玲子を睨みつけた。「近寄らないで!」そう叫ぶや否や、玲子を思いきり蹴り飛ばした。「私はあんたなんか知らない!顔も見たくない!」玲子は信じられないような顔で見つめ返す。「美桜……玲子おばさんよ、覚えてないの?」「知らないって言ってんでしょ!次に近づいたら、ボスに言ってまたボコらせるから!」
その言葉を聞いた瞬間、晴臣の張り詰めていた心の糸がふっと緩んだ。彼はすぐに身を乗り出して尋ねた。「誰なんですか?」「高橋社長です。本当に奇跡的です、肝臓の適合率が非常に高く、しかも血液型も一致してます。これで安心してください、手術は問題なく進められます」晴臣の眉間がきつく寄った。「でも……彼はついこの前まで大火傷を負ってたはず、まだ体力も戻ってない。手術なんて、耐えられるんですか?」医師は彼の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。「大丈夫です。高橋社長からの伝言でもありますが、どんなに辛くても、あなたのお母さんを救えるならそれで十分だと。では、すぐに手術の準備に入ります。外でお待ちください」その後すぐに、智哉は別名義で秘密裏に手術室へ運び込まれた。身元が漏れるのを防ぐため、頭には包帯を巻き、担当医以外には正体を知らせなかった。約二時間後――手術室の扉が開いた。医師は疲労の色を滲ませつつも、口元には安堵の笑みを浮かべていた。「手術は無事成功しました。患者さんは、明日には目を覚ますでしょう」晴臣はこぶしを強く握りしめ、興奮と安堵の入り混じった声で尋ねた。「智哉は……彼の状態は?」「高橋社長も問題ありません。麻酔が切れたら、すぐに目を覚ますでしょう」奈津子は、智哉の隣の部屋に移された。病室で母の顔を見つめながら、晴臣はその手をしっかりと握った。額の髪をそっと撫でながら、かすれた声で語りかける。「……母さん、また生き延びたね」もはや何度目か分からない、生死の境を乗り越える旅。自分が母の腹にいる頃から、二人は追われる生活をしてきた。祖父に保護され、ようやく平穏を手に入れたあの頃から、今日まで――。思い返すたび、胸の奥に苦しみがよみがえる。「母さん、安心して。必ず黒幕を突き止めて、あなたの人生の晩年を、穏やかで幸せなものにしてみせるよ」その時、征爾が病室のドアを開けて入ってきた。やつれた晴臣を見て、声を落とす。「俺が代わりに見てる。少し休め。彼女が目を覚ますのは明日だ。体力もたないぞ」晴臣はじっと彼を見つめ、低い声で訊いた。「智哉は、目を覚ましたか」「目は覚ましたよ。佳奈がついてる。あいつは身体が丈夫だから、ちょっとの手術じゃ倒れないさ。心配いらん」「見