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縁語り其の百十三:黒い帳

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-07-04 07:55:03
ぎしり、と。

錆びついたブリキの人形のように、僕の首が、ゆっくりと背後を振り返る。

見たくない。見てはいけない。本能の全てが、絶叫して拒絶していた。

けれど僕は、見てしまった。

路地裏の、一番深い闇の中に、ソレはいた。

人ではない。かつて、人だったのかもしれない、という異形の何か。

その肌は、死斑のように不気味な紫色に変色している。腰まで伸びた髪は、まるで水底に沈んだ屍のように、もつれ、生気なく垂れ下がっていた。

指先からは、黒く、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた爪が異様な長さに伸びている。剥き出しの足もまた、同様の禍々しい爪が、地面を抉るように生えていた。

そして、顔。

僕の視線が、恐る恐るその顔へと向かった時、暗闇と、目が合った。

爛々と光る、一対の黄金の瞳。

それは人間のものではない。夜闇を支配する、獰猛な獣の、飢えた眼光。

その双眸からは、涙の代わりに、どす黒い血が、止めどなく、止めどなく、流れ落ちていた。

──迦夜。

『……ヒ……ヒヒ……ハ……』

骨が擦れるような、乾いた笑い声を聞いた瞬間、僕の世界から音が消えた。

喉が氷のように凍りつき、ひくりとも動かない。脳裏に、見たくもない記憶が灼きつくようにフラッシュバックする。白いシーツに横たわる、意識のない母さんの顔。そして……美琴の、泣き叫ぶ声。

そうだ、こいつが。こいつが、全部。

僕たちの日常を、幸せを、未来を、すべてを壊した元凶が──

今、目の前に、いる。

それなのに、

全身が鉛を流し込まれたように重く、動かない。指一本、動かせなかった。

『……アァ…ア……ア……』

空気がねじれる。声とも音ともつかぬ“なにか”が、空間に食い込んだ。魂を直接揺さぶるような、耐え難い不快感。

本能が警告する。逃げろ。今すぐに。でも、身体が……動かない。

(動け…! 動けよ…!!)

心の中で叫んでも、足は地面に根を張ったかのように、ぴくりともしない。目の前では、迦夜がゆっくりと距離を詰めてくる。ぺた、ぺた、と。乾いた路面に、裸足の足音が不気味に響いた。

もう、だめだ。

その圧倒的な恐怖に、僕の意識は白く塗りつぶされていく。

『……ぅぐ……ぁ…』

──その、時だった。

僕の背後から。結界に捕らえたはずの霊が、苦痛に喘ぐくぐもった声が聞こえた。

その、僕以外の誰かの苦
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