「いらっしゃい」 その声に、心臓が小さく跳ねた。 以前会った時とは比べものにならないほど、か細く弱々しい響きを帯びた声。促されるまま玄関へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。家の中は、以前訪れた時よりも光が少なく、どこか空気が淀んでいるように感じられる。磨りガラスの向こうの午後の日差しが、頼りなく輪郭をぼやかしていた。「お久しぶりです…琴乃さん」 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。 目の前に立つ琴乃さんは、僕の記憶にある姿とはまるで別人だった。頬はこけ、血の気の引いた肌は青白さを通り越して、まるで薄い和紙のようだ。ゆったりとした衣服を着ているのに、その下の骨格が浮き出て見えるほどに痩せている。命の光そのものが、蝋燭の炎のように揺らめき、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。その姿が、胸の内にじわりと嫌な予感を広げていく。「急に呼び立てて、悪かったわね…」 琴乃さんは謝罪の言葉を口にすると、壁に手をつき、身体を支えるようにして、ゆっくりと頭を下げた。その一挙手一投足が、彼女の衰弱を痛々しいほどに物語っている。「あ、頭を上げてください…!」 僕は慌ててそう告げた。彼女にこれ以上、頭を下げさせるなんて耐えられない。「ふふ…相変わらず、優しいのね。単刀直入に聞くわ。美琴は…あなたに何も告げずに姿を消したわね?」 その言葉は、僕の心の最も脆い部分を、容赦なく抉った。 ズキッ、と鈍い痛みが走る。最後に見た美琴の、何か言いたげな、でも何も言わなかった寂しげな笑顔が脳裏に蘇り、痛みを増幅させた。「…はい」 僕の声は、自分でもわかるほど震えていた。「やっぱり…本当に、馬鹿な子なんだから…」 すべてを諦めきったような、それでいて、娘を深く慈しむような複雑な表情で、琴乃さんが呟く。「あの…失礼ですが、琴乃さんは何かをご存知で、僕をここに?」 焦りが胸を焼く。美琴の真実を知るためだけに来たんだ。手がかりは、もうここしかない。もし琴乃さんさえも知らないのなら、僕はどこで美琴を探せばいい?思考が袋小路に迷い込む。それは笑えない。絶望的すぎる。「知っていることは、あるわ。でも…あの子が、あなたに何も告げずに去ったということ。それは、今、知ったの」「えっ…」 知っている、けど、知らなかった…? その矛盾
翔太と別れ、僕はすぐに行動を開始した。美琴の消息を知るため、そして、もう一度彼女に会うために。最低限の荷物を、無心でバッグに詰めていく。明日、夜が明け次第、ここを発てるように。だが、その手は、時折、虚しく止まる。この部屋の至る所に、美琴の気配が染みついているのだ。視界の端で、記憶がちらつく。(……このままだと、おかしくなりそうだ)以前、美琴と訪れたあの温泉郷へ、今度は、たった一人で向かわなければならない。彼女と分かち合った、他愛のない言葉や、輝くような笑顔を思い出すたびに、言葉にできないほどの寂しさが、胸の奥にじわりと冷たく広がっていく。まるで心の、一番温かい部分を、ごっそりと抉り取られたかのようだ。それでも、僕は手を動かし続けた。この、何かに没頭する無心な時間だけが、かろうじて僕を正気でいさせてくれた。(……怖い)ふと、思考が漏れる。(琴乃さんの口から語られる真実が、僕を今度こそ、再起不能なまでに打ちのめすかもしれない……)でも、それ以上に──何も知らないまま、何もできないまま、美琴との繋がりが永遠に絶たれてしまうこと。それが、一番、怖かった。そんな結末は、絶対に、耐えられない。だからこそ、僕は進む。覚悟を決めて。***翌日。僕は、かつて美琴と歩いた道を、一人で辿っていた。見慣れた温泉郷の景色は、あの時と何も変わらない。なのに、それを見つめる僕の心は、全く違う色をしていた。灰色で、ひどく冷たい。辺りを見渡せば、幻影が揺らめく。あの日の光景が、声が、ありありと蘇る。『わぁ……!』土産物屋を覗き込み、子供のようにはしゃぐ美琴の、弾けるような笑顔。『美琴がそんなにはしゃぐなんて…少し意外かも』『えへへ……なんだか、新鮮で、楽しいんです』そう言って輝いていた無邪気な横顔が、たまらなく、愛おしかった。(……まただ。僕は、どうしようもなく、彼女に惹かれていたんだ)込み上げる感傷を振り払うように、パンッ、と両頬を強く叩く。じんとした熱い痛みで、意識を無理やり現実に引き戻した。(感傷に浸っている暇はない。今は、動くしかないんだ。彼女に会う、そのために)ここまで、折れずに来れたのは、琴乃さんからのメールと、翔太のおかげだ。彼がいなかったら、僕は今頃、あの部屋で絶望の淵に沈んだままだっただろう。やがて、たどり着く。美琴と
「……まじかよ」翔太の、絞り出すような呟きが、重い沈黙に満ちた部屋に落ちて溶けた。「連絡も、つかない。今朝、あのアパートからも……もう、誰も住んでないって」ふくよかな家主の女性の言葉が、冷たい刃となって脳裏をよぎる。その度に、世界から色が失われたあの瞬間がフラッシュバックし、ズキリ、と僕の心を削り取るようだった。「……悪ぃ、お前ら、先に帰っててくれるか」翔太が振り返ると、奏多たちは、もう察してくれていたのだろう。そっと、しかし速やかに、身支度を整えていた。「おう。俺らはこれで。……悠斗、辛ぇだろうけど、なんて言うか……まあ、無理すんなよ」「また連絡するからな!」「学校でな!」彼らは、腫れ物に触るように、けれど精一杯の優しさで手を振り、去っていく。その、あまりに真っ当な優しさが、今はガラスの破片のように胸に突き刺さった。***二人きりになった事で、翔太が改めて僕の顔を覗き込む。「……で、悠斗。大丈夫か、なんて聞くのも野暮だが」「……正直、全然大丈夫じゃない。かなり、しんどい」僕は、偽りのない本心を、喉の奥から絞り出した。「だよな……。お前が美琴ちゃんのこと、どんだけ大事にしてたか、隣で見てて分かってたから」その言葉が、痛みの芯を的確に貫く。そうだ。心が、張り裂けそうだ。理由も告げられず、ただ一方的に関係を断ち切られるという、この行為。それはただの失恋という傷ではない。存在そのものを否定されたかのような、深く、治癒のあてもない傷口を僕の心に残していく。「きっと……何か、理由があるはずなんだ」「そりゃ、俺もそう思うぜ?あの子が、お前を意図的に傷つけるなんてこと、するはずねぇ」頭では、分かっている。彼女は、僕を守ろうとしたのかもしれない。でも、その一方的な優しさが、今は何よりも残酷な裏切りに感じられた。僕は、そんなにも頼りなかったのか。彼女を守るという僕の決意は、ただの自己満足だったのか。そして何より、彼女に残された時間の問題が、焦りとなって僕の心を焼き尽くしていく。今、僕がすべきことは──その時だった。ヴーッ……。死んだような静寂を、無機質な振動が切り裂いた。僕の、スマホだ。弾かれたように、ほとんど奪い取るようにしてそれを手に取り、画面を凝視する。見慣れないアドレスからの、一件のメール。心臓が、嫌な音を立
僕は、どうすれば良かったのだろう。答えなどないと知りながら、その問いだけが、思考という思考を喰らい尽くしていく。まるで、脳の芯から湧き出る冷たい靄だ。秋の夜気が肌を刺す。街灯の光も届かぬ裏路地を、僕は亡霊のように彷徨っていた。踏みしめる枯葉が、かさり、と骨の砕けるような音を立てる。世界から切り離された、深い影の中。(美琴が……僕の傍から、何も告げずに消えるなんて……)その現実を、この心が、まだ受け入れようとしない。「どうして……なんでだよ……」声にならない声が、喉の奥で潰れる。絶望と、悲しみと、行き場のない怒りが濁流となって胸の内で渦を巻いていた。魂が、軋む。俯き、自分の影だけを見つめて歩いていたせいだろう。どん、と鈍い衝撃。目の前にいた誰かと、ぶつかってしまった。「……すみません」反射的に漏れた謝罪は、自分でも驚くほどに、感情というものが削げ落ちていた。「いってぇな、オイ!どこ見て歩いてやがんだ、アァ!?」獣のような怒声。荒々しく胸ぐらを掴まれ、シャツがみしりと悲鳴を上げた。見上げると、苛立ちと、獲物を見つけたかのような嘲笑を浮かべた男が三人。その顔を見ても、不思議と、何も感じなかった。「こりゃあ、ただじゃ済まねぇなぁ!慰謝料だ、慰謝料!」だが、その言葉は、ひどく遠くに聞こえた。どうでも、よかった。美琴を失った胸の空洞は、他のどんな痛みも、どんな感情も、ただ吸い込んで消し去ってしまう。「…………。」「……チッ、なんだコイツ。妙に気に食わねぇな」僕の無反応が、男の苛立ちに火を点けた。次の瞬間。バキィッ!!「……!」乾ききった破裂音。衝撃に吹き飛ばされ、背中を路地の壁に叩きつけられる。じんと、頬に熱が走った。殴られたのだと、数秒遅れて理解した。不思議なほど、痛みはなかった。顔面に走る熱より、心の奥に広がる巨大な虚無の方が、遥かに、遥かに現実味を帯びていた。「うっ……」壁に背を預けたまま、ゆっくりと男たちを見返す。「マジでなんだコイツ……」忌々しげに吐き捨て、男は僕の足を蹴り上げた。鈍い痛みが走る。それでも、怖くはない。今までで対峙した、あの魂ごと凍てつかせる怨霊たちの恐怖に比べれば、人間の放つ暴力など、恐怖を感じない。ただ、今の僕には、抵抗する気力も、意思も、なかった。心が、完全に麻痺していた。再び、
翌日。日常は、僕の心を置き去りにして、変わらずに訪れた。囀る鳥の鳴き-声は、今日も平和な一日を祝うかのように、窓の外で、楽しげに唄っている。僕は、学校に来ていた。昨夜の告白と涙が、まだ心の奥に、鉛のように重く残っている。そして、教室に、美琴の姿はなかった。いつもなら、登校しない時や遅れる時には、すぐに連絡がくるはずなのに。僕のスマホの画面は、ただ静かに、彼女からの不在を示しているだけだ。なにか…あったんじゃないだろうか。黒く、冷たい不安が、僕の心を駆り立てる。「お?どうした悠斗?傷心か!?」なんて、からかいを込めて、クラスメイトの友人が言ってくる。その、いつも通りの日常の音が、今は、ひどく耳障りだった。「まぁ…そんなところかな…」まともに受け返す気力もない僕は、深く追及されないように、そう言って受け流す。***日が落ち始めた、午後。未だに、返信は…来ていない。スマホの画面を、もう何度、確認しただろうか。ポケットの中で、来ていないはずの通知に、スマホが震えたような錯覚さえ覚える。あの悲しい告白の後、彼女の身に、何かあったのだろうか……。指が、発信のボタンを押そうとする。だけど、僕の意識が「でも…まだ」と、それを押しとどめる。もしかしたら、連絡をしたら、もっと悪いことが、分かってしまうかもしれない。そんな、臆病な恐怖が、僕の行動を、強く、阻んでいた。なんて…情けないんだ。でも、もしかしたら、今夜…返信が来るかもしれない。その、あまりにも淡い希望に、僕の心は、必死に、しがみついていた。***さらに、翌日。相変わらず、返信はない。スマホの画面は、僕の希望を嘲笑うかのように、静かに、沈黙を続けている。もう、待てなかった。僕は、とうとう、美琴の電話番号へ、電話をかけることを決意した。ドクン、ドクン、と、緊張で、心臓が大きく跳ねる。震える指先で、発信のボタンを…押した。だけど…帰ってきたのは、僕の予想を、遥かに超えた、冷たい、無機質な反応だった。『この電話番号は、現在使われておりません』機械的な女性の声。その声が、僕の耳に、そして、僕の心に、深く、突き刺さった。えっ…。まって…。僕は、信じられず、もう一度、そしてもう一度、発信ボタンを押した。結果は、同じだった。彼女が、急速に、僕の傍から、離れていく…。
「実はさ…」僕は、意を決して口を開いた。美琴の寿命のことには、どうしても触れられなかったけれど、これまでの出来事の概略を、翔太に話し始めた。古の巫女たちのこと、琴音様の真実、そして、迦夜と呼ばれる怨霊が、何であったのか。翔太は、時折、信じられないといった顔をしながらも、僕の話を、ただ、黙って真剣な顔で聞いてくれた。***「な、なんだよそりゃあ…現実の話なのか、それ…?」僕の話を聞き終えた翔太が、呆然と呟く。彼の困惑した表情が、この話の、常軌を逸した性質を物語っていた。「……そう、思うよな。僕も、まだ全部は信じられてない」「霊を祓って力をつけて…自分達の祖先を祓う、ねぇ………」翔太は、僕の話を、必死に頭の中で反芻するように呟く。「そう…それが、美琴の、今の目的なんだ」琴音様を祓う……。それが、今の美琴の目的なはずだ。だけど……今の僕は、それを止めたいと思ってしまっている。自分の命を犠牲にしてまで、美琴に力を使って欲しくないんだ。それがたとえ……彼女が背負った使命に背くことだとしても……。「………翔太」僕は、意を決して、さらに続けた。「それに、どうやら僕も、美琴と同じ、その古の巫女の末裔らしいんだ」僕の言葉に、翔太の顔が、驚きのあまり、完全に固まってしまう。彼の目が、これ以上ないくらいに、大きく見開かれた。「はっ?? まじでかよ??」「……うん」僕は、静かに頷いた。「へ、へぇ〜……」顔をひきつらせ、翔太が、ぎこちない相槌を打つ。やがて、彼は、大きなため息をついた。「はぁ……もう、正直、話の半分も理解できてねぇかもしんねぇけどさ…」翔太の、真っ直ぐな視線が、僕を捉える。「お前が、とんでもねぇことで悩んでるのは、めちゃくちゃ伝わって来たぜ」「お前、今、自分がどんな顔してるか、わかってるか?」僕は、その言葉にハッとなった。鏡を見なくてもわかる。きっと僕は、今、絶望と恐怖に歪んだ、ひどい顔をしているんだろう。「深くは聞かねぇよ。言えねぇ事だって、あるだろうしな。でもよ……」「何かできることがあるなら、言えよな。俺にだって」その、あまりにも温かい言葉に、僕の目頭が、じんと熱くなっていく。「え……っと……その……」言葉が詰まる。どう、感謝していいか、分からない。「俺は、お前の家系がどうとか、巫女がどうとか、そんなの