美琴という人物について、佳奈はあまり詳しく知らなかった。ただ、誠健の後輩であることだけは把握していた。二人は同じ大学を卒業し、その後、同じ科に配属された。表向きはただの先輩と後輩の関係で、普段からも特に問題のある行動は見受けられなかった。だが、今になって思えば、自分はあまりにも単純に考えすぎていたのかもしれない。監視室から出ると、佳奈はすぐさま携帯を取り出し、ある番号に電話をかけた。「美琴って人について、調べてほしいの」その女の背後には、まだ何か秘密が隠されている気がしてならなかった。佳奈は検査結果を受け取り、再び清司の病室へと足を運んだ。報告書に目を通した聡美は、確信を持って言った。「海外の専門家の推測は正しかったわ。あなたの友人、確かにあの薬を使ってた。彼女の病状には逆効果よ」「でも、薬は全部検査されてたはずなのに、どうして見つからなかったの?」「この二種類の薬、見た目がそっくりなの。だから、ラベルをすり替えればすぐにごまかせるのよ」つまり、これは専門知識を持った人間でなければ思いつかない手口だということ。その瞬間、佳奈は思わず両手をギュッと握りしめた。彼女はすぐに知里の報告書を聡美に差し出した。「これ、知里の分です。どうにか助ける方法はありませんか?」聡美は報告書を受け取り、丁寧に目を通した後、口を開いた。「一つ効果のある処方があるわ。彼女の症状には効くと思う。ただ、今の状態では薬を飲ませるのが難しいかもしれないの」「でも、もしその薬を飲ませることができれば、鍼灸治療と組み合わせることで、開頭手術をしなくても目覚める可能性があるわ」その言葉を聞いた瞬間、佳奈は感極まって聡美を抱きしめた。「聡美さん、本当にありがとうございます。絶対に薬を飲ませてみせます。知里は女優で、今やっとキャリアを始めたばかりなんです。開頭手術なんてしたら、顔に影響が出てしまいます。私は、できる限りのことをしたいんです」「わかったわ。この薬、病院には置いてないから、いったん家に取りに戻る必要があるの」「じゃあ、斗真くんに付き添わせます。でもこの件は秘密にしてください。聡美さんが神医だってこと、他の誰にも知られたくないんです」佳奈は、清司の治療を任せてきた聡美が「神医」であることを、これまで誰にも話してこ
誠健はその言葉を聞いた瞬間、すぐに声を上げた。「これらの薬は血腫の吸収を促すものばかりだ。出血範囲が広がるなんてありえない!」だが専門医は、手元のレポートを見せながら首を振った。「でも報告書によると、彼女の脳内血腫は明らかに大きくなっている。一種類、血腫を拡散させる作用を持つ薬があるが、それは脳以外の外傷にしか使えない薬だ。もしそれを彼女に使っていたとしたら、こうなるのも不思議ではない」誠健は信じられないという顔で言った。「でも昨日の薬は、俺が一つひとつ確認した。間違いなんて、あるわけが……」専門医は少し疑わしげに彼を見つめた。「それなら、なおさらおかしいね。とりあえず新しい薬を処方して様子を見よう。もし効果がなければ、開頭手術を検討するしかない」開頭手術がどれほど危険なものか――それを誠健が知らないはずがなかった。その場で彼の体から力が抜け、崩れ落ちそうになった。そして苦しそうにうなずいた。「分かった……必ず、薬の管理は俺が見る」佳奈はずっと後ろで二人の会話を聞いていた。専門医の言葉の中から、彼女はすぐにひとつの重大な事実に辿り着いた。――知里は、おそらく薬を間違えられた。だが薬のリストには問題の薬の名前はない。ということは、ひとつの可能性しか残らない。誰かが、薬をすり替えたのだ。しかも完璧に。誠健ですら気づかないほどに。そう確信した佳奈は、何も言わず佑くんを連れて清司の病室へ向かった。彼らが入ってくると、清司はすぐに微笑み、喉からかすれた声を絞り出した。「佑くん……」その声を聞いた瞬間、佑くんは目を丸くして驚いた。小さな足でベッドに登り、大きな目をぱちぱちさせながら、清司を見つめた。「おじいちゃん、しゃべれるようになったの!?」清司は笑顔でうなずいた。「うん」その声をもう一度聞いて、佑くんは大喜び。手をパチパチ叩きながら言った。「きれいなおばあちゃん、すごいね!来たらおじいちゃんが話せるようになった!」聡美はその様子に微笑み、優しく彼の頭を撫でた。「大丈夫よ、もう少ししたら、おじいちゃんが絵本を読んでくれるようになるわ」「ほんとに!?やったー!じゃあ一緒に釣りにも行けるね!」佳奈はそっと近づき、声を落として聡美に話しかけた。知里の状
佳奈はその言葉を聞いて、少し心を動かされた。彼をぎゅっと抱きしめ、まだ寝起きのかすれた声で言った。「ママはね、あなたがパパとママの『オマケ』だったらよかったのにって思うの」まるで、突然彼女の人生に飛び込んできた赤ちゃんのように。不意打ちで少し戸惑うこともあったけれど、それでも彼女は幸せだった。佳奈がまた昔のことを思い出しているのを察して、佑くんはお利口に彼女の首に腕を回し、ほっぺにキスをして、大きな瞳をぱちぱちさせながら言った。「僕はそうだよ。ママ、気づかなかったの?」佳奈は彼が自分を喜ばせようとしていると思い、笑いながら彼の頭を撫でた。「そうね、あなたはそういう存在だわ。さ、ママが朝ごはん作るから、何が食べたい?」佑くんは小さな頭を傾けて少し考えた後、こう言った。「ママの作ったワンタンが食べたい!」「いいわよ、ママが作ってあげる。朝ごはん食べたら、病院に行って知里おばさんの様子を見に行こうね」すると佑くんはすぐにこう言って、彼女を安心させた。「ママ、大丈夫だよ。知里おばさん、きっと目を覚ますよ。子どもって、わりと当たるんだから!」真剣で可愛らしいその表情に、佳奈は思わず彼にキスをした。そして彼に小さな服を着せ、洗面所で顔を洗わせた。佳奈はひとりでキッチンに立ち、料理をしながら、頭の中では佑くんが「ママ」と呼ぶ姿が何度もよぎっていた。その感覚に夢中になりすぎて、鍋の水が沸騰しても気づかなかった。そんなとき、智哉がキッチンに入り、後ろから彼女の腰に腕を回した。顔を近づけて頬にキスをし、低い声で囁いた。「何を考えてた?」佳奈はすぐに我に返り、首を振って答えた。「ううん、なんでもない」彼女はワンタンを鍋に入れながら尋ねた。「誠健から電話あった?」「うん、あったよ。昨夜は病院で当直だったらしいけど、声の調子が良くなかったな」病室で眠り続ける知里のことを思い出し、佳奈の表情に陰りが差した。「二人の間に、何か誤解があると思うの。知里に聞いても、好きじゃなかったって言って誠健を振ったって言うけど……でも、あの子の目を見れば、まだ彼のことを想ってるってわかるのよ」智哉は彼女の頭をそっと撫で、優しく慰めた。「二人のことは、今回の件をきっかけにちゃんと向き合えるようになる
三人でしばらくの間、ぎゅっと抱き合って、仲睦まじく過ごしていた。その後になって、智哉はようやくバスルームからドライヤーを持ってきて、佑くんの髪を乾かしてあげた。あたたかい風が頭にあたり、つるつるの体にも心地よく吹き抜ける。佑くんはくすくすと笑った。「気持ちいい〜。あとでパパ、ママにも乾かしてあげて?」智哉は笑いながら答えた。「いいよ。じゃあ、パパと先にお部屋行って、ママにお風呂入ってきてもらおう」彼は佑くんを抱っこして部屋に戻り、パジャマを着せて、隣に寝かせ、絵本を読み聞かせた。まだ一話も終わらないうちに、佑くんは智哉に抱きついたまま、すやすやと眠りについた。そのふわふわした可愛らしい寝顔を見て、智哉は思わずおでこにキスをした。低く優しい声で囁く。「パパは君のこと、愛してるよ」ちょうどそのとき、風呂上がりの佳奈がドアのところに立っていて、その光景を目にした。智哉のその眼差しから、彼が心から佑くんを大切に思っていることが、佳奈には痛いほど伝わってきた。あの冷淡だった智哉が、他人の子どもに少しでも興味を示すなんてありえない人だったのに。なのに、どうして佑くんにはこんなにも優しいのか。その理由が、佳奈にはずっと分からなかった。彼女の姿に気づいた智哉は、すぐに立ち上がって近づき、彼女を強く抱きしめた。そして、おでこにキスを落とし、かすれた声で言った。「佳奈、今夜、一緒に…寝てもいい?」「智哉……」佳奈は思わずその名前を口にした。見上げると、彼の瞳が真剣に自分を見つめていた。「私たち、今は離婚してるのよ。忘れないで」「離婚したからって、一緒にいちゃダメって誰が決めた?男も女も今は独り身だし、道徳にも法律にも反してない。佳奈、君の心にはまだ俺がいるって、分かってる」智哉は彼女の頭を優しく撫でた。彼女の心の奥底にある葛藤なんて、彼にとってはお見通しだった。佳奈は、その一歩を踏み出せば、もう戻れなくなることを恐れていた。彼の計画全体に影響を与えてしまうかもしれないことも。そんな彼女の心を知ってか、智哉は切なげに抱きしめた。「佳奈、君は本当の意味で俺と別れる気なんてなかった。あのとき俺から多くの財産を取ったのも、浩之の警戒を解くためだろ?君はずっと姉の事件を調べ
佑くんのぷくぷくした小さな手が、そっと智哉の頬を撫でた。 声には少しだけ嗚咽が混じっていた。 「パパ」 久しぶりに聞いたその言葉に、智哉の目に熱いものが込み上げた。 彼は思わず息子をぎゅっと抱きしめ、かすれた声で言った。 「もう一回、呼んでくれ」 「パパ」 「うん、パパは君のことが大好きだ。すっごく、すっごく愛してる」 二人はしっかりと抱き合いながら、胸の奥で言葉にならない想いをかみしめていた。 どれくらいの時間が経ったのか、智哉はようやく佑くんをそっと離した。 そして笑いながら言った。 「パパが体を洗ってあげるよ」 佑くんは小さな顔を上げて智哉を見つめた。 「僕、この顔が好き。この顔がパパだから」 智哉はその言葉に思わず微笑み、彼の額にキスをして言った。 「これからは誰もいない時だけ、パパは仮面を外す。でもこのことは絶対に誰にも言っちゃダメ。じゃないと、パパとママに危険が及ぶんだ。わかった?」 「うん、わかった」 自分のパパとママを確認できた佑くんは、嬉しそうに小さな手をぱちぱち叩いた。 浴槽の中で泡をはしゃぎながら遊んで、パパがお風呂に入るのを見て、服を洗ってくれるのを見て―― 彼はそれだけで幸せいっぱいだった。 二人は浴室でたっぷり時間をかけて、ようやく外に出た。 佳奈はソファに座ってスマホを見ていたが、智哉が佑くんを抱えて出てきた瞬間、目を見開いて固まった。 風呂上がりの二人は、髪が濡れて後ろに流れている。 深い眉に高い鼻梁―― なぜか、佳奈には二人がとても似ているように見えた。 これまで佑くんは綾乃に似ていると思っていたし、自分に似ていると言う人もいた。 でも今は、智哉にも似ている気がする―― まさか、自分の目がおかしくなったのだろうか? 血の繋がりなどないはずの二人が、こんなにも似て見えるなんて。 佑くんはお尻を出したままで、智哉が黒いバスタオルで彼をくるんだ。 まるでパソコンのスクリーンセーバーに出てくる大きな目をした赤ちゃんのように。 その大きな瞳で、佑くんは佳奈を見つめた。 そして、柔らかい声でこう言った。 「ママ」 佳奈はさっきの衝撃からまだ立ち
この言葉を聞いた瞬間、俊介は完全に固まってしまった。呆然と佑くんを見つめ、何を言えばいいのか分からなかった。佑くんの黒くてキラキラした大きな瞳がぱちぱちと瞬きしながら俊介を見つめていた。その黒い瞳の奥には期待が宿っていた。ふっくらした小さな手が、そっと俊介の頬に触れる。そして真剣な顔でこう言った。「パパが顔を変えたのは、怪獣を倒すためなんでしょ?それに、怪獣が僕を傷つけないように、綾乃ママのところに預けたんだよね?」次々と問いかけられる中で、俊介の喉は詰まってしまい、声が出なかった。佑くんの洞察力は、まるで彼の母親のようだった。どうしてこの秘密に気づいたのか、俊介には見当もつかなかった。俊介はそっと佑くんの頬をつまみながら、低い声で尋ねた。「誰にそんなことを聞いたんだ?」佑くんは真面目な顔で答えた。「綾乃ママがいつも、パパとおばちゃんの話をしてくれるんだ。二人はとっても仲良しだったけど、どうしても離れなきゃいけなかったんだって。それに、僕をよくおばちゃんのところに連れて行ってくれるし、人がいない時はママって呼んでいいって言うんだよ。どんなママだって、自分の子どもが他の人をママって呼ぶのはイヤなはずでしょ?だから僕、思ったんだ。僕はきっとおばちゃんが失くした赤ちゃんで、だから綾乃ママは僕におばちゃんと仲良くさせてるんだって。僕の考え、合ってる?」その言葉は理にかなっていて、感情の面でも論理的な面でも、完璧な分析だった。俊介は心の底から驚いた。佑くんはまだ二歳ちょっとの子どもなのに、ただ賢いだけじゃなく、こんなに論理的に考えられるなんて……今の俊介には、それが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか分からなかった。こんなに賢くて思いやりのある息子がいることは誇らしい。でも、真実に気づいたということは、いずれ佳奈にも知られてしまうということだ。俊介はゆっくりとしゃがみ込み、佑くんの目をまっすぐ見つめた。「なあ、ホントのこと……聞きたいか?」佑くんはコクコクと、まるでヒヨコのように何度も頷いた。「聞きたい!」「よし、でも答える前に、ひとつ約束してくれるか?このことは、ママには絶対に内緒だ。いいな?」佑くんはすぐに小さな手を差し出し、俊介と指切りをした。そして真剣な表情