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第345話

Author: 藤原 白乃介
あの夜の感覚は、あまりにも甘くて蕩けそうで、もう一度味わえば、今日はきっと外に出られなくなる。

そう思った佳奈は、慌てて智哉を押しのけて、ベッドから身を起こした。

「今日、奈津子おばさんのところに行かなきゃいけないの!」

だが、ちょうどベッドを降りようとしたそのとき、彼女の腰に腕が回された。

耳元で男の低くて甘い囁きが落ちてくる。

「そんなに急がなくてもいいだろ。行く前に、ちょっとキスしてからでも遅くない」

そう言って、佳奈はベッドに押し倒された。

優しくて濃厚なキスが、まるで波のように彼女を飲み込んでいく。

智哉がいつからこんなに上手くなったのかは分からない。ただのキスなのに、こんなにも胸が高鳴るなんて。

思わず、佳奈の口から甘い声が漏れた。

二人が夢中になってキスを交わしているそのとき、部屋のドアがノックされた。

外から清司の声が聞こえる。

「佳奈、橘おばあさんが来てくれたよ。二人とも、降りてご挨拶しなさい」

佳奈は慌てて智哉を押し返し、声にまだ名残の熱を含みながら答えた。

「お父さん、すぐ行きます」

息が少し乱れていて、頬もほんのり紅い。

それに加えて、「お父さん」と呼んだときの声がどこか弱々しく、智哉は思わずくすっと笑った。

佳奈は恥ずかしくなって、智哉の胸をぽかっと叩いた。

「もう、智哉のせいだから。キスが長すぎるのよ」

智哉は笑いながら、彼女の頬に何度もキスを落とした。

「じゃあ、赤ちゃんにキスしたら、支度しようか」

「赤ちゃんだけよ。他のとこはダメ」

智哉はいたずらっぽく笑った。

「ねえ、他のとこって、どこのことか詳しく教えてくれる?」

佳奈の顔は一層真っ赤になり、

「智哉……このスケベ!」

「そう、スケベだよ」

そう言いながら、彼は彼女のお腹にキスを数回落とし、大きな手でそっと撫でながら言った。

「赤ちゃん、お利口にしててな。ママを困らせたら、出てきたときにお尻ぺんぺんだぞ」

その声には微笑みが混じり、瞳にはあふれんばかりの愛情と父性が宿っていた。

そんな智哉を見て、佳奈の胸は幸福でいっぱいになる。

心の奥から、優しいぬくもりが満ちていくようだった。

そして、二人が階下に降りていくと、橘おばあさんがソファに座っていた。佳奈の姿を見た瞬間、すぐに立ち上がって駆け寄ってきた。

心配の色が顔
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