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第280話

Autor: 山田吉次
松井家は京市にあった。

古くからの京市の家柄では、冠婚葬祭のときに歌舞伎一座を呼んで屋敷で上演させるのが好まれていた。

一幕終わるごとに場面転換があり、舞台上の緞帳がゆっくり引かれる。

紫音は子どものころから、その幕の向こうが大好きで、花道に上がっては幕をめくり、裏方が舞台装置を動かす様子や役者が化粧を直す姿を盗み見ていた。

大人になった今も、その悪い癖は直らず、親戚の弟や妹たちを連れて舞台へ上がってしまう。

妹が尋ねた。「次はどんな演目?」

紫音が幕の隙間から覗くと、裏方が赤い塀と瓦屋根を組み立てている。何の芝居だろうと興味津々で見ていると、背後から両親の笑い混じりの小言が飛んできた。

「この子はここにいたのか!子どもの頃から変わらないな、舞台を覗くのが好きで。音羽、早く降りなさい。役者の化粧直しを盗み見るなんて失礼だぞ。それに、もういい年なんだから弟妹と一緒にふざけて、恥ずかしくないのか!」

そのとき、穏やかで落ち着いた男の声がした。「松井お嬢様はまだ無邪気で、むしろ愛らしいものですよ」

「申し訳ない、相川さん。お恥ずかしいところを……」

相川?――紫音はすぐに察した。自分の婚約者だろう。

幕をめくって、その顔を確かめたくなった。

ちょうどそのとき、太鼓が鳴り響き、次の幕が始まる。目の前の幕が、歌舞伎の節回しとともにゆっくりと上がった。

両親のそばに立つ若い男も、同じようにこちらへ目を向けた。

まるでお見合いで初めてお互いの顔を見るように――舞台と客席で、初めて真正面から向き合った。

――それが、紫音と悠真との最初の出会いだった。

紫音は笑った。涙を含んだ笑みで。「そのとき演じられていたのは『冥途の飛脚』……『遊女の彼女に、心奪われる』……」

彼女にとって悠真は、一目惚れだった。

後から両親の正式な紹介で知ったのだが、この相川家の御曹司は、自分に縁談が決まっている「あの相川」ではなかった。相川家には五人の兄妹がいて、息子だけでも三人いる。

本来は三男が婚約者だったが、本人はこの縁談に乗り気ではなく、宴にも来なかった。代わりに長兄が親の代理で顔を出し、事情を説明して詫びるためだったのだ。

だが紫音は、まさかそこで長兄に心を奪われ、どうしても彼でなければ嫌だと心を決めてしまった。

美羽は驚きを隠せなかった。まさかそんな始まり
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