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第424話

Author: 藤原 白乃介
娘の声を聞いた誠治は、それまで真剣に殴り合っていたのが嘘のように、ぴたりと動きを止めた。

そして驚いたように紗綾を見つめた。

「智哉、今の聞いたか?うちの娘が『パパ』って言ったぞ?生後六ヶ月でパパ呼びとか、すごくね?羨ましいだろ?」

智哉の襟元をぱっと放すと、誠治は笑顔全開で紗綾のもとへ駆け寄っていく。

「お姫様、今なんて言ったの?もう一回、言ってくれない?」

紗綾はすぐに誠治の胸に飛び込み、泣き顔と鼻水を彼の高級シャツにべったりと擦りつけた。

見事なまでに汚れたシャツに、誠治は気にする様子もなく、黒く輝く瞳で彼を見上げながら紗綾が何度も叫ぶ。

「パパ、パパ……」

再び娘に「パパ」と呼ばれた誠治は、感極まって紗綾を頭上高く持ち上げた。

そして、みんなに自慢げに叫ぶ。

「見ろよこれ、どこの家の娘がこんなに可愛くて、生後半年でパパ呼びだよ?当然、俺誠治の娘だよ。お前ら、嫉妬で泣いてんだろ?」

そのあまりのはしゃぎっぷりに、白石がうんざりした表情でにらむ。

「やめろって、見苦しい。初めて娘見たんかお前は」

「見苦しいのは俺じゃなくて、こいつらだろ。だってよ?俺たち子どもの頃からずっと一緒だけど、最初に結婚したのも、子どもできたのも俺だぜ?智哉なんて、何やっても俺らより上だったけど、子どもだけは俺の方が先!ははは、ついに勝ったぞ!」

「俺の娘はもう『パパ』って呼ぶんだぜ?あいつの息子はまだ腹の中。これが現実の差ってもんよ!」

「それに、そこにいる二人の独身貴族な。もうすぐ三十歳なのに、未だに嫁もいないとか。俺なんて、嫁と娘とこたつ生活、もう何年も前からエンジョイ中だぞ。最高だよな!」

娘を抱えながら芝生を走り回る誠治。その腕の中で、紗綾が楽しそうにキャッキャと笑い声をあげる。

独身貴族代表の石井誠健は、そんな様子を見ながら頭を振った。

「アイツ、完全に舞い上がってんな。嫁がいるからって、そんなに偉いのかよ。まるで俺が嫁もらえないみたいに言いやがって。俺だって破談にしてなかったら、今ごろ子ども抱いてるっつーの。俺は自由恋愛がしたいの!」

それを聞いていた結翔が意味深に見つめてくる。

「へぇ?後悔してんのか?破談したこと」

「あるわけねーだろ!あの女、四六時中ぺちゃくちゃうるせーんだよ。あんなの家に入れたら、耳が休まる暇ねぇわ」

「で
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