花火が炸裂する音は激しく響いていたが、それでも智哉の声は佳奈の耳に一字一句はっきりと届いた。熱を帯びた唇がいきなり彼女の唇をこじ開けると、柔らかく濃厚なキスが、酒の香りを纏いながら佳奈を飲み込んだ。一瞬、佳奈の頭は真っ白になり、心臓が止まったように感じた。認めざるを得なかった。彼女はこのキスに溺れ、この感覚を渇望していたのだと。 心の奥では激しく彼に応えたい衝動さえ感じていた。しかしすぐに理性が戻ってきて、佳奈は智哉をぐいと押しのけた。濡れた瞳は花火の光に照らされ、まるで夜空にきらめく星のように鮮やかだった。佳奈が怒り出す前に、智哉は急いでポケットから極上翡翠の仏像を取り出し、そっと佳奈の首にかけてあげた。掠れた低い声で彼は囁いた。 「佳奈、これは禅一大師に頼んで開眼してもらった玉の仏様だ。 お守りとして身につけていてくれ。絶対に外したらだめだぞ、効き目がなくなるからな」佳奈は冷たい指先でその玉仏に触れた瞬間、口に出しかけていた叱責の言葉が喉に詰まった。禅一大師なら佳奈もよく知っている。白塔寺の方丈様で、彼が開眼したお守りはとてもご利益があることで有名だった。ただし、大師に開眼をお願いするのは決して簡単なことではない。 佳奈が以前、智哉のために安全祈願のお守りを貰う時も、毎日お寺の掃除を一週間続け、何度も礼拝を重ねてようやく叶ったほどだった。それなら、この玉仏を得るために智哉が経験した苦労は、そんな程度では済まないはずだ。佳奈は玉仏を見つめながら、小さく呟いた。 「智哉、これが最後よ。もうこんなことしないで」佳奈が怒らないことを確認した智哉は、唇の端を持ち上げて嬉しそうに微笑んだ。「わかったよ、これからは君の言う通りにする」そして佳奈の帽子をそっと引き下げ、冗談めかして尋ねた。「俺にも新年のプレゼントがあるんだろう?いつになったら渡してくれるんだ?」その言葉で佳奈はふと、以前オークションで智哉のために落札したカフスボタンを思い出した。元々、年越しに渡そうと考えていたのだ。佳奈は目を上げて智哉を見た。「あとで渡すわ」智哉は寒さで赤くなった佳奈の鼻を見て、優しく言った。「じゃあ家に戻るか?外は寒いから」佳奈は小さく頷き、静かに振り返って家に戻った。一方、知里はず
「どうした、まさか他人の子供の父親になるつもりかよ?」誠健の口元がピクリと動き、不敵な笑みを浮かべた。「努力せずに父親になれるなら、それも悪くないだろ。お前なんて、何ヶ月もせっせと耕してたのに、ひとつも芽が出なかったじゃないか。俺から見たら、佳奈の体に問題があるんじゃなくて、お前がダメなんだろ?」智哉は意に介さず、くすっと笑って返した。「お前にできるんなら、なんで他人の子供の父親になろうとしてんだよ」「誰がなりたいって?俺はただの友達として心配してるだけだ。お前みたいに冷血で、家族さえ平気で切り捨てるやつとは違う」「じゃあ、お前はここに残って心配してろ。俺は先に帰って、嫁さんからもらったプレゼントを試させてもらう」そう言って、智哉はポケットからあのカフスボタンを取り出し、誠健の目の前でわざと見せびらかした。顔には得意げな笑みが浮かんでいる。誠健は呆れて笑い、悪態をついた。「嫁さんがいるような口ぶりだが、年越しの夜に追い出された男が何を言ってんだ。 一緒に過ごせてないくせに、何がそんなに得意なんだよ」「でも俺にはプレゼントがある。お前にはない。それだけで勝ち」「お前な、幼稚にもほどがあるぞ。ちょっと見せろよ、それ。どこで買ったんだ?」「オークションで落としたんだ。ヴァイオレット・キスっていう名前で、永遠の愛を象徴してるんだぜ。わかる?」「愛だと?バカ言えよ。別れたくせに、何が愛だよ。恥ずかしくねえのか」「黙れ!」「嫌だね。今夜はお前んとこ泊まる。じいさんに家を追い出されたんだ」言い合いをしながら、二人はそのまま車に乗り込んでいった。だがその様子を、少し離れた場所に停まった黒い車の中から、じっと見つめる一人の男がいた。唇の端には冷笑が浮かんでいる。「へぇ……こいつ、案外情に厚いんだな。ならば、利用価値がある」前方で車を運転していた男が、おそるおそる声をかけた。「旦那様、結翔が美桜の正体を知ったようです。このままだとバレて、彼女が危険な目に遭うかと、『本物』を消しておきますか?」黒いマントを羽織った後部座席の男は、低く笑った。「美桜なんて、ただの駒だ。死んでも惜しくない。だがあの本物のお嬢様……あれは面白い。うまく使えば、智哉を思い通りに操れる」男の鷹のような眼差しには、
ストレッチャーの車体が佳奈にぶつかる寸前——突然、大きな手が車輪をガシッと掴み、強引にその動きを止めた。斗真が険しい表情で担架を押していた若い看護師を睨みつける。「クビにされたいのか?」その鋭い一言に、看護師は顔面蒼白となり、すぐに佳奈へ深々と頭を下げた。「す、すみません……コントロールができていませんでした」佳奈はその声に振り返り、担架と自分の距離が拳一つ分しかなかったことに気づき、背筋に冷たい汗がつっと流れた。担架の上には一人の患者が乗っており、勢いがついていた。 もし斗真が間に合わなかったら、彼女は確実に倒れていただろう。 妊婦であることを考えると、その「もしも」の結果は最悪だ。さりげない表情を装いながら、佳奈は斗真の腕を軽く引いた。「斗真、ぶつからなかったんだから大丈夫よ。病人の治療が遅れる方が大変。行かせてあげて」斗真は看護師の腕を放し、「さっさと行け」とでも言いたげな目線を投げた。 看護師は怯えた様子で担架を押し、その場を去っていった。佳奈はそっと斗真の耳元でささやいた。「こっそりあの人を追って。誰と接触するか見てきて」斗真は何事もなかったかのように歩き出し、病院の中へと消えていった。約10分後、車に戻ってきた斗真の顔には明らかな怒気が浮かんでいた。「やっぱり予想通りだった。あの看護師、上の階で美桜と接触してた。美桜の外祖母の病室にいる介護士だ」その言葉を聞いた知里は、怒りで机を叩きそうな勢いだった。「マジであのクソ女、包丁でぶった切ってやりたいわ!なんであんなにしつこいの?腐ったハエかよ!」佳奈の目にも冷たい光が宿る。彼女の唇がわずかに引き締まった。「私たちが婦人科に行ったのを見て、妊娠の有無を確かめようとしたんでしょうね」知里は顔をしかめながら頷いた。「さっき私が機転利かせて自分の名前使ってなかったら……あのクソ女、何しでかしたかわかったもんじゃないわよ」運転席に座る斗真は、ハンドルを握る手に力が入り、青筋が浮かんでいた。そして、口元にふてぶてしい笑みを浮かべた。「C市に来たからには、俺がしっかりおもてなししてやらないとな」それから一行は知里の実家に向かい、新年の挨拶を済ませた。昼食を食べ終えたあと、佳奈は斗真と一緒に白川先生の家を訪
「それはダメだよ。妻はあなたが来るって聞いて、美味しいものをたくさん用意してくれたの。ご飯も食べずに帰ったら、きっと一年中気に病んじゃうよ」二人は話しながら屋内へと入っていった。玄関ホールに入った瞬間、佳奈の目の前に見覚えのある人影が現れた。紅色のウールワンピースに身を包んだ麗美が、玄関に立って笑顔で佳奈を見ていた。「佳奈、明けましておめでとう」佳奈はその場でぴたりと足を止め、ぼう然と麗美を見つめた。先生が言っていた親戚って……高橋家のことだったの? まさか、お婆様たちが旅行でここに来てるってこと?佳奈は驚いたように微笑んだ。「麗美姉さん、もしかしてみんなここに?」麗美は笑顔で頷いた。「そうなの。ここはお婆様の実家で、何年も帰ってなかったんだけど、今年はちょうど私も時間ができたから、一緒に来たの」佳奈は苦笑しながら「なんて偶然なの」と呟いた。麗美は彼女の手を取り、屋内へと誘いながら言った。「知らなかったでしょ?お婆様達があなたが来るって知ってから、ずーっと台所で料理してたのよ。あなたが好きな料理、全部作ってくれたの。私と斗真なんて、完全におこぼれもらってるだけ」その声を聞きつけて、白川先生の奥様と高橋お婆様が台所から顔を出した。どちらも格式高い名家の奥様で、そんな二人がわざわざ自ら台所に立ってくれたのだ。佳奈が感動しないはずがなかった。智哉と一緒になれないとしても、彼女はこの家の人たちの温かさを拒むことはできなかった。佳奈はにこやかに高橋お婆様に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。「お婆様、明けましておめでとうございます」その「お婆様」の一言に、高橋お婆様の目元が一気に潤み、嬉しそうに何度も頷いた。「明けましておめでとう、佳奈も幸せでありますように」佳奈もまた頷き、今度は白川先生の奥様に抱きついた。「明けましておめでとうございます」白川先生の奥様は柔らかな笑みを浮かべながら佳奈を見つめた。「顔色が少し悪いわね。移動が大変だったの?」「いえ、お会いできて嬉しくて、ちょっと興奮してしまいました」白川先生は笑いながら言った。「見たか?うちの佳奈は本当に愛嬌がある。お前たち全員足しても、彼女一人にはかなわないよ」斗真の父親も近づいてきて言った。「佳奈、
佳奈はさっきまで激しく吐いていて、頭の中はまだ真っ白だった。 そんな状態で不意に高橋お婆様から問い詰められ、返事に詰まってしまった。 けれど、お婆様の頬を伝う涙を見た瞬間、佳奈の胸も痛みで締めつけられる。 隠そうとした言い訳が喉元で詰まり、どうしても言葉にできなかった。 その沈黙で確信したのか、お婆様は佳奈の手をぎゅっと握った。 「佳奈、やっぱりね。あなたみたいに優しくて真面目な子に、神様が赤ちゃんを授けないはずがないと思ってたの。これは智哉には言わないつもりなのね?」さすがは高橋家の家主。 佳奈の胸の内をすぐに見抜いた。佳奈は少し困った顔をして、小さな声で答えた。 「お婆様、ごめんなさい。私、この子を守りたいんです。玲子さんや美桜さんに知られたら、きっとまた何か仕掛けてくると思うんです」 佳奈の言葉に、お婆様はようやく安心したように息をついた。 そして涙を拭いながら言った。 「じゃあ教えて。これからどうしたいのか、全部話してちょうだい。全力であなたを守るわ。誰にも話さないって約束する」 「国外に行こうと思ってます。赤ちゃんを産んでから、智哉に伝えるつもりです。彼に妊娠を知られたら、絶対に別れを許してくれない。そうなると、私と赤ちゃんの身が危険なんです」 「それでいいわ。どの国に行くつもりなの?私の知り合いがいろんな国にいるから、全部手配してあげる」 「いいえ、大丈夫です。自分で準備しました。大学卒業の時、留学のオファーをもらっていたんです。 あの時は智哉と一緒にいたくて断ったけど……今度は行こうと思ってます」 お婆様は嬉しそうにうなずいた。 「安心して行ってらっしゃい。玲子のことは私が監視をつけておくから、絶対に近づけさせない。 赤ちゃん、ママと一緒に苦しい思いさせてごめんね。ひいお婆様があなたたちのことをしっかり守るからね」夕食後、佳奈はみんなに挨拶して知里の家へ向かった。 玄関を開けた瞬間、知里の怒鳴り声が聞こえてきた。 「美桜のバカ、ホントに従姉に会いに行ったんだって!カードまで渡してさ!あの女、マジで懲らしめてやりたいわ!」佳奈は眉をひそめた。 「従姉さんは何って言った?」 「私たちのことは知らないふりして、カードを
四大家族には大森家と白川家のほかに、橘家と瀬名家がある。 それぞれの家族が老若男女集まって、ざっと二百人はいるだろう。 それでも佳奈が車を降りた瞬間、すぐに見覚えのある人影が目に入った。 美桜が叔父湊の腕にしなだれかかりながら、にこやかにこちらへ歩いてくる。 知里は思わず奥歯を噛みしめた。 「どこにでもいるな、あの女……顔見るだけで吐き気する」 佳奈は静かに笑って言った。 「きっと、ただの挨拶じゃ済まないわ。警戒して」 その言葉の直後、美桜の澄ました笑い声が聞こえてきた。 「叔父様、この方が私が話していた藤崎弁護士です。B市の法律業界でも有名な方でして、何か案件があればお任せしてもいいかと。元カノの仕事を少しでも助けてあげれば、智哉兄さんも喜ぶかと思って」 その一言で、智哉と佳奈の関係は終わっていると印象付けつつ、自分の立場をぐっと高く見せつける。 佳奈はさらりと微笑んだ。 「お気遣いありがとうございます、美桜さん。でも、私の案件は手一杯でして、橘家のご依頼はお受けできません」 美桜は明るく笑いながら続けた。 「藤崎弁護士、橘家はC市の四大家族の筆頭ですよ? 毎年法務案件も山ほどありますし、一度ご検討されては?」 「申し訳ありませんが、私は仕事相手を選びます。どれだけ報酬が高くても、好きになれない相手とは組みません。以前あなたのご家族からの依頼をお断りした理由もそれです。お忘れですか?」 その言葉は、かつて美桜のスキャンダルが露呈した件を明らかに思い出させるものだった。 美桜の顔から一気に血の気が引いた。 佳奈は丁寧に湊に頭を下げた。 「橘社長、お気を悪くされたらすみません。私が苦手なのは彼女だけです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」 そう言い残し、知里の手を取ってその場を後にした。 湊は去っていく佳奈の後ろ姿を見つめながら、どこか意味深な笑みを浮かべた。 「智哉のフィアンセは、口も達者だが度胸もある。いい子だな。あの子の母親が若い頃を思い出す」 その言葉に、美桜は内心で歯噛みした。 どうして誰もかれもが佳奈と美智子を重ねたがるのか。 不満げに唇を尖らせて言った。 「叔父様、どうしてあの女の肩を持つんですか。
「美桜さん、ご飯は好きに食べてもいいけど、余計なことを口にするのはよくないな。俺がいつ君のものになったんだ?」智哉は黒い仕立ての良いシャツにスーツのベストを合わせ、腕には上着を軽く掛けている。彫りが深く端正な顔立ちで、身長も高く、スラリとした体つき。一歩一歩近づいてくるその姿は、まるで周囲の空気まで薄くなるような迫力があった。佳奈のそばに着くと、そっと上着を彼女の肩にかけてやった。それまでの冷淡な眼差しは、佳奈を見る瞬間、一気に柔らかく、深い愛情を帯びる。「こんな薄着で風邪でも引いたらどうするんだ」佳奈は驚いた顔で彼を見つめた。「どうしてここに?」智哉は優しく佳奈の頭を撫でると、すぐに視線を美桜へ向け、皮肉な笑みを浮かべた。「俺が来なければ、こんな面白い冗談は聞き逃していたところだったよ。美桜さん、俺は何度言えば分かってくれるんだ?俺たちは一度も始まってすらいない。君から奪うも何もないだろう?」「それに、佳奈は今でも俺が必死に追いかけている女性だ。彼女が他人から何かを奪う必要があると思うか?」美桜はこの言葉に顔から火が出そうになり、まるでパレットのように青くなったり白くなったりしていた。佳奈が孤立無援だと思ってわざと恥をかかせたつもりが、智哉がまさかここまで追ってくるとは思っていなかったのだ。美桜は悔しげに唇を噛み締めながら言った。「智哉兄さん、私はあなたのためを思って言ってるのよ。佳奈はあなたと別れてすぐに私の従兄たちと親しくしてるじゃない。あなたはあんなに佳奈を想ってるけど、彼女はあなたのことなんて大して気にしてないわよ!」智哉は軽く笑った。「彼女が俺を好きかどうかはどうでもいいんだよ。俺が彼女を好きだということが重要なんだ」その言葉を聞いた瞬間、周囲は静まり返った。智哉といえば、B市でも指折りの権力者だ。社会的地位も魅力も、女性にとっては最高の男性と言える存在。その彼が、佳奈ひとりを追いかけて、C市までやってきたのだ。美桜は怒りで肺が爆発しそうなほどだったが、それでも拳を強く握りしめ、あえて誠実な顔を見せた。テーブルの酒を持ち上げ、佳奈の前に差し出した。「智哉兄さんがそう言うなら、私の勘違いだったわ。藤崎弁護士、ごめんなさいね。私が悪かったわ。この場で三杯飲んで謝罪します」
知里は怒りを堪えきれず、冷たく笑った。 このぶりっ子、本当に女優をやらせないのが勿体ないくらいの演技力だ。彼女は皮肉っぽく言い放った。「お酒ならまだたくさんあるわよ。飲みたいなら、遠慮なく飲んでちょうだい」美桜は周囲の人々に助けを求めるような目を向け、いかにも哀れな声で言った。「皆さんが許してくれるなら、死んでも構いません」言い終えると、また一気にグラスを空けた。彼女が続けて飲もうとした瞬間、大森のお爺さんが突然叱りつけた。 「知里、いい加減にしなさい。彼女はもう十分謝っただろう。彼女のためでなくても、爺さんの顔を立てるために、その酒を飲んで仲直りしてしまいなさい」長老が口を挟んだため、知里はこれ以上騒ぎ立てると逆に非難されてしまう。 彼女は仕方なくグラスを取り上げ、一口飲もうとした瞬間、美桜の目に一瞬浮かんだ計算高い表情を見た。その瞬間、知里は危うく罠にはまるところだったことに気づいた。この酒を飲めば、妊娠が嘘だとすぐにばれてしまう。美桜はこの方法で、佳奈が本当に妊娠しているかを確かめるつもりだったのだ。知里は再びグラスをテーブルに戻し、無頓着な口調で言った。 「ごめんなさいね、美桜さん。私、今ちょうど生理中でお酒は飲めないの。あなたの謝罪の気持ちだけ受け取っておくわ」その言葉を聞いた美桜は驚いた表情を浮かべ、すぐさま大声で言った。 「えっ?知里さん、妊娠してるんじゃなかった?妊婦さんに生理なんてあるんですか?」そう言い終えると、あわてて口を押さえ、わざとらしく申し訳なさそうにした。 「ごめんなさい、知里さん、あなたが妊娠中でお酒を飲めないのを忘れてたわ。このお酒は飲まなくていいですよ。胎児によくないですから」その瞬間、大森のお爺さんの顔色が一気に曇った。彼は鋭い目で知里を見つめた。 「妊娠?一体どういうことだ!」知里は怒りで歯を強く噛みしめた。この忌々しい美桜、佳奈を陥れられなかったら今度は矛先をこっちに向けるなんて。彼女は急いで首を振った。 「お爺さん、彼女の戯言なんて信じないでください。私、彼氏もいないのに妊娠するわけないでしょ。これは美桜の仕返しです!」しかし、知里が言い終えた途端、美桜は素早く一枚の妊娠診断書を取り出して大森お爺さんに渡した。満面の笑み
その言葉を聞いた瞬間、晴臣の張り詰めていた心の糸がふっと緩んだ。彼はすぐに身を乗り出して尋ねた。「誰なんですか?」「高橋社長です。本当に奇跡的です、肝臓の適合率が非常に高く、しかも血液型も一致してます。これで安心してください、手術は問題なく進められます」晴臣の眉間がきつく寄った。「でも……彼はついこの前まで大火傷を負ってたはず、まだ体力も戻ってない。手術なんて、耐えられるんですか?」医師は彼の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。「大丈夫です。高橋社長からの伝言でもありますが、どんなに辛くても、あなたのお母さんを救えるならそれで十分だと。では、すぐに手術の準備に入ります。外でお待ちください」その後すぐに、智哉は別名義で秘密裏に手術室へ運び込まれた。身元が漏れるのを防ぐため、頭には包帯を巻き、担当医以外には正体を知らせなかった。約二時間後――手術室の扉が開いた。医師は疲労の色を滲ませつつも、口元には安堵の笑みを浮かべていた。「手術は無事成功しました。患者さんは、明日には目を覚ますでしょう」晴臣はこぶしを強く握りしめ、興奮と安堵の入り混じった声で尋ねた。「智哉は……彼の状態は?」「高橋社長も問題ありません。麻酔が切れたら、すぐに目を覚ますでしょう」奈津子は、智哉の隣の部屋に移された。病室で母の顔を見つめながら、晴臣はその手をしっかりと握った。額の髪をそっと撫でながら、かすれた声で語りかける。「……母さん、また生き延びたね」もはや何度目か分からない、生死の境を乗り越える旅。自分が母の腹にいる頃から、二人は追われる生活をしてきた。祖父に保護され、ようやく平穏を手に入れたあの頃から、今日まで――。思い返すたび、胸の奥に苦しみがよみがえる。「母さん、安心して。必ず黒幕を突き止めて、あなたの人生の晩年を、穏やかで幸せなものにしてみせるよ」その時、征爾が病室のドアを開けて入ってきた。やつれた晴臣を見て、声を落とす。「俺が代わりに見てる。少し休め。彼女が目を覚ますのは明日だ。体力もたないぞ」晴臣はじっと彼を見つめ、低い声で訊いた。「智哉は、目を覚ましたか」「目は覚ましたよ。佳奈がついてる。あいつは身体が丈夫だから、ちょっとの手術じゃ倒れないさ。心配いらん」「見
佳奈は微笑みながら唇を少し曲げた。「しっかりして、奈津子おばさんには、あなたが必要なの」「分かってる」それから三十分後、手術室の扉が静かに開いた。出てきた医師は表情を固くしたまま言った。「患者さんの肝臓は深刻な損傷を受けています。すぐに肝移植が必要です。ただ、全ての提携病院に連絡しましたが、適合するドナーが見つかっていません。ご家族の方、至急検査をお願いします」その言葉に、晴臣は両拳を握りしめ、唇をかすかに震わせた。「分かりました、すぐ行きます」征爾もすぐに口を開いた。「俺も検査を受ける。ついでに知人たちにも声をかける」そう言って、彼はすぐにスマホを取り出し、電話をかけ始めた。その後、少しずつ人が集まり、次々と適合検査を受けていった。数時間後、ようやく結果が出た。晴臣はすぐさま医師の元へ駆け寄る。「どうでしたか?適合する人はいましたか?」医師は慎重な面持ちで答えた。「適合したのはあなた一人です。ただし、あなたと患者さんの血液型が一致していません。彼女の体力では、異なる血液型の肝臓を受け入れるのは困難です。安全のためには、同じ血液型で適合するドナーを見つける必要があります」その言葉に、晴臣の胸が一気に締めつけられた。「母さんは、あとどれくらいもつんですか?海外にいる親戚にも連絡を……」「時間がありません。手術は今日中に行わなければ、命に関わります」その瞬間、誰かに背中を思いきり叩かれたような衝撃が走り、晴臣の背筋が自然と丸まった。彼はこの状況の重さを痛いほど分かっていた。肝臓移植は、すぐに見つかるようなものではない。祖父も遠く海外にいて、今すぐ来られる状況ではない。たとえ来られても、もう八十を超える高齢では、ドナーにはなれない。そんなとき、征爾がふと口を開いた。「智哉はA型だったな。試してみろ。他にもA型の人間を集めて検査させる」晴臣は恐怖を押し殺し、低く頭を下げた。「……ありがとうございます」今は、どんな可能性でも手を伸ばすしかなかった。たとえ確率が低くても、やらなければ始まらない。佳奈がそっと晴臣の腕に手を置き、優しく微笑んだ。「私が医師と一緒に智哉さんのところに行ってくる。あなたはここで、奈津子おばさんを見守ってあげて。大丈夫、絶対に見つか
晴臣はすぐさまドアの外に向かって叫んだ。「医者!助けてください、早く!」声を聞いた医師たちが駆け込み、奈津子を急いで手術室へと運び込んだ。その様子を床に座ったまま見ていた玲子は、ぞっとするような笑みを浮かべた。「クソ女……二十年以上も余計に生きられたんだから、もう十分でしょ。あんたに与えた最後の慈悲だったのよ」奈津子の傷ついた姿を目の当たりにした征爾は、しばらくその場に立ち尽くした。まるで心臓の鼓動が、突然止まったかのようだった。胸の奥を切り裂かれるような痛みが、彼の目に涙を滲ませ、頬を伝ってこぼれ落ちていく。智哉が負傷した時ですら、冷静でいられたのに。今の彼は、完全に平常心を失っていた。まるで、人生で最も大切なものを奪われたような――そんな喪失感。どうして、こんな感情が生まれるんだ。自分と奈津子は、いったいどんな関係だったのか。崩れかけた思考の中で、玲子の笑い声が再び耳に届く。その瞬間、征爾の中で何かがはっきりと壊れた。怒りに満ちた彼は一気に玲子へと詰め寄り、彼女の首を両手で締め上げた。「お前みたいな毒婦……今すぐ地獄に送ってやる!」腕の血管が浮き上がるほどの力で締めつけられた玲子は、白目をむき、胸を叩いてもがく。だが、征爾は微塵も手を緩めない。むしろその怒りはますます強くなっていく。玲子の命が尽きかけたその瞬間――佳奈が駆け込んできて、征爾の腕をつかんだ。「高橋叔父さん!やめてください、玲子の罪は明らかです。でも、あなたまで人生を棒に振らないで。奈津子おばさんは、きっとそんなこと望んでません!」その一言で、征爾の目に理性の光が戻った。血走った目で玲子をにらみつけ、低く呟いた。「お前なんか、一生、塀の中で生き地獄を味わうがいい」そう言って、彼は電話を取り出し、番号を押した。すぐに警察官が二人やってきて、玲子に手錠をかける。地面を這うようにして、彼女を連れ出していった。その背中を見送りながら、征爾は額を押さえ、かすれた声で言った。「智哉と麗美に……こんな母親がいたなんて、情けない」佳奈はそっと言葉を返した。「私たちは、親を選べません。でも、自分の人生は選べます。麗美さんも智哉さんも、玲子さんに流されるような人じゃありませんよ」征爾はその言葉
玲子はマスクをつけ、荷物を手に取り、そのまま病室を出た。そして、静かに奈津子の病室のドアを開ける。ベッドで眠る奈津子の、ほんのり赤みを帯びた美しい顔を見た瞬間、玲子の中に激しい嫉妬が渦巻いた。――なんで、あの火事で焼け死ななかったの。 ――なんで、顔が変わったのに、こんなに綺麗なの。 ――記憶を失って、昔の姿じゃなくなっても、征爾の心にいるのは、結局この女。その事実が、玲子にはどうしても許せなかった。静かに一歩一歩、奈津子のベッドへと近づいていく。ポケットから取り出したのは、一丁の手術用メス。これを一振りすれば、もう二度と、この女が征爾を惑わすことはなくなる。玲子は歯を食いしばり、その刃を奈津子の腹部へ、ためらいなく二度突き立てた。真っ赤な血が瞬く間に流れ出す。玲子はその場で数歩後ずさり、怯えと、そしてどこか満足げな光をその目に宿した。口から思わず言葉が漏れる。「このクソ女、あの火事で焼け死ななかったからって、結局、私の手で殺されるんだよ。征爾を誘惑しようなんて、100年早いわ!あいつは私の男よ……一生、誰にも渡さない!」そう吐き捨てて、玲子はメスと手袋を袋に詰め、踵を返そうとした、その時。背後から、女の静かで冷たい声が響いた。「玲子……あの火事で殺せなかった私を、今さら殺せるとでも?」その声を聞いた瞬間、玲子は振り返る。そして、目に映った光景に、思わず手に持っていた袋を床に落とした。奈津子が血まみれの姿で、ベッドからゆっくりと起き上がってきた。そして、一歩一歩、玲子に近づいてくる。玲子は震えながら頭を振った。「来ないで……来たら、地獄に送ってやる。お前なんか、二度と生まれ変われなくしてやる!」奈津子は冷たく笑った。「そう?じゃあ、試してみれば?」そう言って、彼女は玲子の頬を思い切り平手打ちした。その勢いで、流れていた血が玲子の顔にも跳ねる。玲子は目の前の女の姿を見て、言葉を失った。「あんた、人間じゃない……あんなに刺したのに、なんで死なないのよ……そんなの、あり得ない!」奈津子の口元に、狂気めいた笑みが浮かぶ。「死ぬべきは、私じゃない、お前よ」そう言い放ち、もう一発、玲子の頬に手を振り抜いた。――その瞬間、部屋の明かりがパッと点い
その言葉を聞いた瞬間、晴臣は一切の迷いなく拒絶した。「俺は反対です!そんなこと、間違ってると思いませんか?あなたには妻も子供もいる。そんな状態で母さんに付き添うなんて、母さんを“愛人”の立場に置くのと同じです。当時もそのことで、母さんは散々な目に遭ったんです。だったら俺は、母さんが一生このままでも構いません。絶対に、あなたには任せません」征爾は真っ直ぐな目で晴臣を見返し、はっきりと言った。「玲子との結婚は、もう何年も前に終わってる。俺たちは二十年以上も別居してるし、法的にも婚姻破綻の条件は十分にある。ただ、彼女が俺の母の命を救ってくれた恩義があって、離婚を先延ばしにしてきただけなんだ」そう言って、今度は佳奈を見つめた。「佳奈、俺は玲子と離婚する。その裁判、勝たせてくれ」佳奈は少し困った顔をした。「高橋叔父さん、裁判に勝つのは難しくないと思います。今回の件で玲子さんが高橋家に与えた損害も大きいですし……でも、それをやることで奈津子おばさんの気持ちを傷つけませんか?」「離婚が終わってから、奈津子さんに気持ちを伝えるよ。うまくいくかどうかは関係ない。少しでも病気の回復に繋がるなら、それでいい。俺はただ、彼女に記憶を取り戻してほしいんだ」奈津子の記憶のどこかに、自分の存在がある気がしてならなかった。彼女は一体、どんな存在だったのか。なぜ、自分には何一つ記憶が残っていないのか。 その理由を知りたい。それだけだった。智哉は佳奈をそっと引き寄せ、きっぱりと断った。「親父、離婚したいなら、他の弁護士を紹介するよ。雅浩も優秀だから。佳奈は妊娠してて、法廷に立つには向かない。それに、玲子は佳奈に強い敵意を持ってる。出廷中に何をするか分からない」その言葉で征爾はハッとした。玲子はいつも佳奈の出自を利用して揺さぶろうとしていた。彼は苦笑しながら言った。「俺もすっかり忘れてたな……雅浩に連絡するよ。すべて片付いたら、奈津子にも話す。今はまだ、黙っておく」そう言い残すと、晴臣の反応も待たずにスマホを取り出し、電話をかけながら部屋を出ていった。父の浮き立つような背中を見送りながら、智哉は思わず首を横に振った。「こんな顔、何年も見てなかった。玲子との結婚生活は、もうずっと死んだようなもんだった。道徳という名の鎖に縛られて、身
智哉は低く笑った。「残念だったな。俺が佳奈と出会ったのは、あいつが生まれる前だ。あいつは子供の頃から、俺がずっと嫁にするって決めてた相手なんだ。お前じゃ、一生かかっても敵わないよ」得意げに言い放ったその瞬間、彼は深く後悔することになる。佳奈の驚いた視線に気づいて、舌を噛み切りたくなるほどだった。佳奈は不思議そうに智哉を見上げた。「それって、美桜さんのことじゃないの?正確には遠山家が失った子供、私じゃないでしょ?」彼女の目に疑念が浮かんだのを見て、智哉は慌てて話題をそらすように、彼女の小さな鼻をつまんだ。「うちのアホな嫁、俺の作ったウソ、あっさり見破るなよ。お前、まさかアイツの味方か?」佳奈はあまり気に留めず、顔を上げて智哉を見た。「じゃあ、どうする? 高橋叔父さんと奈津子おばさんに話す?」晴臣が真っ先に否定した。「まだ事実が分かってないうちは、知らせたくない。余計な混乱を避けたいんだ。母さんが略奪者なんて言われるのは、絶対に嫌だから」それだけは、どうしても信じられなかった。彼は真実を突き止め、母親の名誉を取り戻すと心に誓っていた。智哉もうなずいて賛同した。「当時、お前たちを殺そうとしたのは、玲子じゃないかもしれない。その背後に本当の黒幕がいる。万が一、あの人にお前たちが生きてるとバレたら、危険かもしれない」その言葉を聞いて、佳奈は急に不安そうな顔になった。「でも、さっきエレベーターの中で、玲子は奈津子おばさんの顔を見てた。おばさんもすごく動揺してたから、もしかして、もう何か気づいたかも」「俺が人をつけて守らせる。真相もすぐに調べる。お前は心配するな、赤ちゃんによくない」智哉は彼女の頭を優しく撫で、軽く唇にキスを落とすと微笑んだ。「安心して、子供を産めばいい。俺の花嫁になる準備だけしてればいいんだ、分かった?」その声は風のように柔らかく、瞳には深い愛情が溢れていた。ビジネス界で冷酷非情と呼ばれる男とは思えないほど。佳奈にだって、それがわからないはずがない。頬を赤らめて彼を押しのけた。「智哉、人前でキスするなって、何回言えば気がすむの?」智哉は低く笑った。「人前じゃないよ。アイツは俺の弟だから」「だからってダメ!それにまだ兄さんって認められてないでしょ!」「は
智哉の口調は問いかけではなく、断定だった。その深く澄んだ瞳が、晴臣をじっと見つめている。部屋の空気は異様なほど静まり返り、お互いの呼吸音さえも聞こえるほどだった。十数秒の沈黙のあと、晴臣がふっと笑った。「いつ気づいた?」その一言に、智哉の胸がズシンと重くなった。この世に突然、自分と同じ血を引く兄弟が現れた。どう言葉にすればいいか分からない、複雑な感情が渦巻いていた。智哉はずっと晴臣に警戒心を抱いていた。彼の素性が謎に包まれていたこと、そして佳奈への感情――。いろんな可能性を考えたが、まさか異母弟だったとは夢にも思わなかった。数秒の沈黙ののち、智哉がようやく口を開いた。「俺がいつ気づいたかは重要じゃない。問題はお前はもう知ってたってことだ。玲子が母親をハメた犯人かもしれないって、ずっと調べてたんだろう?」晴臣は隠そうともしなかった。「そうだ。お前と初めて会ったとき、お前の持ち物を使ってDNA鑑定した。征爾が俺の母親を捨てたクズだってことも、とっくに分かってた。もし佳奈がいなければ、あいつに手出ししないでいられるわけないだろ?」その言葉に、智哉は眉をぴくりと動かした。「奈津子おばさんはこのことを知ってるのか?」「知らない。でも、あの人がお前の父親に特別な感情を持ってるのは、見りゃ分かるだろ」「それでも、お前の父親でもあるんだ」「違う。あいつがいなけりゃ、うちの母さんは傷つかなかった。俺たちも、ずっと追われるような生活を送らずに済んだんだ。全部あいつのせいだ。お前が父親って呼べるのは、あいつがお前に裕福で穏やかな生活を与えたからだろ? でも、俺がもらったのは、何度も死にかける日々だった。うちの母さんは、他人に家庭があるのを知ってて付き合うような人じゃない。きっと、あいつに騙されて子供ができたのに、あいつは一切関わろうとしなかった。母さんを見捨てたんだ」穏やかで上品な印象だった晴臣が、過去を語る今、その顔には確かな感情が滲んでいた。あの深い瞳も、どこか紅く揺れていた。征爾への憎しみが、無いはずがなかった。ひとりで妊娠し、大火で命を落としかけた母親。薬を使わず、子供を守ろうと必死に痛みに耐えた――その姿を想像するたび、心が引き裂かれるようだった。智哉は晴臣をじっと見つめ、かすかにか
彼はあまりの痛みに、呼吸すら忘れそうになった。眉をひそめながら奈津子を見つめ、できる限り優しい声で言った。「安心してください。絶対に誰にも彼を傷つけさせない」その言葉を聞いた奈津子は、ようやく彼の腕をそっと離し、少しずつ落ち着きを取り戻していった。晴臣は彼女を抱きしめ、目には何とも言えない感情が滲んでいた。その様子を見て、智哉は強く布団を握りしめた。晴臣と奈津子が、過去にどれだけ命を狙われてきたか。想像するだけで胸が痛んだ。そして、その命を狙った人物が誰なのか、彼にはもうほとんど見当がついていた。きっと、それは母・玲子——だから奈津子はあんなにも激しく反応したのだ。智哉の胸がずきんと痛んだ。晴臣を見つめ、低い声で問いかけた。「カウンセラーを呼んだ方がいいんじゃないか?」晴臣は首を振った。「大丈夫。今は落ち着いてる。ただ、毎回発作があると体力が消耗して、半日はぐったりしちゃうんだ」佳奈がすぐに奈津子を支えて言った。「おばさん、ベッドで横になりましょう」奈津子はふらふらと歩きながらベッドへ向かい、ゆっくりと身体を横たえた。佳奈は布団をかけてやりながら、そっと声をかけた。「私たちがそばにいます。誰にもおばさんやお兄ちゃんを傷つけさせません」奈津子は涙ぐんだ目で佳奈を見つめた。「佳奈、晴臣は小さい頃からたくさん苦労してきたの。あの子を捨てないで、ちゃんと幸せにしてやって……お願い」その言葉を聞いて、佳奈の目に一気に涙が溢れた。彼女は何度も何度もうなずいた。「晴臣は私にとって一番大切な兄です。絶対に離れません。安心してください」そう言って、彼女はそっと奈津子の額を撫で、柔らかくささやいた。「少し眠ってください。私がここにいます」奈津子はゆっくり目を閉じ、やがて穏やかな寝息を立て始めた。佳奈はその手を最後まで握りしめ、片時も離れようとしなかった。征爾はベッドのそばで静かに立ち尽くし、奈津子の顔をじっと見つめていた。なぜだろう、この女性にどこか見覚えがあるような——心の奥を、まっすぐ射抜くようなこの感覚は何なのか。まさか、本当に過去に付き合っていて、その記憶を失っているだけなのか?けど、当時自分が好きだったのは玲子だったはず……そ
晴臣はすぐさま駆け寄り、母を抱きしめて宥めた。「お母さん、怖がらなくていいよ。俺が絶対に守るから」奈津子は必死に首を振り、完全に取り乱していた。口の中ではずっと繰り返していた。「彼女がうちの子を殺すって、早く助けて、殺されちゃう、まだあんなに小さいのに……」征爾はそんな奈津子の姿を見て、胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼は玲子の膝に思いきり蹴りを入れ、氷のように冷たい声で言い放った。「死にたいのか」玲子は数歩よろめき、車椅子に尻もちをついた。奈津子の顔を見つめながら、彼女の口にした言葉を思い出し、悔しそうに歯を食いしばった。「征爾、あんた他の女のために私を殴るなんて、あんまりじゃない?いくら私が悪くたって、子供まで産んで育てたのよ?そんな仕打ちってある?」征爾は彼女の言葉に怒りでこめかみに青筋を立てた。VIP病棟のフロアに到着すると、彼は奈津子と佳奈を庇いながらエレベーターから降りた。そして冷たく命じた。「このイカれた女を連れて帰れ。俺の許可があるまで、絶対に外に出すな」「征爾、どうして他の女は私の子に会えるのに、私には会わせてくれないの?もうあの女とできてるんでしょ?だから私と離婚したいのね」征爾は、奈津子が恐怖で震えているのを見て、なおも追い詰めてくる玲子に怒りを爆発させた。手を振り上げて、彼女を平手で打った。「玲子、いい加減なことを言うんじゃねぇ。今すぐ黙れ、さもないと、殺すぞ」玲子はその一撃で目が回るほどの衝撃を受けた。ちょうどその時、もう一台のエレベーターから佳奈が降りてきた。手には薬の入った袋を持っている。この場の様子を見た瞬間、佳奈は思わず立ち止まった。無意識に両手でお腹を庇う。玲子が暴れたら、お腹の子に何かあるかもしれないと恐れたのだ。しかし、その仕草を玲子は見逃さなかった。彼女の目に陰険な光が宿り、すぐに泣き顔を作って佳奈にすがりついた。「佳奈、お願い、智哉に会わせて。ほんの一目でいいの。あの子、まだ目を覚まさないのよ。心配で眠れないの」佳奈は玲子が近づいてくるのを見て、驚いて身を引いた。冷たい目で彼女を睨みつけながら言った。「智哉がどうしてケガしたか、あなたは分かってるでしょ?目を覚ましてたとしても、一番会いたくないのはあなただと